おじさんパックパッカーの一人旅

タイ最北部 チェンライとその周辺の旅 

 エメラルド仏の故郷を訪ねて

2004年2月24日~29日


 
 バンコクから南に旅立つか、それとも北へ旅立つか。この違いは大きい。南を目指せば、そこはエメラルドグリーの海の広がるビーチリゾート。パタヤ、プーケット、ピーピ島、クラビー、サムイ島、パガン島、タオ島。南国の明るい太陽の下に、開放的な空間が広がっている。一方、北への旅はロマンの旅である。果てしらぬ大地の広がり。その上で繰り広げられたあまたの王朝の興亡。アユタヤ、スコータイ、チェンマイ、ランプーン、チェンライ、チェンセーン。その歴史が大地に刻まれている。私の磁針は北を指している。辿ってみよう、タイ民族が歩んだ壮大な道を。アユタヤ、チェンマイはすでに訪れた。目指すは、そのさらに北。チェンライ、チェンセーン、ーーーーー。

 私がまず向かったのは、メコン川の向こう、ラオであった。ラオの歴史もまたタイと深く関わっている。誤解を恐れずにあえて言えば、現在タイ王国とラオ人民共和国の二つの国が領有している地域をひとつの地域として捉えれば歴史が分かりやすい。民族、言語、宗教が共通する地域である。このひとつの地域が三つの地区に別れて歴史を刻んできた。ひとつは、バンコク平原を中心とする地区であり、スコータイ王朝、アユタヤ王朝、トンブリ王朝、チャクリ王朝と続いてきた。二つ目はチェンマイを中心とするタイ北部地区である。13世紀以来、ラーンナー王朝が栄えた。三つ目が現在のラオ国の地区である。14世紀以来ラーンサーン王朝が栄えてきた。これら三つの地区を流転したエメラルド仏の歴史は、この三つの地区が、ひとつの地域であることを如実に示している。エメラルド仏の辿った道筋を遡って、その故郷・チェンライに向かうのも、旅の道筋のひとつであろう。
 

   第一章  国境の町・チェンコーン

 ラオ・ファイサーイの町の岸辺を離れた渡し舟は、国境の川・メコンを横切り、数分の後にはタイ・チェンコーン(Chiang Khong)の町の岸辺に到着した。「渡し舟で国境を越える」。これもまたひとつのロマンである。イミグレーションの出国窓口にはこれからラオに向かう10人ほどのバックパッカーが並んでいた。私は誰もいない入国窓口に行く。

 辺境の地の小さなイミグレーション。簡単に入国できると思っていたら、大間違いだった。「どこへ行くんだ。何しに来たのだ。云々」、揚げ句の果てに「work permitはどうなっているんだ」。明らかに不法労働を疑っている。もっとも私のパスポートの記載も複雑なのだが。work permitはすでに期限切れだし、この一年、タイへの入出国を繰り返している。「単なる観光旅行、帰りのエアチケットも持っている」と説明すると、「チケットを見せろ」という。奥から上司らしき人物まで出てきて、二人で何やら相談。疑いは相当深い。チケットを確認してようやく入国は許可された。

 川沿いの道を町の中心部へ向かう。タイに入国すると何やら故郷へ帰ったような気持ちとなる。まったく不安感がない。考えてみれば、ここは外国の、しかも見知らぬ町なのだが。道の向こう側からツクツクの運チャンが、怒鳴ってきた。「どこまで行くんだ」。「チェンセーン」。私が怒鳴り返す。「20バーツでいいから乗ってけ」「ほんとに20バーツでいいのか。チェンセーンだぞ」「いや、チェンセーン行きのバスターミナルまでだ」「歩いていくよ」。30分も歩けば着くだろう。

 歩くに従い、街並みが濃くなる。ここはタイ辺境の田舎町なのだが、ラオから来たせいか、なにやら大都会にやって来た感じがする。道に溢れる車と人、屋台の群れ、そしてなによりもこの猥雑さと活気、まさしくここはタイである。ラオが安らかな国ならば、タイはエネルギーの満ち溢れる国。川ひとつ越えると、雰囲気ががらりと変わってしまう。

 チェンコーン(Chiang Khong)の町はラオに向かって開かれた国境の町である。案内書には「外国人といえばラオスへ渡る旅行者ぐらいしか立ち寄らない小さな町」とのみ書かれているが、何の何の、活気のある町である。ラオとの貿易で潤っているのだろう。町の名はメコン川と同じである。チェン(Chiang)とは「町」と言う意味であるから、この町の固有名称はコーン(Khong)である。メコン川(Mae Khong)も、固有名称はコーン(Khong)である。町の名は川の名から取られたのだろう。

 この機会に、メコン川の名称についてひとこと述べる。日本語の「メコン川」と言う名称は明らかな誤訳である。「コン川」あるいは「コーン川」と訳すのが正しい。タイ語表記は「メナーム・コン(Mae Nam Khong)」である。メナーム(Mae Nam)は「川」を意味する。英語表記は「Khong River」である。「メ・コン(Mae Khong)」と称する場合もあるが、この場合のメ(Mae)は「母」と言う意味であり、川を表す接頭語である(言うなれば、母なる川・コン)。

