おじさんバックパッカーの一人旅
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2007年3月24日~3月30日 |
第9章 ヒンズー教最大の聖地・バナーラス
第1節 バナーラスへの列車の旅 3月24日(土)。今日は列車でバナーラス(ベナレス)へ向かう。言わずと知れたヒンズー教最大の聖地である。ヒンズー教徒ならば一生に一度はバナーラスへ巡礼することを夢見るという。列車のチケットは既に取得ずみである。ゴーラクプル発6時35分、急行LJN MUV号である。駅までほんの5分なので、6時にホテルを出ればいいと言ったのだが、デビットが強固に5時30分出発を主張する。ちゃらんぽらんなようで、慎重なところもある。
駅の売店で、水とパンを買っていたら、何の前触れもなく、突然列車が動きだした。多いに慌てる。デビットがデッキから身を乗り出して、「早く早く」と叫んでいる。必死で走る。インドの列車は車両間の移動が出来ないので、自分の車両に乗らなければならない。危うく飛び乗ってやれやれである。それにしても、発車するなら、ベルを鳴らすなり、放送するなり、汽笛を鳴らすなり、何か合図をして欲しいものだ。 列車はガラガラであった。今回の座席は3Aグレードである。エアコン車で、夜は3段ベット、昼は一番下のベッドを3人掛けで使う仕様である。幸い座席は私一人である。座席に寝転がってうとうとする。昨夜も蚊の攻撃が激しく、ろくに寝ていない。案の定、冷房が利きすぎて寒い。デビットとは車両はいっしょだが席は離れている。車内販売もなく、駅で停車しても物売りはやって来ない。窓外はどこまでも麦畑の続く田園風景である。車内ではまったくタバコが吸えない。 サールナートの駅を過ぎると大きな街に入った。バナーラスだろう。Varanasi City駅に着いた。ふと見ると、デビットが荷物を抱えてホームに降り立っている。「おぉい、この駅は違うぞ。降りるのはVaranasi Jn駅だ」。慌てて呼び戻す。13時30分、列車は1時間30分遅れでVaranasi Jn駅に到着した。と、同時に、リキシャワラ、ゲストハウスの客引き、その他得体のしれない人間数人に取り囲まれた。私は娘の定宿となっているガンガー(ガンジス川)沿いのG.H.へ行くつもりでいる。デビットに「どうするんだ」と聞くと、「一緒に行く」と言う。彼はバナーラスに一泊して、すぐにアーグラに行く予定なので、駅近くに宿を見つけたほうが便利だと思うのだがーーー。私から「さよなら」も言いにくい。 ガート(沐浴場)入り口であるゴードウォーリヤまで、30RPの言い値を20RPに値切って二人してサイクルリキシャに乗る。意外に遠い。20分ほどで、ごった返す繁華街の真ん中で降ろされた。ここがゴードウォーリヤだという。ここから先は、リキシャも進入禁止である。さて、「どっちへ行ったらいいのだ」。ガイドブックを開いていると、何人かの若者が次々と、「どうしたの」「どこへ行くの」などと、軽い感じの日本語でそれとなく話し掛けてくる。こういう連中が一番危ない。目指すG.H.はここからさらに1キロほど歩くことになる。デビットが、「やっぱりこの辺で宿を探す」と言い出した。別れることにする。別れるとなると、やはり寂しい。いいやつだったがーーー。「また、いつか、世界のどこかで会おう」。また一人になってしまった。 Vishunu Rest Houseにチェックインする。受付の親父は余り感じがよくない。ガンガーに面した部屋は700RP(約1960円)、ただし今日は満室で、明日になれば空くと言う。350RP(約980円)という川の見えない部屋に放り込まれてしまった。意外に高い。部屋も小さく、天井のファンもない。トイレも現地スタイルである。何となく気にくわない。遅い昼飯を食べに行ったら、別のG.H.から「部屋を見て見ないか」と誘われた。ガンガーこそ見えないが、部屋はVishunu R.H.よりもよく、しかも料金は150RP(約420円)だという。頭に来て、Vishunu R.H.に戻り、強固に値引き交渉をする。なんとか300RP(約840円)にはなった。それでも釈然としないがーーー。
