おじさんバックパッカーの一人旅   

ネパール、インドの旅 (3) 

  仏陀生誕の地と入滅の地

2007年3月20日

      〜3月23日

 
 第7章 仏陀生誕の地・ルンビニ

 第一節 タンセンからルンビニへ

 3月20日(火)。今日はルンビニを目指す。言わずと知れた仏陀生誕の地である。ブッダガヤ(仏陀成道の地)、サールナート(仏陀初転法輪の地)、クシナガル(仏陀入滅の地)とともに仏教の4大聖地の一つである。この4大聖地の中でルンビニだけがネパール領内にある。ここまでやって来て素通りするわけには行かない。ホテルでルンビニへの行き方を聞くと、「ブトワル行きバスに乗り、終点ブトワルでバイラワ行きに乗り換える。さらにバイラワからルンビニ行きバスに乗る。ブトワル行きのバスは1時間に1本程度ある」とのことである。

 7時過ぎホテルを出発、急坂を下ってバスパークへ行く。バスはすぐにわかった。7時30分発とのことなので、しばらく待つと、「乗合いジープが先に出るので、そっちに乗れ。料金は同じだ」との指示。乗合いジープなるものに初めて乗った。10人乗りの座席に14人も詰め込んで出発。ヘアピンカーブを繰り返しながら山を下る。身動きできないどころか、圧迫されて骨が痛い。SHIDDHARTHA Highwayまで下り、さらに南に向け下り続ける。途中、道端でトイレ休憩、全員並んでタチションである。やがて大きな川に行きあう。山並みは次第に遠のき、ついに平野に出た。タライ平原である。ヒマラヤから続く山間部が終わり、北インドに続く広大な平原に下り立ったのだ。窓から吹き込む風に、明らかな気温の違いが感じられる。

 大きな街に入った。ブトワルである。どこが中心部ともはっきりしない、だだっ広く焦点の定まらない街である。8時30分、ジープは街を貫く大通りの道端で停まった。ここが終点だという。大通りは多くの車とサイクルリキシャで混雑しており、その合間を牛が歩き廻っている。サイクルリキシャは今までたどってきた山間部の街では見掛けなかった。このことからも、平原の街にやって来たことが実感できる。

 しかし、ちょっと困った。当然、バスパークに到着し、そこでバイワラ行きのバスを乗り換えればいいと思っていたのだが。道端にはあちこちバスやミニバス、ワゴン車などが客待ちしている。この街にはバスパークなどなく、各方面に行くバスやミニバスは街のあちこちからテンデンバラバラに発着している気配である。ジープでいっしょであった若者に助けを求めると、親切にも100メートルほど先の道端で客待ちしていたミニバスに連れていってくれた。彼の英語はものすごい巻き舌で全然聞き取れない。本人は米国仕込みだと自慢していたがーーー。さすがに暑い。Tシャツ1枚になる。タンセンではセーターまで着ていたのだが。

 9時15分、ミニバスは南に向かって出発した。しかし、ここでも人込さえあればバスは停まり、車掌が客集めに奔走する。次第にバスは込みだし、いつしか超満員になった。女子供も乗ってくるが、ネパールでは席が譲られることはない。スリランカやバングラディシュでは必ず席が譲られたものだがーーー。約1時間走ると街並みに入った。仏陀の像の建つ大きな三叉路に達すると、車掌が、「ルンビニへ行くならここで降りろ。バスは向こうだ」と西に向かう道路の端を指さす。乗り換えはバスパークでと思っていたがーーー。慌てて降りる。

 ここはバイラワの街の北側である。もう、インド国境までわずか4キロの地点である。教えられた路上に1台のバスが停まっていた。確認するとルンビニに行くという。ひと安心であるが、このバスが凄まじい。床は鉄板剥きだし、ボディーもあちこち鉄板がめくれ上がっている。ドアはない。ボロなどという程度を遥かに越えている。ずいぶんアジアを旅したが、これほどのぽんこつバスは見たことがない。10時30分、バスが動きだした。動くのが不思議である。

 麦畑の中の田舎道をバスはノロノロと進む。この田園風景は仏陀の時代と余り変わっていないのだろう。大きな袋詰めの荷物を持った人々が乗ったり降りたり。もちろん外国人は私一人である。50分ほど走り、小さな集落に差し掛ると、隣の若者が「ここがルンビニだよ」と教えてくれた。慌てて降りる。リキシャワラ(リキシャの運転手)もゲストハウスの客引きも寄ってこない。ザックを背負い集落の中に入る。2〜3軒の雑貨屋があるだけの小さな小さな集落である。牛がのそのそ道を歩いている。それでもゲストハウスが3軒あった。どこにしようか道の真ん中にたたずんでいたら、玄関先にいた老人が手招きするので、そのゲストハウスにチェックインする。1泊350RPである。何とか無事にルンビニに到着することが出来た。
 

