ほぼ完全に踏破ずみの奥武蔵の山々だが、一つ気になる山が残っている。楢抜山である。名栗川沿いの河又集落の東に聳える標高わずか553.5メートルの三角点峰である。ただし、二万五千図には山名の記載もなく、また登山道もない。地図を眺めると、山頂から長大な尾根が南東に張り出し名栗川沿いの赤沢集落まで達している。この尾根を辿って山頂に達するのが面白そうである。尾根上には踏み跡ぐらいありそうである。その後は北側の仁田山峠に下り竹寺まで縦走できる。さらに余裕があれば大高山・天覚山山稜まで足を伸ばしてみよう。
7時30分、赤沢バス停で貸切りバスを降りる。さすがに寒さは厳しい。住宅地の間の道を適当に選んで、神社記号のある尾根末端に行く。秋葉神社の社殿が鎮座していた。いい具合に尾根に登り上げる小道がある。5分も登ると、祠の鎮座する小峰にたっした。麓の神社の奥社なのだろう。ひと休みして体制を整える。
小道はここで終わりだが、さらに奥に続く踏み跡がある。しかし、踏み跡はすぐに尾根筋を左に外れる。踏み跡を捨て、強引に尾根筋を登る。尾根上は鬱蒼とした檜林である。一段登りきると、尾根上にはっきりした踏み跡が現れた。期待通りである。やれやれと思う間もなく、強烈な登りとなった。足の置き場もないほどの急斜面である。小峰を越えて地図上の348メートル標高点で一息入れる。木の間から見上げる空は真っ青に晴れ渡り、そよとも風はない。深い檜林の中、ただただ静寂が支配している。
急登、緩やかな尾根道と何回か繰り返しながら次第に高度を上げる。踏み跡は確りしており、楢抜山まで続いていそうである。下草は椿やアオキの潅木だが、それほどは通行を妨げない。短い急な下りを経ると左に支尾根が分かれる。支尾根上にも踏み跡があり反対側から来た場合、判断を問われそうである。いくつもいくつも同じような小峰を越えて進むので、現在位置はわかりにくい。ただし尾根筋は明確であり、地図を睨むこともない。周りはどこまでも深い檜林の中で、展望は一切開けない。505メートル標高点ピークでひと休みする。
尾根が右に急角度で曲がると、石灰岩の積み重なった岩峰が現れた。突然の景色の変化である。慎重に岩峰を登る。天狗積と呼ばれるピークである。展望を期待したが、雑木に囲まれ得られない。慎重に下り、少し急登すると、そこが目指す楢抜山山頂であった。植林の中の何の変哲もない頂で、三角点と立木に取り付けられた小さな私製山頂標示だけが迎えてくれた。座り込んで朝食のサンドイッチを頬張る。西側にわずかに潅木越しに視界が開け、山頂を白く染めた棒ノ嶺が眺められる。ゆったりした大きな山である。
踏み跡を下ると、どうも感じがおかしい。北へ延びる支尾根に引き込まれたようだ。山頂に登り返し、北西に下る正規の踏み跡を見つける。急降下して次の530メートル峰を急登する。楢抜山は双耳峰である。ピークを越えると尾根上の踏み跡は確りする。時々残雪が現れ踏み跡を覆う。緩やかな尾根道を足早に下る仁田山峠に達した。
峠は舗装された細い車道が乗越している。峠の標示も、道標さえもなく静かさだけが取り柄という感じである。ただし、峠の反対側登り口には崩れかけた鳥居がある。道端に座り込んでひと休みする。今日初めて浴びる日の光が暖かい。鳥居をくぐりちょっと登ると、石の祠があった。しかし、ここで踏み跡が二分する。尾根をそのまま直登する踏み跡を選ぶ。ひと登りすると、先程分かれたルートが合流した。
樹林越しであるが、今日初めて左側に展望が開けた。目の前に金毘羅尾根が横たわり、その背後に棒ノ嶺から日向沢ノ峰、蕎麦粒山、有間山、蕨山と続く奥武蔵核心部の山々がすっきりと見える。いずれの山々も山頂付近は雪でねず茶色に染まっている。今日は何と視界がよいことか。山々へ視線をちらつかせながら急登に耐える。約30分で稜線に登り上げた。この稜線は周助山から竹寺、子ノ権現へと続いており、2000年の12月に辿ったばかりである。見晴らしのよい送電線鉄塔でひと休みする。正面には都県境尾根上の山々から大持山、武甲山まで見渡せる。
ほとんど起伏のない尾根道を進む。左側に素晴らしい展望が開けているのだが、残念ながら送電線が尾根と平行に走っており、電線が視界の真ん中を横切っている。右側からの軽い巻道となると、登山道の状況はひどくなった。まだ若い檜が両側から枝を伸ばし、登山道を塞いでしまっている。おまけに完全な雪道となった。小ピークを越えて尾根上の踏み跡を下ると、何か変な感じがする。自慢の山勘が警告を発している。念のため少し引き返してみると、越えてきた小ピークを巻くように道が分かれている。分岐を見落として真っすぐ進んでしまったのだ。この道は昭文社の登山地図では赤い実線のハイキングコースとなっているが、道標の類いはまったくない。