 今日は、このチェンコーンの町から、ひとつ北側の町・チェンセーン(Chiang Saen)に向かうつもりである。左手に立派なお寺が現れた。その隣りが郵便局。その向かいに一台のソンテウ(小型トラックの荷台にベンチシートを取り付けた乗り物)が停まっている。案内書にはこの付近からチェンセーン行きのソンテウが出る、と記されている。それに違いない。聞いてみると、予想通りチェンセーンへ行くという。バスターミナルまで行って、バスに乗るのが正解なのだろうが、急ぐ旅でもない。このいたって庶民的な乗り物で行くことにする。私のザックは屋根に積み込まれた。

 
     第二章 チェンセーンへのソンテウの旅

 15分ほど待つと、ソンテウはようやく出発した。車内は満員満荷である。座席一杯の10人の乗客と、各々が持ち込んだ大きな荷物、プロパンガスのボンベから篭に入った数羽の鶏まで。座席の下にも何やに新聞紙に包んだ荷物が一杯。屋根の上も私のザックをはじめとした荷物の山である。助手席には僧侶が乗り込んでいる。ソンテウは乗客を拾い、そして降ろしながら集落から集落へと進んでいく。バスならば、チェンセーンへ向かう国道を真っすぐ進むに違いない。しかし、ソンテウは、間道を抜け、細道に入り、曲線を描いて目的地に向かって行く。メコン川が近づいたり遠ざかったり。集落へ入ると、速度を極端に落とし、警笛を鳴らし、ソンテウが来たことを知らせながら走る。

 ソンテウは宅急便も兼ねている。時々停車しては、運転手が座席の下に積まれた包みを家々に届ける。お寺の前で僧侶が手を上げた。助手席にはすでに僧侶が乗っている。さてどうするのかと見ていたら、運転手が女たちに、向かい合う座席の一方に全員移るように指示する。僧侶は女たちと向き合う座席に座った。タイにおいては、僧侶は女性と席を同じにすることは許されない。このため、ソンテウでは一般的には助手席に乗る。

 1時間ほど走ると、ある集落でソンテウは停まった。ここで乗り換えだという。私のザックも、生きた鶏も別のソンテウに積み替えられる。再びソンテウは集落から集落へと進む。この乗り物はまさに庶民の足である。すでに、最初から乗っているのは鶏の持ち主と私の二人だけである。ソンテウに乗ってチェンセーンに向かった外国人などいるのだろうか。やがて、メコン川沿いの道を走るようになり、街並みに入った。チェンセーンに着いたようである。ソンテウは停り、運転手が「着いた」と私に合図する。チェンコーンを出発してから2時間半、料金は50バーツであった。バスならば1時間半で行くという。

 ソンテウを降りたものの、いったいここはどこなんだ。道路端に座り込んで案内書を開く。真昼の太陽が容赦なく照りつけ暑い。先ずは宿を探そう。この町にただひとつというホテルへ行ってみることにする。他にゲストハウスが2軒あるようだが、いずれもドミトリー(大部屋)スタイル、おじさんにはちょっとである。メコン川と太陽の位置を見れば、だいたいの方向感覚は分かる。小さな町だ。15分も歩くと町外れに目指すホテルはあった。1泊1000バーツ(約3000円)、少々高いが仕方がない。さすがホテルを名乗るだけに、部屋は今までで最高である。2泊することにする。  
 

    第三章 ゴールデン・トライアングル

 時刻はちょうど正午である。荷物を部屋に放り込むとすぐに街に飛びだした。まずはゴールデン・トライアングル(Golden Triangle)に行ってみよう。チェンセーンの街から北へ9キロほど行った、タイ、ラオ、ミャンマーの三国国境である。この三国国境地域は、20世紀も末に至るまで、国家権力のおよばない魔境であった。世界的なケシの大栽培地帯であり、アヘンの大生産地帯であった。そしてビルマ・シャン族(ミャンマー東部に住むタイ族系の少数民族)の英雄・クンサー率いる数万の軍勢や毛沢東の軍に追われ、この地区に逃げ込んできた中国・国民党の敗残軍のなどが実効支配し、さらに、タイやビルマの軍事政権に追われた学生などが反政府ゲリラとなってに立てこもっていた。

 現在、ゴールデントライアングルは一大観光地となっている。もはやかつての魔境はあとかたもなく消え去っている。1975年にベトナム戦争が終結し、各国に統一と安定が戻ると、国家権力が増大した。国民党敗残軍は1987年、タイ国籍取得を条件に武装解除された。1996年にはクンサーもビルマ国軍に降伏した。

 街の中心部からゴールデントライアングル行きのソンテウが出ているはずである。行ってみると、昼休みのため、次の便は1時30分だという。まだ1時間以上ある。ただし、チャーターなら100バーツで行くという。100バーツは高いが、300円と思えばたいしたことはない。ちなみに定期便に乗れば10バーツである。ソンテウは一本道を北上し、あっというまにゴールデントライアングルに到着した。

 ゴールデントライアングルとは、本来、三国国境地帯に中国雲南の一部も含めた広い範囲を指す言葉である。しかし、タイは三国国境に位置するソップ・ルアンと言う村をゴールデントライアングルの名前で売り出し、観光地に仕上げた。今ではこの地点がゴールデントライアングルの代名詞となっている。タイとラオを分けるメコン川と、タイとミャンマーを分けるルアク川の合流点である。