 第二節 マーヤー聖堂参拝

 今となってはその正確な年月は知る由もないが(前463年、前560年などの説がある)、今から約2,500年前、この地で一人の男児が誕生した。後に仏陀となるシャカ族の王子ゴータマ・シッダールタである。父シュッドーダナはカビラヴァストゥを都とするシャカ族の王である。母マーヤー夫人は隣国コーリヤ国の執政の娘である。月満ちたマーヤー夫人は実家で出産するため故郷コーリヤ国に赴く途中であった。このルンビニの地に差し掛ったおり、咲き誇るサーラ樹(沙羅双樹)の花に見とれ、垂れ下がる枝をつかんだその時、その右脇腹から男児が誕生した。男児は即座に4方へ7歩歩み、「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝えられている。

 仏陀生誕の地ルンビニは仏教4大聖地の一つであり、古来多くの巡礼者を迎えている。前249年にはマウリア帝国の王・アショーカが自らこの地を参拝し、記念に石柱を建立している。遥か中国からも、5世紀初頭には法顕が、636年には玄奘三蔵が巡礼している。しかしこの聖地も、13世紀以降インド亜大陸を席巻したイスラム勢力によって破壊され、廃虚と化してしまうのである。

 1967年、仏教国ビルマ(現ミャンマー)出身であり、自らも熱心な仏教徒であった第3代国連事務総長ウ・タントは、視察したルンビニの現状を憂い、国連並びに関係国にルンビニの復興整備を依頼した。これを受け、国連並びに関係13ヶ国は資金を供出し、聖地の整備に乗りだした。この復興整備のマスタープランは日本の丹下健三が立案した。ルンビニ園としての整備対象地域は7.68平方キロメートルと広大で、聖園地区、寺院地区、新ルンビニ村の3地域に分かれている。整備復興事業は現在も続いていおり、1997年には世界遺産に認定された。

 昼食を済ますと、すぐにルンビニ園に向かった。ゲートを潜り、園内に入る。一本の道が真っすぐマーヤー聖堂に向かって伸びている。両側は手入れの行き届いた雑木林である。園内へは自転車とサイクルリキシャ以外の車の乗り入れは許されていない。寄ってきた女の物乞いが、いきなり「サワディ カー」とタイ語で話し掛けてきた。これにはびっくりした。タイ人と思ったのだろう。確かに、周りにはタイからの巡礼者が多く見られる。経済発展著しいタイはようやく海外旅行の時代を迎えつつある。熱心な仏教国タイにおいて、団体旅行が先ず向かうのは仏教の聖地巡礼なのだろう。

 15分も歩くと、並び立つチベット寺とネパール寺に行き当たる。その間の細道を抜けると、目の前に朱色の建物が現れた。この聖地の核心部・マーヤー聖堂である。色とりどりの経文旗がその周りを取り囲んでいる。チケットを購入して、柵で囲まれた聖堂敷地内に入る。芝生で覆われた広場にはレンガの基礎石が露出している。紀元前3世紀から7世紀に掛けて建設された建物の跡である。広場の中央に立つのが(新)マーヤー聖堂である。ガイドブックでは白い建物となっているが、今、目の前にする建物は最近塗り替えられたらしく朱色である。朱色は仏教における聖なる色、チベット仏教僧の袈裟の色にもなっている。

 履物を脱ぎ、マーヤー聖堂に入る。この建物は2003年に建てられた新しい聖堂である。正確に言えば、聖堂というより、古代の聖堂跡を覆い保護する建物に過ぎない。内部は発掘された古代の聖堂跡がレンガの基礎石だけの姿で保存されている。その遺跡の中央部に、この地で発掘された仏陀誕生を描いた石像が飾られている。しかし、石像に刻まれたマーヤー夫人や仏陀の顔は完全に削り取られている。15世紀以降この地を支配したイスラム教徒の仕業である。その脇の地中に、ガラスケースに入った1枚の石版が置かれている。"Marker Stone   The Exact Birth Place of Buddha"の説明文が添えられている。1992年から行われた大規模な発掘調査により、この石がマーヤー聖堂の真下から発見された。このことによって、この地が仏陀生誕の地である動かぬ証拠となった。

