おじさんバックパッカーの一人旅   

タイ北部国境地帯の旅 (下)

国境の山岳地帯と少数民族の村々

2006年4月19日

    〜4月26日

 
   第8章 ナーンから累々たる山並みを越えて

 4月19日水曜日。今日はナーンからチェンライ(Chiang Rai)を経由して、タイ最北端の街・メーサイ(Mae Sai)まで一気に行くつもりでいる。フロントでチェンライ行きバスの時刻を確認すると9時30分とのこと、バイタクで少し早めにバスターミナルへ行く。しかし、「チェンライ」と表示したチケット窓口がない。「おかしいなぁ、チェンライはタイ北部では大きな街、当然直通バスがあってしかるべきなのだがーーー」。Informationの窓口で聞いてみると、「4番窓口へ行け」との答え。ところが、4番窓口へ行くと、タイ語で何か言うが、理解できない。困った顔をすると、係員がプラットホームの隅に停まっていたボロバスに案内してくれた。「このバスだ。切符は車掌から買え」とのこと。どうやら、窓口では取り扱わないコンピューター管理外のバスであったようだ。それにしても、チェンマイへは豪華冷房バスが頻発しているのに、なぜ、チェンライ行きはこんなボロバスなのか。合点がいかない。発車は9時だという。ホテルのフロントもいい加減なことを言う。

 バスはすぐに発車した。地図をざっと眺めて目見当をつけると、チェンライまでは3時間半から4時間だろう。チェンライからメーサイまでは1時間半であるから、「14時過ぎにはメーサイに着けるだろ」と呑気に構えていた。実はとんでもない大甘な考えであったのだがーーー。バスは小集落で乗客を次々と乗せ、いつの間にか超満員となった。

 やがてナーン盆地も尽き、バスは次第に山懐に入っていく。ちょっとした山越えと考えていたのだが、バスはどんどんどんどん山を登っていく。今までとはどうも様子が違う。いつしかバスは山々の山頂部まで登り上げ、尾根筋を走るようになった。周囲の展望は大きく開け、窓外には累々たる山並みがどこまでも続いている。ゆったりした大きな山並みである。ふと思った。この景色、どこかで見たことがある。そうだ、ラオスだ。ビエンチャンからルアンプラバンに至る山越えルートが、まさにこの景色であった。考えてみればおかしくはない。ここはラオスとの国境付近、人為的に引かれた国境線など無視すれば、ルアンプラバンに続く同じ山域にいるのだから。

 バスは尾根から尾根へと渡っていく。見渡すと、尾根のあちらこちらに、小さな集落が見える。いずれもアカ族やヤオ族などの少数山岳民族の集落だろう。道は確り舗装されているものの、この山岳地帯の走破は、満員のボロバスにはちょっと荷が重そうである。登り坂に入ると、まさに自転車並みの速度となる。尾根は曲がりくねり、上下を繰り返す。ついに、あちこちで車酔いが始まった。子供が激しく戻し始めている。車内天井の掴み棒にビニール袋が幾つもぶら下がっており、不思議に思っていたが、この事態への対応であったのだ。それにしても、立ったまま、その掴み棒にしがみついている乗客は大変だろう。

 どこまでもどこまでも同じ景色が続く。すれ違う車もほとんどない。山肌は一面に焼き畑の跡が残る。時々、小集落で1人、2人と乗り降りする。これでは、チェンライまで4時間などでは行くはずがない。どうやら私の考えは大甘であったようである。そもそも、このルート、即ちナーンからチェンライへ直接行くバスは1日1本らしい。チェンライへはチェンマイ経由で行くのが本ルートなのだろう。期せずして、難ルートを選んだことになる。

 走れども、走れども、累々たる山並みは尽きるところを知らない。「タイ←→ラオス交易地点」と記された道標を時々目にする。両国国境の幾つかの地点で、定期的に市が開かれるという話を聞いたことがある。その場所なのだろう。まさにここはタイとラオスの国境地帯なのだ。3時間ほど走り、バスはようやく小さな集落で停車した。10分ほどの休憩だという。ようやく身動きも出来ない狭い座席から、一瞬といえども解放された。車外に出て一息つく。

 バスは再び尾根から尾根へと渡っていく。ヤオ族の集落があった。女性のかぶる独特の帽子で確認できる。長い下り坂に入った。ようやく山を下るのかと思うと、また、ウンウンいいながら長い坂を登っていく。一体いつになったらこの山岳地帯を抜けることやら。午後1時を過ぎたころ、ようやくバスは山を下りだした。次第に集落が連続するようになる。ついに街並みが現れ、バスは小さなバスターミナルへ到着した。チェンカム(Chiang Kham)の街である。ようやく壮大な山越えが終了したのだ。時刻は13時30分。ナーンから実に4時間30分も掛かった。しかしチェンライまではまだ100キロ以上もある。果たして今日中にメーサイまで行けるやら。ダメならチェンライで泊まればよい。

