おじさんバックパッカーの一人旅
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2007年3月31日~4月11日 |
第12章 インド第二の大都会・コルカタへ
第一節 ガヤ駅での大騒動 3月31日(土)。今日は夜行列車でコルカタ(カルカッタ)へ向かう。西ベンガル州の州都にしてインド第二の大都会である。手持ちのチケットは21時50分発急行DOON号のSLクラスである。ホテルのチェックアウトタイムが12時、それから9時間50分をどう過ごしたらよいやら。朝、マハーボディ寺院を訪問して、仏陀にお別れの挨拶をする。次にまみえるのはあの世であろう。 12時、チェックアウト。もはや、ぼったくるネタのなくなったホテルは何の愛想もない。オートリキシャの乗り場はちょっと遠い。途中昼食に寄った食堂の兄ちゃんが、「ガヤまで行くならオートリキシャを手配するよ」と申し出た。この炎天下、重荷を背負って乗り場まで歩くのも煩わしい。100RPだと言うので、手配を依頼する。すぐにやって来たオートリキシャはピッカピカの新車、しかも、途中で手を上げる人を全て無視し、私一人を乗せてガヤ駅へと直行した。たまには、まともなインド人もいるわい。嬉しくなった。 駅に着いたものの、まだ12時半、長い長い待ち時間が始まる。荷物を預けるところはないかと、駅構内を探したら"Cloak Room"の看板を見つけた。荷物を預け、ガヤの街を探索にいざ出発。と言っても、この街に何か見どころがあるわけではない。それにしても強烈な暑さだ。30~40分歩いて、街の中心と思しきところまで行ってみたが、何ともひどい街である。街中ゴミだらけ、ドブは真っ黒に淀み、その水が道路にまで溢れ異臭を放っている。おまけに、狭い道路はもうもうたる土ぼこりで、その中をオートリキシャ、サイクルリキシャ、ダンプカーが走り回っている。さらに、牛が糞をまき散らしながら、のそりのそりのそりと歩き廻る。街並みも汚く、大型のビルなど一つもない。あまりの暑さにどこかでひと休みと思うが、そのような場所もない。散々うろついたが、面白いことは何もなかった。 駅に戻ったものの、まだ15時、乗車まで7時間もある。駅には大きな待合室があるのだが、ホームレスが住み着いていて、とても入る気はしない。駅前広場の一角に座り込んで、ただぼんやりと時間を過ごす。駅構内の食堂で夕食。日暮れとともに、駅前広場は人が集まりだし、各々寝場所を確保し始める。ゴーラクプルの駅で眺めたのと同じ風景が出現する。駅入り口ホール及びホームにあった電光掲示板が消えてしまい、列車の運行状況が分からなくなってしまった。私の列車は何時間遅れるやら。まともに来るとは思えない。ふと荷物が心配になった。"Cloak Room"がクローズされてしまっては、大変である。聞きに行くと、24時間営業しているとの答えに安心する。 駅構内に、"May I help you"との看板を掛けた事務所がある。案内所だろう。夜8時、ここへ、私の乗る列車の運行状況を聞きに行った。この時から、大騒動が始まった。結局私の勘違いが原因であったのだがーーー。事務所に入り、手持ちのチケットを示して「この列車の到着はいつごろになるか」と聞いた。すると、チケットを眺めた駅員は、「この列車は今日は来ない。31時間遅れる」との答え。青くなった。「コルカタへ行きたい。どうしたらいいのだ」「予約窓口へ行って、列車を変更してもらえ」。予約窓口へ行くも、「今晩の夜行列車は全て満席です」「どうしたらいいんだ」「○○へ行って相談せよ」。3箇所ほどたらい回しにあって埒が明かない。絶望的な気持ちになる。 ついに"Who can help me? "と悲鳴を上げた。すると、「駅長室へ行け」との答え。こうなればどこへでも行ってやる。入るのを一瞬びびるほど立派な駅長室に飛び込んだ。大きな部屋の大きなデスクに、立派な髭を貯えた男が座っていた。