 マーヤー聖堂のすぐ脇に、金網で囲まれた1本の石柱が立っている。かの有名なアショーカ王の石柱である。この石柱は、1896年、この地を発掘していたドイツ人の考古学者フューラーによって発見された。この発見により、仏陀が実在の人物であり、この地が仏陀の誕生地ルンビニであることが正式に確認された。馬像があったと言われる石柱最上部は失われているが、中央部分にはブラフミー語で「即位20年の年に、仏陀生誕のこの地を巡礼し、記念にこの石柱を建てる。この地の住民の租税を免除する」旨の言葉が刻まれている。

 アショーカ王(在位 前268年頃〜前232年頃)はマウリヤ王朝第3代の王であり、初めてインド亜大陸を統一した王として、そしてまた、仏教を篤く守護した王としても知られている。彼はインド各地の仏跡に巡礼し、そこに記念の石柱を立てた。現在、各地に残るアショーカ王の石柱は仏教の歴史を知る上でに欠かすことのできない資料である。

 マーヤー聖堂の南側に沐浴池がある。プスカリニ池である。仏陀の誕生の際の産湯に使われたと伝えられている。その岸辺に大きな菩提樹が影を池に写している。樹には何匹かのリスが住み着いていた。その下で、おそろいの真っ白な服に身を包んだスリランカからの20人ほどの巡礼団が、僧侶の説明を熱心に聞いている。私は木陰のベンチに腰を下ろし、マーヤー聖堂を見つめ続ける。数々の伝説に彩られているが、今から2,500年前に、この地で後に仏陀となる一人の男児が生まれたことは史実である。彼の説いた教えは、時空を越えて遥か日本にまで伝えられた。そして、世界の歴史に、人々の人生に、多大な影響を与えた。今でも世界中で約5億人がその教えに帰依している。何と壮大な時空の流れであろうか。いつしか巡礼団も去り、周りには誰もいなくなった。何やら仏陀と二人きりで向きあっているような、不思議な気持ちとなった。「仏陀ーーー。ついにここまでやって来たよ」。私は小さく仏陀にささやいてみた。

 
 第三節 ルンビニ園巡礼

 マーヤー聖堂を去り、北側の寺院地区に向かう。周りは未整備の荒れ地となっている。聖園地区を半円状に囲む水路を横切ると北へ向かって一直線に伸びる水路の岸に出る。その辺に「平和の火」が静かに燃え続けていた。水路の遥か彼方には日本山妙法寺の仏塔が見える。水路の両岸に各国の寺院が点在しているのであるが、このルンビニ園は思った以上に広大である。とても歩いて巡ることは出来そうもない。改めて自転車で回ることにしよう。いったんG.H.に戻る。

 自転車を借り、新ルンビニ村にあるルンビニ博物館を目指す。ルンビニ園の外周に沿った街道を進む。午後の日差しがまともに照りつけ、暑い。ここはタライ平原の真っただ中である。右側はどこまでも麦畑が続く。左側はルンビニ園の雑木林である。30分もペタルを踏み続けると、目指す博物館に着いた。実に近代的な洒落た建物が二つ並んで建っている。博物館と図書館である。ところが何と! 今日火曜日は休館日、がっくりである。

 仕方がないので、近くの日本山妙法寺に行ってみる。ティラウラコットへ続く街道を横切り、砂利道にハンドルを取られながら10分も進むと、白い巨大な仏塔に到着した。日本山妙法寺は日蓮宗の一派で、平和活動を積極的に行う教団として知られている。また、世界各地に仏塔を建設する活動を進めている。その仏塔をポカラでも眺めたし、この後インドのブバネーシュワルでも眺めた。

 再び自転車を延々と漕いで、寺院地区へ行く。どうもこのルンビニ園は広大すぎて、建設整備を持て余して感じがする。到るところ開発しかけの荒れ地が広がり、道路は全て荒れた砂利道である。一部寺院の建設を除いて、工事を進めている気配もない。一体いつになったら完成することやら。広大な園内は公的交通機関もなく、移動はサイクルリキシャか自転車を利用するしかない。

 先ずはネパール尼僧院に寄ってみる。ネパールはヒンズー教を国教とする国で、仏教徒の割合は10%程度である。境内ではかわいらしい尼さんが修業に励んでいた。その隣がミャンマー寺である。寺院はなく、金色に輝く仏塔が建っている。仏塔の周りにはミャンマー独特の8曜日の祭壇が設けられている。誕生日の曜日によって、各々の守り神が決まる。私の神様、月曜日の虎にお祈りして、さらに奥へ進む。