 乗客は荷物を座席に置いたままバスを降りる。どうやら長期休憩のようだ。腹も減った。飯を食う時間はありそうである。と思いバスを降りると、途端にバスは発車の構え、慌てて飛び乗る。しかし、乗ったのは4人だけ、一体どういうことなんだ。すると、バスは街外れの整備工場へ。タイヤを外して悠々と整備作業である。50分後にバスはもとのターミナルへ戻った。十分に休憩をとった乗客が乗り込んでくる。私はついに昼食を食いはぐれてしまった。

 14時20分、バスは改めてチェンライを目指して走り出した。今度は平坦地の快適な道である。ボロバスでも時速100キロで走れる。2時間は掛かると思ったが、16時、バスは懐かしいチェンライのバスターミナルに滑り込んだ。さてどうしよう。一瞬考えたが、ここからは勝手知ったルート。予定通り、一気にメーサイまで行くことを決意する。

 16時30分、メーサイ行きの小型のボロバスはまばらな乗客を乗せてチェンライを出発した。向かうはタイ最北端の地。夕闇迫る窓外を眺めていると、何となく侘びしさを感じる。昼飯も食べていない。隣の席の若者にもらったビスケットを数枚食べただけである。やがてメーチァンの市街地に入る。もう一息である。バスは夕暮れの道をミャンマー国境に向けひた走る。ようやくメーサイ郊外のバスターミナルに着いた。ただし、市内まではまだ数キロある。待機していたソンテウ(小型トラックの荷台に座席を付けた乗り物)に乗り換える。次第に街並みが濃くなる。やがて、行く手に、国境のイミグレーションが見えてきた。ソンテウを降りる。ちょうど18時である。ナーンから何と9時間掛かった。それでも予定通りここまで来た。街にタイ国歌が流れ出した。道行く人々が静かに立ちどまるり、姿勢を正す。タイを訪れるたびに、この一瞬には感動を覚える。暗くなった道をホテルに向う。

 
   第9章 ミャンマー入国

 4月20日木曜日。今日は国境を越えてミャンマーへ入国する。ここメーサイからミャンマー側の国境の街タチレイ(Tachileik)へはビザなしで1日入国することが出来る。2年前の2月に一度入国しているので勝手は知っている。9時過ぎ、ホテルを出る。国境は目と鼻の先である。国境は行き来する地元の人で賑わっている。この地点は、鎖国に近いミャンマーにおいて、わずかに開いた外界への窓である。先ずは、タイのイミグレーションで出国手続を行う。正規の手続きである。国境の川・サイ川に掛かる橋を渡る。川幅10メートルほどの小さな川である。橋の真ん中で立ち止まる。今、右足はタイ、左足はミャンマーだ。ミャンマーのイミグレーションへ行く。こちらは正規の入国手続ではなく、パスポートを預けて預かり書をもらい、入国料を払えばおしまいである。係員が「ニヒャクゴジュウバーツ」と日本語でにこやかに入国料を請求する。

 ついに、ミャンマーに入国した。途端に雰囲気は一変する。そこはロンジー(ミャンマーの巻きスカート)とタナカ(顔に塗る白い粉)の世界である。街の看板は団子を重ねたようなミャンマー文字に変わる。乗用車はぐっと減り、トゥクトゥクとサムロー(バングラデシュで言うリキシャ)が走り回る。しかし、どうも2年前とは雰囲気が異なる。2年前は、入国すると同時に、トゥクトゥクやサムローの運ちゃん、物売り、物乞い、その他得体の知れない人間にワット囲まれ、恐怖心を覚えた。今回は、ぽつりぽつりと声を掛けてくる程度である。

 先ずは喫茶店に行って、世界一甘いと言われるミャンマー・コーヒーとサモサ(揚げパン)で朝食。この街はタイ語が完璧に通じるし、流通する通貨もタイバーツである。国境では両国の力関係が明確に現れる。ふらりふらりと街の中心部へ向う。偶然に感動的場面を目撃した。街中は托鉢の僧が三々五々と歩き廻っている。ミャンマーの托鉢はラオスのように集団では行わず、1人1人の僧がばらばらに歩き廻る。1軒の店先に、1人の僧が立った。若い男子従業員は慌てて奥からお鉢を持ってきて、僧の差し出す壺にご飯を入れた。そして、膝間づき手を合わすと、そのまま地面にひれ伏したのである。その間、僧は持っている団扇を前にかざしたまま無言で立ち尽くしているだけである。多くの国で、托鉢の風景を見てきたが、地にひれ伏す行為には初めて出会った。周りのがさついた雰囲気と、この究極の拝礼行為のアンバランスに、一瞬戸惑う。また別の場面に遭遇した。1人の僧が店先に立った。すると店員は邪険に追い払った。どうやら僧に2種類あるようである。即ち、寺に所属する正規の僧と乞食坊主である。街には僧の身なりをした小坊主がうろうろしている。これらは皆、乞食坊主である。

