おじさんバックパッカーの一人旅   

ネパール、インドの旅 (4) 

 ヒンズー教最大の聖地と仏教最大の聖地

2007年3月24日

      〜3月30日

 
 第9章 ヒンズー教最大の聖地・バナーラス

 第1節 バナーラスへの列車の旅

 3月24日(土)。今日は列車でバナーラス(ベナレス)へ向かう。言わずと知れたヒンズー教最大の聖地である。ヒンズー教徒ならば一生に一度はバナーラスへ巡礼することを夢見るという。列車のチケットは既に取得ずみである。ゴーラクプル発6時35分、急行LJN MUV号である。駅までほんの5分なので、6時にホテルを出ればいいと言ったのだが、デビットが強固に5時30分出発を主張する。ちゃらんぽらんなようで、慎重なところもある。

 駅前広場は、未だ明けきらぬ薄明の中、到るところ、人がゴロゴロ横たわり一種異様な雰囲気である。駅で改札はない。ホームへの出入りは自由である。さすがにまだ列車は入線していなかった。ホームでタバコを吸っていたら警察官に怒られた。禁煙らしい。そういえば、インド入国以来喫煙者を見かけない。6時半過ぎ、ようやく折り返し列車がやって来た。寝台仕様が座席仕様に変更されたところで乗車開始。車両番号、座席番号はアラビア数字で表示されているので自力で席を見つけられる。さらに、各車両入り口にはその車両の乗客リストが張り出されている。

 駅の売店で、水とパンを買っていたら、何の前触れもなく、突然列車が動きだした。多いに慌てる。デビットがデッキから身を乗り出して、「早く早く」と叫んでいる。必死で走る。インドの列車は車両間の移動が出来ないので、自分の車両に乗らなければならない。危うく飛び乗ってやれやれである。それにしても、発車するなら、ベルを鳴らすなり、放送するなり、汽笛を鳴らすなり、何か合図をして欲しいものだ。

 列車はガラガラであった。今回の座席は3Aグレードである。エアコン車で、夜は3段ベット、昼は一番下のベッドを3人掛けで使う仕様である。幸い座席は私一人である。座席に寝転がってうとうとする。昨夜も蚊の攻撃が激しく、ろくに寝ていない。案の定、冷房が利きすぎて寒い。デビットとは車両はいっしょだが席は離れている。車内販売もなく、駅で停車しても物売りはやって来ない。窓外はどこまでも麦畑の続く田園風景である。車内ではまったくタバコが吸えない。

 サールナートの駅を過ぎると大きな街に入った。バナーラスだろう。Varanasi City駅に着いた。ふと見ると、デビットが荷物を抱えてホームに降り立っている。「おぉい、この駅は違うぞ。降りるのはVaranasi Jn駅だ」。慌てて呼び戻す。13時30分、列車は1時間30分遅れでVaranasi Jn駅に到着した。と、同時に、リキシャワラ、ゲストハウスの客引き、その他得体のしれない人間数人に取り囲まれた。私は娘の定宿となっているガンガー(ガンジス川)沿いのG.H.へ行くつもりでいる。デビットに「どうするんだ」と聞くと、「一緒に行く」と言う。彼はバナーラスに一泊して、すぐにアーグラに行く予定なので、駅近くに宿を見つけたほうが便利だと思うのだがーーー。私から「さよなら」も言いにくい。

 ガート(沐浴場)入り口であるゴードウォーリヤまで、30RPの言い値を20RPに値切って二人してサイクルリキシャに乗る。意外に遠い。20分ほどで、ごった返す繁華街の真ん中で降ろされた。ここがゴードウォーリヤだという。ここから先は、リキシャも進入禁止である。さて、「どっちへ行ったらいいのだ」。ガイドブックを開いていると、何人かの若者が次々と、「どうしたの」「どこへ行くの」などと、軽い感じの日本語でそれとなく話し掛けてくる。こういう連中が一番危ない。目指すG.H.はここからさらに1キロほど歩くことになる。デビットが、「やっぱりこの辺で宿を探す」と言い出した。別れることにする。別れるとなると、やはり寂しい。いいやつだったがーーー。「また、いつか、世界のどこかで会おう」。また一人になってしまった。

 Vishunu Rest Houseにチェックインする。受付の親父は余り感じがよくない。ガンガーに面した部屋は700RP(約1960円)、ただし今日は満室で、明日になれば空くと言う。350RP(約980円)という川の見えない部屋に放り込まれてしまった。意外に高い。部屋も小さく、天井のファンもない。トイレも現地スタイルである。何となく気にくわない。遅い昼飯を食べに行ったら、別のG.H.から「部屋を見て見ないか」と誘われた。ガンガーこそ見えないが、部屋はVishunu R.H.よりもよく、しかも料金は150RP(約420円)だという。頭に来て、Vishunu R.H.に戻り、強固に値引き交渉をする。なんとか300RP(約840円)にはなった。それでも釈然としないがーーー。

