おじさんバックパッカーの一人旅   

ネパール、インドの旅 (1) 

  カトマンズとその周辺の旅

2007年2月28日

      〜3月8日

 
 第1章 旅の序曲

 ネパールへ行ってみようと思った。もちろん、最大の目的は世界の屋根・ヒマラヤである。やはり死ぬ前に一度ヒマラヤを生で見ておきたい。8,000メートル峰の迫力とはいかばかりなものなのか。しかし、計画を練っているうちに血が騒ぎだした。やはり眺めるだけでは満足できそうもない。山中に足を踏み入れてみたい。もう20歳も若ければ5,000〜6,000メートル峰の一つぐらい登ってやろうという気になるのだが、この歳ではそうも行くまい。せめてトレッキングでもしてみるか。とは思っても、勝手がさっぱりわからない。ポーターやガイドをどうやって雇うんだ。装備はどの程度整えたらいいんだろう。もちろん、金さえ出せば、日本の専門旅行社が全てアレンジしてくれるのだろうが。しかし、それでは金持ちの大名旅行だ。まぁ、現地に行けば何とかなるだろう。

 と、言うことで、旅行日程を詰めてみたのだが、ネパールは小さな国。数日のトレッキングを見込んでも2週間もあればあらかた廻れてしまう。と、なればインドへ足を伸す以外なさそうである。しかし、インドに行くには相当な覚悟が必要である。この国は、個人旅行者にとって、世界一の「心安らかざる国」として悪声をはせている。その状況がどれほどひどいかは、ガイドブック・「地球の歩き方 インド」をざっと眺めただけでも理解できる。何しろ、首都ニューデリーの国際空港からタクシーに乗っても、目指すホテルには絶対にスムーズには行き着けないのであるから。ガイドブックも「もはや、ホテルに空港まで迎えに来てもらう以外に方法はない」とお手上げの状況である。私の娘は何度もインドを旅行しているのだが、あるとき空港からタクシーに乗ったら、発車してすぐに「降りてくれ」といわれたとのこと。理由を訪ねると、「貴方は騙せそうもないのでーーー」とか。「行ってはいけないインド 竹内書店」という本をめくると、その状況のひどさに絶望を感じる。こんな国には本当は行きたくはないのだがーーー。

 それでも、怖いもの見たさもあるが、インドには死ぬ前に一度、どうしても行っておきたいところがある。仏教の4大聖地といわれる、ルンビニ(仏陀生誕の地)、ブッダガヤ(仏陀成道の地)、サールナート(仏陀初転法輪の地)、クシナガール(仏陀入滅の地)である。うち、ルンビニはインドとの国境近くのネパール領内であるが、他の三つはインド領内にある。別に熱心な仏教徒ではないが、この4大聖地を巡礼すれば死後極楽へ行けるとのこと。死後の世界など信じてはいないが、保険は掛けておいて無駄ではなかろう。ついでに、ヒンズー教最大の聖地・バナーラス(バラナシ)へ行って、ヒンズー教というよく分からない宗教の正体も見定めてみたい。

 以上で約50日間のネパール、インドの旅の概略日程が組み上がった。すると、娘からとんでもない依頼を受けた。バラーナスのケダル・ガート(ガートとは沐浴場の意)へ行って、そこに屯する子供たちに写真を渡してきて欲しいという。娘は何度かそこを訪れ、子供たちの写真を撮った。それを渡して欲しいという。もちろん名前もわからない。「行けば分かるよ」と数十枚の写真を託された。これで、この旅のミッションは三つとなった。無事に果たせるかどうか自信はない。2月28日、ともかくザックを担いで、成田空港からバンコクへと旅立った。

 
 第2章 ネパールの首都・カトマンズとその周辺

 第一節 空港にて

 バンコクでカトマンズまでの格安航空券を探したのだが、割安のネパール航空(RA)は1週間以上先まで満席。仕方なくタイ航空(TG)を予約したが、片道418US$とメチャ高い。出鼻をくじかれた感じである。

 3月2日午前10時45分、TG319便のジャンボ機は満員の乗客を乗せてバンコクSuvarnabhum新国際空港を飛び立った。隣の席はネパール人のおばさん、特に会話もない。機内にはちらほら日本人らしき姿も見受けられる。3時間半の飛行で、ネパール時間の午後1時(タイとネパールの間には1時間15分の時差がある)、カトマンズのトリブヴァン国際空港に着陸した。空港はだだっ広い野っ原という感じで、他に飛行機の姿もなく、首都の国際空港らしき華やかさはない。

 機外にでると、燦々と降り注ぐ日の光はまぶしいが、空気はひんやりして涼しい。ここは標高1,400メートルの高地である。ヒマラヤが見えないものかと、北方に目をやるが春霞が視界の先を包み込んでいる。人波に従い古びた空港ビルに向う。イミグレイションは薄暗い大きなホールで、5〜6個のカウンターが並んでいる。500人もの乗客が一度に押し寄せたので、各カウンターはあっという間に長蛇の列となる。事前にビザを取得していなかったので、「Without Visa」のカウンターに並んだのだが、15分もすると、「日本人はこの列ではないんだって」との声が前方に並んでいた日本人から上がる。聞いてみると、「日本=ネパール国交樹立50周年記念」とかで、今月一杯日本人はビザが無料とのこと。従って「Gratis Without Visa」と表示されたカウンターに並ばなければならないらしい。無料は嬉しいが、列の1番後ろに並び直すはめになってしまった。

 私と同じく並び直した日本人の若者がいた。話してみると、S君といい、大学4年生で、「卒業旅行に1人でエベレストベースキャンプにトレッキングする」という。市内まで一緒に行こうということになった。それにしても、列がさっぱり進まない。カウンターへ偵察に行ってみると、3人の係官が一生懸命手続きをしているのだが、その要領の悪さはあきれるほどである。まぁ、気長に待とう。ここはネパールなのだから。1時間待って、ようやく私とS君の番が来た。最後の最後である。入国手続を済ませ、バッケージクレームに行くとザックはベルトコンベアーから降ろされ壁際にぽつんと置かれていた。税関には既に係官もいない。