 比較的大きな寺院が二つあった。いずれも重層式屋根を持つビルマ様式の寺院である。本堂に上がり込んで、本尊の前に座り込む。タイでもラオスでも、このミャンマーでも、仏教寺院は最低限の礼儀さえ守れば誰でもフリーパスである。許可も断りもいらない。モスクやヒンズー教会やキリスト教会はそのようにはならない。仏教寺院の素晴らしいところである。しかし、同じ仏教寺院でも日本ではそうはいかない。なぜなのだろうか。

 丘の上に、金色に輝く大きなパゴダ(仏塔)が見える。行ってみると、「タチレイ・シュエダゴンパゴダ」との表示がある。シュエダゴンパゴダとはヤンゴン郊外の丘の上に燦然と輝く大パゴダで、ミャンマーで最も崇拝されているパゴダである。どうやら新しい観光名所としてヤンゴンのシュエダゴンパゴダにあやかって建てられたようだ。ここからの展望が素晴らしい。タチレイの街、メーサイの街が一望である。歩き疲れたので、再び喫茶店でミャンマー・コーヒーを飲んでボーダーに戻る。

 ボーダー周辺はごちゃごちゃした怪しげなマーケットになっていて、有名ブランドの時計やバッグ、音楽テープなど売る店が並んでいる。もちろん全てコピー商品である。また客引きが徘徊していて、「女はどうだ、15歳、16歳。ハッパ(大麻の俗称)もあるよ」とささやいてくる。ただし、ここでも2年前ほどのしつこさはない。国境の怪しげな雰囲気を味わった後、今度は地元民の青空市場に行ってみる。狭い路地に生鮮食料品を売る露店がぎっしり並んでいる。面白いことに、ここでも流通している通貨は全てタイバーツであった。ミャンマーの通貨・チャットにはついにお目にかかれなかった。

 昼過ぎ、タイへ帰ることにする。ミャンマーのイミグレーションでパスポートを受け取り、タイのイミグレーションで入国手続きをする。ところが20人ほどの列が出来ていて、全然進まない。「コンピューターの速度が遅いため、進行が遅れます。ごめんなさい」と英語で掲示されているが、先進国・タイらしくない。結局、炎天下に小1時間並ぶはめになった。

 タイに戻り、メーサイの街をぶらつく。こちらもボーダー周辺はお土産物屋などがずらりと並んでいるが、怪しげな雰囲気はない。子供を背負ったおばさんが、国境の金網を乗り越えてタイからミャンマーへ歩いて行く。係官も見て見ぬふりである。国境の川・サイ川沿いの道を少し奥に進んでみると、川で大勢の子供たちが泳いでいた。あっちの岸に上陸したり、こっちの岸に上陸したり。国境などまったく関係なくなっている。そもそも子供たちの国籍はどっちなんだろう。住民にとって国境など迷惑千万な境界線なのだろう。

 長い長い石段を登って、丘の上にあるワット・ドイワオへ行ってみる。ここも実に展望がよい。タイのメーサイの街とミャンマーのタチレイの街が切れ目なく続いた一つの街であることがよく分かる。先ほど訪れたミャンマーのシュエダゴンパゴダがよく見える。国境の閉鎖される17時頃、ボーダーに行ってみる。タイから大きな荷物を持った人々が続々とミャンマーへ帰っていく。その逆は少ない。ここでも経済力の差が明確に見て取れる。

 
   第10章 山上の小村・メーサロンへ

 4月21日金曜日。今日は山上の小集落・メーサロン(Mae Salong)へ向う。メーサロンは、ミャンマーとの国境近くの山中奥深くに位置する小村である。そしてこの小村は、20世紀に大陸で生じた激動の歴史を今に伝える場所でもある。

 第二次世界大戦を、ともに協力して日本軍と戦った毛沢東率いる共産党と、蒋介石率いる国民党は、大戦終了とともに、今度は中国の覇権を掛けた内戦に突入する。内戦は、共産党の勝利に終わり、1949年、毛沢東は北京において中華人民共和国の成立を高らかに宣言する。一方、破れた国民党は台湾へと敗走する。この時、雲南方面で戦っていた段希文(トゥアン)将軍率いる国民党軍93部隊は、台湾への逃亡もままならず、孤立無援の状況に追い込まれる。そして、共産党軍に追われてミャンマー・シャン州の山岳地帯へと敗走する。しかし今度は、ビルマ国軍に追われ、タイ、ミャンマー、中国の3国国境付近の深い山岳地帯を宛もなく放浪することとなる。その数、兵3,000人、従う家族2,000人、計5,000人であったといわれる。ようやく辿り着いたのが、タイ領内の山中、標高1,300メートルの尾根上のメーサロンであった。

 彼らは、この孤立した山中でジャングルを切り開き、極限の生活を耐え忍びながらも、軍隊としての戦闘能力を維持し続け、反攻の機会を待つ。やがて、枯渇した資金を補うために、ケシの栽培にも手を染める。その利権を争って、麻薬王・クンサーの軍勢とも戦闘をまじえる。しかし、時代は移り、もはや反攻の望みも消え、亡国の民として、将来に展望の見えない袋小路に追い込まれていく。

