おじさんバックパッカーの一人旅   

ネパール、インドの旅 (2) 

  アンナプルナ山域トレッキング

2007年3月9日

      〜3月19日

 
 第3章 ネパールの天孫降臨の地・ゴルカ
 
 第一節 ゴルカへのバスの旅

 3月9日(金)。今日はカトマンズから西に旅立つ。向かうはネパールの天孫降臨の地・ゴルカである。カトマンズとポカラのほぼ中間に位置し、標高約1,200メートルの山上に発達した小さな街である。こんなところに行こうなどという旅行者は極めて少数派だろう。大多数の旅行者はカトマンズから直接ポカラに向かう。ポカラへなら飛行機もあるし、ツーリスト・バスもある。しかし、ゴルカへ寄るとなるとローカルバスで行くことになる。

 ゴルカはシャハ王朝(現王朝)発祥の地である。18世紀前半のネパールは24王国時代と言われ、各地に小王国が乱立していた。山上の小集落に拠るゴルカ王国もそのような小国の一つであった。ところが、1742年にプリトビナラヤン・シャハ王(〜1775)が即位するや、この王朝は急激に膨張を始める。周辺諸国を次々と征服し、ついには1768年、カトマンズ盆地に侵攻し、8世紀から続くネワール族のマッラ王朝系の3王国を攻め滅ぼすのである。そして、都をカトマンズに移し、シャハ王朝を開く。その後もさらに膨張を続け、現在のネパールの版図を越え、インド北部、チベットにまで勢力を伸す。現在のネパールという国家の骨格はこのシャハ王朝により作られたと言える。ゴルカと言う山中から出発して、国の中心であるカトマンズを占領し、そこを拠点に国内を統一する様は、日本神話の神武東征の話しと極めてよく似ている。しかしながら、250年間続いたこのシャハ王朝も現在風前の灯となっている。

 7時前にG.H.を出て、長距離バスが発着するニュー・バスパークに向かう。バスパークは街の北郊外にあるので、タクシーで行かざるを得ないが、外人旅行者は絶対にメーター料金では乗せてもらえない。釈然としないが、約束した金額で、指示した場所にちゃんと行くだけ由としなければならないか。ゴルカ行きバスの発車時刻は調べてないが、10時までは30分毎にあると聞いている。

 20分ほどで大きなバスパークに到着した。このバスパークは日本の援助で造られた。英語表示もなく、沢山あるチケット販売窓口のどこへ行ってよいやらーーー。一瞬立ち尽くしたが、すぐに男が寄ってきて、「どこへ行く」「ゴルカまで」「チケット窓口はあそこだ」と教えてくれた。10分後の7時20分発のチケットが得られた。TATA制のボロバスである。ザックは屋根に積み込まれた。

 バスは定時に出発した。これから約5時間のドライブである。座席は全て埋っている。一応指定席になっているが、発車後は実質自由席となる。早朝だというのに、既に道路はかなり渋滞している。カトマンズでは、車の排気ガスによる空気汚染が大きな社会問題になっている。市街地をノロノロ進む。人だかりがあればすぐに停車し、二人の車掌が客集めに奔走する。走っている時間より停まっている時間の方が長い。少々いらつく。郊外に出て、ようやくバスは順調に走りだした。緩やかに登っていくと、峠に達する。ここをタンコットと言うらしい。カトマンズ盆地を取り囲む山々の西の切れ目である。ここから、凄まじい下りとなる。高度差約1,000メートルはあるだろう。遥か下の谷底に向かって、つづら折りの坂道をぐんぐん下る。カトマンズ盆地の標高は1,400mもある。下りきったところでトイレ休憩、出発してから約2時間である。

 大きく開けた谷間を進む。景色は雄大である。山肌には高所まで段々畑が刻まれ、人家も「あれっ」と思うほど上部まで点在する。小さな集落を幾つも過ぎる。その度に乗り降りがある。袋詰めの大きな荷物を幾つも抱えた人が多いので、屋根に積んだり降ろしたり。意外に時間が掛かる。車窓を眺めていて気がついたことは、鬱蒼とした森がまったくないことである。山肌は全て人の手が入っている。大きな街を二つほど過ぎる。街並みに記された文字は全てネパール語文字なので、どこなのかさっぱり分からない。

 いつしかバスは谷筋を離れ、ヘアピンカーブを繰り返しながら山を登りだした。ゴルカは近そうである。やがてバスは尾根に達した。その時、左手彼方にあっと思う景色が現れた。大きな谷を隔てた向こう側の尾根の山頂直下に、街並みが見えるではないか。何であんな高いところに街がーーー。何とも不思議な景色である。バスは谷を大きく回り込み、高みを目指してさらに登っていく。街並みに入った。なおも急坂を登る。12時30分、街並みの中の小さな広場でバスは停まった。ゴルカ到着である。見上げれば、頭上に覆いかぶさるように立ちはだかる急斜面の頂にゴルカ王宮が小さく見える。反対側を見下ろせば、大きな谷の彼方に、春霞に霞んだ山並みが累々と重なっている。

 先ずは今晩の宿泊先を見つけなければならない。ザックを背負い、バスの登ってきた街並みの中の急な車道を下る。後で登り返さなければならないと思うと、下るのが怖い。この街で一番立派だという Hotel Gorkha Bisauni にチェックインする。1泊600RP 、ベランダのついた満足できる部屋である。