 部屋は気にくわないが、このG.H.はガンガーに面した大きなベランダを持っており、展望は抜群である。ガンガーは、乾期のためか、川幅は500m程度、思ったより小さい。左岸に沿ってガート(沐浴場)が延々と続いている。洗濯を済ますと、娘から託された写真をもってガートに下り立つ。先ずは二つ目のミッションを片づけよう。各ガートは連続しており歩いて行ける。ケダルガートに向かう。子供たちにはすぐに会えた。写真を見せると、あっという間に、子供たちや大人までが集まってきた。数十枚の写真は無事に本人もしくはその家族に渡された。二つ目のミッション終了である。ガートの片隅でチャーイ屋を開いているおばさんが、お礼だと行って1杯2RPのチャーイをご馳走してくれた。灯籠売りの少女は、ロウソクに火を点けて、売り物の灯籠を一つ渡してくれた。椰子の葉で編まれ、花で飾られた灯籠をガンガーに流す。ロウソクの小さな炎を揺らしながら、灯籠はゆっくり流れていった。

 
 第二節 バナーラス探索

 3月25日(日)。今日は一日バナーラス探索である。ぶらりぶらりとガートを下流に歩く。最大のガート・ダシャーシュワメードガートは日曜日ということもあり大賑わい、パラソルを備えた桟敷席が幾つも設けられ、多くのヒンズー教徒が沐浴をしている。女性用の更衣所もある。ガンガーの水は意外に汚い。見ていると何でもかんでもガンガーに流している。沐浴の際に持ち込む花や供物は言うに及ばず、運んできたビニール袋まで全てガンガーに捨てていく。これでは川の浄化能力を遥かに越えている。ガイドブックには、「バナーラスに来たからには沐浴をすべし」と記されているが、G.H.には「ガンガーでの水泳及び沐浴は危険につき禁止」と大書きされた注意書が張りだされている。足だけを水に浸けて、バナーラス訪問の記念とする。

 さらに少し下流に行くと、マニカル二カーガードに出た。バナーラス最大の火葬場である。周辺は薪となる大木がうずたかく詰まれ、川にせり出した数個の台座の上で、遺体が焼かれている。異様な匂いが立ちこめ、何とも異様な場所である。写真は禁止されているが、見学は許されている。白(男)や朱(女)の布に包まれ、竹の担架に乗せられた遺体が運ばれて来る。遺体は一度ガンガーの水に浸された後、積み上げられた薪の上に置かれる。火がつけられ、灰と化すまで約3時間、人々の目の前で焼かれていく。灰と化した遺体は無造作にシャベルでガンガーへ放り込まれる。その間、何ら宗教的儀式は行われないし、死者の尊厳に配慮するようなこともない。まるで、ゴミを焼いているようにさえ思える。このガートで焼かれ、灰がガンガーに流されるのがヒンズー教徒の最大の望みだという。日本の文化の中で育った我々には理解しがたい行為であるがーーー。

 ガートを歩いていると、いろいろな声がかかる。一番多いのが、「ボートに乗らないか」である。目的もはっきりしているし余りしつこくもない。次に多いのが、「どこへ行くの」「何してるの」などと、親しげな日本語で話し掛けてくる若者である。皆、完璧な日本語をしゃべる。この輩は一番危ない。うっかり付いていって身ぐるみ剥がれた例も多いし、このバナーラスで忽然と行方不明になった日本人も数知れないと言われる。物乞いも多い。

 いったん、G.H.に帰る。今日は部屋を替えてもらう約束である。「どうなっているのか」と聞くと、「今日はダメ、明日また」との答え。怒り心頭に達する。舐めるのもいい加減にしろ。即座に、「明日チェックアウト」と言い放つ。すぐに代わりのG.H.を見つけに行く。数軒先で満足な部屋を見つけた。ガンガーに面した部屋が400RP、川の見えない部屋が200RPだと言う。これが適正価格だろう。Vishinu R.H.はめちゃめちゃぼりやがった。400RPの部屋を300RPに値切り、明日朝チェックインすることにする。

 ガンガーの左岸に沿って広がる街並みが旧市街である。狭い路地がアリの巣のように張りめぐされ、迷い込むと方向感覚さえ失う。両側は4〜5階建ての建物が立ちはだかり、路地は昼間でも薄暗い。1階部分は小さな店舗である。人がやっとすれ違えるほどの、この狭い路地を牛が歩き周り、糞尿を撒き散らす。おまけに、猿まで住み着いている。さらに、けたたましい警笛を鳴らし、オートバイが進入してくる。G.H.の多くはこの路地の奥にある。

 迷路を面白がって歩き廻っていたら、イスラム教徒の街に迷い込んだ。この路地の奥にイスラム教徒の街が隠れていたのだ。女は全て黒覆面、男は白いイスラム服に小さなイスラム帽子。迷い込んだ異国人に非友好的な鋭い眼差しを向ける。逃げ出そうともがくが、路地は迷路、アリ地獄である。