 空港ビルを出る。その途端に20人ほどの男どもに取り囲まれた。いずれもゲストハウスの客引きである。手にした名刺を次々と差し出し、待機の車に引き込もうと凄まじい形相で迫ってくる。何しろお客は我々二人しかいないのだから。恐怖さえ感じて逃げ惑う。ついに見かねて警官が飛んできて、ひとまず囲いを解いてくれた。その隙にタクシーに逃げ込むみ、安宿街であるタメル地区へ向う。

 タメル地区の入り口でタクシーを降りたが、さっぱり方向がわからない。二人で地図を見ながら右往左往していたら、ゲストハウスの客引きに捕まった。部屋を見てみることにする。案内されたMt. Annapurna G.H. は1泊6US$、マネージャーは日本語を話せる。満足してチェックインする。Welcome Drinkのビールで、先ずは無事カトマンズに到着できたことを祝して乾杯。

 S君はG.H.出入りのトレッキング業者と早速エベレスト・トレッキングの相談。私はカトマンズの街はいかにと街に飛びだした。タメル地区はさすがに世界にその名を知られた安宿街、思いのほか大きく、そして賑やかであった。その規模はバンコクのカオサンを凌駕している。南北に延びる3本の道路からなり、その両側にはゲストハウスを始めとして、土産物屋、旅行代理店、食堂などあらゆる旅行者向け商店が並んでいる。登山用具店とトレッキング・ツアー店が多いのがいかにもヒマラヤ登山基地・カトマンズらしい。陽が落ちると、寒さが急に増してきた。セーターを着ていてもまだ寒い。登山用に持参したダブルヤッケを着込む。街ゆく人々は皆、ジャンパーなどの上着を着ている。ロビーの寒暖計は14℃を示していた。

 
 第二節 ダルバール広場

 3月3日(土)。朝一番でG.H.の屋上に上がってみた。目の前に低い街並みが大きく広がっている。高層ビルなど一つもない。家々の屋上には経文旗(ダルシン)が翻り、ここがネパールであることを強く印象づけている。自ずと視線は北方に向けられる。見えた! 周囲を取り囲む低い山並みの背後に真っ白な山々がわずかに頭を覗かせている。始めて仰ぐネパール・ヒマラヤの山並みである。ついにヒマラヤを見た。心は自ずと高揚する。

 S君は「今日中に全て片づけるんだ」と、何やら勇んで早朝から出かけていった。私は今日1日カトマンズ市内を探索するつもりでいる。ところが、「今日はフルムーンの祝日で、街中で『水掛け』が行われる」という。「覚悟して行きなさい」の声に送られてG.H.を出る。先ずはカトマンズ最大の見どころ・王宮広場(ダルバール広場)を目指す。ここから1.5キロほどのはずである。早朝ゆえ、まだ水掛けは始まっていない。

 タメル地区の賑やかな街並みが終わると旧市街に入る。実に味わいがある中世そのままの街並みが続く。狭い道の両側に5〜6階建ての古びた煉瓦造りの建物が壁のごとく建ち並び、低い天井の薄暗い1階が活気のない小さな店舗となっている。狭い道は人、荷車、オートバイが溢れ、時折、道幅一杯のタクシーが激しく警笛を鳴らしながら進入してくる。幾筋かの道の交差点はチョークと呼ばれる広場となり、多くの露店と人波で溢れ返っている。そして、チョークの中心や道端には多くの神々が祀られ、「人の数より神々の数の方が多い」といわれるカトマンズ独特の雰囲気を醸し出している。壁のごとき建物にトンネルのように空いた小さな隙間を恐る恐る潜って、裏側に回り込んでみると、そこは4方を建物で囲まれた大きな中庭となっている。中心に井戸があり、女たちが井戸端会議をしながら洗濯に余念がない。その廻りを子供たちと犬が駆けずり回っている。どうやら、この中庭が人々の生活の中心のようである。

 旧市街の中心・アサン・チョークを抜けると、繁華街に出る。インドラ・チョーク周辺は小さな店が道の両側をぎっしりと埋めている。客寄せの声が重なり、人波は一段と増す。市内唯一(?)のショッピングセンターのある広い道を南下するとダルバール広場入り口に達した。ここにチャックポイントがあり、入場料200ルピー(RP)を徴収される(もちろん外国人のみ)。

 ダルバール広場はカトマンズの歴史と今がぎっしりと詰まった空間、何とも見ごたえがある。ネワール建築の粋を集めた王宮の前は広々とした広場となっており、その周りを幾つかの寺院が取り囲んでいる。その一角には生き神様とされる少女の住む、「クマリの館」もある。広場は賑やかである。多くの露店が並び、物売りが行き交う。物乞いの姿も多い。屯する悪ガキどもが観光客に小銭やチョコレートをねだる。そしてまた、牛が悠々と歩き周り、犬が走り回っている。オートバイやサイクルリキシャも人込みを蹴散らして進入してくる。王宮は祝日のため閉鎖されていた。また後日来よう。寺院の基壇に座り込んで、広場を眺め続ける。

 カトマンズの旧市街の街並みも、この旧王宮も、建設したのはネワール族である。チベット・ビルマ語族に属するこの民族は、古来このカトマンズ盆地を本貫の地としてきた。ネパールという国名はこのネワールに由来する。彼らは8世紀にこの盆地にマッラ王朝を打ち立て、18世紀に到るまでこの盆地の主人公として君臨した。しかし、18世紀半ば、西方の山上集落・ゴルカを拠点とするパルバテ・ヒンドゥー族の国・シャハ王朝(現王朝)の侵略を許し、以来被支配民族の地位に甘んじている。

