大仁田山と成木尾根縦走
都県境山稜の最末端の尾根を辿る
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2001年4月8日 |
水口峠
上赤沢バス停(740〜745)→支尾根(800)→祠(815)→大仁田山(825〜840)→成木尾根分岐点(845)→送電線鉄塔(855〜900)→水口峠(910〜915)→砕石場跡(930)→祠のある峠(930〜935)→450m峰(945〜950)→再度の砕石場跡(1000)→再度の450m峰(1015)→送電線巡視路(1045)→50号鉄塔(1050〜1105)→49号鉄塔(1110)→330m峰(1140〜1145)→送電線鉄塔(1250〜1300)→車道(1305)→成木二丁目自治会館前バス停(1310〜1331) |
成木尾根は埼玉県と東京都の都県境をなす最末端の山稜である。大仁田山の肩で名栗川右岸稜から分岐し、直竹川と成木川の分水稜となって東に長々と続いている。雲取山から続く都県境山稜を完全踏破する意味でも、この尾根は前々から気になっていた。しかし、この尾根は登山ハイキング案内に一切登場しない。果たして歩けるのかどうかわからず、踏ん切りがつかないままでいた。昨年の正月、大仁田山から黒山ー高水三山と縦走した際に成木尾根分岐点にこの尾根を示す道標があり、尾根上にもしっかりした踏み跡が続いているのを確認した。道標には成木尾根最末端の安楽寺さえ標示されていた。どうやらこの尾根の縦走は可能なようである。ただし、岩茸石山山頂から眺めた成木尾根は途中大規模な採石場が稜線まで達しており、果たして本当に縦走可能なのか疑問も残った。
薮の出る前に大仁田山から成木尾根縦走に挑戦してみることにした。いつもの通り、北鴻巣発5時24分の上り一番列車に乗り、東飯能着6時59分。7時13分の名郷行きのバスに乗る。冬の間はガラガラであったこのバスも春の訪れのためかハイカーで座席は満杯であった。車窓から眺める山里は満開の桜でピンクに染まっている。 7時40分、上赤沢かみあかざわバス停で降りたのは私一人であった。空はどんより曇り今にも降り出しそうな雲行きである。ただし、空気は気持ちが悪いほど生暖かい。車道を50メートルほど上流にたどり、踏み跡を見つけて名栗川に下る。降り口には道標もない。案内書には仮橋が架かるとあるが、橋とは名ばかりで飛び石伝いに板きれが投げ捨てられたように渡してある。渡り終わったところが大仁田山への登山口であるが道標は一切ない。結局このコースは山頂まで道標は一切なかった。大仁田山はハイキングコースとしては整備されていない。 支度を整え右上方に続く確りした踏み跡をたどる。杉檜林の中を15分も緩やかに登っていくと支尾根に登りつく。辺りは静寂そのもので、時折鶯の鳴き声が聞こえる。あとはこの支尾根をたどる一本道である。すぐに萱とと灌木の藪道となった。道型ははっきりしていて問題ないが何とも鬱陶しい。檜の植林の中にはいると藪も消えようやくよい道となった。次第に傾斜の増した尾根をぐいぐい登っていく。左手に大仁田山の丸いピークが見える。小さな石の祠を見、大岩の点在する斜面をすぎると上方に尾根筋が見えてくる。しかし、ルートはこの尾根には直接登らず、左に斜高する。 8時25分、あっさりと大仁田山山頂に達した。登山口からわずか45分、ノンストップで登り切った。昨年の正月以来、1年3カ月ぶりの山頂である。山頂は深い樹林の中で、前回と同様人の気配は一切なく、三角点のみが出迎えてくれた。握り飯を一つ頬張り、山頂を辞す。登ってきたのと反対側に続く踏み跡を50メートルもたどると名栗川右岸稜の主稜線に出る。この辺りの地形は複雑だが勝手は知っている。主稜線を右に100メートルもたどると成木尾根分岐点に達した。いよいよ縦走開始である。 道標に従い、確りした踏み跡に踏み込む。急登して顕著なピークに登りあげると右に高土戸集落への踏み跡が分かれる。ここにも三方向を示す確りした道標がある。下ると送電線鉄塔に出た。今日初めて展望が開け、どんよりした空気の中に周囲の山々が重く霞んでいる。小峰を越えると二重山稜のような地形となる。「こっちでいいのかな」と思いながら右側の山稜をわずかに下ると、稜線を乗っ越す確りした踏み跡にぶつかる。ここに道標があり、安楽寺へは左の尾根に乗り換えることを示している。尾根を乗り換えるとそこが峠となっていて「水口(みずのもと)峠」との標示がある。左に下る踏み跡を細田集落、右は高土戸集落と示している。二股の大杉の間と木の洞の中に石の祠がある。この峠は地図に峠名は記載されていない。 さらに稜線をたどる。ここから先、不思議なことに一切の道標が姿を消してしまった。テープさえもない。ここまで要所要所にあれほど確り