突然飛び込んできた私にちょっと驚いた様子であったが、「どうしましたか」と静かに迎えてくれた。チケットを示して、「この列車は今日は来ない、31時間遅れると言われた。コルカタまで行きたいので何とかして欲しい」と懇願した。渡されたチケットをしげしげと眺めていた駅長は、にっこり笑って、「このチケットは違います。別のチケットを持っているでしょう」という。返されたチケットをしげしげと眺めてみると、何と、何と、何と、ムガールサライ→ガヤ、すなわち来るときに使用したチケットではないか。肩の力がいっぺんに抜けた。バッグの中を探ると、正規のチケットが出てきた。駅長は大笑いして「この列車は今日来ますよ。少し遅れるがーーー」。 駅構内をぶらついていたら、神奈川から来たという若者に出会った。私と同じ列車でコルカタまで行くという。荷物を引き出し、二人でひたすら列車を待つ。事務所に頻繁に列車運行状況を聞きに行くのだが、定刻21時50分に対して、→0時30分→1時と聞くたびに遅れが大きくなる。デリーとコルカタを結ぶインド最大の幹線上の駅だけに、列車は頻繁にやってくるのだが、英語アナンスもなく、電光掲示板も消えたままなので、列車を認識できない。ホームに駅員はいない。列車がやって来るたびに、付近の乗客に、Doon号か否かを聞かざるを得ない。 深夜の1時30分、3時間40分遅れてようやく急行Doon号が到着した。所が、私の乗るべき車両が見つからない。ホームの灯は薄暗く、聞こうにも駅員はいない。焦ってホームを駆けずり回っていたら、荷物運搬人(日本の赤帽、インドでは赤服)が"I can help you"と声を掛けてきた。もちろんチップを取られるのは承知の上だが、緊急事態である。"O.K. Help me"と答えると、「走れ!」と、人込みをかき分けてホームを走りだした。必死で後を追う。席に着くと同時に、列車は走り出した。 今回も、冷房なし、3段ベットのSLクラスである。周りは全てインド人であった。上段の私の席は幸いにも不法占拠されていなかった。ベッドに横になりホットする。しかし、頭がさえて寝られたものではない。
第二章 酷暑の大都会・コルカタへ 4月1日(日)。まんじりともせず夜が明けた。窓の外はどこまでも青々とした稲田が広がっている。ベンガルに来たんだなぁとの思いが強い。列車が停まるたびに、多くの物売りが列車内にも侵入する。街並みが連続するようになり、コルカタは近そうである。すると列車は停車を繰り返すノロノロ運転となった。満席であった乗客はどんどん降り、車内はガラガラになる。 11時、4時間の遅れで終点ハウラー駅に到着した。さすがインド第二の大都会のメイン駅、実に巨大である。人々の後について駅舎を出ると、プリぺイドタクシーの乗り場があった。安宿街のサダルストリートまで65RPだと言う。インドに入国以来初めてタクシーを見た。ただし、全てのタクシーがインド国産のアンバサダー、時代掛かった丸っこいスタイルである。駅前の雑踏を抜け、コルカタを南北に貫くフーグリ川をハウラー橋で渡る。大きな川である。
街を南北に貫くコルカタのメインストリート・チョウロンギ通りから、東に入った小さな通りがサダルストリートであった。この通りとそこから派生する路地に何軒かの安宿が固まっている。もう少し賑やかな安宿街をイメージしていたのだが、何やらうらぶれた貧相な街である。タクシーを降りると同時に、何人かの紹介屋に付きまとわれた。振り切って、この辺りで一番きれいと思われるAshreen G.H.にチェックインする。1泊440RPと少々高めである。 荷物を置くとすぐに旅行社へ行く。明後日、オリッサ州のブバネーシュワルとプリーへ行くつもりなので、往復の列車のチケットを手配、あわせて、バンコクまでの航空券の手配をする。いよいよ帰国へ向けての準備である。Jet Airwaysを187US$で予約できた。これで日本に帰れる。街を少々ぶらついてみる。チョウロンギ通りは賑やかである。冷房の入った大きなショッピングモールもあり、人々で賑わっている。