 ひとまずG.H.に戻ることにする。アサン・チョーク辺りまで引き返すと、水掛けが始まっていた。「水掛け」と聞き、タイの水掛け祭りをイメージしていたのだが、まったく違っていた。タイの場合は水鉄砲なりバケツで正面から堂々と水を掛けてくる。ところが、ネパールの水掛けは、ビニール袋に水を詰め、物陰や建物の上から投げつけるのである。しかも、投げつけると同時に身を隠す。かなり陰険な方法である。さらに、多くの場合、水は青や赤の染料が溶かしてあり、ぶつけられると衣服は染まってしまう。たまったものではない。上方を注意しながら帰路を急ぐ。それでも水つぶてが時々身体をかすめる。

 
 第三節 スワヤンブナート

 昼食後、「出歩かないほうがいいよ」とのアドバイスを振りきって、街の西端の丘陵上にある仏教寺院・スワヤンブナートを目指す。3キロ程の距離だが歩いて行くことにする。未知の街は歩くに限る。旧市街を西に進む。両側に壁のごとくそそり立つ古びた赤レンガの建物の屋上からひっきりなしに水つぶてが飛んでくる。実に不愉快である。30分も歩くと、街の西端を流れるヴィシュヌマティ川に達した。開けた北方にランタン・ヒマラヤの真っ白な連なりが春霞に霞んでいる。行く手の丘の上には大きな「目」が描かれた白いストゥーパが見える。目指すスワヤンブナートである。突如、太股に水つぶてを受け、ズボンが真っ赤に染まってしまった。飛んできた方向を睨むが人影はない。物陰でほくそ笑んでいるのだろう。まったく嫌な習慣だ。

 ようやく丘の麓に到着した。頂に向って恐ろしく長く急な石段が一直線に延びている。覚悟を決めて石段に挑む。猿が沢山いる。この寺はモンキーテンプルとの別称がある。石段は登るに従い傾斜を増す。息を切らしてようやく頂の巨大なストゥーパに達した。経文旗はためく境内からの眺めは絶景である。眼下にカトマンズの街並みが大きく広がり、北方にはランタン・ヒマラヤの峰々が白く輝いている。山並みの中央にそそり立つ形よい三角形のピークはLangtang Lirung(7234m)のはずである。

 周囲を囲むマニ車を回しながら、作法に従い時計回りにストゥーパを廻る。ネパールの仏教は、東南アジア諸国とは異なり、チベット仏教である。そしてまた、ストゥーパの四方に描かれた「目」がネパール仏教を特徴づけている。全てを見通す「仏の知恵の目」を表すという。この寺はネパール最古の仏教寺院といわれている。伝説によれば、昔々、ネパール盆地は水を満々とたたえた湖であった(このことは地質学的に事実らしい)。そしてこの地は湖に浮かぶ島であった。あるとき、通りかかった文殊菩薩が湖南端の山を切り崩して水を抜き、肥沃な盆地に変えた。そして、丘となったこの地に大日如来を祀ったのが始まりといわれている。

 再び歩いてG.H.へ帰る。午後も深まると、街は何やら興奮状態となった。水投げは激しさを増し、真っ赤な塗料を顔に塗った若者が、奇声を上げながら徒党を組んで走り回る。通りは水浸しで、ビニール袋が散乱している。そんな中、S君がいささかハイの状態で帰ってきた。聞けば、「マッサージ屋で女を抱いて、マリファナを少々吸ってーーーー。明日からエベレストに入るので、今生に思い残すことのないようすべてやってきたーーー」。あきれるやらその行動力に感心するやら。ちなみに、女の値段は3,000RP(約5,000円)とのことであった。

 
 第四節 古都・パタン

 3月4日(日)。カトマンズ盆地には幾つもの魅力的な街が点在している。カトマンズの南隣、バグマティ川の向こう側に位置するパタンもそんな魅力的な街の一つである。パタンは古都である。8世紀にカトマンズ盆地に成立したネワール族の国・マッラ王朝は15世紀に3つの王国に分裂し、各々、カトマンズ、パタン、バクタブルの3都市を都として競い合った。しかし、1769年、シャハ王朝(現王朝)のカトマンズ盆地侵略により3王国は滅びる。以降、カトマンズはネパール王国の首都として発展するが、パタンは時間を停止したまま現在に至っている。現在も住民のほとんどがネワール族である。

 タクシーで行っても100RP(約160円)程なのだが、極力ローカル交通機関を利用するのが私の流儀、シティ・バスパークまで20分ほど歩く。バスパークは大きな広場で、大小のボロバスが無秩序に停車している。表示は数字も含めて全てネパール語なので、自力でバスを見つけるのは不可能。2度ほど聞いて小型のボロバスに辿り着いた。この国は英語がよく通じるので、言葉の問題はない。バスはすぐに発車した。料金は9RP,この国ではどこかの国のようにバス料金をごまかされる心配はない。お釣りもちゃんとよこす。バスはほんの15分ほどでパタンの街の入り口に到着した。

 パタン・ドカ(パタン門)を潜って街中へ入る。すぐに素晴らしい街並みが現れた。 石畳の狭い道、両側は赤レンガ造りの5〜6階建ての建物が壁となってそそり立つ。その窓枠には繊細な木造の彫刻。典型的なネワール族の街並みである。その道がどこまでも続く。基本的にはカトマンズの旧市街と同じ街並みであるが、その規模と雰囲気が一段と勝る。パタンは別名ラリトプルと呼ばれるとのこと。サンスクリット語で「美の都」を意味する。

 古都の雰囲気にうっとりしながら歩を進めると、ゴールデン・テンプルに行き当たった。パタンで最も重要な仏教寺院で12世紀建立といわれる。おそらく、黄銅(銅と亜鉛の合金)板が張られているのだろう。寺全体が鈍い黄金色に輝いている。境内への革製品の持ち込みが禁止されており、受付でチェックされた。ネパール全土ではヒンズー教徒が90%、仏教徒は10%といわれるが、このパタンにおいては住民の80%が仏教徒である。