 目の前には大河・メコンが滔々と流れ、上流に向かって軽く右にカーブしている。その地点に左からルアク川の小さな流れが合流している。周りは土産物屋が並んでいるだけで、特別に見るものが何かあるわけではない。ただ、国境という目に見えない人為的境界線を感じ、魔境と呼ばれた10数年前に思いを馳せるだけである。ミャンマー側には大きな建物が見える。最近造られたカジノとのことである。ミャンマーにおいても観光地化が 進められているのだろう。観光船がいくつも出ている。「ラオ領の島に寄って、無税で買い物。ビザも必要ない」と男が誘ってきたが、「今朝ラオから来たばかりだよ」と言うと、黙って引っ込んだ。

 土産物屋の並ぶ通りの奥にひっそりと、Hous of Opium(アヘンの家)と称する博物館がある。20バーツの入場券は、素晴らしい絵はがきになっている。誰もいない。ケシの栽培の様子やアヘンの吸引に使われた道具などが展示されている。一見の価値がある。なかにクンサーに関する展示があった。「単なる麻薬のボスか、それとも自由の戦士か」との表題が掲げられている。彼の評価は今もって定まっていない。世界の国家権力は「麻薬取引の大ボス、極悪人」と決めつけているが、この地域に暮らす少数民族の人々の間では、「自由のために、国家権力と戦った英雄」と語り継がれている。

 
      第四章 ラーンナー王国の故郷・チェンセーン

 通りかかったソンテウでチェンセーンに戻り、街をぶらつく。メコン川沿いの大木の茂る並木道が素晴らしい。郊外にバイパスがあるため車の交通量も少ない。川側の歩道は遊歩道となっており、ベンチなども置かれ、露店や簡易食堂なども並んでいる。木陰のベンチに腰掛け、メコン川を眺める。しかるべき港湾施設があるわけではないが、何隻もの船が接岸している。タイ国旗、ラオ国旗を掲げた小型船が多いが、その中に五星紅旗を掲げた数隻の中国貨物船が目立つ。しきりに荷物の積み降ろしが行われている。付近の露店には四川省の林檎、貴州省の葡萄、あるいは中国製の雑貨、衣類がたくさん並んでいる。この大河は中国雲南からミャンマー、ラオ、タイ、カンボジア、ベトナムと通じている。河川交通を利用した貿易が盛んなことが分かる。この地はまさに交通の要衝なのである。

 河川交通の要衝という地理的条件は、時代を遡る程その重要度を増す。このチェンセーンの地から、タイ北部最初の統一王朝・ラーンナー王国が産声を上げたのも当然であったのかもしれない。13世紀の中頃、この地にタイ族の小さなムアン(部族の緩やかな連合体)があった。1259年、メンラーイは父の死により族長の地位を継ぐ。時代はちょうど、9世紀以来インドシナ半島に覇を唱えてきたアンコール王朝が衰退期に向かっていた。バンコク平原ではすでに1238年、タイ族最初の国家・スコータイ王朝が産声を上げていた。時代はメンラーイに味方した。メンラーイは族長の地位を継承したわずか3年後の1262年、都をチェンセーンの南西約60キロのチェンライに移す。歴史書はこのときをもってラーンナー王国の成立とする。王は領土を拡張しつつ、1296年には都をさらに南のチャンマイに建設する。そして、以降16世紀半ばまで続くラーンナー王国の礎を築くのである。

 街中をあてもなく歩き続ける。予想以上に街は遺跡に溢れている。明日の市内探索が楽しみである。町の大通りはいずれも広々としており、しかも、歩道にはしゃれた屋根のついたベンチが随所に設置されている。タイらしからぬ風景である。しかし、その大通りが、車と人で無秩序にごった返している。やはりタイである。その街に、警察官の姿がにわかに目立ち始めた。辻辻に立っている。何事かと思い中心部へ戻ってみると理由が判明した。小学校の下校時間である。すべての道路が、学校からあふれ出てくる子供たち最優先となっている。

 明日の探索のために、貸自転車屋を探したのだが見つからなかった。どこかで夕食をと思ったが、この小さな町にまともな食堂などありはしない。メコン川沿いの野外食堂も日暮れとともに店じまいを始めている。ホテルに戻ることにする。ホテルは、大型観光バスが横付され、大勢の欧米人でにぎわっていた。受付の女の子がメチャかわいい。貸自転車はどこかにないかと尋ねると、このホテルにあるとの答え。料金は一日200バーツだという。メチャ高い。普通50バーツぐらいだ。モーターバイクと勘違いしているのかと思い、人力の自転車だと念を押すと、これでしようと手で自転車を漕ぐまねをする。そのかわいさに免じて了承した。

 夕食のため入ったホテルの食堂は欧米人の団体に占領されていた。受付のカワイコちゃんが民族衣装に着替えてホステスに早変わりしている。一人寂しい私に気を使ってくれるのだが、彼女に私のタイ語がまったく通じない。ウィスキー・ナーム(水割り)もカフェ・ローン(ホットコーヒー)も通じない。ラオにおいてすら完ぺきに通じたのに。どういうことなんだ。
  