 救いの手を差しのべたのはタイ政府であった。1987年、武装解除を条件に、全員にタイ国籍を与えたのである。しかも「長年にわたり、共産ゲリラ討伐に功績があったことに感謝し」との大義名分を付け加えて。人々は随喜の涙を流して歓喜したという。「タイ政府の好意に深く感謝し、子々孫々に到るまでタイ政府とタイ国王に忠誠を誓う」との声明が発せられる。こうして、強固な愛国心を持つ新たなタイ国民が誕生した。タイという国の、懐の深さを示す事例でもある。タイ政府は、この山中の小村に、道路を造り、電気を送り、彼らの期待に応えた。彼らは、ケシ栽培を放棄し、茶の栽培に生活の活路を見いだしていく。茶の種は台湾から贈られたという。最後まで忠誠を貫いた同胞に対する、せめてものはなむけであったのだろう。まさに、歴史が造りだした壮大な叙事詩である。

 
 8時過ぎ、ホテルを出て、ソンテウでメーサイのバスターミナルへ向う。チェンライ行きの小型オンボロバスはすぐに出発した。車掌に、メーサロン行きのソンテウの乗り場で降ろしてくれるよう頼む。メーサロンへはバスの便はない。交通手段は不定期のソンテウだけである。50分ほどで、メーチャンの市街地に入る手前の国道端でバスは停まり、「ここだ」と車掌が教えてくれた。四つ角になっており、道の反対側の小さなスーパーマーケットの前に赤色のソンテウが停まっていた。運ちゃんは乗客が6人集まらないと発車しないという。30分ほど待つと、小坊主を連れた中年の僧侶がやって来た。僧侶は片言の英語が話せた。メーサロンの寺の僧侶だとのことである。3人でさらに30分ほど待つが、乗客はやって来ない。こうなれば仕方がない。4人分の料金を私が負担することにして運ちゃんと交渉する。まさか僧侶に負担させるわけにもいかない。結局、私が200バーツ、僧侶が2人で100バーツ払うことで合意、ソンテウは出発した。僧侶は私に助手席に乗るよう勧めてくれたが、本来助手席は僧侶が乗る場所。いくら私が200バーツ払ったからといえ、差し置いて乗るわけにはいかない。タイではお坊さんは偉いのだ。

 ソンテウはひたすら山を登り続ける。幾つかの少数民族の集落を過ぎる。ここから先はもはやタイ族の集落はない。少数山岳民族の世界である。大きなヤオ族の集落を過ぎると尾根に出た。展望が大きく開け、ミャンマーへ続く累々たる山並みが眼下に広がる。雄大な景色である。到るところに焼き畑の跡が見られる。ゆったりと波打つ尾根尾根には小さな集落が点々と見える。辺りは茶畑が広がる。車が止まり、二人の子供を連れた母親が乗り込んできた。何族だろう。女性は僧侶とは同じシートには座れないので、慌てて席の調整をする。

 車は激しくカーブを繰り返す。小坊主と子供がついに車酔いを始める。私もおかしくなりそうだ。車は尾根を渡りながら、どんどん奥へ入っていく。親子は途中で降りた。僧侶が、私を突っついて、行く手上空を指さす。目をやると、彼方のひときわ高く聳える山頂に、金色に輝く仏塔が見える。メーサロンだ。やがて、道の両側にぽつりぽつりと人家が現れるようになり「美斯樂」と漢字の額を掲げた門が現れた。美斯樂(メイスールー)はメーサロンの漢字表記である。急坂を登り詰めると小さな街並みが現れ、ソンテウは停まった。約1時間のハードなドライブであった。僧侶は私に丁寧にお礼を言って去っていった。

 寄ってきたバイタクでクン・ナイ・ポン・リゾートに行く。ホテルは、尾根に沿った細長い集落の一番奥であった。このホテルは1985年に死んだ段希文将軍の旧住居である。本館は2階建てで、1階が土産物や2階が客室、隣は大きなレストランとなっている。さらに、奥には、何棟かのバンガローが併設されている。1泊朝食付き500バーツ。質素な部屋だがホットシャワーがついている。

 
   第11章 メーサロンの風景

 昼食後、すぐに外に飛びだす。真昼の太陽は燦々と輝いているが、空気はひんやりとして高原の気候である。先ず目指すはソンテウからみえた山上の仏塔である。行き方をホテルで聞くと、「歩いて行くのは無理、バイタクで行きなさい」という。何んのその、1時間も歩けば着くだろう。山登りは得意である。集落の真ん中から、上方へ向う道が分かれている。相当な急坂である。喘ぎ喘ぎ15分も登ると、お寺があった。先程別れた僧侶の寺だろう。ちょっと覗いてみると、観音様が祀られていて、幾分、中国寺院の匂いがする。

 ここで人家は絶えた。山肌は原生林に覆われ、見上げる遥か上空に目指す仏塔が見える。そこに向って、足下より長い長い階段が続いている。ゆっくり、一歩一歩身体を引き上げる。人の気配はまったくなく、蝉の鳴き声のみが静けさを増幅する。途中に東屋があった。ひと休みしていると、上からどさっと何かが落ちた。見ると、蛇である。1メートルほどのいやに細身の茶色の蛇が、悠然とうごめいている。毒があるのかないのか、見たことのない蛇である。さらに階段を登り続ける。まさかトラは出てこないだろう。40分も登り続けると、ついに目指す仏塔に達した。その隣には立派な寺院も建てられている。辺りに人影はない。