 
 第二節 ゴルカ王宮

 昼食後、何はともあれ王宮に行ってみることにする。急な車道を上り返して先ほどの広場に戻る。思わぬことに、上部へ続く車道を跨いでゲートが造られており、日章旗とネパール国旗が掲げられている。そして、ゲートには"MT.MANASLU  AND  NEPAL・JAPAN  DIPLOMATIC  RELATIONSHIP  GOLDEN  JUBILEE  GATE .  MAY  9th  1956-2006"の文字。マナスル登頂と日本ーネパール国交樹立50周年を祝すゲートである。1956年の日本隊によるマナスル初登頂は国中を沸き立たせた慶事であった。今でもよく覚えている。それにしても、ネパールのこんな片田舎で日章旗を見るとはーーー。何んとなく嬉しくなった。

 ゲートを潜り。一段登ったところに「下の王宮」がある。小広い庭を持った洋館風の建物である。ただし、門は堅く閉ざされ中には入れない。ゴルカには二つの王宮がある。これから向かう山頂の王宮と街中にある「下の王宮」である。おそらく、王様は普段はこの下の王宮で生活していたのだろう。下の王宮の前はちょっとしたバザールになっている。

 車道の通じているのもここまで。いよいよ本格的な登りとなる。石を敷き占めた階段が上部に向かって延々と続く。1歩1歩身体を引き上げる。この急な石段に沿って点々と家が続いている。学校帰りの子供が、重い荷を担いだおばさんが、ひょいひょいと私を追い越していく。自転車さえも通わぬこんな山上の生活はどんなものなのか。想像も出来ない。登るに従い、ゴルカの小さな街並みが眼下に広がる。下の宮殿から約1時間掛かってようやく宮殿に上り上げた。

 尾根上の小ピークに拠る宮殿はがっちりした石造りで、思ったより小さい。まさに要塞である。王宮という名前から受ける華やかさはない。おそらく「下の王宮が」生活の拠点、「上の王宮が」軍事の拠点であったのだろう。王宮は数人の兵士が警備していた。現王朝の故郷であり、祖霊の宿る地である。今なお特別な位置づけにあるのだろう。尾根上の小ピークだけに展望が素晴らしい。私の視線は自ずと北に向けられる。視界がよければ、目の前にマナスル山群が見えるはずである。しかし、深まった午後の春霞が視線の先を覆い隠している。マナスルは「日本の山」、特別な思いがある。是非、眺めてみたかったのだがーーー。山を下る。
 

 第4章 岳都・ポカラ

 第一節 ポカラへのバスの旅

 3月10日(土)。今日はバスでポカラへ向かう。昨日宿で聞くと、ポカラ行きのバスは朝6時と12時30分の1日2本とのこと。チケットを宿で手配してくれるとのことなので、少々遅いが、12時30分のバスを依頼しておいた。ゴルカの街は昨日全て歩き廻ってしまったので今日はやることもない。のんびり朝寝坊を楽しんでいたら、8時に突然ドアをノックされた。9時15分に臨時バスが出ることになったとの知らせである。慌てて支度をする。バスにはホテル前から乗れるとのこと、重荷を背負って広場までの急坂を登らないですむ。親切にも、バスが来るまでホテルの従業員が付き添ってくれた。Small Busと言っていたのでワゴン車かと思ったが、小型のボロバスであった。既に満席であったが、事前にチケットを手配してあったので、私の席は空けられていた。ザックは屋根に積み込まれた。

 山を下り、大きく開けた谷間の道を西に進む。集落ごとに乗客が増え、いつしか満員になった。幼児が乗ってきたので、膝の上に引き取るが、母親は知らん顔。街並みを幾つか過ぎるが、どことも分からない。乗客は頻繁に乗り降りし、最初から乗っているのは私一人である。いつしかバスは谷筋を離れ大きな盆地に入った。ポカラ盆地だと思うがよく分からない。どこまでものんびりした田園風景が続く。今日も春霞が濃く、ヒマラヤの峰々は姿を見せない。乗客は次第に減り、空席が目立つようになる。困ったことが生じた。既に3時間も走り続けているのだが、トイレ休憩がない。どうにも我慢が出来ず、車掌に頼んでバスを停めてもらった。

 1車線きりない怪しげな橋を渡ると街並みに入った。13時30分、ようやくポカラのシティー・バスパークに到着した。と、同時に一人の客引きにしつこく付きまとわれた。バスを降りた旅行者は私一人きりいないのだから。いずれにせよ、安宿街であるレイクサイドまで行かなければならない。勧誘に乗ってみることにする。牛の歩き廻るガタガタ道をしばらく走り、1軒のG.H.に着く。1泊350RP(約560円)だと言う部屋は満足できるものであったが、客引きの態度がどうも気にくわない。去ろうとすると後ろで、「300RP,250RPでもいい」と叫んでいたが。

 宿を求めて、あてもなく歩いていたら、1軒のG.H.の庭先から「部屋を見てみませんか」と、声がかかった。まぁ、見るだけ見てみるか。きれいな庭があり、部屋もかなりいい。500RPの言い値を350RPに値切ってチェックインする。New Solitary Lodgeといい、「地球の歩き方」にも載っていないG.H.であるが、夫婦と二人の従業員で切り回しているなかなか居心地のよいG.H.である。遅い昼食後、フェワ湖畔のメインストリートまで行ってみた。カトマンズのタメル地区には及ばないが、それでも旅行者用の店が街並みとなって続き、賑やかな通りであった。雨が来そうな空模様となったので慌てて帰る。すぐに夕立が来た。

 夕方、雨が止み、雲がどんどん去っていく。部屋の窓から覗くと、真っ白な山々が見えだしているではないか。カメラをもって屋上に駆け上がる。まさに、目と鼻の先に、雪をまとった鋭い岩峰が雲の合間から姿を現して来る。見つめるほどに、次第にその全貌を現す。まさに槍のような鋭角三角形の山容を空に突き上げているのは、紛うことなく、ポカラの象徴・マチャプチャレだ。その左奥にはアンナプルナ1峰も見えてきた。初めて仰ぐ8,000m峰である。アンナプルナ3峰、4峰、2峰も姿を現した。ただただ息をのんで見つめ続ける。やがて山々は夕日に赤く染まりだした。何という景色なんだ! 