 さらに、気持ちよい道を進むと、ダルバール広場(王宮広場)に達した。ここが街の中心である。王宮の前は広々とした石畳の広場となっており、いろいろな形の7つの寺院が建ち並んでいる。広場には露店が開かれ、日曜日のためか、多くの人々が寺院の基壇に座り込んだり、のんびりと歩き廻っている。何とも言えない味のある風景である。私も寺院の石段に座り込んで、ゆっくりと進む時の流れに身を任す。

 王宮は博物館となっている。250RPといささか高額の入場料を払い中に入る。中庭を囲んで3層の建物がロの字型に配されている。博物館の展示物は素晴らしかった。ネワール芸術の粋を極めた仏像や神像などの精緻な彫像が多数展示されている。ネワール族は芸術に秀でた民族で、マッラ王朝時代にその才能が大きく花開いた。街中の民家の窓枠や軒下には見事な木彫りが多数見られる。

 ダルバール広場を離れ、北へ10分ほど歩くとクンベシュワール寺院に達した。境内中央に五重の塔がそそり立っている。この寺院は14世紀建立のシヴァ神を祀るヒンズー寺院である。境内を牛、ヤギ、犬がのんびりと歩き廻っている。裏手の沐浴池の辺ではヒンズー教に則った結婚式が行われていた。再びダルバール広場に戻り、街の南側に建つマチェンドラナート寺院に向う。境内真ん中に三重塔が建っている。ここは雨乞の神様である。毎年雨期前の5月、盛大な雨乞の祭りが行われ、5〜6階の建物に匹敵する背の高い山車が市内を練り廻る。同名の寺院が、カトマンズのインドラ・チョークにもある。パタンの神様は顔が赤いので「ラト(赤)・マチェンドラナート」と呼ばれ、カトマンズの神様は「セト(白)・マチェンドラナート」と呼ばれる。再びバスに乗ってカトマンズへ帰る。

 
 第五節 世界一美しい古都・バクタプル

 3月5日(月)。今日から、カトマンズ盆地東部の街・バクタブル、ナガルコット、チャングナラヤンを訪ねる一泊二日の小旅行に出る。先ず目指すは、カトマンズの東約15キロに位置するバクタブルである。バクタプルは、先に記したが、マッラ王朝時代の三王国の都の一つである。そして、三つの都の中で、当時の面影を最も色濃く残している街といわれる。昨日パタンを訪れ、その美しさに酔いしれた。バクタブルはさらに美しいという。一体どんな街なのだろう。

 8時過ぎ、G.H.を出る。バクタブル行きのバスは、シティ・バスパークではなく、その北側の道端から出ると聞いた。カトマンズを南北に貫く大通り・カンティ・パトを越え、目的地に向う。カトマンズで感心することは、大きな交差点には確りした歩道橋が設けられていることである。多くのアジア諸国のように命がけの道路横断をしないですむ。バスはすぐに見つかった。ミニバスである。市街地を抜けたのち、飛行場の脇で客集めのためかなり長く停車した。いつしかバスは超満員となった。通学の小中学生が大勢乗ってくる。もちろん、こんなローカルバスに乗っている外国人は私一人である。

 約1時間で終点のバスパークに着いたのだが、付近の状況がガイドブック記載の地図とまったく符合しない。目指すは街の中心のダルバール広場なのだが。多いに混乱して、何度も道を尋ねる。後で分かったことだが、私は、街の西端のバスパークに到着したと思っていたのだが、実は東端にもバスパークがあり、そちらに到着していたのだ。何度目かに、道端で立ち話をしていた数人に尋ねると、品のよい老人が、「案内してやろう」と言ってくれた。

 老人は先頭に立ち、複雑に絡み合う路地を抜けていく。狭い石畳の道、両側は古びた赤レンガ造りの高層住宅。典型的なネワールの街並みである。窓枠や壁には素晴らしい木造彫刻が見られる。いたるところに小さな祠が鎮座し、時々現れる広場には寺院が建つ。まさに中世の街並みそのものである。何と美しい街並みなのだろう。これほどの街並みが現在に残っているとはーーー。世界一美しいと思っているラオス・ルアンプラバンの街並みに匹敵する。ただただ目の前に現れる光景に見とれる。

 老人は出会う人々と挨拶を交わし、時々振り返っては私に何やらネパール語で説明してくれる。英語は余り話せないようである。10分ほどで大きな広場に着いた。目指すダルバール広場のようである。老人は立ち止まり、「着いた」とのジェスチャー。「ダンニャバード(ありがとう)」とネパール語でお礼を言いながら、「どの程度のチップを渡すべきか」と考えた瞬間、老人は私に正対し、胸の前で両手を合わせ、「ナマステ」と挨拶するではないか。一瞬度肝を抜かれた。慌てて、私も合掌して「ナマステ」と返答する。

 「ナマステ」と言う言葉は「こんにちわ、おはよう、こんばんわ、さようなら」を意味するネパール語(ヒンズー語も同じ)であり、現在では、「ハロー」あるいは「コンッチワー」程度の軽い挨拶言葉として使われている。しかし、物の本によると、「本来のナマステは、宗教的意味を含んだ重々しい言葉で、合掌とセットとなって使われる。地方では現在でも、この本来のナマステが使われることがある」と記されている。老人はこの本来のナマステをもって、すなわち「礼」をもって私に挨拶したのだ。去って行く老人の後ろ姿を見送りながら、チップを渡そうなどと浅はかな考えをした自分を恥じた。そして、老人の「親切」に限りない喜びを感じ、この美しい古都に暮す人々の心の豊かさを実感した。

 到着したダルバール広場(王宮広場)はカトマンズやパタンのダルバール広場よりも広く、石畳を明るい太陽の光に白く輝かせている。広場正面には赤レンガ造りの3階建ての王宮が横に長く横たわり、左側にはラメシュワール寺院、右側にはパシュパティー寺院が広場を囲んでいる。この時ふと気がついた。外国人がバクタブルの街を見学するには10US$(または750RP)もの安からざる入場料が必要であり、ダルバール広場に至る主な道路にチェックポイントがあることになっている。ところが、私は老人に案内されて裏通りを歩いてきたので、チェックポイントを通過していない。従って入場料も払っていない。まぁ、いいか。