すぐに小殿集落から登ってきた登山道と合流した。この地点で今日始めて道標を見る。緩く下っていくと竹寺に達した。4年前には焼け跡も生々しかった本堂は立派に建て替えられていた。ただし、周囲の杉の大木には黒焦げのあとが生々しく残っている。藁葺きの庫裏の前のベンチに腰掛け握り飯をほお張る。真昼の太陽が燦々と輝き実に暖かい。周りに人影もなく実に静かで平和な山寺である。
12時、重い腰を上げる。いつまでものんびりと日なたぼっこをしていたい心境であるが、今日はまだ先が長い。しかも思いのほか時間を食っている。ここからは当分車道歩きである。ときおり雪の残る車道を下る。ただし、通る車とてない。名栗方面に向かう地図にない車道を右に分け、少し進むと下赤沢集落の三叉路にでた。どっちへ進むべきか地図で確認していたら車が止まり、親切にもどこへ行くのかと聞いてくれる。ただし、大高山方面と答えると首をかしげて分からない様子。左へ道をとる。すぐに地図にある権五郎神社に出る。本殿と拝殿を持つなかなか立派な神社である。おそらく権五郎という人を祀ったのだろう。ここで子の権現への道を左に分ける。
立派な車道を緩やかに上っていくと栃屋谷集落に入った。明るく開けた谷間に大きな家々が散らばっている。それにしても、竹寺を出て以来まったく道標の類いがないのが気にかかる。どこかで、右に大高山山稜の前坂へ通じる道が分かれるはずだが。いくら何でも分岐には道標があるだろう。今歩いているこの車道だって昭文社登山地図では登山道を現す赤い実線となっている。右側ガードレールの隙間から小道が分かれ、ガードレールに小さくマジックペンで飛村方面と落書きされている。気にも留めず、集落内の車道を進む。
最後の人家を過ぎ、車道は傾斜を増して山中に入っていく。いくら何でもおかしい。道端に座り込んで地図を確認する。よく分からないが、どうやらルートは先ほどのガードレールの隙間の道以外なさそうである。聞こうにも集落内に人影はない。慌てて戻る。踏み込んだガードレールの隙間は道というより踏み跡で、小さな谷に沿って向かいの尾根に登っていく。もちろん、道標はおろか赤布一つない。果たしてこの道が正しいのかどうかも半信半疑である。ただし、踏み跡は意外に確りしている。おそらく、車道の開削される前、集落と集落を結んだ山越えの生活道路であろう。
尾根を乗越した後、巻道となって北上する。もはやどこへ行くかは道次第との心境である。やがて主稜線を離れ、支尾根に沿っての下りとなる。小さな祠が現れ、さらに下ると人家の裏庭を通って集落に出た。細い舗装道路に沿ってどっしりした家々が散在している。ここはどこなんだ。飛村集落と思うが確信はない。聞こうにも道路に人影はない。わざわざ人家を尋ねて「ここはどこですか」と聞くのも恥ずかしい。昭文社の地図を確認すると、集落を貫く道路を少し上方に進んだところから前坂への峠道が分岐している。舗装道路を上方に向かう。しかし、すぐに人家は尽き、道は雪道となって山中に向かっている。雪上には足跡さえない。前坂分岐は見つからなかった。さぁ困った。地図をいくら睨んでも現在位置もはっきりしないのでさっぱり分からない。
時刻はまだ1時少し過ぎ。時間はある。少々無茶をしてみようか。前坂から大高山へ続く山稜の方向はだいたい分かっている。高みに登れば、ルートも分かるだろう。林道跡と思われる道型を利用して右側の支尾根に取りつく。すぐに道型は消えたか、それに続く微かな踏み跡の痕跡を辿る。しかし、踏み跡の気配はやがて消えてしまった。意を決して、植林の中の急斜面を遮二無二尾根に登り上げる。われながら無茶をする。登り上げた尾根上には割合明確な踏み跡があった。ひと安心である。いざとなればこの踏み跡を下ればよい。ただし、木の間越しに眺めた大高山稜へのルートは多いに戸惑うものであった。大高山山稜とは大きな谷間で隔てられており、稜線伝いにたっするには、大きく回り込まなければならない。前進すべきか後退すべきか一瞬考えたが、退路は確保されている。行けるとこまで行ってみよう。
