桐生川の奥・栃木県と群馬県の県境に根本山と云う山がある。隣の熊鷹山とあわせてハイキングコースが開かれており、案内の類いも多い。安蘇山塊の主峰ではあるがローカルな山と言えよう。だが、この山は江戸時代には霊山としてかなり名の知れた山であったらしい。根本山信仰は関東一円に広がり、江戸に講まで作られていたとのことである。元々修験の山で、日光の山々を開山した勝道上人もこの山で修行したと云われている。これらの事情については、根本山系の一峰・峰ノ平山頂に次のような説明盤が掲げられている。
根本山 標高1197m行者山の別名がある山岳信仰の山。昔、富士山から東北を臨むと端雲の根方にこの山が見えたのが根本山の由来といわれている。根本山信仰は江戸中後期に関東一円から信越奥州まで広まり将軍から庶民にまで尊崇されたが弘化二年の火災・万延元年の桜田門外の変での領主井伊直弼暗殺により衰退し現在は、石燈籠・石段等の一部によって当時の隆盛をしのぶことができる。
早朝、5時25分、車で出発する。桐生市内を抜け、桐生ダムを過ぎ、細まった道は次第に山間に入っていく。桐生川沿いの渓谷はちょうど紅葉が真っ盛りである。最後の集落・石鴨を過ぎ、6時55分、72キロ走って登山口となる不死熊(ふじくま)橋に着く。林道はさらに奥に続くが、鎖が張られて車はここまでである。狭い駐車スペースはすでに4〜5台の車で満杯のため、200〜300メートル手前の三境(さんきょう)林道分岐地点の広場に車を止める。
不死熊橋を渡り林道を奥へ進む。空は真っ青に晴れ渡り、今日一日の晴天を約束している。ただし寒さは厳しい。ヤッケを着て手袋をはめての行動である。10分ほど進むと、左に支線が分岐し、道標が「中尾根コース」と示している。ここにいたって異変を感じる。私は「沢コース」を登るつもりである。地図を確認すると、沢コースは不死熊橋から直接沢に入ることになっており、明らかにコースを間違えている。今更戻るのも癪である。地図によると、この支線林道の終点からでも沢コースへ入れそうである。それにしても、不死熊橋付近には沢コースを示す道標は見あたらなかったが。帰路もう一度確認してみよう。支線林道を奥へ進む。中尾根コース登山口を過ぎ、少し進むと林道は終点となった。左下の沢に降り、そのまま遡行し始める。平凡な沢だ。水流はあるが何とか足を濡らさずとも歩ける。しかし、踏み跡の気配が全くないのが不思議だ。安蘇の山はハイキングコースでもこんなもんなのか。呑気なものである。
何であんな平凡なミスをしたのだろう。地図を確認すれば一目でわかることなのに。今日は全くどうかしている。この谷は目指した谷ではなかったのだ。中尾根コースのある尾根のすぐ西側の谷であったのだ。しかし、それに気づいていない。頭からこの谷を沢コースとなる本谷と決めつけている。飛び石を踏み、時には高巻きをまじえながら、遡行を続ける。しばらく進み、さすがに、これはルートとする谷ではないと気づく。いくら何でも踏み跡どころかテープもない。しかし、戻るのも癪だ。えぃ、このままこの谷を詰めちまえ。鷹揚なものである。見たところそれほど難しい谷でもない。未知の谷を遡行しようとは我ながらいい度胸である。
ひたすら谷を辿る。やがて魚止めの滝と思われる小滝が現れ、左岸をへつる。次のゴルジェは左岸を危なっかしく高巻く。右岸から顕著な沢が合流する。慎重に本谷を見極め、ひたすら谷を詰めると水流が消えた。ひと休みする。空沢をさらに詰めると二股となった。右俣にルートを取る。谷は右にS字状にカーブして次第に狭まる。左岸からまた顕著な沢が合流する。水流は消えたが流木が多く遡行もそれなりに大変である。傾斜が次第に増し、詰めにはいる。谷の形状は曖昧となり潅木の藪が通行を妨げる。潜り、掻き分け、ひたすら直登する。次第に行く手の稜線が近づく。傾斜は益々増し、密生する潅木の藪が行く手を著しく阻む。立木を支点とし、遮二無二藪の斜面をはい登る。
8時55分、ついに稜線に達した。1時間半でついに未知の谷を遡行し得たのだ。たどり着いたところは小さな鞍部で、期待通り稜線上には立派な登山道があった。道標があり、稜線の右を「十二時山」、左を「根本神社」と示している。さらに、稜線の反対側に下る道があり、「黒板石」と示している。「十二時山」とは聞いたことのない地名であり(今もってわからない。十二山の間違いか)、また、このような場所からの黒板石への下山道も地図にも載っていない。現在位置は根本山の西側の稜線であることは確かであるが、詳細には特定できない。根本山神社の方から中年の単独行者がやってきて、「初めて人に会いました」といいつつ根本山の方へ向かっていった。まさか「ここはどこですか」と聞くわけにも行かない。
目指す根本山は東と思うが、まずは正確な位置確認のため西に稜線を辿ってみる。雑木林に囲まれた緩やかな尾根を辿る。葉をすっかり落とした木々の間から皇海山、袈裟丸山が見え隠れする。急坂を鞍部に下り、鎖場の急登をピークに登り上げると、「峰ノ平」との標示があった。これで現在位置ははっきりした。狭い山頂に座り込んで朝食のサンドイッチを頬張る。ここまで朝から何も食べずに登ってきた。高校生ぐらいの娘4人と夫婦と思われる6人パーティが挨拶して通り過ぎていった。4姉妹の一家かと思ったが、後で聞くと高校の山岳部員と先生であるという。