 インド寺を過ぎると、一番奥にタイ寺があった。重層屋根を持つ典型的なタイ寺院建築であるが、建物全体が真っ白に塗られている。既に時刻は17時を過ぎており、境内に人影はない。タイの寺院は勝手知っている。かまわず本堂に上がろうとすると、一人の若い修行僧が現れ、案内してくれた。本尊の前に座り込む。本尊は意外にも生まれたばかりの赤ちゃん仏陀である。伝承に基づき天と地を指さしている。実にかわいい。いかにもルンビニらしくほほ笑ましい。しばしの間ぼんやりと本尊を見つめ続ける。何か心が洗われる。修行僧もじっと傍らに控えている。礼を言って去ろうとすると、資料館があるので案内するという。彼はネパー人でこの寺で仏教修業をしているとのこと。片言のタイ語を話す。タイ語での会話となった。彼はここへ泊まっていけという。宿坊に宿泊可能らしい。最初から知っていればそうしたのだがーーー。丁寧にお礼を言って去る。

 泊まっているG.H.(Lumbini Village Lodge)は3世代での家族運営。実に居心地がよい。中学生と小学生の男の子が一生懸命手伝いをする。、今日も夕食はローソクの下である。ネパールではほぼ毎日、18時から21時までの一番肝心な時間帯に停電する。ヒマラヤが控え、水力は豊富だと思うのだが、電力不足が深刻らしい。同じ地形のブータンでは盛んに水力発電を行っており、余った電力をインドに輸出し、外貨を稼いでいる。ネパールの政治がいかに機能していないかの証拠であろう。日暮れとともに猛烈に蚊が襲ってきた。カトマンズ到着以来、昨日まではまったく蚊など見かけなかったが。タライ平原は蚊の群生地として知られている。ジャングルからやって来るとのことで、蚊取り線香などほとんど役に立たない。

 明日、ティラウラコットへ行くつもりなので、じぃさんに行き方を聞いたら、タクシーをチャーターして行きなさいという。値段を聞くと1,500RPとの答え。冗談ではない。そんな大名旅行をするなら、こんなG.H.には泊まらない。気配を察して、息子が、明日の朝お話しましょうと引き取った。

 
 第四節 仏陀生育の地・ティラウラコット

 3月21日(水)。今日はティラウラコットにOne Day Tripする。ルンビニで誕生したゴータマ・シッダールタは29歳で出家するまで父シュッドーダナ王の居城であるカピラヴァストゥ城で過ごした。ティラウラコットはこのカピラヴァストゥ城があったといわれる場所である。ルンビニの西20キロ、タウリハワの街の郊外にある。実は、カピラヴァストゥ城の候補地はティラウラコット以外にもう一つある。ルンビニの南西15キロ、インド領内のピプラーワーである。学問的にはいずれとも未だ確定するに到っていない。しかし、訪れた人々の印象としては、ティラウラコット説が圧倒的に支持されている。

 ティラウラコットへはタウリハワまでバスで行き、そこからサイクルリキシャを利用することになる。8時過ぎ、G.H.を出る。タウリハワ行きのバスにはルンビニの北約2.5キロの「バルサ」バス停で乗らなければならない。パルサまでサイクルリキシャで20RPとG.H.で聞いたが、ゲート前に屯しているサイクルリキシャと交渉するも、40RP以下とはならない。ちょうどバスが来たので飛び乗る。バスならわずか5RPである。パルサではタウリハワ行きの小型バスが待っていた。

 麦畑の広がる田園地帯の中を行く。小さな集落ごとに通学の小学生が乗ってきて、すぐに満席となった。隣に座った11歳だという男の子が、私の持っていた日本語のガイドブックを興味深く眺めていた。彼は英語が話せる。約1時間弱で終点タウリハワに着いた。思ったより大きな街である。バスを降りると同時に数人のリキシャワラに(サイクルリキシャのドライバー)に囲まれた。先ほどの男の子に通訳してもらって価格交渉。500RPで始まった価格がどんどん下がって、100RPになった。さらに一人が80RPと言いだす。このままだとゼロになりそうである。もちろん、こんな価格はうそっぱちである。下車時に再度価格交渉しなければならないことは目に見えている。リキシャワラは「乗せてしまえばこっちのもの」と考えているのだろう。ガイドブックには300RPが相場と記されている。