 この寺院はサンティキーリー寺、仏塔はキング・マザーズ・チェディと呼ばれる。1996年に皇太后に捧げるために建立された。山頂近くのため、境内からの展望は素晴らしい。眼下に、メーサロンの小さな家並みが尾根にへばりつくように細長く延び、幾重にも重なる山並みの尾根筋には、点々と山岳民族の小集落が見える。視界の先は、おそらくもうミャンマーなのだろう。車に乗った家族連れがやって来た。ここまで、尾根の反対側を回り込んで車道が通じている。再び長い階段を下る。

 今度は集落の中を歩いてみる。尾根道に沿った細長い集落である。商店の看板は漢字が主である。戸口には吉兆を表す漢字の標語などが張られ、一見、中国人の街である。しかし、家の中をのぞくと、中国式の祭壇が設けられているが、真ん中に飾られているのはプーミポン国王の写真である。どの家の軒先にもタイ国旗がへんぽんと翻っている。何とも不思議な光景である。おそらく、中国人としての誇りとタイへの忠誠心が折り重なった複雑な心理の現れなのだろう。製茶工場を持った茶屋が多い。今ではこの地はお茶の名産地として知られている。雲南料理の看板を掲げた食堂も見られる。コンビニが1軒、ガソリンスタンドが1軒、銀行はホテルの前に1軒ある。意外なことにモスクがある。後で知るのだが、国民党軍の1/3はムスリムであったとのことである。道は確り舗装されているものの尾根道なので上り下りが激しい。ふらふら歩くうちに、集落の一番手前の「美斯樂」の門までやって来た。集落の中心部まで戻る。

 いい加減歩き疲れたので、バイタクに乗って集落上部のメーサロン・リゾートへ行く。ここは、かつての国民党軍の軍事訓練場で、現在はリゾートホテルに転用されている。広々とした庭は桜の木で満ちている(この地でも「サクラ」と呼ばれている)。このメーサロンは桜の名所でもある。桜の咲く春には多くの花見客を迎えるという。その一角に歴史写真館があった。この地に辿り着き、タイ国民となるまでの苦難に満ちた歴史が、黄色く変色した写真によって示されている。説明はタイ語と中国語だけであるが、漢字は意味が読み取れる。街を見下ろす斜面には、塹壕が幾つも掘られ、最後まで「軍隊」としての訓練を続けていたことが分かる。歩いてホテルへ帰る。

 ホテルの脇から、裏山へ登っていく道がある。「段将軍墓所」との表示があるのでたどってみる。桜並木となった急坂を20分も登ると、中国式の立派な廟があった。廟の前には土産物屋兼茶店もある。眼下にはメーサロンの集落が見下ろせる。階段を登って墓前に詣でる。他に人影はない。段希文将軍とはいかなる人物であったのだろう。異国の密林の中をあてもなく敗走する軍をまとめ、最後の最後まで、その組織を維持し、ついに安住の地に導いたという事実は、まさに奇跡である。よほどの卓越した指導力と神のごとき信頼を得た人間でなければとうてい出来えないだろう。そんな事を考えながらーーー。

 夕食を食べ終わった瞬間、ものすごい雷雨が来た。暗黒の空を引き裂く稲光と耳をつんざく雷鳴。バケツをひっくり返したような雨である。あっという間に停電となった。さすがに山の夕立は凄まじい。

 
   第12章 民族のるつぼ 

 本館に泊まっているのは私一人である。そのため、従業員とすぐに打ち解けた。男のマネージャーと若い女性5人ほどである。聞いてみると、皆民族がばらばらである。マネージャーはタイ族だという。タイ語とほんの片言の英語をしゃべる。マネージャーが、「この娘はアカ族、その娘はヤオ族、ーーー」と説明し始めたら、「私はミャンマー」と一人の娘が嬉しそうに名乗りを上げた。女性たちは、自分の民族語とタイ語をしゃべる。従って共通語はタイ語である。さらに、アカ族は全員中国語をしゃべれる。漢字の読み書きも出来る。従って私が仲間に入ると、もう言葉はめちゃくちゃである。英語も片言のタイ語も通じなくなると、漢字で筆談である。皆、自分の所属民族に強い誇りを持っている。従って、滞在中、私は女性たちに対し、「プーイン・アカ」「プーイン・ヤオ」と呼びかけていた(プーインとはレディを表すタイ語である)。民族名で呼ばれると皆嬉しそうな顔をする。中でも、プーイン・アカは愛嬌のある子で大変かわいい。「アーユー・タオライ(歳は幾つ)」と聞くと、「シップフォック(16)」との答え。すかさずマネージャーが、「アオカン・メダイ(セックスはダメ)」と際どいことを言う。皆で大笑いである。このプーイン・アカからアカ語の特訓を受けたが、帰国したら全て忘れた。