 広場には子供たちが屯していて、外国人を見つけると、頼みもしないのに案内役をかってでる。もちろん、目的はお小遣いである。私にも一人の少年がまとわりついている。11歳とのことだが、学校で習ったという流暢な英語をしゃべる。たいしたもんだ。「ネワール族か」と聞くと、「チベット族だ」との答え。彼はここで生まれたが、両親はチベットから亡命してきたとのことである。ネパールには、1959年の中国によるチベット侵略により生じたチベットからの難民が多く暮している。

 少年を従えて、トウマディー広場に向う。美しい街並みを歩きながら、ふと気がついた。街中には自動車がまったく見られない。オートバイさえめったに出会わない。故に、何の気遣いもなく、中世そのままの道をのんびりと歩ける。何か規制をしているのだろうか。トウマディー広場もまた素晴らしい空間であった。カトマンズ盆地の寺院の中で最も高いというニャタポラ寺院の五重の塔がひときわ高く聳え立ち、その横にはバイラヴィナート寺院の三重塔が青空に伸びている。

 少年がタンカの学校に案内すると言う。タンカとは曼陀羅を描いたチベットの仏画である。非常に精緻な絵であり、高価なものは数十万円もする。どうやら、このタンカを描く技法を習う学校があるらしい。チベット族のものだろう。細い路地をしばらく進むと、目指す学校があった。学校と言っても普通の民家である。少年の兄だという青年が中を案内してくれた。彼もここの生徒だという。数10人の若者が熱心に極彩色の精密画を描いていた。チベット族伝統の技法を受け継ぐのだろう。少年が辞書を買ってくれとせがむ。英語=ネパール語の辞書がほしいという。300RPと少々高いが入場料10US$得したこともあり、気前よく買ってやる。金を与えるよりはいいだろう。

 少年と別れて、今度はタチュバル広場へ行く。広場中央には1427年建立と言われるダッタトラヤ寺院が建つ。この辺りの街並みはマッラ王朝以前のものといわれる。近くの裏通りには、ネワール彫刻の最高傑作と言われる「孔雀の窓」の木彫りがあった。以上でバクタブルの見学は終了である。いささか満足した気分で街の北東へ向う。ナガルコット行きのバスが出るはずである。

 
 第六節 ヒマラヤの展望台・ナガルコット

 何度か聞いて、道端から発車するナガルコット行きバスを探し当てた。かなりくたびれた中型バスである。ナガルコットは、カトマンズ盆地を取り囲む東側の山の尾根上に位置する小さな山村である。ヒマラヤの展望台として名高い。この山村に1泊して、ヒマラヤの日の出、日の入りの景色を堪能しようというのが今回の目的である。天気が良ければよいのだがーーー。

 バスはちょうど座席が埋る程度の込み具合で、隣は仕事でナガルコットへ行くという中年のビジネスマン、流暢な英語で話し掛けてくる。バスはしばらく田園風景の中を進んだ後、いよいよ山登りに掛かる。ヘアピンカーブの連続する道をエンジン音高らかに登っていく。ナガルコットの標高は約2,100メートル、カトマンズ盆地の標高が約1,400メートルであるから約700メートルの登りである。ネパールのバスは、ほぼ全て、インドのTATA社製である。外観はボロだがエンジンは強力だとのこと。車窓から眺める景色は雄大で、上部まで続く段々畑の中に人家が点々と見られる。どこかブータンの景色に似ている。途中、トラックが谷底に転落していた。道は舗装こそされているが、ガードレールなどない。

 約1時間半走って、終点ナガルコットに着いた。バス停付近に2〜3軒の雑貨屋があるだけの小さな山上の村である。今日の宿泊場所は決まっている。Hotel View Pointである。ラックレート24US$以上の高級リゾートであるが、カトマンズのG.H.のマネージャーが知り合いとかで、12US$で泊まれる旨の紹介状を書いてくれた。展望の素晴らしいホテルと聞いていたが、行ってみると、ピークの頂上にある。お陰でバス停から急な登りを15分も歩かされた。

 ホテルの屋上は、360度、遮るもののない大展望が得られる。しかし、晴れてはいるのだが、春霞が深く、お目当てのヒマラヤ連峰は微かに見えるだけである。明日朝に期待しよう。展望のよいテラスで日なたぼっこをしながらのんびりと過ごす。ホテルはがらがらで4〜5組の宿泊客だけであった。中に、ガイドを伴った日本人の若い男女がいた。カップルかと思ったら、単にこのツアーでいっしょになっただけだという。アルゼンチンから来たという中年の男性もガイドを伴っているし、他の二組の欧米人もガイドといっしょである。私は、明日、ここからチャングナラヤンまで、一人でトレッキングをするつもりでいる。心配になって、フロントに相談すると、「一人ですかーーー。行けないことはないがーーー。ガイドの手配はここでも可能です」。こうなれば、意地でも一人で行ってやる。

 明日のルートの偵察に行く。バス停のちょっと先からカトマンズ盆地に向って大きく伸びる尾根がルートである。尾根さえ外さなければ問題なかろう。地形を頭に叩き込み、尾根への下り口を確認してホテルに戻る。

 日が傾いてきた。標高が高いだけに寒さはきつい。日没を見計らって屋上の展望台に上がる。誰もいない。春霞が大部薄れ、雲海の上にランタン・ヒマラヤの山々が頭を覗かせている。設置された展望図と見比べる。白く輝く山々、左から順に、Langtang Lirung(7234m), Ganchenpo(6387m), Dorje Lakpa(6966m), Phurbi Chyachu(6637m)などだ。展望図では、さらにその左手遠くにはエベレストが見えることになっているが、霞の中に山並みは消えている。やがて山々の頂が真っ赤に染まりる。ヒマラヤの日没だ。最後の一筋の光が消えると、山々は急激に輝き失しなっていく。この頃になって、ようやく男女の日本人が上がってきた。5分遅い。何のためにこのホテルに宿泊したのやら。