 人のよさそうなワラに決める。男の子が「学校が途中なので乗せていってくれ」という。いつの間にか、妹だというかわいい女の子の手を引いている。確りしたお兄ちゃんである。目指すティラウラコットはこの街の北約3キロの地点にある。二人を学校まで送り届け、街中を抜けてガタガタの田舎道を進む。30分も行くと、田圃の中の大きな森に行き当たった。森の部分だけ少し高台になっている。目指すカピラヴァストゥ城跡である。

 リキシャを降り、森の中に進む。森は下草もなくマンゴー、スィーモール、クスンなどの大木で覆われている。実に雰囲気のある場所である。意外にもリキシャワラも付いてきて、拙い英語で一生懸命説明する。東西の城門跡がある。仏陀伝説の「四門出遊」の話を思い出した。

 『カピラヴァストゥ城で何不自由なく暮していたシッダールタは、ある日、城の東門から外出したとき、やせ衰え、よろよろと歩いている老人を見かけた。シッダールタは物思いに沈み城へ帰った。またある日、南の門から出ると、今度は病人を見かけた。また次の機会に西の門をでたとき、今度は葬送の列に出会った。こうしてシッダールタは「老い」、「病」、「死の悲しみ」を知り、日々思い悩んだ。ところがある日、北の門から出た時に、道を求めて托鉢に励む修行者の神々しい姿に接し、心を打たれた。シッダールタは出家を覚悟した』

 この東西の城門は、シッダールタが老人や死者に出会った場所なのだろうか。複合施設跡とされる遺跡もある。ワラは" The Sleeping Room of Buddha's Father"と言っていたが。井戸の跡もある。この遺跡は東西400m、南北550mあるという。日本の立正大学の発掘調査により城塞遺跡であることが確認されたが、カピラヴァストゥ城跡であるとの確固たる証拠は出土していないようである。

 ガイドブックによるとこのカピラヴァストゥ城跡の近くにシッダールタの両親の墓と伝えられる塚があるという。行ってみることにする。リキシャワラの案内で、田圃の畦道を10分ほど歩いて行くと、ぽつんと大小二つのレンガ積みの塚があった。紀元前4世紀〜紀元前2世紀の物らしい。ひと休みしていたら、何と、自転車に乗った一人の日本人の若者がやってきた。こんなところで日本人と出会うとは驚きである。しかも、リキシャワラと、「いやぁ」と握手しているではないか。聞けば、昨日このワラのサイクルリキシャで遺跡を廻ったとか。タウリハワで1泊して、今日は自転車を借りて改めて遺跡を廻っているとのことである。

 途中、博物館に寄って、タウリハワのバス停に引き返す。ワラは案の定400RPくれと言い出す。馬鹿野郎、約束は100RPのはずだ。笑いながら300RP渡す。不満そうな顔をしていたがーーー。12時過ぎには、ルンビニのG.H.に帰り着いた。

 
 第五節 再度ルンビニ園へ

 早い時間に帰り着いたので、再び自転車を借りてルンビニ園に行く。先ずは昨日休館であった博物館に行く。建物は斬新なデザインで素晴らしかったが、展示物は見るべきものはなかった。部屋もほんの一部しか使われておらず、器作ってなんとやらである。

 続いて、昨日行けなかった水路の西側にある各国寺院を巡る。先ずは中国寺である。実に大きな、立派な寺院である。内部も布袋様のようなでっぷり太った仏像と関帝の像が祀られ、いかにも中国寺らしい趣である。その隣では、さらに大きな寺院が建設中であった。韓国寺である。まるで各国が国威を競っているようである。一番奥に素晴らしい寺院があった。チベット仏教の寺院である。壁画が素晴らしい。ただし、建てたのはドイツらしい。

 このドイツ寺で一瞬青くなるトラブルが生じた。門前で写真を撮った。10分ほどして気がつくとカメラがない。青くなって引き返した。カメラは寺の守衛所に届けられていた。奇跡である。
 
 既にネパールの旅を始めて3週間近くなる。明日この国を去る。そして今、この国の素晴らしさを心の底から感じている。ヒマラヤの絶景は言うまでもないが、何よりも強く感じたのは人々の心の温かさである。アジアの多くの国を旅したが、その中でもラオスやミャンマーと並んで、もっとも居心地のよい国であった。お陰で何とも心地よい旅をすることが出来た。
 