 街の中も民族のるつぼである。年寄りは、各民族特有の服装をしているので、一目で分かるが、若者はもはや民族服を脱ぎ捨てているので外見では分からない。顔つきは皆同じである。土産物屋やお茶屋を冷やかしながら、店員に対し「何族だ」と聞くと、皆、躊躇なく誇らしげに自分の民族を名乗る。アカ族、ヤオ族、リス族、ラフ族、チャイニーズ、ーーー。その上で「あなたは何族だ」と聞いてくる。こちらも誇らしげに「コン・イープン(日本人)」と答える。バイタクの運ちゃんはヤオ族だと名乗りを上げていた。実に愉快である。

 この村にはこの国の主要民族であるタイ族がほとんどいない。暮しているのは中国系も含め、皆少数民族と呼ばれる人々である。中国系も、おそらくその出身から考え、漢族ではなく、雲南で暮していた少数民族だろう。従って、この地には民族差別がない。皆胸を張って自らの民族を名乗る。そして、何とも心地よい。現在、東南アジア諸国では、タイを含め、少数民族は重要な観光資源とされつつある。チェンライでもチェンマイでも少数民族の村々を廻るツアーが盛んである。これらの都市の街中、あるいはバンコクの街中においてすら、ことさら伝統的民族衣装に身をくるんだ少数民族の土産物売りが目に付く。

 私はいつもこれらの現象を悲しい気持ちで眺めてきた。民族が自らの民族を観光資源とするほど悲しいことはない。著しく民族の尊厳を傷つける行為だ。中国雲南省の景洪においては、少数民族を集めたテーマパークさえあった。まさに動物園の動物と同じではないか。それだけ、少数民族は社会的経済的に追いつめられている証拠なのだが。この村では少数民族の人々も胸を張って堂々と暮している。

 
   第13章 少数民族の村々へ

 4月22日土曜日。朝の散歩をしていたら、托鉢の僧侶にであった。大人の僧侶が3人、小坊主が3人の6人が1列になって托鉢に歩いている。その中に、ソンテウでいっしょであった僧侶と小坊主もいるではないか。目が合うと、僧侶はにっこり笑って軽く会釈した。托鉢は重要な修業、修業中の僧侶にこちらから話し掛けるわけには行かない。我がホテルからもプーイン・アカがご飯の詰まったお鉢をもってとびだしていった。この村では必ずしも仏教徒が多数を占めているわけではない。ムスリムやクリスチャンの方が多いかも知れない。しかし、僧侶はやはり特別な存在なのだろう。

 今日は周辺の少数民族の村々を訪ねてみようと思っている。ホテルで手書きの地図をもらった。かなりの略図だが、多くの少数民族の村々が書き込まれている。マネージャーに相談すると、どの村もかなり遠いのでバイタクをチャーターして行くべきだという。しかし、歩いて行くことにした。このほうが、はるかにハプニングが期待できる。旅の最大の面白さはハプニングである。地図を眺めると、ちょうど1周するルートが取れる。尾根を馬蹄形にたどるルートである。ただし、目見当で、約20キロはある。しかも、馬蹄形の開いた部分は、尾根を乗り換えるために一度、谷に降りなければならない。まぁ、道さえあれば何とかなるだろうが、5〜6時間は掛かりそうである。プーインたちはあきれた顔をしている。

 集落を離れ、南に向う尾根道をたどり始める。尾根道だけに展望はよい。周囲に点在する集落がよく見える。道は車の通れる広さであるが、すれ違うのはオートバイのみである。この周辺の集落ではオートバイが最も普及した交通手段である。1人に1台あるのではないかと思えるほどの普及率である。昨夜の豪雨のため、あちこち泥んこ道となっていて、所々苦労する。見渡すかぎり累々たる山並みが続くが、原生林というような樹林はもはやどこにもない。おそらく焼き畑によってであろうが、全ての山肌に人手が入った跡がある。

 30分ほど歩くと、右側斜面に小さな集落が現れた。しかし、集落へ入ろうとして犬に阻まれた。3匹の犬が唸り声をあげて立ち塞がる。諦めて、さらに道をたどる。今日もカンカン照りである。朝方は長袖が必要なほどの涼しさであったが、陽が昇るとやはり暑い。時々荷駕篭を担いだおばさんとすれ違う。「サワディ・カップ」と挨拶すると、「サワディ・カー」と返ってくる。別に不審がられてはいない。

 1時間も歩くと、割合大きな集落が現れた。入り口にアカ族の集落に特有の伝統的な「門」が設けられている。悪魔の侵入を防ぐための門である。しかし、この門に、プーミポン国王の写真が飾られているのにはびっくりした。国王への尊敬の念は、いまやこの辺境山奥のアカ族の集落にまで行き渡っている。集落内へのこのこ入っていくと、何やら人だかりがしている。ちらりと見て、ドキッとした。人だかりの真ん中に1人の兵士がいる。ただし、国軍の兵士ではない。ひと目、ゲリラ兵士である。精かんな面構え、粗末なカーキ色の戦闘服に戦闘帽、いやに筒の長い銃を背負っている。慌てて目をそらす。絶対に見てはいけないのだ。緊張が背筋を走る。気がつかぬふりをして足早に通り過ぎる。