ネパールも含め、初めて都会らしい都会に出会った。 コルカタに入ってから言葉が変わった。ヒンディー語の世界からベンガル語の世界へ入ったのである。懐かしい言葉である。ちょうど1年前に旅したバングラデシュで使われていた言葉である。幾つかの単語を思い出した。夜に入っても暑さが凄まじい、テレビを見ていたら、「明日の予想最高気温、コルカタ44℃」と表示されている。尋常ではない。部屋の天上で扇風機が回っているが、熱風を吹きつけるだけである。とても寝られたものではない。窓を開けるといくらか涼しいが、蚊が侵入してくる。
4月2日(月)。今日は一日コルカタを探索するつもりでいる。とは言っても、たいして見どころのある街ではない。ただし、この街には、最も崇高な神が座す。その名はマザーテレサ(1910~1997)。おそらく、20世紀の世に現れた最も気高い神であったろう。人間がどこまで残酷になれるかを示したのがキリスト教の歴史であるならば、人間はどこまで慈悲深くなれるのかを実践したのが、マザーテレサであったろう。彼女がカトリックの修道女の姿を借りてこの世に現れたのはいささかの皮肉にも思えるが。彼女の活動は、おそらく、厳密に言うなら、キリスト教の教義では異端に当たるのではないかと思える。少なくとも、キリスト教の教義の範囲を遥かに超えていた。故に、その活動は世界中の人々を感動させた。コチコチのヒンズー教国家インドさえもが、国葬をもって彼女を送った。 コルカタの街には、もはや世界中でこの街にしかないという乗り物がある。人間の曳く昔ながらのリキシャである。1997年以降、新規ライセンスを発行しなくなったので、いずれ消えゆく運命と言われているが、未だ多数のリキシャが鈴の音を響かせながら走っている。G.H.を出るとすぐに、リキシャワラが声を掛けてきた。一度ぐらいリキシャに乗ってみるのもよかろう。マザーテレサの活動の拠点であったマザーハウスまで約2キロの距離である。50RPと言うので乗る。でこぼこ道を木製車輪で走るのだから乗り心地はお世辞にもよいとは言えない。牛や犬や裸足の子供たちが駆け回る路地を20分も進むと、ワラが「ここだ」と一つの建物の前で車を停めた。何の変哲もない建物で、案内板一つ掛かっていない。これでは一人で来たら分からない。門はなく、道からいきなり玄関である。
マザーテレサは逝ってしまったが、その活動は多くの人々に引き継がれた。今も、このマザーハウスには世界中からボランティアが押し寄せている。ここで、ボランティアをすることが若者のファッションにさえなっている。マザーテレサも天上から微笑みをもって見つめていることだろう。
マザーハウスから引き返し、今度は街の南部にあるカーリー女神寺院に向かう。カーリー女神とはヒンズー教の神で、血と酒と殺戮を好む女神である。シヴァ神の妻の一人で、全身黒色、4本の腕を持ち、口から牙をむき出し、髑髏の首飾りをしている。おどろおどろしい神である。何で、こんな化け物が信仰の対象になるのか理解に苦しむがーーー。 地下鉄で行こうと思ったが、どういうわけか、今日は地下鉄が運休している。タクシーで行く。コルカタのタクシーはメーター制なのだが、メーターが改正運賃に追いついていないとかで、表示金額の約2倍取られる。少々いい加減である。チョウロンギ通りを南に走り、ごみごみした、いかにも門前町風の街並みの中で降りる。お供え物や土産物を売る商店の並ぶ道を人の流れに沿って進むと、目指す寺院に着いた。
しかし、このヒンズー教はインドだけのローカルな宗教ではない。紀元前後から東南アジア一帯に広く広がったグローバルな宗教である。アンコール王国もチャンバ王国もインドネシアに興った諸王朝もヒンズー教を国教とした王朝であった。インドネシアのバリ島は今もヒンズー教の世界であり、仏教国タイにもヒンズー教の影響は未だに色濃く残っている。 今日もめちゃくちゃに暑い。どこかにミネラルウォーターかコーラでも売ってないかと、探してみたが、その様な上等な店はない。ついに我慢出来ず、道端の氷水屋で思いきり氷水を飲んでしまった。極めて危険な行為である。おそらく、すぐに激しい下痢がやって来るだろう。ところが翌日になっても何も起こらない。今回の旅は未だに腹を壊さない。身体もインド人になってしまったか。タクシーに乗って帰る。