 第8章 仏陀涅槃の地・クシナガル

 第1節 インド入国

 3月22日(木)。ネパールの旅を終え、いよいよ今日は「性悪の国」インドへ入国する。不安が大きいが、負けるものかと、闘志も湧く。7時半、G.H.をチェックアウトしてバス停に行く。バイラワ行きのバスはすぐ来たのだが、何と、来るときに乗ったあの超々ボロバスである。しかも今度は、車内に蚊が充満している。怒りや不満を通り越して思わず吹き出してしまう。

 珍しいことに、こんなローカルバスに私以外に一人の外国人が乗っていた。スペインから来たというデビット君である。聞けば、ネパール→インド→日本→韓国→中国を巡る6ヶ月の旅だという。私と同様、これからインドに向かうとのことである。「今日はどこまで行く?」と聞くので、「ゴーラクプルまで行って、明日クシナガルへ行く」と答えると、「それじゃぁ、自分もそうする」と言い出した。こんな訳で、これから三日間にわたり、日本人のおじさんとスペイン人の若者の弥次喜多道中が始まることになった。私にとって、外国人との道連れは初めてである。

 約1時間で、終点であるバイラワの三叉路に着いた。ここで、国境の街・スノウリへ行くミニバスを捕まえなければならない。バス停は特にないので、二人で道端に立って、頻繁にやって来るミニバスを止めようとするのだが、なかなか捕まらない。もとよりバスの行き先表示は読めないので、南に向かうバスに向かって、「スノウリ」と叫んで手を挙げるのだがーーー。おそらく満員であったり、行き先がバイラワ止まりなのだろう。傍らに警察官がいたので、頼んでみたら、すぐにバスを停めてくれた。バスはバイラワの街中を走り、10分ほどでロータリーのある交差点で止まった。「ここが終点。スノウリへは向こうのバスに乗り替えろ」と、車掌が近くに止まっていたミニバスを指し示す。

 乗ったミニバスは、完全に小学生の通学バス。何しろ大人は我々2人を含め4人のみ、他は全部児童なのだから。停まるたびに、児童の数はどんどん増える。窓外は雑然とした街並みが続く。やがて道脇に停車する長蛇のごときトラックの列が現れた。国境に向かって大型トラックの列が数キロにわたって続いている。通関待ちなのだろう。

 やがてバスはスノウリの国境に着いた。目の前には、凄まじいまでに、ほこりっぽく、騒がしく、怪しげな雰囲気さえ感じる街並みが広がっている。道は、トラック、リキシャ、人間、牛が無秩序に行き交い、道端には露店がこれまた無秩序に並んでいる。得体の知れない人間が、ひっきりなしに寄ってきて声を掛ける。多くは闇両替屋である。私は今朝G.H.で余ったネパールRPをインドRPに両替してもらったので、小銭は持っている。ゴーラクプルに着いてから銀行で両替すればよい。インドRPはネパールでも通用するが、ネパールRPはインドでは通用しない。国境では両国の経済力の差が如実に現れる。

 人をかき分け、車をかわし、牛の糞を避け、国境に向かう。いよいよインドだ。気持ちは自ずと高揚する。ネパール側の国境ゲートを潜ると、ネパールのイミグレーションがあった。我々以外越境者はいない。係官がいやに愛想がいい。「ネパール・日本国交樹立50周年を知ってるかい。ネパールと日本は友達友達。顔もSame,Same」。デビットが唖然としている。次はインドのイミグレーション。道端に机を並べただけ、まるで屋台である。看板がなければとてもわからない。手続きは簡単であった。これで晴れてインド入国である。このスノウリ国境はOpen Borderである。両国民は何の手続きも必要なく、自由に国境を越えられる。街並みも国境で途切れることなく、そのまま連続している。

 猥雑な街並みを歩いてゴーラクプル行きバス乗り場に向かう。インド側でもトラックが長蛇の列を作って通関を待っている。ここでも得体のしれない人間が頻繁に寄ってくるが、デビットが一手に引き受けてくれる。彼は必要な情報だけ聞き取って、あとは適当にあしらっている。二人でいると未知の街でも精神的にずいぶん樂だ。500mも進むと、道端にゴーラクプル行きバスが停まっていた。冷房完備のきれいなバスである。さすが、経済発展著しいインドである。10分後の10時発車と聞いたが、時刻になっても発車しない。いらいらしながら待っていて、ハット気がついた。ネパールとインドでは15分の時差があるのだ。慌てて腕時計を直す。バスは時刻通りに発車した。車掌は二人乗車している。座席はがらがらであるが、ネパールと違い乗客集めには執着していない。乗客確保より、運行時刻を守ることが優先されているようである。先進国並である。