さらに少し下流に行くと、マニカル二カーガードに出た。バナーラス最大の火葬場である。周辺は薪となる大木がうずたかく詰まれ、川にせり出した数個の台座の上で、遺体が焼かれている。異様な匂いが立ちこめ、何とも異様な場所である。写真は禁止されているが、見学は許されている。白(男)や朱(女)の布に包まれ、竹の担架に乗せられた遺体が運ばれて来る。遺体は一度ガンガーの水に浸された後、積み上げられた薪の上に置かれる。火がつけられ、灰と化すまで約3時間、人々の目の前で焼かれていく。灰と化した遺体は無造作にシャベルでガンガーへ放り込まれる。その間、何ら宗教的儀式は行われないし、死者の尊厳に配慮するようなこともない。まるで、ゴミを焼いているようにさえ思える。このガートで焼かれ、灰がガンガーに流されるのがヒンズー教徒の最大の望みだという。日本の文化の中で育った我々には理解しがたい行為であるがーーー。 ガートを歩いていると、いろいろな声がかかる。一番多いのが、「ボートに乗らないか」である。目的もはっきりしているし余りしつこくもない。次に多いのが、「どこへ行くの」「何してるの」などと、親しげな日本語で話し掛けてくる若者である。皆、完璧な日本語をしゃべる。この輩は一番危ない。うっかり付いていって身ぐるみ剥がれた例も多いし、このバナーラスで忽然と行方不明になった日本人も数知れないと言われる。物乞いも多い。 いったん、G.H.に帰る。今日は部屋を替えてもらう約束である。「どうなっているのか」と聞くと、「今日はダメ、明日また」との答え。怒り心頭に達する。舐めるのもいい加減にしろ。即座に、「明日チェックアウト」と言い放つ。すぐに代わりのG.H.を見つけに行く。数軒先で満足な部屋を見つけた。ガンガーに面した部屋が400RP、川の見えない部屋が200RPだと言う。これが適正価格だろう。Vishinu R.H.はめちゃめちゃぼりやがった。400RPの部屋を300RPに値切り、明日朝チェックインすることにする。 ガンガーの左岸に沿って広がる街並みが旧市街である。狭い路地がアリの巣のように張りめぐされ、迷い込むと方向感覚さえ失う。両側は4~5階建ての建物が立ちはだかり、路地は昼間でも薄暗い。1階部分は小さな店舗である。人がやっとすれ違えるほどの、この狭い路地を牛が歩き周り、糞尿を撒き散らす。おまけに、猿まで住み着いている。さらに、けたたましい警笛を鳴らし、オートバイが進入してくる。G.H.の多くはこの路地の奥にある。 迷路を面白がって歩き廻っていたら、イスラム教徒の街に迷い込んだ。この路地の奥にイスラム教徒の街が隠れていたのだ。女は全て黒覆面、男は白いイスラム服に小さなイスラム帽子。迷い込んだ異国人に非友好的な鋭い眼差しを向ける。逃げ出そうともがくが、路地は迷路、アリ地獄である。 夕方、旧市街の中心にあるヴィシュワナート寺院に行ってみる。聖都バナーラスの信仰の中心となるヒンズー教寺院である。5世紀建立と言われるが、1669年にムガール帝国のアウラングゼーブ帝により破壊され、モスクに改造されてしまった。現在の寺院は、1776年にその隣に再建されたものである。狭い参道は参拝者で溢れ、身動きできないほどであった。参拝用具や土産物屋が軒を並べ、またバナーラス名産のシルクを売る店も多い。所々に銃を携えた警官が立ち、警備も厳重である。しかし、ヒンズー教徒以外は中に入ることが出来なかった。諦めて戻る。 夕飯を食べに行ったら、韓国から来たという青年と同じテーブルになった。名前を聞くとパクサンユンと名乗り、漢字で朴相胤と書いてくれた。