 3月6日(火)。目が覚めると外は既に薄明るくなっている。慌ててカメラをもって展望台に駆け上がる。既に、アルゼンチン人がカメラを構えていた。山々がオレンジ色に輝きだしている。周りのホテルの屋上にも沢山の人々が今か今かと日の出を待っている。山の背後から、ピカッと一筋の光が放たれ、続いて真っ赤な太陽が姿を現した。寒さも忘れ、ただただ見とれる。山々は一瞬の輝きの後、急速に朝もやの中に沈んでいった。

 
 第七節 ナガルコットからチャングナラヤンへのトレッキング

 今日はチャングナラヤンまでのトレッキングを行う。約4時間の行程である。昼までには到着したい。ガイドなし、おまけに地図もないが、尾根を外さなければよいので何とかなるだろう。幸い天気もよい。8時出発。昨日確認しておいた降下点から目指す尾根に踏み込む。細いが確りした踏跡が尾根上に続いている。陽が射して暖かい。尾根の両側は段々畑。展望は実によいのだが、残念ながら、ヒマラヤ連峰は春霞の彼方である。少し急な下りを経ると小さな集落が現れた。「ナマステ。チャングナラヤンへはこの道でいいですね」。出会う人毎に道を確認する。若者がガイドに雇って欲しいと申し出てきたが、今更そのつもりはない。

 バスの通う車道が、左下を近づいたり遠ざかったりしながら平行に走っている。歩いている道は、車道開鑿以前の古街道なのだろう。もちろん、マイカー社会以前のネパールにおいては、未だ現役の街道である。道は人家の庭先をかすめながらうねうねと続く。牛が、ヤギが、鶏が、そして犬が、行く手を塞ぐ。私は「ナマステ、ナマステ」の連続。すると、笑顔と、時には「コンニチワ」との日本語が返ってくる。約40分歩くと、第1目標とするホテルの門前を通過、ルートに間違いはない。道は尾根の左側に移る。遥か彼方に、バクタブルの街並みが霞んでいる。

 いったん車道に出るが、すぐに再び里道に入る。道標の類いは一切ないが、点々と人家があり、道を訪ねる人に苦労しない。やがて道は尾根の右側に移る。ヒマラヤ連峰は霞の中に消えているが、雄大な景色が広がっている。大きな谷を挟んだ向こう側の山斜面には高所にいたるまで人家が点々と見える。遥か彼方にはサクーの街並みが霞んでいる。道端の草原に座り込み、持参のパンを頬張る。陽がぽかぽかと暖かい。真新しいヒンズー教寺院に出た。一人のサドゥー(ヒンズー教の行者)が熱心に祈りを捧げている。参道となっている石段を大きく鞍部に下ると、湾曲してきた車道に出る。この地点をフェディと言うらしい。完全武装の数10人の兵士が休息していた。実戦なのか訓練なのかーーー。政府軍とマオイスト(毛沢東主義共産党)の内戦は昨年11月に停戦協定が結ばれたが、ネパールの政治情勢はなお不安定である。

 ここからルートの状況は一変した。樹林の中の長い登りとなる。人の気配はまったく消える。道形は確りしているが、何となく怖い。まさかトラは出てこないだろうが、強盗にでも襲われたらひとたまりもない。顕著なピークを越え、樹林を抜けると、ようやく畑が現れた。ただし、付近には人家も人影もない。道が二つに分かれる。さて、どちらを行ったものか。聞こうにも誰もいない。左の道を進んでみるが、どうも違うようだ。戻って、右の道を進む。ようやくおばさんに出会い、ルートを確認する。やがて行く手に顕著なピークが現れ、その頂に街並みが見える。チャングナラヤンだ !  小さな集落を抜けると車道に出た。そこからチャングナラヤンは一足長であった。ナガルコットを出発してから3時間半、とにもかくにも無事に街入り口の広場に到着した。

 チャングナラヤンはナガルコットから続く尾根の末端近くの1,541メートルピーク上に開けた山上集落である。集落の一番奥、すなわち集落最高地点にカトマンズ盆地最古のヒンズー教寺院・チャングナラヤン寺院が建つ。この街はこの寺院の門前町として発達した。広場より門をくぐり街中に入る。石段が上部へ続く。この石段が街のメインストリートであり、寺院への参道でもある。両側はネワール族の街並みである。息せき切らして、最上部の寺院に達する。さして広くない境内の真ん中に建つ2層の伽藍は美しい木造彫刻で飾られている。この建物は1702年に再建されたものだとのことである。境内では数10人の中学生が熱心に見学していた。

 広場に戻り、バクタブル行きのバスを待つ。真昼の直射日光はさすがに暑い。しばらく待つと、バスは数人の乗客を乗せ発車した。小型の典型的なローカルバスである。山を下り、麦畑の中のガタガタ道を進み、わずか30分でバクタブルのバスターミナルに着いた。すぐにカトマンズ行きバスに乗り換え、2時前にはG.H.に帰り着いた。

 
 第八節 眠り続ける古都・キルティプル

 3月7日(水)。パタン、バクタブルとカトマンズ盆地の二つの古都を巡ってきたが、この盆地にはもう一つ古都と呼ばれる街がある。カトマンズの南西の小高い丘の上に位置するキルティプルである。キルティプルもまたネワール族の街である。カトマンズ、パタン、バクタプルの3王国が栄えたマッラ王朝の時代、キルティプルもまた一つの独立勢力として小さいながらも王国を維持していた。そして、1768年、西からカトマンズ盆地に侵攻してきたシャハ王朝(現王朝)が、マッラ王朝系の三国を次々に攻略する中にあって、最後まで抵抗したのがこのキルティプル王国であった。しかし、抵抗空しく、半年にわたる攻防戦の末、キルティプル王国もまた滅ぶのである。以来、キルティプルの街は深い眠りにつく。その眠りは今なお続いている。