 
 第二節 ポカラ探索

 3月11日(日)。朝、目を覚まし、ベッドから外を眺めると、薄明かりの中、アンナプルナが白く浮かび上がっている。ベッドの中から8,000m峰が見えるとはーーー。カメラをもって屋上に登る。やがて山々の頂が真っ白に輝きだした。荘厳な日の出の瞬間である。見とれるほどに輝きは次第に山腹へと移る。しかし、日が登るにつれ、山々は急速に輝きを失い、深い靄の中に姿を消していった。

 朝一番でオーナーにトレッキングの相談をする。すると、何と、自分が同行すると言い出した。何度も経験しているようなので、ガイド兼ポーターを頼むことにした。気心知れた人の方が私も安心である。コースはナヤプル→ティルケドゥンガ→ゴレパニ→プーンヒル→ゴレパニ→タダパニ→トルカ→フェディがよかろうと言うことになった。ガイドブックでは5泊6日コースとなっているが4泊5日で大丈夫とのことである。プーンヒルは3,198m、アンナプルナ連峰の展望台として夙に有名なところである。装備として寝袋と羽毛服が必要とのことなのでレンタルすることにする。3,000m以上は雪道となるのでトレッキングシューズが必要と言われたが、持参の運動靴で強行することにする。靴を借りるのは嫌である。出発は明後日、早速オーナーと知り合いの登山用具店に行き、装備を調える。以上で準備完了である。

 今日一日、貸自転車でポカラを探索する。多段変速の自転車を借りる。ネパール第二の都市であるポカラは二つの地区からなっている。一つはフェワ湖の東岸に広がる旅行者のための地区である。土産物屋、食堂、登山用具店などが軒を並べ、G.H.やホテルが建ち並ぶ。この地区は世界中から集まった旅行者でいつも賑わっている。もう一つは、その東に展開する、ポカラ本来の都市機能を有する中心部地区である。この地区はバスターミナル以外では旅行者の姿を見ることはほとんどない。

 先ずはフェワ湖畔の道を走る。フェワ湖はネパールで二番目に大きな湖で、マチャプチャレとともにポカラを代表する景色である。湖面に映るマチャプチャレは最高の景色であるが、今日は、春霞の中に山は隠れている。湖面には何艘かのボートが見られる。対岸の山の上には日本山妙法寺の真っ白なパゴダが見える。この地区は景色以外見るべきものもない。中心部地区に向かう。

 ポカラは交易都市として発達した街である。チベットとインドを結ぶ交易路の中間に位置し、チベットが中国に占領されるまでは、行き交う商隊で多いに賑わったという。現在でもポカラからカリ・ガンダキ(黒い川)を遡り、ジョムソンからムスタンを経てチベットへ続く街道(ジョムソン街道)は生きている。中心部の街並みの北側に、往時賑わったオールド・バザールがある。行ってみると、古びた煉瓦造りの建物が並び、往時の残り香が感じられる。その先の小高い丘の上にビンドゥバシニ寺院がある。北方を眺めると、春霞の中にうっすらとヒマラヤ連峰が浮かんでいる。境内では何組かの結婚式が行われていた。

 街の中心部に戻る。ネパール第二の都市だけにそれなりの賑わいがある。街中心部を流れるセティ川は一見の価値がある。幅5m程の小さな川だが、何と深さが20m以上ある。岩盤に深く彫られた細い溝の底を水が流れている。侵食の凄まじさが感じられる。ポカラ博物館に寄って、G.H.に帰る。ポカラの街は坂だらけで、多段変速自転車と言えども、かなり苦しかった。

 ポカラの街を最も特徴づけているものは「チョウタラ」である。2段に石積みした方形あるいは丸形の小さな塚で、かつて、行き交うボッカやロバに荷を積んだ商隊の休み場として使われた施設である。2段になっているのは背中の重い荷物を置くためである。塚にはインド菩提樹とベンガル菩提樹が茂り、心地よい木陰を造っている。このような施設が、辻辻に必ずある。現在においても、強い日差しを避けるよき休み場となっている。交易都市ポカラを象徴する施設である。

 
 第三節 サランコットの丘

 ポカラのレイクサイドからアンナプルナ連峰を眺めると、大きなゆったりした丘が立ちはだかっている。このため、余り北に寄ると、この丘のためにアンナプルナは隠されてしまう。いたって邪魔な丘である。しかし、逆にこの丘に登れば、遮るものもなく、アンナプルナの全貌を仰げる。標高1,592mのこの丘をサランコットの丘といい、ヒマラヤマを眺める第一級の展望台となっている。

 3月12日(月)、今日はこの丘に日の出を見に行く予定である。5時15分、ドアノックで起された。5時30分出発予定である。目覚まし時計がないので寝過ぎた。慌てて支度をする。外はまだ真っ暗である。星が出ていない。天気はよくなさそうである。オーナーのオートバイで出発する。夜明け前の寒さはさすがに厳しい。道はハゲチョロ舗装なので、後部座席はかなりしんどい。ネパールに来て感心したことが一つある。オートバイのドライバーが完璧にヘルメットをかぶっていることである。他のアジア諸国では考えられないことである。しかも、3人乗りなぞ見かけない。後部座席の私も確りヘルメットをかぶっている。

 ヘアピンカーブを繰り返しながらグイグイ登り、30分ほどで中腹の駐車場に着いた。山頂を目指して石段を登る。前後に幾つもの懐電の光が揺れる。次第に夜が白々と明けてくる。登山道には点々と茶店や土産物店があり、既に店を開けている。次第に明けてくる視界の先は雲が垂れ込め、山々を覆い隠している。期待した大展望は得られそうもない。登りは意外にきつく、息が切れる。