    第五章 チェンセーン探索

 借りた自転車は、高いだけあって多段変速の高級マウンテンバイクであった。セーターを着て、街に漕ぎだす。ここタイ北部は朝夕は気温がぐっと下がる。昨日、街をふらついたので、この小さな町の概要はほぼ把握ずみである。あちらへこちらへと気の向くままにペタルを踏む。その結果は驚きであり感動でもあった。先ず第一に驚いたのは、町を囲む城壁と濠が完ぺきに残っていることである。ただの一箇所も欠けずに、昔のままの姿で半円状に町を完全に囲んでいる。第二は、町中はまさに遺跡だらけと言うことである。至る所に仏塔や寺の跡である崩れかけた赤レンガの山が見られる。ちょっとした工事現場を覗くと、掘った穴の中には、地下に埋もれた赤レンガが顔をのぞかせている。まさにこの町は遺跡の上に築かれている。第三に、遺跡の保護が確りなされていることである。べつに、柵で遺跡を囲っているわけではないが、多くの遺跡にはていねいに解説板が添付され、また遺跡の周りはきれいに保たれている。市民一人ひとりが遺跡を大事にしていることが感じられる。

 先ず最初に向かったのはワット・チェディ・ルアン(Wat Chedi Luang)である。メインストリートをほんの数百メートル行った街中にある。まったく同名のお寺がチェンマイにあったことを思い出す。あのエメラルド仏が一時安置された寺で、大きな仏塔があった。ワットは「寺」、チェディは「仏塔」、ルアンは「大きい」と言う意味である。したがって、このチェンセーンのワット・チェディ・ルアンにも大きな仏塔がある。伝承によれば、この寺は1291年に王命により建てられたという。ラーンナー王国の首都がいまだチェンライにあった時代、いわば王国の勃興期に建立された寺である。寺名の通り、高さ18メートルの仏塔が完全な姿で残されている。本堂は外壁だけ残っており、その上にトタン屋根を乗せて(ちょっといただけないが)、本尊を安置している。境内にはチークの大木が茂り、なかなか雰囲気のあるお寺である。

 隣りのチェンセーン博物館を見学して、道を20メートルも進むと城門にぶつかる。レンガを積み上げた3メートルほどの城壁とその後に掘られた深さ3メートルほどの濠。濠には水はない。この城壁と濠が城門付近だけは複雑に絡み合い、鉤形に開いている。その隙間をチェンライに向かう街道が抜けている。おそらく昔のままだろう。説明板には「この城門はチェンセーン門(Chiang Saen Gate)といい、城内へ出入りする最も大きな城門であった」と記されている。

 この城門の背後にチークの林が広がり、その中に遺跡が点在している。この一角はパザック歴史公園として整備されている。30バーツの入場料を払い、林の中に入る。誰もいない、朝の光が木漏れ日となって、足下を覆うチークの落ち葉を照らす。木の葉隠れに古びた大きな仏塔が見える。ワット・パサック(Wat Pasak)の寺院跡である。パサックとはチークの林を意味する。14世紀の寺院跡である。仏塔の前の、柱の一部だけ残る廃虚は本殿の跡だろう。林の中を歩く。あちこちに点在する遺跡。あるものは柱の一部だけ、またあるものは基礎の部分だけ。これらの遺跡がいまだ遺跡でなかった時代に思いを馳せる。カサカサとチークの落ち葉を踏む音だけが静寂を破る。

 林を出て、再び自転車を走らす。城壁に沿った地道の道を辿ってみる。城壁は途切れることなくどこまでも続く。このレンガを積み上げるために、いったいどれだけの労力を要したのか。この城壁は14世紀に造られた。ラーンナー王国の北の守りとして、町が城塞化されたのである。しかし、この町も16世紀半ばにビルマに占拠され、その後200年にわたり支配を受ける。タイ族がこの町を取り戻したのは19世紀初頭、ラマ1世の時代である。しかし、再びビルマに占領されることを恐れ、町は破壊されて放棄される。町が再建されたのはそれから100年の後である。この小さな町にも、栄光と苦難の歴史が刻まれている。国境に位置する町の宿命なのだろうか。

 再び小さな城門跡が現れる。地道の小道が、城壁の割れ目を抜けている。城壁をはなれ、町中を走る。道端に次々と遺跡が現れる。いずれも14世紀から16世紀にかけての寺院跡である。この小さな町に、いったい幾つの寺院があったのだろう。この地はやはり、王国の故郷として、特別な地位にあったのかもしれない。

 町の北西方向の山の上に白く輝く寺院が見える。案内書にあるワット・プラタート・チョーム・キティ(Wat Phrathat Chom Kitti)だろう。行ってみることにする。約3キロの距離である。北の城門から市外に出ると途端に人家はなくなる。現在もチェンセーンの町は、城壁の中だけに納まっている。ペタルを踏み、湿地帯と田園の中を進むと、程なく山の麓に着いた。山頂に向かって長蛇の石段が続いている。手摺りは、聖蛇ナーガである。息を切らせて登り挙げた山頂には古びた黄金の仏塔と真新しい本堂があった。そして何よりも展望が素晴らしい。眼下をメコン川の大きな流れが横切り、川に沿って広がるチェンコーンの町も一望である。メコンの背後には、昨日まで旅したラオの山々が広がっている。