 朝8時過ぎG.H.を出発して、シティ・バスパークまで歩く。キルティプル行きの中型バスはすぐに見つかった。待つほどもなく、数人の乗客を乗せて出発。市街地を抜けバグマティ川河畔に出ると、前方にハッとする光景が現れた。赤茶けた建物のぎっしり詰まった街並みをその頂に乗せた小高い丘が現れたのである。目指すキルティプルである。何やら異様な光景である。
 約40分で丘の麓に着いた。一筋の長い石段が丘の上の街へと続いている。かつて、街には12の入り口があったという。この石段もその一つであろう。登るに従い眼下に大きく展望が開ける。バグマティ川の向こうにカトマンズの平坦な街並みがどこまでも続いている。その背後に見えるはずのヒマラヤの山並みは、残念ながら、深い靄に閉ざされている。長い石段は一気には登れない。立ち止まっては景色を眺める。この長い石段を三々五々と勤め先に向う人々が下ってくる。毎朝晩、大変な労働だろう。石段の左右は大量のゴミが捨てられ汚い。

 街は城壁に囲まれている。城門をくぐり、街に入る。瞬間、時間は数百年前に戻る。石畳の入り組んだ細い路地の両側に、古びた赤レンガの高層住宅が壁となって続く。家の壁の隙間から覗き込むと、中には大きな中庭があるようである。典型的なネワール族の街並みである。ただし、路地は薄暗く、レンガの建物は古色蒼然、傾きかけた建物や、窓が崩れた建物も多い。そして、街には活気というものが全然感じられない。何やら廃虚の匂いさえする。パタンやバクタプルが古の都の美しさを今に伝えているとすれば、この街は滅びの悲しさを今に伝えている。山上の集落だけに狭い道は全て坂道である。山上のこの街には自動車はない。曲がりくねる道をあてもなく歩く。街には女たちの姿が目立つ。井戸端で洗濯に勤しむもの、数人集まっての井戸端会議。他所者には居心地の悪い街である。

 街の東西に二つの高台があり、東の高台にはストゥーパが建ち、西の頂にはヒンズー教寺院が建っている。この二つの高台の鞍部が街の中心である。ちょっとした広場となっていて、真ん中に、かつては沐浴に使われたと思える大きな池がある。広場の北側にはシヴァ神の化身・バイラヴを祀るバグ・バイラヴ寺院がある。小さな山門を潜ると3層の大きな伽藍がそそり立っている。過去の栄光を忍ぶ唯一の建物であろう。広場を囲む建物の一つが旧王宮のはずなのだが、どれも半ば廃虚に近く、どれがそれとも特定できない。

 池の辺に腰を下ろし、昔日を思う。この山上の都市国家は、周りを埋め尽くしたシャハ王朝軍に対し、半年にもわたる籠城戦を戦い抜いた。そして今なお、下界の繁栄に背を向け、籠城戦を続けているかに思える。長い石段を下り、城外に出る。帰りのバスは、超超満員であった。

 
 第九節 チベット仏教の聖地・ボダナート

 ひとまずG.H.に戻り、午後からボダナートへ行くことにする。ボダナートはカトマンズの東約7キロに位置する街で、ネパール最大のストゥーパの建つ、チベット仏教の聖地である。ボダナート行きテンプーが出るカンティ・パト通りを越えた映画館前へ行く。テンプーとはカトマンズにおける最も大衆的な乗り物で、小型オート三輪の荷台に客席を取り付けた乗り物である。バスの補完として、あるいはバスと競合して、市内及びその周辺を縦横に結んでいる。10人〜12人乗りだが、現実は、凄まじいばかりに詰め込まれる。少なくとも、外国人の乗る代物ではない。

 骨が軋むほどぎゅうぎゅうに詰め込まれ、ガタガタ道を突っ走る。それでも途中手を上げる人がいると、何とか乗せようとする。不思議にことに、乗客も皆協力的である。街中を抜けたと思ったら、ガソリンスタンドでガスチャージ。そろそろ着くかなと思ったその時である。運転手が何か大声で叫んで急停車。見ると、前方から、棍棒を振り上げ、暴徒と化した群衆が道路一杯に押し寄せてくる。乗客は皆車外に飛びだし、蜘蛛の子を散らすように逃げる。どうしていいのか分からず、ぐずぐずしている私に、運転手が「降りろ」と怒鳴る。私を降ろすと、車はタイヤを軋ませてUターンし、全速で走り去った。私も慌てて路地に避難する。暴徒は手前にある何かの施設に襲いかかった。閉ざされた門を揺すり、乗り越えーーー。警備のセキュリティーと激しくもみ合っている。警察官が現れて慌てて道路を封鎖する。 

 騒動に巻き込まれはしなかったが、さて困った。一体ここはどこなんだ。幸い、遥か彼方にストゥーパらしき尖塔が見える。ボダナートと思える。15分も歩くと、無事、目指すストゥーパに辿り着いた。無数の経文旗がはためき、広場の真ん中に白い巨大なストゥーバがそそり立っている。4層の基壇の上に大きな半円球が乗り、その上に大きな目の描かれた尖塔が空に突き上げている。巡礼者たちが基壇の周りのマニ車を回しながらストゥーパを時計回りに廻っている。北側には寺院があり、巨大なマニ車が2台設置されている。この地点から基壇の上に登ることが出来る。登ってみると、ボダナートの街が一望できる。広場の周りは土産物屋やチベット仏教の各派の寺院が取り囲んでいる。また、チベットへの旅行を取り扱う旨表示した旅行社が目立つ。

 かつて、チベットとインドとの行き来が盛んであった頃、チベットからの巡礼者や商人は、行き帰りに必ずこのストゥーパに寄り、無事のヒマラヤ越えを祈り、あるいは感謝したという。また、1959年のチベット動乱によりネパールに逃れたチベットの難民の多くが、このストゥーパの周りに住みつき、今では周辺が一大チベット村になったとのことである。