第1節 ブバネーシュワルへの列車の旅 4月3日(火)。今日から6日間、オリッサ州への旅に出る。オリッサ州はインド東海岸部に位置する州である。紀元前3世紀にカリンガ王国がこの地に栄えた。インド亜大陸最初の統一王朝となるマウリヤ王朝に最後まで抵抗した強国である。カリンガ王国は、結局、前260年、マウリヤ朝のアショーカ王によって滅ぼされるのであるが、この戦いは10万人もの戦死者を出す悲惨なものであった。この悲惨な戦いが、アショーカ王を深く仏教に帰依させた理由だと言われている。カリンガ国滅亡後、この地にはガンガー国(5世紀)、後期ガンガー国(10世紀~15世紀)などの小国が興亡したが、強国の興ることはなかった。しかし、東西貿易の中継地として繁栄を続け、独自の文化を発展させた。特に中世においてはオリッサ形式と呼ばれる独自のヒンズー教寺院建築様式を生みだした。今日は先ず州都・ブバネーシュワルを目指す。 余分な荷物を全てG.H.に預け、サブザック一つで行くことにする。早朝5時45分、G.H.を出る。フロントには誰もいない。外に出るとタクシーは既に動いていた。ハウラー駅に向かう。早朝にもかかわらず駅は通勤客や旅行者で混雑していた。実に大きな駅である。ホームも20番線まである。雰囲気としては30~40年前の上野駅という感じである。私の乗るべき列車は、7時20分発の急行Falaknuma号ブバネーシュワル行きである。電光掲示板によると18番ホームなのだが、このホームが見つからない。しばらくうろうろした揚げ句、17番~20番ホームは別棟であることが分かった。ちょっと分かりにくい。早めにやって来たので、慌てることもなかった。発車30分前に列車は入線した。 ホーム売店で水とパンを買って列車に乗り込む。今回は奮発して2Aクラス、すなわち冷房完備の2段ベッド車である。昼間は下段ベッドが2人掛けの座席となる。列車は定刻に発車した。満席である。ところが、発車するとすぐに、各座席とも、2人掛けのうちの1人が上段ベットに昇り、寝台仕様で使用し始めた。おまけに、毛布と枕、シーツも配られ始める。どういうことなのかよく分からない。仕方ないので私も、上段ベットに昇り、寝転がる。身体は樂だが、上段には窓がないので、外の景色が眺められない。係員が朝食の注文を取って歩く。有料なので私はパス。昨夜も強烈な暑さのため、ほとんど寝られなかった。冷房が心地よく、つい、うとうとしてしまう。インドの列車は揺れも少なく快適である。インドは鉄道王国である。鉄道網の総延長は6万3,000キロ、世界第4位の距離である。 列車は淡々と走り続ける。2Aクラスのためか、停車しても物売りはやって来ない。もっとも、窓も開かないが。昼近くなると、係員が昼食の注文を取って歩く。14時20分、30分ほどの遅れで、列車は終点ブバネーシュワル駅に到着した。真昼の太陽が照りつけ暑いが、どこかさらっとしていて、絡みつくようなコルカタの暑さとは異なる。人の流れにしたがって駅舎を出る。駅前は、整備事業をしたような空間が広がり、大きなロータリーがある。ガイドブック記載の小さな地図と照合するが、さっぱり分からない。しばらくうろうろした揚げ句、どうやら駅の反対側に出てしまったらしいと判明した。改めて、裏口に当たる駅の反対出口に回る。ごみごみした、ほこりっぽい街並みが広がっていた。こちらが旧市街である。街のメインストリートとなるCuttack Rdを進む。サイクルリキシャがしきりに声を掛けてくる。点々とホテルはあるのだが、いずれもいまひとつである。 30分も歩き続けると、Kalinga Ashokという立派なホテルがあった。たまにはまともなホテルに泊まってみるか。フロントの親父はインドには珍しく感じがよい。2,500RPの言い値を2,000RPまで値引きさせ、さらに、「もう一声」と言うと、「自分にはこれ以上の権限はない。マネージャとやってくれ」という。現れたマネージャはでっぷり太ったおばさん。"Indian Lady is very kind"とお世辞を言うと、1,900RPにしてくれた。この旅行中泊まった最高級ホテルである。エアコンはもちろんバスタブまである。