 夕方、旧市街の中心にあるヴィシュワナート寺院に行ってみる。聖都バナーラスの信仰の中心となるヒンズー教寺院である。5世紀建立と言われるが、1669年にムガール帝国のアウラングゼーブ帝により破壊され、モスクに改造されてしまった。現在の寺院は、1776年にその隣に再建されたものである。狭い参道は参拝者で溢れ、身動きできないほどであった。参拝用具や土産物屋が軒を並べ、またバナーラス名産のシルクを売る店も多い。所々に銃を携えた警官が立ち、警備も厳重である。しかし、ヒンズー教徒以外は中に入ることが出来なかった。諦めて戻る。

 夕飯を食べに行ったら、韓国から来たという青年と同じテーブルになった。名前を聞くとパクサンユンと名乗り、漢字で朴相胤と書いてくれた。

 
 3月26日(月)。ガートの朝は早い。夜明けとともに、ガンガーでの沐浴が始まる。G.H.のベランダから眺めていると、やがて真っ赤な太陽がガンガーの向こう側の地平線から昇ってきた。いかにも大陸的な景色である。

 8時過ぎ、Vishunu Rest Houseを引き払って、昨日予約したSita Guest Houseに移る。最上階に素晴らしい展望のレストランがある。ここで、スウェーデンから来たという青年に声を掛けられた。これからネパールに行くので、情報が欲しいという。私がネパールで買ったTシャツを着ていたので、ネパールから来たと分かったらしい。会社を辞めて5ヶ月のインド大陸の旅を楽しんでいるとのことであった。

 明後日列車でブッダガヤへ行く予定なので、フロントに切符の手配を頼む。60RPの手数料をとられたが、リキシャに乗って駅まで行く費用と時間を考えれば、このほうが安い。手持ちのルピーが少なくなったので、ゴードウリヤー付近のIndian Bankへ両替に行く。イメージとは裏腹に、商店の二階の小さな店構えであった。行ってみると、入り口の鉄扉は半開きで、開店しているのかどうか一瞬迷う。と、男が寄って来て、「今日は祝日で閉店である。ただし、近くの別の支店が開いているのでそちらに案内する」という。連れ込まれたところは両替屋、典型的なだましのテクニックである。慌てて逃げる。後で知るのだが、インドの銀行は、どこも入り口の鉄扉は半開きで、身をかがめて中に入る。防犯上の処置と思うが異常な雰囲気である。と言うことは、この時も銀行は開店していたのだろう。

 今日はガートを上流にたどってみる。陽が昇るに従い猛烈な暑さが襲ってきた。10数頭の水牛が沐浴しているガートがある。実に気持ちよさそうである。ガートには猿も住み着いている。ガートに落ち込む急斜面を赤ん坊猿を背中に乗せて駆け回っている。ケダルガートではチャーイ屋のおばさんが笑顔で迎えてくれた。2RPの甘い甘いチャーイを一杯飲んでひと休み。お湯は牛の糞を燃料として七輪で沸かしている。さらに上流にたどる。ハリシュチャンドラガートに達した。ここも火葬場である。今しも数体の遺体が焼かれていたが、早く立ち去れと追い立てられた。

 ガートは巡礼者の沐浴場であるとともに子供たちの仕事場兼遊び場である。観光客をボートに誘い、お供え用の花を売る。そして、ガンガーで泳ぎ、狭いガートでクリケットをする。このバナーラスのガンガーには84のガートがあるという。各ガートには各々物語があり、歴史がある。祀る神も違う。賑わっているガート、廃れてしまったガート、歩いていると、各ガートの違いがよく分かる。ガンガーの対岸はただ砂洲が広がっているだけで何もない。不浄の地とされており、近寄るものも少ない。

 約1時間近く歩くと、最上流のアッスィーガートに来てしまった。振り返ると、緩く右にカーブするガンガーの流れに沿って、はるか彼方までガートが続いている。上流に目を向けると、ガンガーに架かる浮橋が見える。そこを渡った向こう岸にはラームナガル城があるはずである。行ってみることにする。さらに1時間も歩けば行き着くだろう。ここから先は、ガンガーの岸辺沿いには歩けない。方向感覚だけを頼りに歩くと、にぎやかな街並みに出た。その先が、バラーナス・ヒンズー大学であった。門の奥には広大なキャンパスが広がっている様子であるが、校内には入らず、浮橋を目指す。トラックの往来が激しく、もうもうと土煙の立つ道を20分も進むと、目指す浮橋に出た。この地点ではガンガーは1キロにも川幅を広げている。対岸にはラームナガル城が、御伽の城のように優雅な姿でそそり立っている。浮橋は大型車以外の車も通れる。揺れる浮橋を渡り、ラームナガル城に行く。

 この城は17世紀に建てられたもので、この地方の藩王の居城である。現在は博物館となっている。中に入ると、ロの字型の建物が中庭を囲み、武器や美術品、宝石など当時の藩王の生活が忍ばれる品々が展示されていた。戻ることにする。城の近くから大学の前まで乗り合いオートリキシャが出ている。乗り場に行くと、最初は40RPなどとぬかす。「ふざけるな」というと、20RP→10RP→8RPと正規の値段に落ち着いた。夕方G.H.にもどる。今日は一日よく歩いたものだ。