最初の地点に戻る。山腹を右から巻きながら2〜3分進むと、そこが中尾根コースとの合流点となる十字路であった。巻き道から分かれ、山頂に向かう。短い急登の後、緩やかな尾根道を少し進むと根本山山頂に達した。山頂は気持ちのよい雑木林の中で、木々の隙間から男体山、皇海山が微かに見える。この平凡な山頂にやってくるのに何と苦労したことか。
先着していた6人パーティを残して、すぐに熊鷹山を目指す。緩やかに下っていくと先ほどの巻き道と合流する。さらに平坦な尾根道を辿ると十二山根本山神社(跡)に出た。崩れかけた鳥居と小さな石の祠、トタン板の小屋と雑然としている。由緒書きの碑があり次の通り刻まれている。
十二山根本山神社沿革
当社は大山祇命を祀る。古く山岳信仰盛んなころ修験道の霊地として開かれ、人々の深い信仰を集めてきた。明和八年(一七七一)小野青雲が小石祠を建立、寛政元年(一七八九)間口約五尺高さ六尺余の総欅造御本殿並に間口約三間奥行き二間半の木造拝殿を構社により建立、文化三年(一八〇六)小野青典が本地仏薬師如来を守る十二神将を納めて以来十二山と呼ぶ。前面平地に間口約八間奥行き四間木造二階の篭堂が南向きに建ち、明治二十九年から昭和二年まで祀職永澤宗次郎親子が居住し、その西北すみに薬師如来と十二神将が納まる。昭和三年社殿共全焼、時に黒沢の有志が木造小宮と上屋を奉納、昭和六十一年九月石宮奉納、上屋はその万ま使用、当碑文は高崎寿着郷土史、黒沢古老の話、選者九歳頃大正十三年当時の記憶による。拙文多謝。
昭和六十一年九月吉日永澤種次七十歳撰併書
根本山から古峰神社を経て日光に続く山々は古くから日光修験が活躍した舞台である。この十二山根本山神社もそうした霊場の一つであったのだろう。
根本山から熊鷹山に続く稜線は実に緩やかである。木々の合間からU字型にカーブする稜線の先に熊鷹山の穏やかなピークが見渡せる。左手には相変わらず男体山、皇海山が見え隠れしている。稜線の右側を巻き気味に進むと、氷室山への縦走路が左にを分かれ、すぐに石鴨林道への下山道が右に分かれる。いつしか林床は低い隈笹に覆われるようになる。地図を見るとこの辺りを「十二山」と表記している。案内書によってはU字型の頂点となる1140メートル小ピークを十二山としているが、特定のピークを指すのではなく辺り一帯の総称のようである。念のため、巻き道から外れU字型頂点ピークに登ってみたが、山頂標示は何もなく、三滝への下山道を示す小さな道標があるのみであった。ここで稜線は右に90度曲がる。
笹と雑木林のゆったりした尾根を進む。行く手に熊鷹山がこんもりと盛り上がっている。右手には木々の隙間から越えてきた根本山が切れ切れに見え、その背後に袈裟丸山が見え隠れしている。緩やかな登りを経ると熊鷹山山頂に達した。潅木に囲まれた狭い頂だが、3メートルほどの木製の櫓が建てられている。櫓に登ると、今日初めての大展望が待っていた。真っ青な空のもと、360度山々が広がっている。北を眺めれば、栃木・群馬の県境稜線が起伏を繰り返しながら続き、古峰ヶ原高原のゆったりした台地の背後に男体山が一人その存在感を示している。その右背後には山頂を雲で隠した女峰山も確認できる。目を徐々に左に移すと、荒れ果てた足尾の山肌が目に飛び込み、その背後には真っ白に雪をかぶった白根山が浮かんでいる。西の山並みは皇海山から袈裟丸山である。さらにその左には赤城山が大きな山体を誇っている。地蔵岳山頂の鉄塔も確認できる。南は、足下から続く稜線が丸岩岳、野峰のピークを盛り上げながらも次第に高度を落とし関東平野に没している。遥か遙か彼方に空にとけ込む秩父の山並みがうっすらと見えている。同定を試みるが無理である。富士山が見えないものかと目を懲らすがとらえることはできない。東側には石裂山などのいくつも岩峰が細かな山襞を作っている。飽くなき展望にしばし見とれる。
例の6人パーティがやってきたので、櫓の上を譲る。山頂の一角に腰を下ろして握り飯を頬張る。陽が燦々と差し暖かい。25分ほどの休憩の後下山に掛かる。山頂の一段下には小さな石の祠が祀られていた。すぐに左に作原への下山道を分け、そのちょっと先が石鴨林道への下山道分岐であった。尾根上にはさらに丸岩山に向かってしっかりした踏み跡が続いているので、よほど行ってみようかと思ったが、今日は東京国際女子マラソンがある。早く帰ってテレビを見よう。急坂を一気に下る。この下りは途中踏み跡がいくつか分岐してコースがわかりにくい。それでもわずか10分で林道に降り立った。あとはこの林道をひたすら歩けばよい。山々の散り残しの紅葉に目を移しながら曲がりくねった地道の林道をひたすら歩く。やがて今朝分かれた支線分岐に出る。不死熊橋で見過ごしてしまった沢コース入口を捜すと、一本のロープが切り通しの上から垂れ下がっている。ここが登山口のようである。車まではもう一足長である。
ハイキングの山と少々なめてかかって、地図もろくにチェックせずルートを間違えた。結果的には未知なる沢を遡行し、よい思い出となったが、やはり山をなめてはいけない。 |