ブバネーシュワルは人口40万人ほどのオリッサ州の州都である。と、同時に古来、聖地として崇められてきた地でもある。7世紀~13世紀に掛けて無数のヒンズー教寺院が建立され、最盛期には7,000もの寺院があったと伝えられている。現在でも約500の寺院が残されており、寺町を形成している。この寺町の風情を楽しむためにこの街にやって来た。 日暮れまでにまだしばしの時間があった。散歩がてら街の西に広がる寺町へ行ってみる。街を歩いていて気がついたのだが、看板などに書かれている文字が、今まで見てきた明確な上線を持つデーヴァナーガリー文字(ネパール語、ヒンディー語)やベンガル文字(ベンガル語)とは異なり、丸味を帯びたオリヤー文字となっている。話されている言葉もオリヤー語に変わった。改めてインドの多様性を実感した。
途中、ラメスバラ寺院に寄り、12時半、ホテルに帰り着いた。ひと休みした後、ウダヤギリ、カンダギリの石窟群へ行ってみることにする。街の西約7キロの地点にある。オートリキシャと交渉して往復120RPで合意、一路街の郊外に向かう。車の往来の激しい広い道を進むと、前方に小高い丘が見えてきた。丘は二つに分かれており、向かって右がウダヤギリ、左がカンダギリである。丘の麓には数台の観光バスも駐車しており、観光客で賑わっていた。
ウダヤギリを下りカンダギリに登る。こちらには猿が沢山いて食べ物をねだる。サドゥーがいきなり、ヒンズー教徒の印の赤丸を額に付けようとした。とっさに身を引く。小銭を強要するに決まっている。案の定、「バクシーシー、バクシーシー」とわめいている。こちらの丘は山頂に寺院が建っていた。 街に戻り、オリッサ州立博物館に行く。入場料は外国人50RP、インド人5RPと10倍もの差を付けている。しかし、素晴らしい博物館であった。この地で発掘されたヒンズー教の神々の像が沢山展示されている。中に幾つかの仏像もある。一時的とは言え、仏教がこの地で栄えた時代もあったのだ。アショーカ王はカリンガ国との戦いの後、この地で仏教の修行者に出会い、仏教に帰依した。夕食に食べたカレーが猛烈に辛く、水をがぶ飲みしながら、何とか腹に流し込んだ。明日はプリーへ行く。
4月5日(木)。今日はオリッサ州のもう一つの中心都市・プリーへ向かう。そしてこの街が、今回のネパール、インドの旅の最終目的地でもある。プリーの街はブバネーシュワルから南に56キロ、道がベンガル湾に突き当たったところに位置する。プリーは二つの顔を持つ街である。一つは広大な砂浜の続くビーチリゾートとしての顔である。浜辺に沿って多くのホテルやゲストハウスが立ち並んでいる。もう一つの顔はインド4大聖地としての顔である。巨大なジャガンナート寺院の門前町である。 朝9時チェックアウト。ホテルの前の道端からプリー行きのバスが出ている。小型のボロバスはすぐに満員の乗客を乗せて発車した。郊外に出ると、右手に巨大なストゥーパの建つ丘が見えてくる。ダウリの丘である。前260年、マウリヤ朝第三代王アショーカは。このブバネーシュワルを王都とするカリンガ国を攻め、死者10万人と言われる凄惨な戦いの上勝利する。しかし、この戦いを深く悔いた王は仏教に帰依し、激戦地であったこの丘の岩にその旨の勅令を刻んだ。以後、この地は仏教の巡礼地となった。1972年に、日本山妙法寺により仏塔が建てられた。 10時30分、バスはプリーに到着した。Grand Rdという幅100mもある驚くほど広々とした道路端である。