 30〜40分掛かって、山頂に達した。既に10名ほどの人々が先着していた。遮るもののない360度の視界が開けている。目は自ずと北方を見つめる。眼下に大きく谷が開け、その先にマチャプチャレが見える。ただし、山頂は雲の中だ。そのすぐ背後に見えるはずのアンナプルナ連峰は完全に雲に覆われている。せっかく早起きしてやってきたのに、残念至極である。それでも、寒さに震えて見つめるほどに、一瞬、マチャプチャレが全貌を現した。その鋭い矛先を曇り空に向かって突き上げている。慌ててシャッターを切る。振り返ると、ポカラの小さな街並みが眼下に広がり、その脇にフェワ湖が寄り添っている。東の空が次第にオレンジ色に染まり、雲の切れ目から太陽が顔を出した。ご来光である。山を下る。結局、今日は一日雨が降ったり止んだりの生憎の天気であった。

 オーナーの奥さんから話があり、「明日はオーナーの43歳の誕生日なので、朝、お祈りがある。出発が少し遅れるので了承して欲しい」とのこと。G.H.一家は熱心なヒンズー教徒である。毎朝晩、庭の隅で鈴を鳴らしながら、何やらお祈りをしている。夜、一家は誕生日祝いとかで外食に出かけていった。すると従業員のオッサンがにわかに元気になった。聞けば仏教徒だという。朝夕のお祈りは欠かしたことがないと自慢している。ルンビニにも2回巡礼に行った由。

 
 第5章 アンナプルナ・トレッキング

 第一節 ポカラ→ナヤプル→ティルケドゥンガ

 3月13日(火)。今日はいよいよトレッキングに出発する日である。朝4時、激しい雨音と雷鳴で目が覚めた。今日はダメかなぁと思いながら再び寝入る。7時に起きるも、相変わらず雨が激しい。オーナーに「どうするんだ」と聞くと、「止まなければ1日延期しよう」との答え。ヒンズー教の祭司がやってきて、一家は部屋に籠って何やら祭儀を行いだした。時々、ちりんちりんと鈴の音が聞こえる。いい具合に雨が止んできた。部屋での儀式が終わり、祭司が帰ったので、いざ出発と思ったら、今度は夫婦二人、庭で何やら鈴を鳴らし香を焚いて儀式を始めた。いい加減待ちくたびれてくる。雨は再び降りだした。二人はさらに近所の祠にお参りし、ようやく儀式が終わった。

 11時、待たせてあったタクシーで出発。セティ・ガンダキ(白い川)沿いの道を奥に進む。途中、ヒェンザには、大きなチベット人居住区がある。チベット動乱時に逃れてきた難民の造った村である。へんぽんと経文旗が翻っている。フェディを過ぎる。帰路はここへ下ってくる予定である。車は谷筋を離れてグイグイ登っていく。登りきると比較的大きな集落に出た。ノロノロ走るバスを追い越す。今度は山を下りだす。目指すナヤプルは意外に遠い。小1時間走り、ようやくトレッキング開始地点・ナヤプルに着いた。標高1,070m、小さいながらも街並みのある意外に大きな集落である。20頭程のロバが背中に大きな荷物を背負って、奥地に向かう準備をしている。まだ小雨の降る中、我々も準備を整える。

 私の装備はいたって簡素である。25リッターの小型ザックの中は、ヤッケ、雨具、ヘッドランプ、カメラ、洗面用具、トイレットペーパー、予備電池、薬、程度である。かさばる寝袋と羽毛服はオーナーに預けた。服装は、下着の上にカッターシャツとセーター、足回りは運動靴である。それに、オーナーから借りたストックを持っている。

 ちょうど正午、雨具を付けての出発である。モディ・コーラ(コーラは川の意)の左岸沿いの道を緩く下る。先ほどのロバの商隊が追い越していった。付き添っているのは二人だけ、ロバは一列縦隊で、黙々と進んでいく。ここから先は車道はない。全ての生活物資は人の背、ロバの背に頼ることになる。吊り橋でモディ・コーラを渡るとビレタンティの集落、川沿いに人家が密集している。ダラウンティ・コーラ沿いの道を緩く登っていく。道は平石が確り敷き占められ、実によく整備されている。自分たちの生活を支える命綱として村人が守り続けているのだろう。1時間ほど歩いてマタタンティにて昼食。雨もようやく止んだ。

 谷沿いの道を奥へ奥へと進む。周りの山肌は急な斜面にいたるまで段々畑である。まさに「耕して天に到る」である。そして、恐ろしく高所まで人家が点々と見られる。住人は一体どんな生活をしているのだろうか。先ほどのロバの商隊が川岸で休んでいた。ヒレに到着した。ここはもう標高1,475m、400m登ったことになる。上空は厚く雲が立ちこめ、山々の頂は見えない。

 16時30分、峡谷となったモディ・コーラの左岸にへばりついている小さな集落・ティルケドゥンガに到着。今晩の宿泊地である。同時に再び雨が降りだした。ここは標高1,540m、休むと寒い。ロッジは2階建ての長屋で、3畳ほどの個室が並んでいる。壁はベニア板1枚、室内はベッドが二つあるだけで、電灯もない。ベッドには布団、毛布の類いはない。トイレとシャワールームが室外にあるが、この寒い中、水シャワーを浴びる気にはとてもなれない。夕食後はやることもない。早々に寝る。