 明らかにシャン・ゲリラである。現在、ミャンマーにおいて、タイとの国境付近で、少数民族・シャン族がゲリラとなってミャンマー政府軍と戦っている。シャン族はタイ族の一派であることもあり、タイ国軍が密かにシャン・ゲリラを支援していることは公然の秘密である。シャン・ゲリラは、しばしばタイ領内を聖域として利用している。もちろん、タイ政府はこのことを強く否定しており、公式にはタイ領内にシャン・ゲリラがいるはずはないのである。私は「見てはいけないもの」を見てしまったのである。ゲリラ側からすれば、「絶対に見られてはいけない外国人に」見られてしまったことになる。もし、私が無警戒に写真でも撮ろうものなら、殺されかねない場面である。最も、彼らからすれば、こんな山奥の集落に他所者が、まして外国人がのこのこやってくるとは想定外であったろうが。まさに、私は国際紛争の最前線に入り込んでしまったのだ。

 集落の深部に進む。古びた木造の高床式の家々が並ぶ。1軒の家から声がかかった。「どこから来た」。タイ語である。「メーサロンから歩いてきた。日本人だ」、私が答える。少々立ち話しとなった。通る人が物珍しそうに眺める。これで、私がこの集落に侵入したことが公知となった。さらに奥に進んでみる。1軒の家の2階から大きな声がかかった。見ると、老人がこっちへ来いと手招きしている。こうなれば、どこへでも行ってやる。門をくぐり、庭先から梯子を登って、高床式の住宅へ上がり込んだ。老夫婦がニコニコして迎えてくれた。板の間に私も座り込む。婦人がお茶とピーナッツを出してくれた。雑談を始めたのだが、タイ語も片言しか通じない。こうなればアカ語だ。昨日、プーイン・アカから特訓を受けた。老人に歳を聞くと87歳だという。この世代では、タイ語を十分に会得していないのだろう。しかし、何とも楽しい。1人で歩き廻っていると、こんなハプニングに出会う。集落を出る。

 このアカ族の集落の隣はラフ族の小さな集落であった。こちらは平屋建てである。集落に人影は見られず、黒豚が歩き廻っている。道脇には、場違いなほど立派なキリスト教会が建っていた。少数民族の多くはクリスチャンである。再び尾根道を歩きだす。すると、先ほどのゲリラ兵士が、若者の運転するオートバイの後部にまたがって追い越していった。見送っていると、すぐに道を外れ、微かな踏跡程度の脇道に消えていった。おそらく、斥候かオルグなのだろう。この辺りに住む少数民族には、国境なぞない。自由に山から山を行き来している。ゲリラもまた、これらの人々の間を自由に行き来し、彼らの力を借りているのだろう。

 尾根道から人影が途絶えた。道は確りしているが、何となく怖い。こんなところを1人で歩いていて大丈夫なのだろうか。再び集落に出た。ラフ族の集落だと思うがよく分からない。ちっちゃな雑貨屋があったので、ジュースを買ってひと休みする。ここでまた、見てはいけないものを見てしまった。ハッパ、即ち大麻のタバコを売っているのである。おばさんがやってきて、何か言うと、奥から1本。「疲れちゃった」と独り言を言いながら、私の方をちらりと見て火を点ける。若者がやってきて同じく1本。少数民族の間に大麻が行き渡っているのは公然たる秘密である。集落の外れには学校があった。

 ここから道は谷底に向って一気に下っていく。馬蹄型尾根道の開いた部分である。谷川を渡ると、これから登り上げる尾根がはるか上空に聳えている。ゆっくりゆっくり登っていく。アカ族の集落に出た。集落の入り口に、例の伝統的な門が確りと構えられている。こちらの門はほぼ教科書通りの造りである。ようやく尾根に登りあげた。ここからメーサロンまでは自動車の通う舗装道路である。現れる集落も中国人のものである。しかし、ここからホテルまでも長かった。午後1時、ついにホテルに帰り着いた。プーイン・アカとプーイン・ヤオが驚きの顔をもって迎えてくれた。マネージャーに「ゲリラらしき人影を見たがーーー」と聞いてみると、やはりシャン・ゲリラであるとのことであった。

 
   第14章 山を下り、チェンライからチェンマイへ

 4月23日日曜日。いよいよ旅も終盤、バンコクへ向け帰還の旅に入る。今日は、チェンライを経て一気にチェンマイまで戻るつもりである。8時、ホテル出る。ソンテウ乗り場までバイクで送ってくれた。15分ほど待つと、乗客が7〜8人集まり、ソンテウは出発した。意外なことに、乗客の中に日本人の娘が1人いた。よく分からない子で、見送りのファランの若者と抱擁して別れを惜しんでいる。足を引きずっており、チェンライから友人とレンタ・バイクで来たが、転んで怪我をしたと言っていた。途中で、国境警備隊による検問があったが、私は「コン・イープン(日本人)」の一言でフリーパスである。下りは早い。40分ほどで、メーチャン郊外のソンテウ乗り場に到着した。