 どこまでも田園地帯が続く。畑は麦畑一色である。街並みに入った。大通りが二頭立ての牛車で大混雑している。いかにもインドらしい光景である。

 
 第二節 ゴーラクプルの街

 やがてバスは大きな街並みに入り、12時30分、終点のゴーラクプルの鉄道駅前に到着した。目の前に宮殿のごとく大きな駅が聳え立っている。そしてその駅前は、凄まじい雑踏が渦巻いている。道を埋め尽くすサイクルリキシャ、悠然と歩き廻る牛ども、無秩序に歩き廻る群衆、それを蹴散らしながら走る自動車、道は牛と犬の糞で溢れ、道端には露店が並ぶ。

 先ずは今晩の宿を確保しなければならない。駅前には10軒ほどのホテルがずらりと並んでいた。二人して何軒かのホテルの部屋を見てまわる。いずれも料金は1泊150RP(約550円)前後と非常に安いのだが、部屋もそれなりにひどい。私はちょっとーーー、である。一番立派そうなホテルへ行ってみると200RPの部屋があった。何とか我慢出来る範囲である。ところが、デビットは一番安い130RPのホテルがいいという。まさにバックパッカーの鏡である。それでも、「それじゃぁ別々のホテルに泊まろう」というと、嫌々私に付いてきた。

 二人でサイクルリキシャに乗り、街の中心部へ行く。かなり大きく、かつ賑やかな街だがスパーやコンビニはない。銀行が軒を並べているので両替をすることにする。警備が厳重で、入り口にはセキュリティが立ちはだかっている。Rateは1US$=43RP、カウンター窓口の前に立つ。何やら空気がピンと張りつめ、真剣勝負の雰囲気である。100US$を差し出すと、100RPの分厚い札束が差し出された。1枚1枚入念に数える。43枚あるはずである。相手は私の手元をじっと凝視している。破れた札があった。黙って返却すると、相手も黙って別の札を差し出す。途中まで数える。すると相手は、黙って2枚の100RP札を差し出す。その2枚を加えて43枚であった。噂に聞いた通りの行為である。200RPごまかすつもりだったのだ。以降、他の街での両替でも、途中まで数えると、必ず1枚〜2枚の札が追加された。街の怪しげな両替屋での話ではない。まともな銀行での話しである。"This is India"と、デビットと顔を見合わせて笑ってしまった。

 歩いて戻る。デビットは典型的なラテン野郎である。絶えずぺちゃくちゃしゃべり続けている。どうせ大したことは言っていないので、適当に聞き流しているが。そして、誰にでも気軽に話し掛ける。特に、相手が女となれば、たとえおばちゃんだろうと放っては置かない。飛んで行って話し掛ける。好奇心旺盛で、露店を覗くのが大好きだ。その度に訳の分からぬ駄菓子などを少量買込んで頬張っている。彼と歩くと、なかなか前に進まないのでいらいらする。また、欧米人特有の合理主義者でもある。確認しあったわけでもないのに、徹底的に割り勘を貫く。たとえ1RP,2RPでも返してくるし要求もする。一見、かなり軽薄なのだが、「仏教って、宗教ですかねぇ、仏陀は神ではないと思うのだが」などと、ドキッとすることを口走る。

 そのまま駅に行く。明後日、列車でバナーラス(ベナレス)へ向かうつもりなので、チケットを得ておく必要がある。駅は巨大で、チケット窓口も10以上ある。その前のホールは人々でごった返している。いい具合に、外国人専用の窓口があった。窓口へ行くと、チケット購入申込書に記入して持って来いと言う。面倒くさいなぁ。記入不備で二度ほど突き返されたが無事にチケットを入手できた。しかも、60歳以上は老人割引がある。しめしめである。

 その夜は悲惨であった。部屋中蚊が飛び交い、寝られたものではない。持参の蚊取り線香を焚き、デビットから虫よけスプレーを借りたが、まったく効果がない。天井で扇風機が気だるそうに回っているが、熱した空気を動かすだけだ。もんもんとするうちに夜が明けた。

 
 第三節 クシナガル巡礼

 3月23日(金)。今日は仏陀入滅の地・クシナガルへOne Day Tripする。8時出発予定であったが、7時にデビットが「早く行こうよ」とドアをノックする。クシナガルはゴーラクプルの東55キロにある小村である。「カシアー行きバスに乗り、手前3キロで降りる」とガイドブックに記されている。駅前から東に延びる道路端がバスの発着場になっている。バスはすぐに見つかった。7時45分、乗ると同時にバスは発車した。市街地を抜けると右手に大きな湖水が現れた。その後はどこまでも平凡な田園風景が続く。1時間20分でクシナガルに到着した。バス停付近に2〜3軒の商店があるだけの小さな集落である。