8時過ぎ、Vishunu Rest Houseを引き払って、昨日予約したSita Guest Houseに移る。最上階に素晴らしい展望のレストランがある。ここで、スウェーデンから来たという青年に声を掛けられた。これからネパールに行くので、情報が欲しいという。私がネパールで買ったTシャツを着ていたので、ネパールから来たと分かったらしい。会社を辞めて5ヶ月のインド大陸の旅を楽しんでいるとのことであった。 明後日列車でブッダガヤへ行く予定なので、フロントに切符の手配を頼む。60RPの手数料をとられたが、リキシャに乗って駅まで行く費用と時間を考えれば、このほうが安い。手持ちのルピーが少なくなったので、ゴードウリヤー付近のIndian Bankへ両替に行く。イメージとは裏腹に、商店の二階の小さな店構えであった。行ってみると、入り口の鉄扉は半開きで、開店しているのかどうか一瞬迷う。と、男が寄って来て、「今日は祝日で閉店である。ただし、近くの別の支店が開いているのでそちらに案内する」という。連れ込まれたところは両替屋、典型的なだましのテクニックである。慌てて逃げる。後で知るのだが、インドの銀行は、どこも入り口の鉄扉は半開きで、身をかがめて中に入る。防犯上の処置と思うが異常な雰囲気である。と言うことは、この時も銀行は開店していたのだろう。 今日はガートを上流にたどってみる。陽が昇るに従い猛烈な暑さが襲ってきた。10数頭の水牛が沐浴しているガートがある。実に気持ちよさそうである。ガートには猿も住み着いている。ガートに落ち込む急斜面を赤ん坊猿を背中に乗せて駆け回っている。 ガートは巡礼者の沐浴場であるとともに子供たちの仕事場兼遊び場である。観光客をボートに誘い、お供え用の花を売る。そして、ガンガーで泳ぎ、狭いガートでクリケットをする。このバナーラスのガンガーには84のガートがあるという。各ガートには各々物語があり、歴史がある。祀る神も違う。賑わっているガート、廃れてしまったガート、歩いていると、各ガートの違いがよく分かる。ガンガーの対岸はただ砂洲が広がっているだけで何もない。不浄の地とされており、近寄るものも少ない。
第一節 サールナートへ サールナートはバナーラスの北東約10キロにある小村である。悟りを開いた仏陀が初めて説法した場所として知られている。仏教4大聖地の一つである。今日はこの地にOne Day Tripする。 行き方をG,H.で聞くと、「750RPでタクシーをチャーターしろ」の一点張り、埒が明かない。このG.H.も到って不親切である。オートリキシャで行くことにする。ゴードウリヤまで出ると、リキシャワラがどっと取り囲み、奪い合いとなった。互いに罵りあい、小突きあいまで始まる。彼らとて必死なのだ。200RPの言い値がどんどん下がり、オートリキシャ100RP、サイクルリキシャ80RPが提示された。100RP提示のオートリキシャに乗り込むと、敗けたワラが、「どうせ、あとで200RP請求されるぞ」と悪態をつく。ともかくリキシャは発車した。ところが何と、途中で手を挙げた女二人を乗せるではないか。「おいおい、貸し切りではないのかいな」。こんなのは初めてだが、女も平気で乗ってくるところを見ると、インドでは常識なのかも知れない。2人用の座席に3人詰め込まれて、窮屈この上ない。まぁ、隣が女性だから我慢するが。 女が降りて、しばらく走ると、今度はガソリンスタンドでストップ。おまけに、ガソリン代として100RPを前払いしてくれと言い出す。少々危険だが、懇願するので100RP渡す。さらに走ると、また男を一人乗せた。40分ほどで、ともかくサールナートへ着いた。するとワラは、あと40RPくれと言いだす。ふざけんじゃねぇや。後ろで、「40RP、40RP」と叫んでいるのを無視して立ち去る。