 
 第10章 初転法輪の地・サールナート

 第一節 サールナートへ

 サールナートはバナーラスの北東約10キロにある小村である。悟りを開いた仏陀が初めて説法した場所として知られている。仏教4大聖地の一つである。今日はこの地にOne Day Tripする。

 行き方をG,H.で聞くと、「750RPでタクシーをチャーターしろ」の一点張り、埒が明かない。このG.H.も到って不親切である。オートリキシャで行くことにする。ゴードウリヤまで出ると、リキシャワラがどっと取り囲み、奪い合いとなった。互いに罵りあい、小突きあいまで始まる。彼らとて必死なのだ。200RPの言い値がどんどん下がり、オートリキシャ100RP、サイクルリキシャ80RPが提示された。100RP提示のオートリキシャに乗り込むと、敗けたワラが、「どうせ、あとで200RP請求されるぞ」と悪態をつく。ともかくリキシャは発車した。ところが何と、途中で手を挙げた女二人を乗せるではないか。「おいおい、貸し切りではないのかいな」。こんなのは初めてだが、女も平気で乗ってくるところを見ると、インドでは常識なのかも知れない。2人用の座席に3人詰め込まれて、窮屈この上ない。まぁ、隣が女性だから我慢するが。

 女が降りて、しばらく走ると、今度はガソリンスタンドでストップ。おまけに、ガソリン代として100RPを前払いしてくれと言い出す。少々危険だが、懇願するので100RP渡す。さらに走ると、また男を一人乗せた。40分ほどで、ともかくサールナートへ着いた。するとワラは、あと40RPくれと言いだす。ふざけんじゃねぇや。後ろで、「40RP、40RP」と叫んでいるのを無視して立ち去る。
 

 第二節 サールナート巡礼

 菩提樹の下で悟りを開いた仏陀は、このまま死を迎えようと考えた。しかし、梵天(仏教の守護神)により、悟った真理を人々に説くようの強く勧められた(梵天勧請)。仏陀は先ず最初に、以前、ウルヴェーラーにおいて苦行をともにした5人の仲間に説こうと、彼らが修行をしているサールナートの森へ赴いた。5人の修行者は仏陀の話に耳を傾けた。森にすむ鹿たちも、ともに聞き入ったという(初転法輪)。5人は順次悟りを得、釈迦に帰依した。ここに、最初の仏教教団が成立した。

 きれいに整備された史跡公園に入る。広大な公園内は発掘された僧院跡や寺院跡の基礎レンガが並んでいる。この地は仏教の聖地として、紀元前より多くの僧院や寺院が建立された。紀元前3世紀には、アショーカ王もこの地を巡礼して記念の石柱を立てている。そして、4〜6世紀のグプタ朝時代に最盛期を向かえた。7世紀には玄奘三蔵もこの地を訪れた。しかし、13世紀以降、イスラム勢力により破壊され、壮大な建物群は基礎石を残して地上から消え去った。それでも、史跡公園の東の隅に古色蒼然たる大きな仏塔が残されている。高さ34メートル、直径28メートルのダメーク・ストゥーパである。6世紀の建立と考えられ、この場所こそ、仏陀初転法輪の場所と考えられている。

 強烈な日差しが降り注ぐ中、人影もまばらな史跡公園内を巡る。ダメーク・ストゥーパを作法に従い、時計回りに廻る。所々に金箔が貼られている。タイの巡礼団の仕業だろう。赤レンガの基礎石の並ぶ僧院跡をたどる。玄奘三蔵は「1,500人もの僧が修行に励んでいる」と記している。その僧院が今廃虚となって目の前に広がっている。栄枯盛衰、栄華を誇った仏教もインドの地から消え去って久しい。公園の西隅にアショーン王の石柱がある。元の柱は15mあったとのことだが、根本で折れ、現在は基部を残すのみである。史跡公園を出る。

 史跡公園の隣にムールガンダ・クティー寺院がある。中に日本人画家・野生司香雪(のうすこうせつ)の描いた仏伝壁画があるとのことだが、入り口が閉ざされ、中に入ることが出来なかった。近くの日月山法輪寺へ行ってみた。日蓮宗の寺で、本尊は見事な涅槃仏であった。戻って、史跡公園前の博物館に行く。入場料はわずか2RPであったが、素晴らしい博物館であった。この地で発掘された多くの素晴らしい仏像が展示されている。中でも正面ホールに飾られたアショーカ王石柱頭部のライオン像は一見の価値がある。このライオン像はインドの国章となっている。

 バスで帰ろうと思ったが、バス停がよくわからない。ツーリスト・ポリスの詰め所で聞いてみると、「ここで待ちなさい。ちょうど一人が駅まで行くので一緒に行けばよい」と椅子を勧めてくれた。待つほどもなくバスはやってきた。きれいなバスで、運賃はわずか5RPである。駅に着くと、同行してくれた警官は、「どこまで帰るのか」と聞いたうえで、サイクルリキシャとの値段交渉までしてくれた。親切に多いに感激した。そして、この親切はインドで受け唯一の親切であった。