 国道端で1人チェンライ行きのバスを待つ。特に停留所はない。下界はさすがに暑い。すぐにチェンマイ行きの豪華冷房バスが来たので、手を上げたが、警笛を鳴らしただけで停まってくれなかった。10分ほどで、チェンライ行きの小型ボロバスがやって来た。手を挙げるも停まらない。アレと思ったら、50メートルも先で停まった。車掌が飛び降りて、「レオレオ(早く早く)」と叫ぶ。目の前で停まればよいものを。メーチャン市内を抜けたところで、再び国境警備隊の検問があった。今度は何やら入念である。「コン・イープン」というと、生意気にも、「パスポートを見せろ」という。面倒くさいなぁ。

 10時半。チェンライバスターミナルへ到着した。すぐにチェンマイ行きバスのチケットを求めるも、12時45分発、2時間待ちである。この間に、明日のチェンマイ→バンコクの航空券を手配しようと、旅行代理店を探したのだが、今日は日曜日、皆休業である。ようやく開いている店を見つけ、やれやれ。うまい具合に、ノックエア(DD)が取れた。低料金で新規参入した航空会社である。バスは、トイレ付きの冷房車、発車してすぐにコーヒーとビスケットが配られた。途中トイレ休憩があり、15時50分、見慣れたチェンマイ・アーケード・バスターミナルへ到着した。今晩は、前回泊まったターぺー門近くのプチホテルに泊まるつもりでいる。相乗りソンテウでターぺ門に向う。チェンマイでは、相乗りソンテウに市内で乗った場合、タイ人は15バーツだが、外国人は20バーツが相場である。しかし、知らん顔をして15バーツ払うと何も言わなかった。このホテルはラックレートが1,000バーツだが、前回はソンクラン割り増しで1,300バーツ取られた。今回は逆に800バーツであった。明日はいよいよバンコクへ戻る。

 
   第15章 インディアン航空に振り回されて

 4月24日月曜日。9時前にホテルを出る。流しのソンテウをつかまえ空港に向う。100バーツの言い値を80バーツに値切る。2週間前は売り手市場であったが、今日はもう、買い手市場である。定刻10時20分、DD8307便はチェンマイ国際空港を飛び発った。行きのOX便と異なり、DD便は水一杯出なかった。約1時間でバンコク国際空港着、4月14日以来のバンコクである。

 今日中にやらなければならないことが残っている。帰国便の予約である。保持しているチケットはインディアンエア(AI)の45日オープンチケット。AIの東京行きは水曜日と土曜日の週2便である。深夜0時40分発なので、実質、火曜日と金曜日の深夜出発である。一応4月29日の便に予約を入れてあるが、明後日26日(実質は明日25日)の便で帰国したい。予約の変更は航空会社の支店で行う必要があるが、AIのホームページで確認すると、AIのバンコクにおける支店は空港オフィスだけである。

 飛行機を降りるとすぐに、シャトルバスで国内線ターミナルから国際線ターミナルへ回り、AIのオフィスへ行く。しかし、オフィスは閉まっていた。張り紙があり、「予約の変更は代理店であるConvent 通りのS.S.Travel Servicesで行う」と掲示されている。バンコク最大の歓楽街・パッポンの近くである。仕方がないので、ひとまず、空港でシーロム通りの安ホテルを予約し、チェックイン後、歩いて掲示されていた代理店に行く。ところが何と、「ここでは出来ない。スクンビット通りのAIの支店へ行け」と言うではないか。AIの支店がバンコク市内にあるなどとは初耳である。ホームページや空港の掲示は一体何なのだ。少々、否かなり、頭に来る。BTS(高架鉄道)に乗って、教えられたスクンビット通りのナナへ行く。高層ビルの一室に、AIの支店はあった。外には看板もでておらず、まさに秘密の支店である。この航空会社は一体どうなっているのだろう。国営企業のため、サービスの悪さは昔から評判なのだが。ようやく26日の予約がとれ、振り回された1日が終わった。

 
   第16章 帰国

 4月25日火曜日。いよいよ帰国の日である。バングラデシュの旅に続くタイ北部2週間の旅が終わる。大きなトラブルもなく、危険な目に会うこともなかった。プレー、ナーンというタイの中心部とは異なる歴史を持つ素晴らしい街を知った。まるで小さな真珠のように美しかった。また、ミャンマーとの国境付近の山中では、国家とは何か、国境とは何かを考えさせられた。国境を自由に行き来する少数民族やゲリラ。国家という枠を越えた世界を知った。そしてまた、いろいろな言葉にであった。タイ領内にあってタイ語さえ通じなくなる地域。いろいろなハプニングに出あった。しかし、不思議なことに、困り果てることはなかった。ローカルバスに乗り、ソンテウに乗り、自らの意思で自由に異国の地を旅することは何とも心地よい。これからちっちゃな島国に帰る。そこが私の属する「国」なのだからーーー。
                         (完) 

 

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