第二節 サールナート巡礼 菩提樹の下で悟りを開いた仏陀は、このまま死を迎えようと考えた。しかし、梵天(仏教の守護神)により、悟った真理を人々に説くようの強く勧められた(梵天勧請)。仏陀は先ず最初に、以前、ウルヴェーラーにおいて苦行をともにした5人の仲間に説こうと、彼らが修行をしているサールナートの森へ赴いた。5人の修行者は仏陀の話に耳を傾けた。森にすむ鹿たちも、ともに聞き入ったという(初転法輪)。5人は順次悟りを得、釈迦に帰依した。ここに、最初の仏教教団が成立した。 きれいに整備された史跡公園に入る。広大な公園内は発掘された僧院跡や寺院跡の基礎レンガが並んでいる。この地は仏教の聖地として、紀元前より多くの僧院や寺院が建立された。紀元前3世紀には、アショーカ王もこの地を巡礼して記念の石柱を立てている。そして、4~6世紀のグプタ朝時代に最盛期を向かえた。7世紀には玄奘三蔵もこの地を訪れた。しかし、13世紀以降、イスラム勢力により破壊され、壮大な建物群は基礎石を残して地上から消え去った。それでも、史跡公園の東の隅に古色蒼然たる大きな仏塔が残されている。高さ34メートル、直径28メートルのダメーク・ストゥーパである。6世紀の建立と考えられ、この場所こそ、仏陀初転法輪の場所と考えられている。
バスで帰ろうと思ったが、バス停がよくわからない。ツーリスト・ポリスの詰め所で聞いてみると、「ここで待ちなさい。ちょうど一人が駅まで行くので一緒に行けばよい」と椅子を勧めてくれた。待つほどもなくバスはやってきた。きれいなバスで、運賃はわずか5RPである。駅に着くと、同行してくれた警官は、「どこまで帰るのか」と聞いたうえで、サイクルリキシャとの値段交渉までしてくれた。親切に多いに感激した。そして、この親切はインドで受け唯一の親切であった。 インドに入国して数日経つが、噂通り、インド人の「性悪」にはほとほとあきれ果ててしまう。以降の旅でその思いをさらに強めるのだが、彼らと、ホモサピエンスとしての遺伝子を共有しているとはとても思えない。不愉快な思いをさせられるたびに、「こいつら人間ではない」と自分に言い聞かせて、我慢に我慢を重ねた。
第一節 ブッダガヤへの列車の旅 3月28日(水)。いよいよ今日は、インドの旅のクライマックス、聖地ブッダガヤへ向かう。バナーラスからは列車でガヤまで行くことになるのだが、バナーラス駅は幹線上から外れている。このため、バナーラスから東に17キロほど離れたムガル・サラーイ駅から乗らなければならない。ムガル・サラーイ駅発10時55分のチケットは入手ずみであるが、駅までどうやって行くのか頭を悩ます。前日、G.H.に聞いても、「タクシー手配しようか」の一点張り、後は言葉を濁して何も教えてくれない。この国では、自分の得にならないことは、全て拒否である。「親切」と言う言葉は彼らの辞書にない。昨日、ムガル・サラーイ駅行きのバスが出るというベーニヤ公園に偵察に行ってみたが、最近このバスは廃止されたとのことであった。オートリキシャで行くよりしかたなかろう。 7時チェックアウト、相変わらず愛想もない。表通りにでると、サイクルリキシャワラに囲まれた。サイクルリキシャでは無理だと断ると、「バスの乗り場まで送る。それが一番安い」という。なるほど、説得力がある。着いたところはパナーラス駅前、各方面に向かうマイクロバス、ワゴン車、乗合いオートリキシャなどが到るところに駐車して、客の呼び込みをしている。1台の乗合いジープに身柄を引き渡された。ムガル・サラーイ駅に行くという。 乗客が集まらず、乗合いジープはなかなか発車しない。30分も待って、8時、9人分の座席に15人詰め込んで発車した。超ぎゅうぎゅう詰めで骨が軋む。1時間走り、9時にムガル・サラーイ駅に着いた。思いのほか大きな駅である。駅構内には、得体のしれない若者がたむろしている。デリーやコルカタからやって来る旅行者に悪さをする連中だろう。タバコを吸っていると、寄って来て「1本くれ」。