 インドに入国して数日経つが、噂通り、インド人の「性悪」にはほとほとあきれ果ててしまう。以降の旅でその思いをさらに強めるのだが、彼らと、ホモサピエンスとしての遺伝子を共有しているとはとても思えない。不愉快な思いをさせられるたびに、「こいつら人間ではない」と自分に言い聞かせて、我慢に我慢を重ねた。

 
 第11章 仏教最大の聖地・ブッダガヤ

 第一節 ブッダガヤへの列車の旅

 3月28日(水)。いよいよ今日は、インドの旅のクライマックス、聖地ブッダガヤへ向かう。バナーラスからは列車でガヤまで行くことになるのだが、バナーラス駅は幹線上から外れている。このため、バナーラスから東に17キロほど離れたムガル・サラーイ駅から乗らなければならない。ムガル・サラーイ駅発10時55分のチケットは入手ずみであるが、駅までどうやって行くのか頭を悩ます。前日、G.H.に聞いても、「タクシー手配しようか」の一点張り、後は言葉を濁して何も教えてくれない。この国では、自分の得にならないことは、全て拒否である。「親切」と言う言葉は彼らの辞書にない。昨日、ムガル・サラーイ駅行きのバスが出るというベーニヤ公園に偵察に行ってみたが、最近このバスは廃止されたとのことであった。オートリキシャで行くよりしかたなかろう。

 7時チェックアウト、相変わらず愛想もない。表通りにでると、サイクルリキシャワラに囲まれた。サイクルリキシャでは無理だと断ると、「バスの乗り場まで送る。それが一番安い」という。なるほど、説得力がある。着いたところはパナーラス駅前、各方面に向かうマイクロバス、ワゴン車、乗合いオートリキシャなどが到るところに駐車して、客の呼び込みをしている。1台の乗合いジープに身柄を引き渡された。ムガル・サラーイ駅に行くという。

 乗客が集まらず、乗合いジープはなかなか発車しない。30分も待って、8時、9人分の座席に15人詰め込んで発車した。超ぎゅうぎゅう詰めで骨が軋む。1時間走り、9時にムガル・サラーイ駅に着いた。思いのほか大きな駅である。駅構内には、得体のしれない若者がたむろしている。デリーやコルカタからやって来る旅行者に悪さをする連中だろう。タバコを吸っていると、寄って来て「1本くれ」。誰がやるもんか。電光掲示板で表示されたホームで列車を待つ。

 列車を待つ間に6人連れの青年と知りあった。聞けば、何と、メーガーラヤ州のシーロンへ帰るところだという。メーガーラヤ州はインド北東部に属する州である。この地域は、ブータン、チベット、ミャンマー、バングラデシュに囲まれ、インド本国とは狭い回廊でわずかに繋がっているだけの、飛び地のような地域である。いわばインドの秘境中の秘境である。民族もインド本国とは多いに異なる。ここから列車を乗り継いで3日程かかるらしい。「もし来ることがあったら、町を上げて歓迎する」と言ってくれたので、将来の楽しみが一つ増えた。

 幹線上の主要駅だけに列車は次々とやってくる。電光掲示板が設置されているので、各列車の認識は出来るのだが、困ったのは、私の乗るべき車両がホームのどの辺に止まるのか皆目分からないことである。インドの列車は20両もの編成でその長さは200m近くなる。始発駅ならまだしも、途中乗車の場合、車両を見つけるのは停車時間との競争になる。日本のように1号車から順次と言うような分かりやすい編成にはなっていない。聞こうにも、駅ホームには駅員の姿は皆無である。保持しているチケットの私の座席は"PURSHOTTAM EXP.  S3  52  LB"である。S3の車両を見つけなければならない。

 10分遅れでPURSHOTTAM急行がやって来た。青年達が協力して車両を見つけ、荷物を運んでくれた。今回は冷房なしの3段ベッド車(SLクラス)である。昼間は、下段ベッドが3人掛けの座席、中断ベッドが背もたれ、上段ベッドが荷物置き場となる。座席指定車としては最低ランクであり、車内はインド社会の縮図となる。インドの列車では、座席の不法占拠は日常茶飯時という話を聞いていた。すなわち、座席指定券を持っていても、行ってみると、他人が不法に占拠していて、どかすのに大変苦労する(時には、どかない)らしい。幸い、私の席は空いていた。しかし、上段ベットは男が不法占拠し寝そべっている。当然指定券など持たない輩である。また、3人掛けシートのうちの1人分が大きな荷物で占拠されている。従って2人分のスペースに3人腰掛けることになり窮屈きわまりない。荷物の持ち主は悪びれた様子もなく平気な顔をしている。インド人の厚かましさ、厚顔無恥の典型である。インド人には人類普遍の常識は通用しない。

 走行中もいろいろな輩が現れる。物売り、物乞い、そして隙あらば、座席を占拠しようとする者。向かいの席には英国人のカップルと韓国人の青年が座っていたのだが、男がやってきて、ずうずうしくも、座席の端に座ろうとした。さすがに英国人の男が怒った。声を荒らげ、"Stand up"。男はすごすご去っていった。車掌はいるのだが、これら不法搭乗者を取り締まろうとはしない。天井で扇風機は回っているのだが、さすがに暑い。窓外はどこまでも麦畑が続いている。ただし、進むに従い乾燥度が増しと行くのが分かる。3時間も走ると、大きな水のない川を渡る。乾期の今は干上がっているのだろう。突然、小さな岩山がぽつりぽつりと現れる。