 
 第二節 ティルケドゥンガ→ゴレパニ

 3月14日(水)。激しい雨音に目が覚めた。時計を見ると4時。暗い気持ちで再び寝袋に潜り込む。7時起床、雨は相変わらず降り続いている。雨具を付けて8時出発。いきなりこのコース最大の難所である高度差約600mの大急登が待ちかまえている。谷底から見上げるばかりの急斜面が頭上に覆いかぶさるように立ちはだかっている。その急斜面にも点々と民家が見られるが、その脇に凄まじい崩壊の跡。昨年の11月に生じた地滑りで、数軒の民家が流されたらしい。

 怪しげな吊り橋でモディ・コーラを渡り、いよいよ大急登に挑む。平石を積み上げた階段が延々と続いている。何組かのパーティが前後する。雨が止んだ。雲がどんどん上昇していく。見えだした斜面最上部は真っ白に染まっている。上は雪だったようである。日ごろの運動不足もあり、さすがに苦しい。それにしても石を敷き占めた道は実によく整備されている。しかも一定の間隔を置いて、チョウタラが確り設けられている。休むのに実に便利である。約2時間で急斜面にへばりつくウレリの集落に着いた。ここはもう標高1,960mである。にわかに、霰が激しく降ってきた。慌てて雨具を付ける。昨日前後したロバの商隊が出発の準備をしている。昨日ここまで登ったのだろう。さらに1時間ほど頑張るとバンタンティの集落に着いた。昼食とする。

 深い樹林の中の登りとなった。深紅のシャクナゲが目立つ。大きな荷物を背負ったボッカ達が前後する。荷物は肩ではなく額で背負っている。彼らにとってチョウタラはなくてはならない休み場である。ナヤタンティの小さな集落を過ぎると、ついに雪が現れだした。同時に小雪も舞いだした。一瞬、樹林の隙間から明日登るプーンヒルのピークが見えた。雪で真っ白である。樹林の中の道は、急となり、緩くなって登り続ける。

 完全に雪道となった。周りを見渡しても運動靴で登っているトレッカーは私一人である。ただし、ボッカはサンダル履きであるがーーー。やがて前方が開け、大きなロッジが何軒も見えてきた。今日の終着地・ゴレパニである。最後の雪の急斜面を喘ぎ喘ぎ登りきり、一番上部のホテル・スノーランドに入る。ここは標高2,750m、一日で1,200メートル登ったことになる。我ながら今日は頑張った。ホテル・スノーランドは素晴らしいロッジであった。部屋は広くトイレとシャワーがついている。おまけにシャワーは何とホットシャワー。ただし、部屋には暖房がないので、零下の室温の中、裸になってシャワーを浴びるのはやはり大変である。

 ロッジ前の広い庭からの展望が素晴らしい。一日中降ったり止んだりしていた雨や雪も止み、雲がどんどん上昇して、目の前に真っ白なヒマラヤの高嶺が姿を現した。鋭い三角錐の山容を灰色の空に突き上げているのはアンナプルナサウス(7,219m)、その左奥にはアンナプルナ1峰(8,091m)、さらにその左にはニルギリ(7,061)のギザギザした鋸の刃のような山容が望める。山頂付近は雲がまとわりつき、なかなかすっきりした姿が望めないのは残念であるがーーー。明日に期待しよう。

 
 第三節 プーンヒルの日の出

 3月15日(木)。夜明け前の5時、真っ暗の中をヘッドランプを照らして出発する。プーンヒル(3,193m)山頂で日の出を迎えようという算段である。山頂まで約1時間の雪道の急登である。空には満天の星が輝いている。幸運なことに雲一つない。空気はピーン張りつめ、寒さは厳しい。前後に幾つもの懐電の光が揺れている。登るに従い懐電の光は薄れ、辺りがうっすらと明るくなってくる。それに従い、雪をかぶったヒマラヤのジャイアンツが黒々と姿を現す。展望を楽しむのは山頂に達してからだ。踏みだす足にも力が入り、登る速度は知らずに早まる。雪は凍りついていて潜ることはないので、何とか運動靴でも歩ける。シャクナゲの潅木の中をひたすら登り続けると、前方に真っ白なピークが見えてきた。目指すプーンヒルである。3,000m付近が森林限界。視界が一気に広がる。

 薄明かりの山頂に達した。山頂にはすでに10数人の先着がいた。後からも続々と登ってくる。山頂には展望用の櫓が建っている。しかし、登る必要はまったくない。360度の遮るもののない素晴らしい展望が開けている。日の出前の薄暗い空に、ヒマラヤの巨峰がニョキリニョキリと聳え立っている。しかも、ほんの谷一つ隔てた向こう側にだ。前山の向こう側などという、生ぬるい景色ではない。寒さも忘れ、唖然として立ち尽くす。

 今まで見えなかったダウラギリ(8,167m)が目に飛び込む。菱形を半切りにしたような独特の山容で、前面は大絶壁となっている。さすが8,000m峰、その迫力は他を圧している。その右には7,061mのニルギリが聳えるが、その右隣のどっしりした8000m峰、アンナプルナ1峰のために何だか小さく見える。そのアンナプルナ1峰を凌駕する迫力で目の前に聳え立つのがアンナプルナサウスである。さらにその右には鋭角三角形のマチャプチャレ(6993m)の姿が望めるが、距離が遠くなったせいか、ポカラで眺めるほどの迫力はない。

 ここで、大トラブルが発生した。何と、カメラが電池切れで作動しないのである。寒さのために、急激に性能低下を起してしまったらしい。予備電池も持参していないので、もはや絶望的である。この凄まじいばかりの景色は網膜に焼き付ける以外にない。東の空が茜色に染まりだした。待つほどの、山々の山頂部が白く輝きだす。そしてついに、一筋の光が山の向こうから放たれ、真っ赤な太陽が昇ってきた。ヒマラヤの日の出である。山頂に歓声が沸き上がる。