誰がやるもんか。電光掲示板で表示されたホームで列車を待つ。 列車を待つ間に6人連れの青年と知りあった。聞けば、何と、メーガーラヤ州のシーロンへ帰るところだという。メーガーラヤ州はインド北東部に属する州である。この地域は、ブータン、チベット、ミャンマー、バングラデシュに囲まれ、インド本国とは狭い回廊でわずかに繋がっているだけの、飛び地のような地域である。いわばインドの秘境中の秘境である。民族もインド本国とは多いに異なる。ここから列車を乗り継いで3日程かかるらしい。「もし来ることがあったら、町を上げて歓迎する」と言ってくれたので、将来の楽しみが一つ増えた。 幹線上の主要駅だけに列車は次々とやってくる。電光掲示板が設置されているので、各列車の認識は出来るのだが、困ったのは、私の乗るべき車両がホームのどの辺に止まるのか皆目分からないことである。インドの列車は20両もの編成でその長さは200m近くなる。始発駅ならまだしも、途中乗車の場合、車両を見つけるのは停車時間との競争になる。日本のように1号車から順次と言うような分かりやすい編成にはなっていない。聞こうにも、駅ホームには駅員の姿は皆無である。保持しているチケットの私の座席は"PURSHOTTAM EXP. S3 52 LB"である。S3の車両を見つけなければならない。 10分遅れでPURSHOTTAM急行がやって来た。青年達が協力して車両を見つけ、荷物を運んでくれた。今回は冷房なしの3段ベッド車(SLクラス)である。昼間は、下段ベッドが3人掛けの座席、中断ベッドが背もたれ、上段ベッドが荷物置き場となる。座席指定車としては最低ランクであり、車内はインド社会の縮図となる。インドの列車では、座席の不法占拠は日常茶飯時という話を聞いていた。すなわち、座席指定券を持っていても、行ってみると、他人が不法に占拠していて、どかすのに大変苦労する(時には、どかない)らしい。幸い、私の席は空いていた。しかし、上段ベットは男が不法占拠し寝そべっている。当然指定券など持たない輩である。また、3人掛けシートのうちの1人分が大きな荷物で占拠されている。従って2人分のスペースに3人腰掛けることになり窮屈きわまりない。荷物の持ち主は悪びれた様子もなく平気な顔をしている。インド人の厚かましさ、厚顔無恥の典型である。インド人には人類普遍の常識は通用しない。 走行中もいろいろな輩が現れる。物売り、物乞い、そして隙あらば、座席を占拠しようとする者。向かいの席には英国人のカップルと韓国人の青年が座っていたのだが、男がやってきて、ずうずうしくも、座席の端に座ろうとした。さすがに英国人の男が怒った。声を荒らげ、"Stand up"。男はすごすご去っていった。車掌はいるのだが、これら不法搭乗者を取り締まろうとはしない。天井で扇風機は回っているのだが、さすがに暑い。窓外はどこまでも麦畑が続いている。ただし、進むに従い乾燥度が増しと行くのが分かる。3時間も走ると、大きな水のない川を渡る。乾期の今は干上がっているのだろう。突然、小さな岩山がぽつりぽつりと現れる。 14時、列車はガヤ駅に到着した。多くの人が降りる。英国人のカップルも韓国の青年も降りた。駅舎をでると、あっという間に数人の男に取り囲まれた。オートリキシャワラたちである。ブッダガヤはここから16キロほど南に位置する。バスもあるようだが、バススタンドは鉄道駅から2キロも離れている。オートリキシャで直接行くのが正解のようである。ただし、寄って来た連中はどう見てもハイエナだ。100RPとか80RPとか口々に言っているが裏があるに決まっている。客待ちしていた乗合いオートリキシャが80RPと言うので飛び乗る。ガイドブックには60~90RPと記されている。 乗合いオートリキシャは客を集めまくって、何と、8人も乗せた。何人かは、車体にぶら下がっているだけである。ブッダガヤは意外に遠かった。30分ほど走り、ようやく到着した。約束の80RPを支払うと、ワラがもう20RPくれと言いだす。冗談ではない。一喝すると諦めた。リキシャに乗るときは、ちょうどの金額を渡さなければならない。お釣りは絶対によこさないのだから。500RP+税の言い値を込みで450RPに値切り、Hotel Embassyにチャックインする。オーナーは日本語ぺらぺらで、いやに愛想がいい。