 街道から南に延びる道に入る。道路沿いにある中国寺とミャンマー寺を覗き、涅槃堂に到る。発掘された僧院跡の基礎石の並ぶ広大な広場の真ん中に、涅槃堂と仏塔が並んで建っている。例によって露店の前を動かないデビットを置き去りにして、さっさと園内に入る。遺跡の中を歩み、涅槃堂に入る。1876年に建てられた円筒形の屋根を持つ白い建物である。中には黄色い衣を付け、金箔で全身を覆われた涅槃像が静かに横たわっていた。全長6.1m、1876年にこの地で発掘され像である。5世紀のグプタ朝時代の作と言われている。顔近くに座り込み、仏陀の顔を見続ける。

 齢80に達した仏陀は、愛弟子アーナンダを伴い伝導の旅に出た。最後の旅との覚悟の上であったろう。布教の拠点であったラージャグリハ(現ラージギル)を出発した仏陀の足は北西に向かった。おそらく、故郷カピラヴァストゥを目指したのではないかと言われている。ナーランダー、パトナー、ヴァイシャーリー、ケッサリヤと旅を続け、ファジルナガル村に到った。しかし、ここで供養された食事により激しい腹痛を起す。赤痢であったとも食中毒であったとも言われる。病をおしてなお歩き続けたブッダはついにクシナガルに到って力尽きた。2本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に身を横たえ、二度と起き上がることはなかった。サーラ樹は時ならぬ花を咲かせてブッダの遺体を飾ったと伝えられている。

 涅槃像の周りでは、各国からやって来た僧侶や巡礼者が熱心な祈りを捧げている。ちょうど、観光バスでやってきたタイの巡礼団が参拝しており、辺りはタイ語が溢れている。涅槃堂を出るが、デビットの姿が見えない。「まったく、すぐどこかへ行ってしまうのだから」。しばらく待つと得意顔で現れた。知りあった僧侶に隅から隅まで案内してもらったと。

 近くに、仏陀の遺体を荼毘に付した跡に建てられた塚があるはずである。通りかかった小坊主に聞くと2キロほど先とのこと。行ってみることにする。二人で炎天下の道をテクテク歩く。途中、日本ースリランカ寺、タイ寺などがあった。30分ほどで、古びた煉瓦造りの塚に到着した。この塚はラマバルと呼ばれ、高さ10m、直径40mあるという。仏陀の遺骨は火葬の後、八つに分けられ、それぞれ帰依していた八つの国に分け与えられた。タイの巡礼団が先着しており、塚に金箔を貼り付けている。落書きと同じで著しく美観を損ねる。タイ人はすぐに金箔を張りたがる。子供たちが大勢たむろしていて、小銭をねだる。タイ人が気前よく20バーツ札を渡している。まったく、相場というものを知らない。

 再び歩いて集落まで戻る。一軒だけあった食堂で昼食を取り、さて帰ろうと、バスを待ったのだが、ここからが大変であった。15分に1本程度バスは来るのであるが、いずれも満員で通過してしまう。1時間待っても乗れない。周りの人が「いつまで待っても無理。反対方向のバスに乗って、始発のカシアーまで行って乗りなさい」とアドバイスしてくれる。と、1台のバスが、降りる人がいたと見えて、バス停から離れた場所で停まった。デビットが猛ダッシュし、無理やり二人で乗り込んだ。何とか、ゴーラクプルのホテルに帰り着けた。

 夜の9時過ぎ、涼を求めてホテルの近くを散歩すると、駅前広場で異様な光景を目にした。広場及び駅ホールが野宿する人々でぎっしりなのである。多くは今晩の夜行列車や明日早朝の列車に乗る人々なのだろうが、ホームレスの人々も多そうである。荷物を枕に川の字になって寝入る家族連れ、一塊となったグループ、一人寂しく地面に横たわる人、ーーー。皆、ただじっと、時間の過ぎるのを待ち続けている。そして、人々の塊の中の所々に牛も足を折って休んでいる。また、広場の周辺部は仕事を終えた多数のサイクルリキシャが群れている。そしてその狭い客席にリキシャワラが身をかがめて横たわっている。リキシャワラの多くは、帰るべき家を持たないホームレスなのだ。
 

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