 日の出を見届け、一目散にロッジまで駆け降りる。そして、カメラの電池を取り換え、再びプーンヒルの中腹まで登り上げる。朝の光の中に白銀をきらめかす山々に夢中でシャッターを切り続ける。

 
 第四節 ゴレパニ→タダパニ

 9時出発。集落まで下り、小さな校庭を突っ切る。こんな山奥の小さな集落にも学校がある。これまで通過した小さな集落にも学校があった。内戦状態にある貧しい小国・ネパールではあるが、国家の未来を託す子供たちへの教育は聖域として守られている。この辺りはマオイスト(毛沢東主義共産党)の支配地域である。今日あたり、マオイストの検問に出会い、入山料と称する税金を徴収されることになるだろう。この山域に入山するには、政府の入山許可証が必要であり、既に出発前に2,000RPもの金額を政府機関に納めてある。従って二重に入山料を支払うことになる。ただし、マオイストの支配が強化されることにより治安が安定し、一時頻発した山賊の襲撃はなくなったといわれる。マオイストが外人トレッカーに危害を加えることはない。

 東に続く雪の尾根道を緩やかに登っていく。周りは一面のシャクナゲの森である。深紅の花がちょうど満開を迎えている。森林限界を超え、さらに雪道をたどると小ピークに達した。名も無いピークだが、展望は抜群である。真っ青に晴れ渡った空にダウラギリがすっくと聳え立っている。まさに王者の風格である。その右にはニルギリ、アンナブルナ1峰も望まれる。雪面に腰を降ろし、天下の絶景に見とれる。この地点も標高は3,200m程度ある。

 緩く下って、鬱蒼としたシャクナゲの森の中を進む。実に気持ちのよい道である。木々の合間からマチャプチャレがちらりちらりと見える。デウラリの小さな集落に着く。ここはまだ2,990mの標高がある。ここからルートは一変して谷底に向かっての450mもの一気の下りとなる。雪道の急な下り、どうにも足場がとりにくい。先行パーティが苦労しながらノロノロ下っている。しかし、この下りをサンダル履きのポーターが重荷を背負って駆けるように下っていく。私も負けずに駆け下る。我がガイドは遥か後方に置き去りである。谷に下りきると雪は消え、バンタンティの集落に着く。10分ほど待つと、ようやくガイドが追いついた。

 昼食後、緩やかな巻き道をしばらく進み、いったん谷に下る。急坂を少し登り返すと、今晩の泊まり場・タダパニに到着した。まだ3時前である。と同時に、霰混じりの雪が激しく降ってきた。北側に大きく展望が開けているのだが、もはや何も見えない。宿の人の話では、降雪のためアンナプルナ・ベースキャンプへのルートが閉鎖され、多くのトレッカーが予定を変更してここタダパニへ来たとのこと。ここ数日、アンナプルナ山域全体が天候不順のようである。

 ロッジの部屋はわずか2畳程と非常に狭く、電気もつかず寒い。宿泊者は自ずと唯一暖房と電灯のある食堂に集まってくる。しかし、日本人は誰もいない。ポカラの街には日本人が溢れていたのに、山中では未だ一人も会わない。

 
 第五節 タダパニ→トルカ

 3月16日(金)。外の人声に目を覚ますと、夜が白々と明け掛けている。外に出てみると、わずかな薄明かりの中に、ヒマラヤ連山が黒々と浮かび上がっているではないか。雲一つない晴天である。各小屋からも続々とトレッカー達が出てくる。見つめるほどに山々はその輪郭を明らかにしてくる。やがて山頂付近が白く輝きだした。目の前に聳え立っているのはアンナプルナサウス(7219m)である。山頂付近に薄い雲をまとい、右側のヒウンチュリ(6441m)へ緩やかな吊り尾根を掛けている。何とも格好いい。そのさらに右側には、マチャプチャレの鋭峰が鋭く天を突き刺している。山頂はその「魚の尾」を意味する山名通り、双耳峰になっているのがはっきり見て取れる。さらに山並みは小さくなりながら右手方向にどこまでも続いている。ふと思いついて、そばにいた他人のガイドに、「マナスルは見えるか」と聞いてみた。彼は遥か彼方の双耳峰を指さした。マナスルが見えたのである。ついにマナスルを見た! 嬉しくなってしまった。やがて東の空がオレンジ色に染まり、ちょうどマナスルの上から太陽が顔を出した。

 8時出発。樹林の中の緩やかな道を進む。かつて、このあたりが頻繁に山賊の出没したところである。ポカラで買ったトレッキング地図にも"Group Trekking Suggested"と記されている。時々、木々の間から、アンナプルナサウスとマチャプチャレが見える。途中、山中初めて一人の日本人と出会った。若い男が日本語ガイドを伴っている。英語のガイドは12ドル/日程度だが、日本語ガイドは15ドル/日ほどする。我がガイドは日本語を話せないが、英語は私よりよほどうまい。

 緩やかに下っていくと、次第に辺りが開け、大きな村に到着した。ガンドルンである。モディ・コーラの右岸の山上に発達したグルン族の村である。アンナプルナ山群に深く食い込んでいるモディ。コーラは雄大な谷となって眼下遥か下を流れている。標高差約800mの急な斜面は一面に段々畑である。対岸の広大な山肌も遥か上部まで段々畑で、中腹に点々と集落が見られる。その上空にはアンナプルナサウスが大きく大きく立ちはだかっている。茶店でひと休みしながら、いかにもネパールらしいこの雄大な景色に見とれる。