本堂の裏手に廻る。大きな菩提樹が茂っている。この菩提樹の下で、ゴータマシッダールタは悟りを開き仏陀となった。仏陀が座した場所には金剛宝座が設けられている。各国の僧侶、巡礼者がその周りに座し、熱心に祈りを捧げている。まさにここは仏教最大の聖地なのだ。 夕暮れが迫ってきた。ホテルに戻ると、観光バスが横付され、140名のスリランカからの大巡礼団が到着していた。インド亜大陸の南端のインド洋に位置するスリランカは仏教を国教とする小さな島国である。北インドにおいて多いに栄えた仏教は、13世紀以降北西から侵攻してきたイスラム勢力により排除され、15世紀にはインド亜大陸から姿を消す。その中にあって、唯一仏教が生き残ったのはスリランカであった。しかも、このスリランカの仏教は13世紀以降、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアへと伝播し、上座部仏教として現在の隆盛に繋がった。スリランカはいわば仏教の第二の故郷である。これだけの巡礼団が泊まるのでは、今晩はさぞうるさかろうと、覚悟していたが、夜10時を過ぎると物音一つしなくなった。 宿のオーナーがシンハラ語(スリランカの国語)で対応している。一体何カ国語話せるのかと聞いてみると、英語、日本語、タイ語、中国語、チベット語、シンハラ語、ネパール語、ヒンズー語との答えが返ってきた。実に8カ国語である。「各仏教国からの巡礼団を受け入れるので、これだけしゃべれないと商売にならない」と笑っている。インド人はまさに天才である。この点からも、我々と同種の人類とは思えない。
金色に輝く仏陀に問うた。「汝神なりや」「神なりせば我は手を合わせむ。されど、我は思う。汝神にはあらず。真理探究の先達なり。故に、我頭をたれて汝が教えを聞かむ。されど、手合わさずして去らむ」。
金剛宝座の周りは石垣で囲まれていて、小さな入り口から一人一人中に入れるようになっている。その前には行列が出来ている。私も行列に並ぶ。金剛宝座は縦143cm,横238cm,厚さ13.5cmの石板で、表面には幾何学模様、側面にはガチョウが彫られているという。前3世紀、アショーカ王時代のものである。石板には布の覆いが掛けられている。その下に手を入れ、そっと石板を触る。何やら仏陀に直接触れたような心地よさが全身を覆う。この場所はまさに仏陀が座り、悟りを開いた場所なのである。 金剛宝座の上に大きく枝を広げている菩提樹は、もちろん、仏陀の時代の樹ではない。元の樹は、イスラム教徒に切り倒されてしまった。現在の樹は3代目と言われているが、初代の樹の血筋は引いているらしい。ブッダガヤの初代の挿し木と言われるスリランカの古都・アヌラーダプラの菩提樹から、再度挿し木をされたものとのことである。季節はちょうど乾期のため、菩提樹は盛んに葉を散らしている。その落ち葉を人々は争って拾い集める。私も数枚の落ち葉を拾った。これに勝る記念品はない。 菩提樹の下に座り込み、祈り続ける各国の僧侶や巡礼者を感動をもって眺めていたら、かわいらしい少年僧に話し掛けられた。インド人で10歳だという。インド人だということにちょっと驚く。隆盛を極めたインドの仏教は、13世紀以降インドを支配下に置いたイスラム勢力の弾圧により壊滅する。イスラム勢力が衰退した後は、ヒンズー教勢力の天下となり、仏教の広がる余地はなかった。ところが、20世紀半ばにいたり、インドの仏教はにわかに復興の動きを強めるのである。