 カトマンズに帰るのにひと苦労することになった。騒動はまだ続いていると見えて、カトマンズへ向うテンプーもバスもやってこない。タクシーも姿を現さない。困ったなぁと通りにたたずんでいたら、1台のテンプーがやって来た。わぁと、大勢の人が殺到する。何とか生存競争に打ち勝ち、乗り込む。幹線道路が閉鎖されているため、テンプーは巧みに細い路地を抜けながらカトマンズに向う。ところが、カトマンズの街は大渋滞、しかも、警官やパトカーが走り回り、街は何やら興奮状態にある。テンプーは路地から路地をたどって懸命に渋滞を抜けようとあがくが、一向に前進しない。そのうち、乗客と運転手が何か激しく言い争い、乗客全員が下車する。ここで運転打ち切りだという。と、言われてもここは一体どこなんだろう。さっぱり分からない。通りかかった大学生に、「Where is  here ? 」と地図を見せると、1点を指し示してくれた。30分ほど歩いてようやくG.H.に帰り着いた。

 翌日の新聞によると、昨日はある政治勢力がカトマンズ市内で大規模な示威行動を行ったらしい。現在、ネパールの政治情勢は極めて熱い。2005年2月、突如国王がクーデターを起し、国王独裁政権を樹立したが、国民の猛反発により、国内の政治情勢は混迷を極めた。その一方で、武装勢力であるマオイストはその支配地域をじわじわと広げ、国土の2/3を掌握するにいたる。2006年4月、議会政党勢力は、国民の激しい示威行動を背景に、マオイストと手を結び、国王から権力を奪取する。同時に、マオイストと停戦に合意する。現在、2007年6月半ば迄に実施される予定の制憲議会選挙を目指し、マオイストを含む各政党が勢力拡大に力を入れている。市内あちこちにはポスターが氾濫している。

 
 第十節 ネパール最大の聖地・パシュパティナート寺院

 3月8日(木)。今日はカトマンズ市内東部に建つパシュパティナート寺院を目指す。聖なる川・バグマティ川の辺に建つネパール最大のヒンズー教寺院である。また、インド亜大陸における4大ヒンズー教寺院の一つでもある。その創設は紀元前3世紀に遡ると言われる古刹でもある。朝、8時30分、G.H.を出発する。4〜5キロの距離だが歩いて行くことにする。王宮前まで来ると、珍しい光景に出あった。儀仗兵の騎馬隊と音楽隊の行進である。列を連ね、音楽を奏でながら宮殿の中へと行進していった。しかし、このような華やかな光景も近い将来見られなくなりそうである。国王から権力を奪取した議会政党とマオイストの連合政権は現在、王制廃止を検討中である。

 約1時間テクテク歩いて、ようやく目指す寺院に着いた。既に多くの参拝者で賑わっている。すぐに、一人の若者が日本語で話し掛けてきた。ガイドとして雇って欲しいという。断ると、「最近、日本人はちっとも雇ってくれない。せっかく一生懸命日本語を覚えたのに。これでは生活できない」とぼやく。少々かわいそうになる。

 パシュパティナート寺院はヒンズー教徒以外立ち入り禁止であった。インドでも同様であったが、多くのヒンズー教寺院は異教徒の参拝を拒否している。ずいぶん狭量な宗教である。その点、仏教寺院は、世界中どこでも、異教徒であるがゆえに参拝を拒否することはない。門から中を覗き込んだだけで、裏手のバグマティ川に行く。聖なる川のイメージとは裏腹に、乾期のためか、濁った水がわずかに流れているだけの汚い川であった。川岸は火葬場となっており、今しも2体の遺体が焼かれていた。辺りは異臭が漂う。

 対岸は木々に包まれた丘になっている。橋を渡り、長い石段を登る。点々と物乞いがおり、かなりしつこくバクシーシーを要求する。ヒンズー教国における物乞いは、単に慈悲を求める弱者ではない。相手に「徳を積ませてやる」という積極的な意味を持っている。丘の頂にはヴィシュワループ寺院があるがここも異教徒立ち入り禁止である。石段を反対側に下ると大きく蛇行してきたバグマティ川に再会する。ここにグヘシュワル寺院がある。のこのこ入って行ったら、係員が慌てて飛んできて立ち入り禁止を告げられた。川に沿って、少し進むとキラテシュワール寺院がある。ここは入場できた。大きなリンガ(男性器、シヴァ神の象徴)が祀られている。カイラスコットと呼ばれる高台に登ってみる。視界がよければマナスル山群が見えるとのことだが、視界の先は濃い春霞に閉ざされていた。

 帰路はさすがに疲れたので、テンプーに乗った。すると何と、日本人に出会った。しかも、ただの日本人ではない。若い比丘尼である。頭をまるめ、小豆色の衣を着ている。なかなかの美人である。聞けば、ネパールでチベット仏教を学んでいるとのこと。話していたら、突如、向かいの席のおばさんが、流暢な日本語で割り込んできた。一瞬驚く。聞けば、以前名古屋で働いていたとのこと。思わぬことに、狭いテンプーの中は日本語の世界になってしまった。おばさんは、私のテンプー代金まで払ってくれた。

 今日でネパールに入国して1週間になる。その間、カトマンズ盆地の中をあちこち、ローカルバスやテンプーといった、いたって庶民的な乗り物を利用して移動した。タメル地区には日本人を含め多くの外国人旅行者がいるが、これらの乗物の中でただの一人も外国人旅行者と会うことはなかった。カトマンズ市内にはタクシーがたくさん走っている。旅行者は皆タクシーを利用するのだろう。「本当のバックパッカーは私一人だ」と内心誇らしく思えた。
 夕方一人の日本人がチェックインした。聞けば、インドから逃げ帰ってきたという。「ひどいところですよ。あんなところにいたら人間不信になるばかり、予定変更してネパールに逃げてきました」。
 カトマンズ盆地の旅は今日まで。明日はバスでゴルカへ向う。
 

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