道の遥か彼方に、ジャガンナート寺院の巨大な塔が見える。バスを降りると、待ちかまえていたサイクルリキシャ、オートリキシャのワラたちにわっと取り囲まれる。プリーの安宿街は海岸に沿って走るChakraTirtha Rdにある。地図を見るかぎり歩いても2キロ程度だろう。南に向かえば海にぶつかるはずと、誘いを振り切って歩き出す。ところが、どの道も曲線を描いており、方向感覚も定まらない。30分も歩いて何とか、プリー鉄道駅に辿り着いた。海岸までもう少しである。今日も雲一つない晴天。汗みどろになってChakraTirtha Rdに達した。瞬間海が見えた。何とも言えない感慨が胸をよぎる。ヒマラヤの雪山から南へ南へと向かい、今ついに海に辿り着いたのだ。吹きつける海風が何とも心地よい。 11時30分、Hotel Gandharaにチェックインする。部屋は広く清潔で、三方に窓があり、満足である。昼食後、この街最大にして唯一の見どころ・ジャガンナート寺院へ行ってみることにする。直線距離で2キロほどなので、歩いて行こう。未知の街は歩くに限る。しかし、またもやスムーズには行き着けなかった。この街の道はどうもわかりにくい。いい加減に歩いていたらGrand Rdに出てしまった。バカ広い道を進む。車やサイクルリキシャ、オートリキシャが無秩序に行き来し、露店も無秩序に並んでいる。進むに従い門前町の雰囲気となる。遠くに見えた、ジャガンナート寺院の巨大な塔が次第に近づく。ようやく門前に達した。参拝者で大賑わいである。しかし、残念なことに、異教者はこの寺に入れない。しかも寺の周りは高さ6mの塀で囲まれ、中を伺い知ることも出来ない。
私がこの寺に著しく興味を曳かれたのは、この地に次のような伝説が残っていることである。「この寺の創設以前に、この場所には仏塔があり、釈迦の歯(仏歯)が祀られていた。しかし、その仏歯はスリランカに持ち去られてしまった」。
どうやら、両国に残る言い伝えは合致する。と言うことは、歴史的事実なのだろう。
4月6日(金)。今日はコナーラクへOne Day Tripする。プリーから東に35キロに位置する小さな街である。ブバネーシュワル、プリーと合わせ、オリッサのゴールデントライアングルと呼ばれている。ここに、世界遺産となっている巨大な寺院遺跡がある。スーリヤ(太陽)寺院である。13世紀に、後期ガンガー国の王・ナラシンハデーヴァは、イスラム勢力との戦いに勝利したことを記念して、太陽神スーリヤを祀る巨大寺院を建設した。この地に発達したオリッサ式寺院の最後を飾る壮大な規模の寺院である。しかし、現在は拝殿以外は全て崩壊し、原形を留めていない。1984年には世界遺産に登録された。 9時、G.H.を出発。サイクルリキシャでGrand Rdのバススタンドへ向かう。ところが、鉄道駅の前まで来ると、小型バスとすれ違った。ワラが大声を掛けると、バスは急停車。コナーラク行きのバスだという。超々満員のバスに乗り込んだ。バスは海岸線に沿って東に進むが、超満員のため外の景色もろくに見えない。ただひたすら耐える。車内に外国人の姿はない。約1時間走ると、ロータリーとなった三叉路で停車、多くの人が降りる。胸騒ぎがして、「ここはスーリヤ寺院か?」と聞いてみると、そうだと言う。慌てて降りる。終点で降りればよいと思っていたが。コナーラクの集落はさらに先のようだ。
巨大にして精緻な寺院遺跡に満足して、バスに乗ってプリーに帰る。13時30分、G.H.に帰り着いた。