 ルートはここから谷底まで一気に下って、対岸中腹に見える集落まで登り返すことになる。800m下って500mの登りである。思わず「橋を架けろ! 」と怒鳴ると、我がガイドが「日本の外務省に頼んでよ」と相づちを打つ。男が寄ってきて「ハッパはいらないか」と小声で勧誘する。おそらく、ネパールは東南アジア、南アジアの中で、未だに麻薬に対しおおらかな唯一の国だろう。急な山腹を足早に下る。道は平石を積み重ね、階段状に確り整備されている。この急坂を重荷を背負ったロバの群れが上ってくる。あらゆる生活物資はロバと人の背で運ばれるのだ。見ていると、さすがのロバもこの急坂は一気には登れない。時々立ち止まってはひと息入れている。

 斜面は一面に段々畑であるが、人家も点在している。わずかな緩斜面には小学校と中学校があった。校庭はバスケットコート1面である。子供たちは毎日、この急斜面を上り下りして通学するのだろう。もっとも、ネパールの人々は上下の移動をまったく苦にしないようだ。平地を歩くのと同じスピードですたすたと登っていく。下りに入ると我がガイドは遅れ気味になる。もっとも私のスピードが早すぎるのかも知れないが。足が棒になるころ、ようやく谷底に下り着いた。ロッジで昼食とする。陽が燦々と射し暖かい。

 激流を吊り橋で渡り、今度は500mの登りである。大きな荷物を担いだボッカとこれまた50kだという重荷を担いだ卵売りと前後する。いい間隔でチョウタラがある。彼らにとって必要不可欠の施設である。平地に一度荷物を下ろしてしまったら、再び背負い上げることは出来ない。登りに入ると我がガイドは元気がよい。ようやくランドルンの大きな集落に着いた。ここもグルン族の集落である。卵売りはロッジを一軒一軒訪ねて卵を売っていく。今日の行程は峠を越えた。茶店で長期休憩とする。

 山腹の中腹に刻まれた水平な道を行く。上下は段々畑で点々と人家がある。トレッカーの姿を見ると子供たちが寄ってきて飴をねだる。おかしな習慣が出来てしまったものだ。景色は実に雄大である。振り返るとアンナプルナサウスが相変わらず青空を背に大きく聳え立っている。最後の急な階段を登りきると、今日の泊まり場・トルカの集落に着いた。"International Guest Hpuse"と、たいそうな名前のついたロッジにチェックインする。今日の宿泊者は我々二人だけである。

 
 第六節 トルカ→フェディ→ポカラ

 3月17日(土)。朝、部屋の扉を開けると、目の前に大きなアンナプルナサウスが朝日を浴びて輝いていた。いよいよトレッキング最終日である。ガイドブックではさらにダンプスで1泊するようになっているが、我々は一気にポカラを目指す。私は、「今日の夕食はポカラで日本食だぁ」と張り切っている。タダパニのロッジで出会った香港からのトレッカーに日本料理屋を教えてもらった。

 7時出発、山腹の巻き道を進む。ベリカルカの小さな集落を過ぎ、さらに進むと、道は一転して、尾根へ向かって約400mの一直線の急登となる。このトレッキング最後の難所である。喘ぎ喘ぎ登る。欧米人の20人もの団体とすれ違う。1時間も頑張ると茶屋のある峠に達した。ビチュク・デオラリである。標高2,100mある。アンナプルナサウスが青空の中に浮かんでいる。今日は空気の透明度がいい。ひと休みの後、尾根道を緩やかに下っていく。ポタナの集落は素通り、緩やかに左にカーブする尾根の先に、ダンプスの集落が見える。今日の我々の足取りはいたって快調である。「昼飯はポカラだ」と冗談がでる。

 続いてきた樹林が尽き、緩やかな尾根は畑と人家に変わる。左側に大きく展望が開け、マチャプチャレとアンナプルナ4峰と2峰が青空を背に浮かぶがごとく聳えている。ここから見るマチャプチャレは実に格好いい。6,993mのこの山は未だ未踏峰である。聖山と崇められており、政府は登山許可を与えないでいる。アンナプルナ4峰と2峰は美しい吊り尾根で結ばれている。我々のピッチはますます速まる。ついにダンプスの集落に達した。緩やかな尾根上に発達した大きな村である。バスはないもののここまでポカラから車道が通じている。そのため日帰り、または1泊の観光客が訪れる。村からは、ヒマラヤの大展望が得られ、洒落たロッジも多い。そういえば、ついにマオイストの検問に会わなかった。少々残念な気もするがーーー。

 まだ11時である。半ば冗談で言っていた「昼飯はポカラ」が現実味を帯びてきた。一気にフェディに下ることにする。我がガイドは携帯電話で帰りのタクシーを手配し、G.H.に昼食の準備を指示する。トレッキング最後の展望をちらりと眺め、フェディへの下山路に踏み込む。ここから先はもうヒマラヤは見えない。ダンプスの標高1650m、フェディの標高が1130mであるから500mの急降下である。遥か下にバス道路が見える。そこに向かって石段が延々と続いている。まだ学校前と思える幼い女の子二人が、我々といっしょに石段を下る。下のフェディの子らしい。毎日この急坂を上り下りして遊んでいるのだろう。いい加減足がガクガクしてきたころ、ついにフェディに下り着いた。手配したタクシーが待っていた。ポカラのG.H.には12時半に帰り着いた。無事の帰還である。

 これでミッションの一つ目を無事に果たした。明日一日休養して、明後日インドに向け旅立とう。

 
 第6章 パルパ王国の古都・タンセン

 第一節 タンセンへのバスの旅

 3月19日(月)。ヒマラヤトレッキングを終え、いよいよインドに向け南に旅立つ。ただし、インド入国前に、途中、タンセン、ルンビニという二つの街に寄るつもりである。まずはポカラの南120キロにあるタンセンを目指す。パルパ王国の古都である。標高1350メートルの山上に拠る街で、今なお、中世の街並みを色濃く残していると言われる。