踏み跡を追って、支尾根を登る。踏み跡は時々消えそうになりながらも尾根上に続く。行く手には大きなピークが高々とそびえ立っている。よく分からないが、おそらく地図上の500メートル等高線ピークだろう。突然、真新しい車道に飛びだした。何? これは。ここはいったいどこ
?。ますます現在位置が分からなくなる。こうなれば、何しろ目の前に聳えるピークに登ってみることだ。車道を横切り、尾根上の踏み跡を追う。ピークの根本に達すると、踏み跡は意外にも右からピークを巻き、小さな支尾根を下りだした。下るわけには行かない。再び強引に踏跡なき急斜面を立木を頼りに這い上がる。
何とか目指すピークに登り上げてみたものの、深い樹林の中で期待したものは何もない。ピークから北に延びる尾根筋を辿る。かなり薄いが踏跡がある。次の小ピークまで行けば前坂から子の権現に向かうルートに出るのではないかとの期待がある。前方で岩石を採掘する音が聞こえる。吾野の採掘場だろう。小ピークに達した。足下から荒涼として岩石採掘場が広がっている。ただし期待した登山道はない。
変だなぁと思いながら採掘場の淵に沿って稜線を東に向かう。荒れた斜面を少し下ると、突然登山道に飛びだした。傍らにお地蔵さんがぽつんとたたずんでいる。肩の力が抜けて思わず座り込む。やれやれ、何とか登山道に出た。お地蔵さんに感謝する。ただし、現在位置は正確には把握できない。側に「ハイキングコース」と記された看板は立っているが道標はない。ハイキングコースを辿ると、突然稜線を乗越す車道に出た。傍らに石の小さな祠が祀られている。峠を示す何の標示もないが、ここに至ってようやく現在位置が特定できた。ここはキワダ坂と思える。やれやれである。それにしても現在位置不明のまま山中をさまよい、よくぞここまで到達できたものである。
道標に従い、凍りついた車道を少し下り、左側の山稜に取りつく。もう何の心配もいらない。小峰を越えて下ると、そこが前坂であった。小道が乗越ている。南側に下れば飛村集落に行くはずであり、本来私が登ってくる予定のルートである。この道の登り口はいったいどこにあったのだろう。峠は樹林の中の小さな鞍部で実に静かである。時計を見ると2時半過ぎ、何とか大高山まではいけるだろう。ここから30分の行程である。
縦走路を足早に辿る。今から23年前の1980年11月、当時4歳の次女を連れてこの道を辿った。もう当時の記憶もあいまいである。小ピークが次々と現れ、山頂まで一息と思ったがそうも行かないようだ。意外に思ったことがある。道は確りしているのだが、まともな道標が一つもない。前坂にすら私製の小さな道標があっただけである。顕著な一峰を越えると稜線を乗越す車道に出た。もう一息である。
山頂を目の前にした最後の急登にいささか疲れた。岩角木の根を踏んでの大急登である。こんなところをよくも4歳の幼児が登ったものである。3時15分、ついに山頂に達した。山頂は無人であった。私製の山頂標示が一つ木に打ち付けられているだけの樹林の中の小さな頂である。展望は得られないが、木の間越しに大分傾いた太陽が見える。山頂に座り込んで最後の握り飯をほお張る。はるけきも、薮を掻き分けついにここまでやって来た。今日一日山中誰とも会うこともなかった。
地図を取り出し次の行程を考える。このまま天覚山まで縦走すると下山は日暮れとなるだろう。ハイキングコースゆえ懐電で歩けないこともないだろうが、無理することもあるまい。前坂に戻ることにする。急坂を下り、いくつかのピークを越え、疲れた足を引きずり帰路を急ぐ。前坂から吾野への下山道を辿る。歩きやすい確りした峠道であるが、やはり道標の類いはまったくない。大高山稜はハイキングコースとして整備されていないようである。4時過ぎ、墓地の脇で、下界へ降り立った。この登山口にも道標がない。これでは登山口が分からないだろう。目の前が西武秩父線吾野駅であった。
帰ってから、迷い迷った飛村集落から前坂までのルートを地図で検証した。二万五千図を睨み、記憶を頼りに何とかたどったコースを確定することはできた。迷った原因は、山道から飛村集落に達した地点の認識が違っていたのである。あの集落内の舗装道路を下方へ辿れば前坂への上り口に達せられたと思われる。あの舗装道路は地図に記載された集落中央を貫抜くメイン道路ではなく、メイン道路から派生した集落内の小道であったと思われる。それにしても、奥武蔵はちょっと見ぬ間に道路があちこち新設されて戸惑う。ただし、この山域は山が浅いので、少々迷ったところで、大怪我はしない。 |