4月7日(土)。朝起きたら9時を過ぎていた。今日一日やることは何もない。朝食を済ませて、海岸に行ってみる。海岸の一角に漁師村がある。波打ち際を歩いて行ってみる。海岸には点々と人糞の列、踏まないように歩くのに苦労する。インドでは別に珍しいことではない。貧しい漁師たちの家にトイレがあるわけがない。共同トイレもない。人々は朝、水を入れた缶からを持って、海岸にしゃがむ。そして、いずれ満ちてきた潮が、排斥物を洗い流すのである。 海岸では多くの女たちが、盥のような大きな器を持って、よもやま話をしながら、海に向かって座っている。沖合から、男たちの乗る小型の船が続々と海岸に向かってくる。船が砂浜に乗り上げると、魚の詰まった網が降ろされる。女たちがそれを取り囲み、争って器の中に取り込んでいく。犬どもがこぼれた魚をくわえて逃げていく。子供たちも集まってくる。浜が賑わう一瞬である。女たちはぎっしり魚の詰まった器を頭の上に乗せ家に向かう。男達は数人掛かりで、船を浜に引き上げる。 集落の中を歩く。いずれもワラ屋根の小さな掘っ立て小屋である。砂浜のすぐ後ろ、津波でも来たらひとたまりもなかろう。 髮も髭もたいぶ伸びた。床屋に行く。CutとShavingでわずか60RP(180円)である。後はやることもない。
第14章 再びコルカタへ 第一節コルカタへの帰還 4月8日(日)。今晩の夜行列車でコルカタへ帰る。チケットはコルカタで入手ずみで、プリー発22時30分の急行Srijagannath号である。いったい22時30分までどうやって過ごしたらいいんだ。しかも、G.H.のチェックアウトタイムが朝の9時だという。普通は12時なのだがーーー。仕方がないので、半日分の料金を払って、3時まで居座ることにする。時間になると、何の愛想もなくG.H.を追いだされた。4時に駅に行く。これから6時間半の暇つぶしをしなければならない。 駅には待合室が二つあった。一つはFirst Class用との表示、こちらは冷房が利いて、椅子もリクライニングになっている。もう一つは Second Class用との表示で、天上で扇風機が回っているだけである。私の手持ちチケットは3Aクラス、どっちの待合室が利用できるのだろう。First Classの待合室で座っていたら、係員がやってきて、チケットをチェックの上、「ここではない。向こうだ」と追いだされてしまった。Second Classの待合室は暑いので、駅前広場の木陰に陣取る。駅構内入り口には警官が立ち、治安はよさそうである。
10時に列車は入線した。始発駅なので座席を見つける十分なゆとりがある。毛布と敷布と枕が配られた。定刻に列車は発車、座席はガラガラである。これは静かでよいと、うとうとしていたら、途中駅から、騒がしく乗ってきた。電気を点けるは、大声で話しはするは、大きな荷物を私の目の前に積み上げるは、まさに傍若無人、他人への配慮などゼロである。しかも、一つのベットに二人で潜り込んでいる。検札に来た車掌を巧みにごまかしている。一人は明らかに無賃乗車である。あまり騒がしいので、「うるさい」と怒鳴りつけたら少しは静かになった。まったく、インド人は手に負えない。
4月9日(月)。定刻8時30分に列車はハウラー駅に到着した。すぐに、プリペイドタクシーで、荷物を預けている以前のG.H.に行く。改めて、490RPのかなりいい部屋にチェックインする。ところが、金を払う段になったら、500RPだと言い出す。「馬鹿野郎、舐めるのもいい加減にせい」と怒鳴りつける。まったくこいつらは人間とは思えない。
夕方から雷雨となった。インド入国以来初めての雨である。
地下鉄で2駅戻って、Girish Park駅で降りる。近くに、詩聖・タゴールの生家がある。ラビンドラナート・タゴール(1861~1941)はベンガルが生んだ偉大な詩人である。アジア最初のノーベル賞受賞者で、ベンガル人の魂として、バングラデシュも含むベンガル人の誇りとなっている。インド国歌、バングラデシュ国歌とも彼の作詞作曲である。
最後に、インド博物館に行った。インド最古にして最大の博物館である。1875年に建てられた巨大な白亜の館で、考古学、美術品、人類学、民族学、生物学、地質学など、何から何まで雑多のごとく展示している。しかも、多くはほこりをかぶったままで、整理が行き届いているとは言い難い。それでも、アショーカ王柱のライオンの像は素晴らしかった。 以上でインドの旅の全日程が完了した。明日はバンコクへ戻る。