 14時、列車はガヤ駅に到着した。多くの人が降りる。英国人のカップルも韓国の青年も降りた。駅舎をでると、あっという間に数人の男に取り囲まれた。オートリキシャワラたちである。ブッダガヤはここから16キロほど南に位置する。バスもあるようだが、バススタンドは鉄道駅から2キロも離れている。オートリキシャで直接行くのが正解のようである。ただし、寄って来た連中はどう見てもハイエナだ。100RPとか80RPとか口々に言っているが裏があるに決まっている。客待ちしていた乗合いオートリキシャが80RPと言うので飛び乗る。ガイドブックには60〜90RPと記されている。

 乗合いオートリキシャは客を集めまくって、何と、8人も乗せた。何人かは、車体にぶら下がっているだけである。ブッダガヤは意外に遠かった。30分ほど走り、ようやく到着した。約束の80RPを支払うと、ワラがもう20RPくれと言いだす。冗談ではない。一喝すると諦めた。リキシャに乗るときは、ちょうどの金額を渡さなければならない。お釣りは絶対によこさないのだから。500RP+税の言い値を込みで450RPに値切り、Hotel Embassyにチャックインする。オーナーは日本語ぺらぺらで、いやに愛想がいい。

 
 第二節 ついに、仏陀成道の地へ

 部屋に荷物を置くと、早速、マハーボディ寺院に向かう。聖地中の聖地である。食堂やホテルの並ぶ大通りを進むと石畳の広場に出る。ここから先は車は通行止めである。広場の右側がマハーボディ寺院、履物を脱ぎ境内に入る。入場料は必要ない。目の前に、高さ52mの4角錐の大塔が聳えたっている。周りは多くの巡礼者で賑わっている。ついにここまで来たかの思いが強い。これで出発前に定めた3つのミッションを全て果たしたことになる。参道を進み、寺院内に入る。目の前に金色に輝く仏陀が静かに座っていた。仏前に座し、仏陀を見つめ続ける。別に熱心な仏教徒ではないが、何とも言えない感動が胸に沸き上がる。この感動は何なんだろう。

 本堂の裏手に廻る。大きな菩提樹が茂っている。この菩提樹の下で、ゴータマシッダールタは悟りを開き仏陀となった。仏陀が座した場所には金剛宝座が設けられている。各国の僧侶、巡礼者がその周りに座し、熱心に祈りを捧げている。まさにここは仏教最大の聖地なのだ。

 夕暮れが迫ってきた。ホテルに戻ると、観光バスが横付され、140名のスリランカからの大巡礼団が到着していた。インド亜大陸の南端のインド洋に位置するスリランカは仏教を国教とする小さな島国である。北インドにおいて多いに栄えた仏教は、13世紀以降北西から侵攻してきたイスラム勢力により排除され、15世紀にはインド亜大陸から姿を消す。その中にあって、唯一仏教が生き残ったのはスリランカであった。しかも、このスリランカの仏教は13世紀以降、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアへと伝播し、上座部仏教として現在の隆盛に繋がった。スリランカはいわば仏教の第二の故郷である。これだけの巡礼団が泊まるのでは、今晩はさぞうるさかろうと、覚悟していたが、夜10時を過ぎると物音一つしなくなった。

 宿のオーナーがシンハラ語(スリランカの国語)で対応している。一体何カ国語話せるのかと聞いてみると、英語、日本語、タイ語、中国語、チベット語、シンハラ語、ネパール語、ヒンズー語との答えが返ってきた。実に8カ国語である。「各仏教国からの巡礼団を受け入れるので、これだけしゃべれないと商売にならない」と笑っている。インド人はまさに天才である。この点からも、我々と同種の人類とは思えない。

 
 第三節 マハーボディ寺院

 3月29日(木)。今日は一日、聖地・ブッダガヤを巡礼するつもりでいる。朝食をとるとすぐにマハーボディ寺院を再訪する。門前の土産物屋から流れる音楽もお経である。この寺はアショーカ王が3世紀に建立した寺院に始まる。その後も拡張修復が繰り返され、7世紀に現在の形になった。再び金色に輝く本尊の前に座る。各国から来た仏教徒たちが、仏前に座して祈りを捧げている。見学にやって来たヒンズー教徒のインド人どもが、その前に立ちはだかり、記念撮影を始める。祈り続ける仏教徒の気持ちを著しく害する行為である。多くのヒンズー教会は異教徒の入場を拒否しているくせに、他人の家には土足で平気では入り込んでくる。これもまたインド人の本性である。

 金色に輝く仏陀に問うた。「汝神なりや」「神なりせば我は手を合わせむ。されど、我は思う。汝神にはあらず。真理探究の先達なり。故に、我頭をたれて汝が教えを聞かむ。されど、手合わさずして去らむ」。