した道標があったのに奇異なことだ。かつ少々無責任でもある。しかしながら、踏み跡だけは確りしている。椿のまばらに咲く尾根をたどると、「奥多摩工業(株)事業区域」と書かれた小看板が頻繁に現れ、尾根は二つに分かれる。踏み跡に沿い右の尾根を下ると、大規模な採石場跡と思われる場所の上部に突き当たってしまった。ルートは左の尾根かもしれない。二つの尾根の間を小道とも呼べるしっかりした踏み跡が結んでいる。この小道を利用して左の尾根に移ってみるとそこは峠状となっていて小さな木製の祠が安置されていた。まだ祀られているようで祠の前には真新しい注連縄が張られている。ただし何の標示もない。さて困った。ルートはどっちの尾根だ。二万五千図を懸命に読むが、地形が細かすぎ、また見通しも利かないのでさっぱりわからない。この尾根上にも踏み跡が続いているので、尾根を登る。振り返ると木の間から細田の山上集落が見える。小ピークに登りあげるが、どうもルートに確信が持てない。再び二万五千図を広げて検討する。しかし現在位置もはっきりしない。どうもこのピークは主稜線から左に派生した地図上の386メートル標高点峰ではないかと思えてきた。となると、主稜線は最初に進んだ砕石場のある右の尾根である。
一峰を越えると鉄塔に達した。周囲が開け現在位置は明確である。都県境はこの左の尾根で正解である。安心して草原に座り込む。天気も回復し、薄日が射してきて暖かい。握り飯を頬張りながら地図を眺めていたら重大な事態に気がついた。何と何と! 都県境は足下においては現在私のいるこの尾根上であるが、この先の349メートル標高点峰を越えたところでこの尾根を離れて谷に下り、隣の尾根に移っているではないか。ということは、この尾根を辿ったのでは行き詰まってしまう。縦走するべきルートは隣の右側の尾根だ。都県境は最初から最後まで成木尾根の主稜線上にあると思い込んで、事前の検討を充分にしていなかったのが大間違いである。それでも大事になる前に気づいてよかった。 大慌てでもと来た道を戻り、隣の尾根に移る。すぐに49号鉄塔に達した。鉄塔の先にも稜線上にはっきりした踏み跡がある。ひと安心したのも束の間、通行止めの柵が現れ、この先砕石場につき立ち入り禁止の立て札である。一瞬考えたが迂回ルートもない。柵を潜り、そのまま稜線を進むと砕石場の上部に突き当たった。非常に大規模な砕石場で採掘はすでに稜線にまで達している。辿ってきた踏み跡もここで断ち切れている。しばし立ちすくんだが、今更後戻りするわけにも行かない。左より山稜を巻こうと樹林の中に踏み込んでみるが、傾斜もきつく無理のようである。掘削でナイフリッジのようになった山稜を怖々歩く。幸い日曜日の今日は作業は休みと見える。ボタ山を乗り越え何とか立入禁止区域を通過し、再び樹林の中の山稜にはいる。ここにも立ち入り禁止の看板と柵がある。 稜線上には再び踏み跡が現れた。ひと安心である。ただし、地図を読むとこの先ルートは複雑である。少し進んだ340メートル峰で直角に左に折れ、弱々しい尾根をたどって隣の山稜に乗り換える必要がある。現在たどっている山稜をそのまま進むと支稜に乗ってしまう。しかし、この340ピークが特定できるか自信がない。先ほどの採石場により地形が地図とは一変してしまっているのだ。持参の昭和52年発行の古い二万五千図地図にはこの採石場は載っていない。やはり新しい地図に買い換えなければだめである。ただし、赤線の引かれた地図は愛着がある。
再び戻って萱との藪に突入する。踏み跡はしっかりしているがかなりの藪である。藪を抜けると、なんとゴルフ場が現れた。稜線の左側はゴルフ場で、しかも稜線に沿って鉄条網が張り巡らされている。何ともやりきれない気持ちである。鉄条網に沿う稜線上の踏み跡はえぐれたしっかりしたものら変わったが、灌木の藪がひどい。しかも、蜘蛛の巣が頻繁に顔に架かる。もう活動を開始しているのだ。グリーン上のゴルファが奇異な目で私を見つめる。この状態がどこまでも続く。もう山登りとはほど遠い状態である。私の地図にはこのゴルフ場は記載されていない。
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