その中心となったのは、ヒンズー教と表裏一体をなすカースト制度により長年虐げられて来た不可触民(アチュート)である。そして、この動きを指導したのはインド独立後の初代法務大臣で自らも不可触民出身のビームラオ・ラムジー・アンベードカル(1891~1956)と、その後を継いだ日本人僧侶・佐々井秀嶺(1935~)である。 ビームラオ・ラムジー・アンベードカルはヒンズー教枠内での被差別カースト解放運動に絶望し、1956年、被差別カースト38万人を率いて、カースト制度を否定する仏教へ改宗した。インドの仏教復興運動はこの時から始まった。彼の死後、運動はいったん萎むかに見えたが、単身インドに乗り込んだ佐々井秀嶺が、その後を継ぎぐや、運動は大きな奔流となってインドの大地を流れ出した。現在インドの仏教徒は公式記録では人口の0.8%、数百万人であるが、既に1億人を越えたとの説もある。
妻子を捨て、カピラヴァストゥ城を後にしたシッダールタは各地の高名な師や修行者を訪ね歩き、その下で修業を重ねたが、求める真理の探求を果たすことは出来なかった。シッダールタは、他人をあてにせず自らの力で真理の探索を果たそうと、ウルヴェーラー(先ほどのブッダガヤ村のメインストリートを少し南に行った辺りらしい)において、6年とも7年とも言われる極限の苦行生活に入る。しかし、やはり求めるものを得ることは出来なかった。シッダールタは苦行は苦痛を伴うだけで真理の探究に到る道筋ではないことを知り、苦行を断念する。長年の極限の苦行により生死の境にあったシッダールタを救ったのは、セーナー村の娘スジャータの供養した乳粥であった。元気を取り戻したシッダールタは前正覚山、続いてブッダガヤの菩提樹の下で瞑想し、ついに仏陀となるのである。
3月30日(金)。昨夕、マハーボディ寺院の周辺を散歩していたら、何と、アザーンが大音響で響き渡りだした。仏教の聖地に何でイスラム教のアザーンが、びっくりして、声の方に行ってみると、何と、マハーボディ寺院の隣はモスクではないか。なにも、こんな所に建てなくてもよさそうなものである。イスラム教の攻撃性の現れだろう。不愉快な気持ちになった。 明日、列車でガヤからコルカタへ向かうつもりなので、チケットを得るため列車予約センターへ行く。鉄道の通っていないこの地に、鉄道予約センターがある。インド国鉄の見上げたサービスシステムである。しかし、「サービス」という概念のないインドでは、窓口はいたって不親切である。ガヤ→コルカタは幹線なので列車は沢山あるのだが、どれも満席、結局、ガヤ発21時50分、Doon Exp. のSLクラスしかとれなかった。ホテルに帰り、その旨話すと、「明日は、部屋を一日使っていいよ。夜の7時ごろホテルの車で送ってやるから」と甘い言葉。他の国なら"Thank you very much"ですむのだが、ここはインド、そんなうまい話があるわけがない。「その場合、幾ら必要なの」と、すかさず聞くと、「部屋代半日分と車代500RP」との答えが返ってきた。冗談ではない。 手持ちのルピーが少なくなったので、State Bank of Indiaへ両替に行く。入り口にATMがあったのでそちらに並ぶ。すると、後から来た若い男が、前へ割り込んできた。ムッとして、「後ろへ並べ」と一喝。男はブツブツいいながら引き下がった。まったくインド人はーーー。結局、手持ちカードでは、ATMは使えなかったので、両替をしようと銀行内へ入る。入り口の鉄扉は半開きで、ガードマンが物々しく立ち塞がっている。中に入ると、ここが銀行とは思えぬ情景である。得体のしれない男がゴロゴロしていて、ソファーでは、行員なのか客なのか、男が寝そべっている。両替は、例によって、途中まで数えると、追加の札が差し出された。
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