 裏手の菩提樹の下に赴く。周りは信者で溢れている。白装束に身を包んだスリランカからの大巡礼団が、僧侶の説法を静かに聞き入っている。台湾からの巡礼者だろう、5人の男女が正座して一心に漢字の教典を繙いている。黄色い衣に身を包んだタイの僧侶が、タイ式作法をもって祈りを捧げている。小豆色の衣を着た3人のチベット僧が、汗みどろになって五体倒地をいつまでも繰り返している。不思議と日本人の姿はない。祈り続ける仏教徒の間を、額に赤い印を付けたヒンズー教徒のインド人がぞろぞろと歩き廻っている。何と、サドー(ヒンズー教の修験者)までやってきた。思わず吹き出してしまう。このマハーボディ寺院も、他の仏教寺院と同様、誰でも入ることが出来る。

 金剛宝座の周りは石垣で囲まれていて、小さな入り口から一人一人中に入れるようになっている。その前には行列が出来ている。私も行列に並ぶ。金剛宝座は縦143cm,横238cm,厚さ13.5cmの石板で、表面には幾何学模様、側面にはガチョウが彫られているという。前3世紀、アショーカ王時代のものである。石板には布の覆いが掛けられている。その下に手を入れ、そっと石板を触る。何やら仏陀に直接触れたような心地よさが全身を覆う。この場所はまさに仏陀が座り、悟りを開いた場所なのである。

 金剛宝座の上に大きく枝を広げている菩提樹は、もちろん、仏陀の時代の樹ではない。元の樹は、イスラム教徒に切り倒されてしまった。現在の樹は3代目と言われているが、初代の樹の血筋は引いているらしい。ブッダガヤの初代の挿し木と言われるスリランカの古都・アヌラーダプラの菩提樹から、再度挿し木をされたものとのことである。季節はちょうど乾期のため、菩提樹は盛んに葉を散らしている。その落ち葉を人々は争って拾い集める。私も数枚の落ち葉を拾った。これに勝る記念品はない。

 菩提樹の下に座り込み、祈り続ける各国の僧侶や巡礼者を感動をもって眺めていたら、かわいらしい少年僧に話し掛けられた。インド人で10歳だという。インド人だということにちょっと驚く。隆盛を極めたインドの仏教は、13世紀以降インドを支配下に置いたイスラム勢力の弾圧により壊滅する。イスラム勢力が衰退した後は、ヒンズー教勢力の天下となり、仏教の広がる余地はなかった。ところが、20世紀半ばにいたり、インドの仏教はにわかに復興の動きを強めるのである。その中心となったのは、ヒンズー教と表裏一体をなすカースト制度により長年虐げられて来た不可触民(アチュート)である。そして、この動きを指導したのはインド独立後の初代法務大臣で自らも不可触民出身のビームラオ・ラムジー・アンベードカル(1891〜1956)と、その後を継いだ日本人僧侶・佐々井秀嶺(1935〜)である。

 ビームラオ・ラムジー・アンベードカルはヒンズー教枠内での被差別カースト解放運動に絶望し、1956年、被差別カースト38万人を率いて、カースト制度を否定する仏教へ改宗した。インドの仏教復興運動はこの時から始まった。彼の死後、運動はいったん萎むかに見えたが、単身インドに乗り込んだ佐々井秀嶺が、その後を継ぎぐや、運動は大きな奔流となってインドの大地を流れ出した。現在インドの仏教徒は公式記録では人口の0.8%、数百万人であるが、既に1億人を越えたとの説もある。

 マハーボディ寺の南側に割合大きな池がある。仏陀が沐浴したと言われる蓮池である。大きなナマズが沢山いて、岸辺では餌まで売っている。池の中央にはナーガに守られた仏陀の像が建っている。ふと気がつくと、カメラがない。青くなって菩提樹のところに引き返した。カメラはあった。タイの巡礼者が保管してくれていた。「コップンクラップ マーク(大変ありがとうございます)」である。さすが、聖地、お釈迦様が守ってくれる。しかし、この旅で二度目の忘れ物である。少々どうかしている。

 
 第四節 セーナー村

 マハーボディ寺院を辞して、セーナー村に向かう。ブッダガヤの東側を北から南に流れるナイランジャラー川(尼連禅河)の川向こうである。川沿いの道を北へ向かう。この道が、ブッダガヤ村のメインストリートである。ただし、土産物屋などの巡礼者相手の店はない。村人本来の生活の場である。オートリキシャのたむろする道を500mも進むとナイランジャラー川に架かる橋のたもとに出た。川は乾期のためか1滴の水も流れていない。まるで砂漠のようにただ一面の砂の原である。川幅は1キロもあるだろうか。大きな川である。サイクルリキシャがしきりに声を掛けてくるが、無視して橋を渡る。真昼の太陽が照りつけ、猛烈な暑さである。