 町に戻り、昼飯に小さな食堂に入る。センヤイ(きしめんのようなうどん)とコーラを注文しのだが、食堂のおばちゃんにまったく通じない。この町では私のタイ語は通じないのか。仕方ないので、ガイドブックに載っているセンヤイの写真を見せる。「なんだセンヤイか」とおばちゃん。「だからセンヤイと言ってるじゃないか」と私。漫才である。タイ語は5声言語なので発音が難しい。

 午後からは町の南約4キロにあるワット・プラタート・パ・ンガオ(Wat Phrathat Pa Ngao)に行ってみることにする。南の城門から城外に出てメコン川沿いの国道を南下する。周りは一面の畑である。さすがに真昼の太陽は暑い。行く手の山の上に白い仏塔が見える。30分もペタルを踏むと、目指すお寺に着いた。実に大きなお寺で、参拝者も多い。大岩の上に崩れた仏塔があり、この仏塔がこの寺の名前の由来らしい。本堂の裏手から山頂に向かって長い長い階段が続いている。照葉樹の森の中の階段をひたすら上る。下はあれほどにぎわっているのに、階段には誰もいない。山頂には仏塔とお堂があった。この山頂も展望が素晴らしい。ホテルに帰る。

 これでチェンセーンの町は隅から隅まで回った。お客もいないロビーでカワイコちゃんとお話していたら、大型バスが到着した。カワイコちゃんは慌てて民族服に着替えてお出迎えである。フランス人のようだ。明日はチェンライへ行く。

 
    第六章 古都チェンライへ

 7時30分、ザックを担いでホテルを出る。タイの多くの町にはバスターミナルがあるのだが、このチェンセーンにはない。チェンライ行きのバスは町の中心部の市場の前から出ると、昨日、受付のカワイコちゃんに教えてもらった。その場所に行くと、緑色のちっちゃなバスが停まっていた。ここが始発らしい。車外にいた運転手に「パイ・チェンライ?」と確認すると、「ダイ」との答え。乗って待っていろという。10分ほど待つとバスは発車した。乗客は4~5人。もちろん外国人は私一人である。チェンセーンの町に2日間いたが、街中では外国人旅行者など一人も会わなかった。車掌に再度チェンライ行きを確認する。乗り物に乗るときはしつこいほど確認しないと危ない。料金は25バーツであった。

 郊外に出ると、次々と乗客が乗ってきてすぐに満員になった。慌ててザックを膝の上に乗せる。バンコクのバスと同様、ドアを開けっ放しで走るので、風が入り寒くて仕方がない。セーターまで着ているのだが。朝は本当に寒い。おそらく気温は10度近いだろう。40分ほど走ると、大きな町に入った。メーチャン(Mae Chan)だろう。乗客の半分が入れ替わった。距離的にはここでちょうど半分である。

 道が素晴らしくよくなった。そのはずである。この道は国道一号線。タイを南北に貫く大動脈である。走る車も多く、また新しい。ラオから来ると何やら大先進国へ来た感じがする。突然検問所が現れ、車は停められた。警官が乗り込んできて、乗客の首実検をし、身分証明書のチェックを始める(タイ国民は全員身分証明書を持っており、かつ携帯が義務づけられている)。さて、私に対してはどうするのかな(べつに悪いことは何もしていないが)と身構えていたら、ちらっと見ただけで素通りした。後で聞くと、密入国と、麻薬の密輸入の取り締まりだとのこと。やはりここは国境地帯である。

 大きな川(コック川だろう)を渡ると、大都会へ入った。チェンライである。「チェンライってこんなにデカイ町なのか」。予想を越える大都会の出現にびっくりする。高層ビルこそないものの、見た目には人口20万人のチャンマイと遜色ないし、人口50万人のビエンチャンをはるかに凌駕している。チェンライの人口は3万人程度のはずである。バスは市内中心部のバスターミナルに滑り込んだ。

 バスを降りるとツクツクの運ちゃんが大勢寄って来た。中にはゲストハウスの紹介ビラを差し出すものまでいる。まだ10時半、慌てることはない。待合所のベンチにひとまず陣取り、案内書を開く。結局、中心部近くの裏通りにあるゲストハウスに部屋を取る。一泊350バーツ、今までで一番安い。3泊することにする。
  

    第七章 チェンライ探索

 部屋に荷物を放り込み、先ずは腹ごしらえである。朝から何も食べていない。ゲストハウス前のちっちゃな大衆食堂に飛び込む。私を見ておばちゃんは逃げ腰である。案の定、私のタイ語が全然通じない(もちろん英語も)。こうなれば最後の手段。「キンカオ(食事)、キンカオ」の連呼である。おばちゃんが「○○でいいか」と聞いてくる。何が出てくるか分からないが、「ダイ(yes)」である。待つほどに素晴らしい御馳走が出てきた。ティップ・カオに入ったカオ・ニャオ(糯米)、鳥肉の串焼きが2本、豚肉と野菜の炒め物、香菜の盛り合わせ。これで25バーツ、大満足である。本屋でチェンライの地図を買い、旅行社で帰りのバンコクまでのエアチケットを手配し、準備万端。いざ、チェンライの街や如何に歩き始める。