第15章 さらばインド、二度と来たくない国よ 4月11日(水)。いよいよインドを去る日が来た。8時15分、G.H.をチェックアウトしてタクシーで空港に向かう。スラム街や繁華街を幾つも通り過ぎる。さすがコルカタの街は大きい。約1時間のドライブでチャンドラ・ボーズ空港に到着した。新しいきれいな空港である。ロビーで待つほどに、9時30分、チェックインが始まった。荷物検査はなかなか厳重で、ライターも取り上げられてしまった。手持ちのインドルピーをUS$またはタイバーツに交換しようと、両替窓口に行く。ルピーの海外持ち出しは法律的にも禁止されている。私の前に米国人の娘が並んでいた。ところが、待てど暮せど、両替が進まない。見ていると。係員は1本指でコンピューターのキーをたたき、延々と何やら入力し続けている。二人で顔を見合わせ、「これがインドだ」とあきれて笑ってしまった。15分待ったが、埒が明かない。諦めて列を離れる。バンコクで交換しよう(結果的にはバンコクでも交換できなかった)。 次が出国審査。ここでも何やらコンピューターを叩いて延々。おまけに「航空券を見せろ」と言いだす。「搭乗券があるではないか」と言うと、「オリジナルな航空券を出せ」と言う。さらに、「タイのビザがないではないか。アライバルビザを取るつもりか」と妙なことを言い出す。「日本人はビザ不要だ」と説明するも納得しない。「バカじゃないか。確り勉強しろ」と言いたいのを我慢して、「はいはい、アライバルビザを取りますよ。ご忠告ありがとう」と答えておく。 免税店は小さな店がただ一軒、タバコも売っていない。待合室は、冷房が利きすぎて寒い。黄色い衣を着た二人連れのタイの坊さんが、先ほどの米国人の娘に一生懸命話し掛け、写真を撮ったり、住所のメモを交換したり、握手までしている。僧侶が女性に触るのはタブーのはず。海外ではタブーも糞もないらしい。坊さんと言えどもやはり男か。笑ってしまった。 待合室の椅子に座り、6週間にわたるネパール、インドの旅を振り返った。ネパール人の心の豊かさ、インド人の心の貧しさ。何と鮮明な落差があることよ。民族的にも、歴史的にもほぼ同じ両国なのに、一本の国境線を挟んで、何でこうも違ってしまったのか。不思議である。それにしてもインドはひどい。「こいつらは、人間ではないのだ。人間の皮をかぶった獣だ」と自分に言い聞かせながら我慢に我慢を重ねた。「インドに行くと人間不信に陥る」とよく言われるが、まさにその通りである。こんな国であるからこそ、仏教などのいろいろな宗教が起ったのかも知れない。いずれにしろ二度と訪れたくない国である。そしてこんな国が、急速な経済発展により、大国として世界の表舞台に飛びだそうとしている。日本政府も一生懸命おべっかを使いだしている。将来、世界は苦労することだろう。 定刻12時20分、Jet Airways66便はガラガラの乗客を乗せてタイ・バンコクへ向けて離陸した。この航空会社は格安料金を武器に新規参入した航空会社である。国営のAir Indiaとは異なり、乗務員はてきぱきしていて、インドらしからぬ航空会社である。乗務員もサリーを脱ぎ捨て洋装である。国際標準に達した航空会社がインドにも出現したのかと、妙に感心した。
バンコクのホテルに落ち着き、その夜は久しぶりに日本食を食べに行った。インドでは毎日毎日カリーばかりであったのだから。天麩羅を腹いっぱい食べて満足した。ところが、その夜の真夜中、激しい嘔吐と下痢に見舞われた。今までに経験したことのない激しさである。何とか朝を迎えたが、脱水症状で立っているのもままならない。這うようにして病院へ行った。そのまま2泊3日の入院となった。食中毒だという。ネパール、インドの旅行中は下痢一つしなかったのに。幸い海外傷病保険に加入していたので、費用は全て保険で賄えた。次の間付きの、とんでもない豪華な病室で、旅の疲れを癒すのにちょうどよかった。
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