 橋を渡りきると右側に小さな村落がある。セーナー村である。左側はただ一面の麦畑で、その中に椰子の木が点々と茂っている。遥か向こうに低い岩山が見える。苦行断念後、悟りを得るべくシッダールタが瞑想の場とした前正覚山、標高150メートルの小さな岩山である。村の子供や青年がしきりに寄って来て、ガイドを申し出る。全て"No Thank You"と断る。

 妻子を捨て、カピラヴァストゥ城を後にしたシッダールタは各地の高名な師や修行者を訪ね歩き、その下で修業を重ねたが、求める真理の探求を果たすことは出来なかった。シッダールタは、他人をあてにせず自らの力で真理の探索を果たそうと、ウルヴェーラー(先ほどのブッダガヤ村のメインストリートを少し南に行った辺りらしい)において、6年とも7年とも言われる極限の苦行生活に入る。しかし、やはり求めるものを得ることは出来なかった。シッダールタは苦行は苦痛を伴うだけで真理の探究に到る道筋ではないことを知り、苦行を断念する。長年の極限の苦行により生死の境にあったシッダールタを救ったのは、セーナー村の娘スジャータの供養した乳粥であった。元気を取り戻したシッダールタは前正覚山、続いてブッダガヤの菩提樹の下で瞑想し、ついに仏陀となるのである。

 ぶらりぶらりと村の中に進入する。貧しい小さな村だ。小さな学校があった。子供たちが群れている。その前に何と! 「日本語を教えます」のポスター。何でこんな小っちゃな村に日本語なんだ。学校の前に、思わぬことに、古色蒼然たる塚があった。案内板を読むと、スジャータの住居跡に彼女の得を讚えて建てられた塚であることが分かる。5世紀のグプタ朝時代のもので、高さ18m、直径35mの煉瓦造りである。スジャータは仏教において聖女のイメージである。さらに村の中心部へ侵入する。子供たちがまとわりついてくる。通りかかった老人が「子供に注意しないと危ないよ」と忠告して行く。貴重品をすられる心配があるのだろう。

  
 第五節 ブッダガヤの一日

 3月30日(金)。昨夕、マハーボディ寺院の周辺を散歩していたら、何と、アザーンが大音響で響き渡りだした。仏教の聖地に何でイスラム教のアザーンが、びっくりして、声の方に行ってみると、何と、マハーボディ寺院の隣はモスクではないか。なにも、こんな所に建てなくてもよさそうなものである。イスラム教の攻撃性の現れだろう。不愉快な気持ちになった。

 明日、列車でガヤからコルカタへ向かうつもりなので、チケットを得るため列車予約センターへ行く。鉄道の通っていないこの地に、鉄道予約センターがある。インド国鉄の見上げたサービスシステムである。しかし、「サービス」という概念のないインドでは、窓口はいたって不親切である。ガヤ→コルカタは幹線なので列車は沢山あるのだが、どれも満席、結局、ガヤ発21時50分、Doon Exp. のSLクラスしかとれなかった。ホテルに帰り、その旨話すと、「明日は、部屋を一日使っていいよ。夜の7時ごろホテルの車で送ってやるから」と甘い言葉。他の国なら"Thank you very much"ですむのだが、ここはインド、そんなうまい話があるわけがない。「その場合、幾ら必要なの」と、すかさず聞くと、「部屋代半日分と車代500RP」との答えが返ってきた。冗談ではない。

 手持ちのルピーが少なくなったので、State Bank of Indiaへ両替に行く。入り口にATMがあったのでそちらに並ぶ。すると、後から来た若い男が、前へ割り込んできた。ムッとして、「後ろへ並べ」と一喝。男はブツブツいいながら引き下がった。まったくインド人はーーー。結局、手持ちカードでは、ATMは使えなかったので、両替をしようと銀行内へ入る。入り口の鉄扉は半開きで、ガードマンが物々しく立ち塞がっている。中に入ると、ここが銀行とは思えぬ情景である。得体のしれない男がゴロゴロしていて、ソファーでは、行員なのか客なのか、男が寝そべっている。両替は、例によって、途中まで数えると、追加の札が差し出された。

 各国寺院を訪ね歩く。マハーボーディ寺院の近くに中国寺、チベット寺、スリランカ寺がある。中国寺は台湾の仏教会が建てたもので、大陸中国とは無縁である。チベット寺もチベット亡命政権の建てたもので、ダライラマの写真が大きく飾られている。マハーボディ寺から1キロほど東にはタイ寺、ブータン寺、日本寺がある。タイ寺はまだ新築まもない、大きな寺でキンキラキンである。ブータン寺は小国ブータンらしく慎ましい寺で、ブータン建築の実に好ましい寺であった。日本寺は「印度山日本寺」と号し、日本の各宗派が力を合わせて建立した寺である。日本建築のしっとりとした落ち着いた寺となっている。

 日本寺で座禅が組めるとのことなので、夕方行ってみた。仏教最大の聖地で座禅を組むのもまた思い出になるだろう。参加したのは10数人、半数は欧米人であった。1人タイの僧侶も参加していた。30分の読経の後、30分の座禅である。仏陀になったつもりで座禅を組んだが、悟りを開くことは出来なかった。明日は、コルカタへ向かう。
 

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