 まずは街の中心であり、よきランドマークとなる時計台を確認したのち、ワット・プラケオ(Wat Phra Kaew)に向かう。15分も歩くと目指す寺に着いた。この寺こそ、タイ、ラオ両国の国家守護仏であり、現在バンコクのワット・プラケオに鎮座するエメラルド仏の誕生の地である。思ったよりも小さい。参拝者の姿もなく境内は静まり返っている。本堂奥に見えるこじんまりしたお堂に直行する。直線的で急峻な屋根を持つ典型的な北部様式のお堂である。内部も人気はなかった。祭壇の前に座り本尊に対する。緑色の美しいエメラルド仏である。このお堂は1990年、皇太后90歳のお祝いとして建てられた。目の前に御座すエメラルド仏も、その時、オリジナルのエメラルド仏と同じ姿、大きさで開眼された。

 エメラルド仏がこの寺を旅立ったのは1436年、今から537年も昔のことである。そのエメラルド仏の旅路はまさにタイとラオの歴史そのものであった。今回、私は、その旅筋を逆順で辿ってきた。バンコク→ビエンチャン→ルアンプラバン、そして今チェンライのワット・プラケオにたどり着いた。この町が、今回の私の旅の終着駅である。ひとしおの感慨が胸をよぎる。エメラルド仏に改めて手を合わせ、ワット・プラケオを去る。

 ワット・プラシン(Wat Phra Sing)に向かう。14世紀後半建立と伝えられ、ワット・プラケオと並んでチェンライを代表するお寺である。門を入ると、典型的な北部様式(ラーンナー様式)の本堂が出迎える。二段となって切れ落ちる直線的な屋根。単純にして力強い。ルアンプラバン様式の屋根が、5層にも重なり優雅に曲線を描くのに対し、この北部様式はその反対の極に位置する。庭には菩提樹の大木がそそり立っていた。

 町の東端に建つ、メンラーイ王の像に向かう。このチェンライの街を歩き始めてまだ数時間だが、あれっ、と思ったことがひとつある。中国語が公的に使われているのである。道路標識や役所、銀行等の表示は、すべてタイ語、英語、中国語の三カ国語である。英語は明らかに外国人旅行者向けである。では中国語は? 中国人の旅行者はまずいない。ということは、この中国語は国内向けと考えられる。中国語を母語とする人たちが、この辺りには少なからずいるということである。バンコクでもチャイナタウンに行けば中国語(漢字)が氾濫している。しかしこれはあくまで私的レベルの話で、公的表示に中国語が使われることはない。タイの人種構成を見ると華人は14%でタイ族に次で多い。しかし、タイの華人は、他の東南アジア諸国と異なり、タイの社会にすっかり溶け込んでいて、単に中国系タイ人に過ぎない。ふと、以前私の部下であったc君のことを思い出した。彼はここチェンライ出身であった。遺伝子的には100%華人であるが、すでに中国語は分からず100%タイ人になっている。ただし、彼の祖父までは家で中国語をしゃべっていたとのことであった。

 30分近く歩いて、ようやくメンラーイ王の像に到着した。道路に囲まれた一角が公園風に整備され、花壇に囲まれた広場の中央に立つメンラーイ王の立像が街を睥睨している。メンラーイ王は、1262年このチェンライの町を開いた。そして、この町は1296年にチェンマイに遷都するまで34年間、都であり続けた。ラマ9世(現国王)とラマ5世を別格とすれば、メンラーイ王は現在でも、スコータイ王朝のラムカムヘーン王と並んで国民に最も敬愛されている王である。像の前には多くの花が供えられ、おりしも、2人の若い女性が、像の前にひざまずき熱心に祈りを捧げていた。

 帰りがけに、Hilltribe Museum & Education Center(山岳民族博物館)に寄る。ビルの三階にあり、場所がちょっと分かりにくかったが、素晴らしい博物館であった。単に山岳民族への興味本位の展示ではなく、彼らの真の姿を知らせようとする姿勢に好感が持てた。私一人のために、わざわざ日本語のスライドも上映してくれた。ひとまずゲストハウスに戻る。

 宿の親父が「明日ツアーに行きますか」と尋ねてきたので、「いや、勝手にバスに乗ってメーサイへ行ってみる」と断る。不思議そうな顔をしていた。夕食がてらナイトバザールへ行ってみる。規模も小さく、見るべきものはなかった。レストランでビアシン(代表的なタイのビール)を飲みながら、典型的な北部タイ料理であるカオソーイを食べ、一日が終わった。
  

    第八章 タイ最北端の町・メーサーイ、そしてミャンマーへ入国

 今日は日帰りでミャンマーとの国境の町・メーサーイ(Mae Sai)へ行く。タイ最北端の町である。あわよくば、ミャンマーへ入国したいと思っているのだが、国境の状況がどうなっているのか行ってみなければ分からない。バスターミナルへ行く。バンコクやチェンマイへ向かう立派な大型バス。近くの町から到着する小型のおんぼろバス。動き回る人の群れ。客を呼ぶツクツクの運転手達。大きなバスターミナルは大にぎわいである。さて、メーサーイ行きのバスはどこだろな。きょろきょろしていれば、必ず誰かが声を掛けてくれる。「どこへ行くんだ」「パイ・メーサーイ」「あのバスだ」「コップンクラップ」。こういうところがタイは素晴らしい。