 タンセンを都とするパルパ王国が成立したのは15世紀のことである。16世紀には強大化し、北はポカラ盆地、南はインドのゴーラクプルまで支配下に納めた。18世紀にシャハ王朝(現王朝)がカトマンズを拠点としてネパール全土を統一していくのであるが、これに最後まで抵抗したのがパルパ王国であった。

 タンセンはポカラからインドへ通じる主要国道から外れているため、ポカラからの直通バスはないと思ったが、G.H.のオーナーが調べてくれた結果、一日一本直通バスがあることが分かった。発車時刻は朝7時、オーナーがシティ・バスパークまでバイクで送ってくれることになった。6時30分、大きなザックを背負ってG.H.を出る。これから酷暑のインドへ行くというのに、ザックの中は冬山装備まで入っている。バスパークは大きく、多くのバスが場外まで溢れている。一人では多いにまごつくところであった。オーナーがチケット購入からバスの指定された座席に座るまで面倒を見てくれた。多いに感謝する。またの再会を約して別れる。いいG.H.であった。

 バスは相当なボロバスである。定刻5分前にわずか3人の乗客を乗せて発車したが、表通りで10分間も停車し、例によって二人の車掌が乗客集めに奔走する。ようやく半数の座席が埋ったところで発車。市街地を抜け、ポカラ盆地を囲む山々の南の切れ目を目指してグイグイ坂を登っていく。ポカラの街並みが眼下に広がる。視界さえよければその背後にアンナブルナ連峰が見えるのだろうが、今日は生憎空気が濁っている。

 走っている道路は"SHIDDHARTHA High WAY"と名付けられたポカラとインドを結ぶネパール屈指の主要国道である。しかし、HIGH WAY とは名ばかりで、舗装はされているものの、カーブの連続する田舎道である。それでも、すれ違う車は多い。小さな集落を幾つも過ぎ、約1時間半走って、街らしい街に入る。多分Putalibazarだろう。繁華街で停車し15分の休憩だという。トイレもなく、タチションする場所を探すのに苦労する。さらに山間を走り続け、次の街でも何やら長時間停車。この調子ではタンセンまで大分掛かりそうである。乗客は増えたり減ったり、満席になることはない。それでも数人は屋根の上に乗っている。

 さらに1時間半走って3つ目の街の繁華街で15分休憩。Walingの街だろうか。道は尾根から尾根をたどる感じでどこまでも山村風景が続く。さらに今度は山の中の広場で休憩。おばちゃん達も道端で用をたしている。既に時刻は正午である。車掌にあと何時間掛かると聞くと、2時間との答え。私は朝飯も昼飯も食べていない。露店でビスケットを買って頬張る。

 大きな川の上部を高巻くように進む。一体いつになったら着くことやら。南下するに従い人々の顔つきが明らかに変わった。モンゴロイド系の顔は姿を消し、コーカソイド系の顔一色となる。ただし色は皆黒い。ようするにインド人の顔である。
 バスはヘアピンカーブを繰り返して、グイグイ山を登りだした。タンセンは近そうである。ようやく街並みが現れた。13時30分、6時間半のドライブがようやく終わった。タンセン着である。ただし街の中心はさらに上部、大きなザックを背負って、ヒーヒーいいながら坂道を上る。Hotel White Lakeにチェックインしてやれやれである。1泊400ルピーである。

 
 第二節 古都・タンセン探索

 遅い昼飯を食べ、タンセンの街に飛びだす。先ず目指すは街の中心にある旧王宮である。10分ほど街並みの中の坂を登ると目的地に着いた。しかし、王宮を王宮と認識するまでにしばしの時間が必要であった。広場を前に、白い漆喰の壁の3階建ての廃虚があった。広場は廃車置き場となり、建物の中は建築廃材等のゴミ捨て場と化していた。この広場が王宮広場、この白い建物が王宮であるとはーーー。暗然たる気持ちになる。この街は、この街の住民は、一体何を考えているのだろう。自らの歴史に、自分たちの祖先に、何の愛着も、何の誇りも感じないのだろうか。何と情けないことか。嫌な街だ。せっかくボロバスに揺られてやってきたというのにーーー。

 王宮の北側には木彫りの施された正門も残されていた。その前のちょっとした広場にはシタル・パティ(涼しい休み場)と呼ばれる白い八角形の建物があり、老人たちが所在なさげに座り込んでいた。街の中を少し歩き廻ってみる。石畳の狭い道が縦横に走り、古い街並みには古都の面影がある。しかし、街は到るところものすごい急坂である。この街での生活はどんなものなのか。少なくても私はご免である。

 タンセン最大のヒンズー教寺院であるナラヤン寺院に行ってみる。1806年の創設で、3層の屋根を持つ美しい寺院であった。寺院前の沐浴池では女たちが洗濯に余念がない。他に行くところもないので、街の裏手に聳えるスリナガールの丘に登ってみた。標高1659m、全山松林に覆われている。視界さえよければ、北にヒマラヤ連山、南はインドまで見渡せるとのことだが、全ての景色は春霞の中であった。

 タバコを買った。ところがお釣りが足らない。その旨店のおばさんに言うが、これでいいのだとのそぶり。しばらくやり取りしたが、諦めてホテルに戻った。あとで確認してみたら、お釣りにインド・ルピーが混ざっている。インドルピーはネパールルピーより1.6倍ほど価値がある。従ってお釣りは合っていたのだ。インドルピーが流通しているとは思わなかった。この地が、もうインドと目と鼻の先であることを実感した。

 明日は、仏陀誕生の地・ルンビニに向かう。

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