 乗ったバスは、昨日チェンセーンから乗ってきたのと同じ小型のおんぼろバスであった。料金は25バーツ。メーチャンまでは昨日辿った道、同じところで、同じ検問がなされていた。チェンライの町にはバックパッカーが溢れていたが、このバスに乗っている外国人は私だけである。チェンセーン方面への道と別れ、さらに国道一号線を北上する。チェンライを出発してから約1時間半、バスはメーサーイのバスターミナルに着いた。しかし、ここはまだ町から6キロも南に位置している。待機していたソンテウに乗り換える。満員の乗客を乗せてソンテウはさらに国道一号線を北上する。いつも思うのだが、こういうローカルな乗り物に乗っていても、誰も私のことを特別視しない。また私自身何の違和感もない。もはや外国にいるとの意識も消えている。タイの素晴らしいところだ。やがて街並みが現れ、メーサーイの町に入った。思いのほか大きな町だ。10人ほどいた乗客が次々と降りていく。ついに私一人になったと思ったらソンテウは停まった。

 目の前に関門が立ちふさがっている。国境である。ついにタイ最北端の地にやって来た。何とも言えない感慨が胸をよぎる。続いてきた国道一号線は、そのまま関門をくぐり、ミャンマーへと続いている。のぞき込むと、関門の先にミャンマーの国旗が翻り、ミャンマーの国土が見える。付近はこれから国境を越える人、越えてきた人で大にぎわいである。案内書には「2002年8月現在国境は閉鎖中」と記載されていたが、いま目の前にする国境は開いている。国境を越えてみたいとの思いがむくむくと沸き上がる。1日入国ならビザなしでも可能なはずである。ただし、案内書には「国境2キロ手前のイミグレーションで出国手続きをする必要がある」と記されている。そんな先まで戻るわけにも行かない。見ていると、地元の人はビザもパスポートも不要の様子で、申請書と身分証明書のコピーだけで国境を越えている。

 Immigratiom Informationとの看板を掲げた事務所が目に入った。窓口で「パスポートを持っているだけだが、ミャンマーへの入国は可能か」と聞く。「OK、そのまま国境へ行けとの返事」。こうなれば進む以外にない。ゲートをくぐり、タイのイミグレーションで出国手続きをする。パスポートに留められた出国カードをはがし、出国印を押すだけの簡単な手続きである。国境に架かる橋を渡る。国境は幅わずか10メートル程のサーイ川(Mae Nam Sai)。ドブ川の様な小さな川である。橋の中央で立ち止まる。今、右足はタイ、左足はミャンマーだ。右にはタイの国旗がはためき、左にはミャンマーの国旗がはためいている。12日前に飛行機で国境越えバンコクへ入った。10日前にバスで国境の橋を渡りラオに入った。3日前に船でメコン川を渡りタイへ入った。そして今、歩いて国境を越えている。今回の旅で、頭の中で描いていた国境という概念が大きく変わった。

 橋を渡り終え、ミャンマーのイミグレーションに行く。パスポートを預け、受取書をもらうだけの簡単な手続きだ。ただし、行けるのは国境から10キロまでで、今日中にこの場所から出国しなければならないとの制限付きである。以上ですべての手続きは終了。ミャンマー側のゲートに向かう。もう一人の自分がささやきだした。「知らない国に入ってきてしまって大丈夫なの。帰れなくなっても知らないよ」。「何とかなるだろう」と私。その時ふと気がついた。「あれ、確か入国料250バーツ取られるはずなのだが。何も払っていない」。「まぁ、いいか」。

 ゲートを出た。タチレク(Thachilek)の町だ。その瞬間、ミャンマーの嵐にさらされた。ここは紛れもなくミャンマーであり、タイでもラオでもないことを思い知らされる。あっという間に数人の男に取り囲まれる。物売り、客引き、物乞い、ーーー。得体のしれない人間が次々と寄ってきてつきまとう。そのあまりのしつこさにへきへきである。この国は「微笑みの国」でも「安らかな国」でもない。恐怖感さえ湧いてくる。小さなドブ川をひとつ越えただけで、風土はこれほどまでに変わってしまうのだろうか。改めて、タイやラオの穏やかな風土を再認識する。

 広場に低いテーブルと小さな椅子だけ並べた喫茶店を見つけて逃げ込む。ここまでは物売りも物乞いも追いかけてこない。勝手は分からないが、「カフェローン(ホットコーヒー)」とタイ語で注文すると通じた。待つほどに出てきたのは、カップに入ったコーヒー。コンデンスミルクがたっぷり入っていて、どろどろして非常に甘い。ポットに入った中国茶。そして、油で揚げたお菓子が4個(後で知るが、サムサと言うらしい)。中には芋アンのようなものが詰まっていて甘い。国が変われば勝手も変わる。料金も15バーツと、タイの通貨であった。態勢を立て直し、覚悟を決めて再び街に出る。

 国境のゲートを出たところがロータリーとなっていて、「City of Golden Triangle」の表示が掲げられている。周辺は一面商店街である。道脇にはツクツクが並び、通りは人でごった返している。行き交う人々は男女ともミャンマーの民族服である巻きスカート姿(後で知るが、男性用は「ロンヂー」、女性用は「タメイン」と呼ぶ)である。入り組んだ路地の商店街をぶらつく。あらゆるものが売られているが、音楽やビデオのテープが目立つ。いずれも違法なコピー商品だろう。相変わらず物売りと客引きがつきまとう。煙草、酒、猥褻テープの物売り。「Lady 、Lady」とうるさい客引き。ツクツクの運転手も負けていない。

 黄色い衣を着、托鉢用の壺を抱えた子供たちがうようよいる。要するに物乞いである。僧の姿を借りて物乞いするなど、タイやラオでは許されることではない。僧や仏教に対する侮辱である。私自身不快な気持ちになる。ミャンマーよりも貧しいと思われるラオにおいてすら、物乞いはいなかった。小さな子供も懸命に働いていた。それに比べ、このミャンマーはーーー。好奇心でこの国に入国してみたが、どうやら長居は無用のようである。国境の町に、わずか2時間ほどいただけでこの国を評価することはできないだろうが。いずれ改めて、ゆっくりとこの国を訪問しよう。記念にロンジーを一着買って、タイへ戻ることにする。

 無事にタイへ戻った。パスポートにはミャンマーの出入国のスタンプが押され、またタイの入国スタンプには、歩いて入国したことを示す「Walk」の印も押されている。よい記念になる。さぁ、メーサーイの町を少しぶらつこう。ここにはつきまとう物売りも客引きも物乞いもいない。まず、タイのイミグレーションの横を抜け、国境の川べりに出る。ここに「Northern Most Point of Thailand」の看板が立っている。「タイ最北端の地」。ついにここまで来たのかとの思いが、沸き上がる。

 丘の上に仏塔が見える。行ってみることにする。街並みのちょっと奥まったところに立派なお寺があり、そこから山頂めがけて長い長い石段が続いている。ワット ・ドイ・ワオ(Wat Doi Wao)である。ドイは「山」、ワオは「サソリ」を意味する。仏塔の建つ山頂のお寺は至る所にサソリの像が建つ。水槽には生きたサソリが飼われていた。そこからちょっと離れたところに巨大なサソリの像が建ち、展望台になっている。眼下に広がるのはミャンマー・タチレクの町である。国境の橋とその両側にはためくタイ、ミャンマーの国旗も確認できる。はるかに霞むのはミャンマーの山々である。

 のんびりと国境の景色を眺めながら、タイとビルマの歴史を思った。タイにとって、ビルマは常に脅威の存在であった。何度も何度もビルマからの侵略を受ける。ラーンナー王朝もアユタヤ王朝もビルマによって滅ぼされた。今ここに立つ大サソリも毒針をミャンマーに向けている。「サソリ」というこの寺の名前は、かつてこの地に「サソリ」と名付けられた猛勇果敢な国境守備隊長のいたことに由来する。しかし、そのビルマもビルマ東部に居住すシャン族の攻撃に常に悩まされ続けた。「シャン」とはビルマ語で「シャム」と言う意味である。すなわち、このシャン族はタイ族の一派である。

 ソンテウに乗って、メーサーイのバスターミナルまで戻る。わずか5バーツである。さてどのバスがチェンライへ行くのかなと、きょろきょろすると、いつもの通り声がかかる。「あのバスが最初に出発するよ」。指さされたバスはチェンマイ行きの上等な大型バス。エアコン、リクライニングシートつきであった。

 早い時間に宿に帰り着いた。宿の親父に、ミャンマーへタダで入国した話をすると「賄賂を取られたという話はよく聞くがーーー」。不思議そうな顔をしていた。さらに親父が、「あなたは、普通の旅行者ですか?」と妙なことを聞く。意味が分からず、「えぇ?」というと、親父は「バックパッカーも含め多くの旅行者はチェンライからはツアーを利用して周辺の村や町を巡る。ところがあなたは、路線バスやソンテウに乗ってあっこっち行っているようだ。しかもその歳で。不思議に思っていたのだが」という。なるほど、言われてみればその通り。タイへ入国以来、バスに乗っても、ソンテウに乗っても、私以外に外人旅行者の姿はなかった。私自身、この国を外国だとは思っていない。

 
    第九章 チョムトンの丘

 明日の朝バンコクへ戻る。今日がチェンライ最後の日である。そしてまた、2週間にわたるラオ、タイ北部の旅の最終日である。もはや特別に行くところもない。あてもなくチェンライの街を歩いてみよう。朝8時に宿を出る。町のシンボル・時計台を越えて北へ行くと市場があった。実に大きい。中は屋根で覆われているため少々薄暗いが、生鮮食料品から衣類雑貨まで、ありとあらゆる店が並んでいる。ごった返す市場の中を抜けると、その周辺道路も一面に露店である。周辺の農家から売りに来ているのだろう。なかに、山岳民族の姿もちらほら見える。まさにここはタイの庶民の活力を感じる場である。

 道をさらに北へ辿るとワット・プラケオの前に出た。せっかくなのでエメラルド仏に再会していくことにする。早朝のためか、境内はシーンとしている。仏前に座り「楽しい旅をありがとうございました。明日、バンコクへ、そして日本へ帰ります」と手を合わせる。寺の隣りに小奇麗な喫茶店を見つけ、モーニングコーヒーとしゃれ込む。街並みはここで終わった。コック川の船着き場まで行ってみよう。大木の並木が美しい道を北西に進む。並木道から外れ、細道を北へ入ってみると、コック川の岸辺に出た。チェンライの町の北を流れるメコン川の支流である。この川の水運がチェンライの生命線であったことはたやすく理解できる。川に沿って遊歩道が設けられている。四阿でひと休み。コック川がゆったりと流れ、その背後には低い山並みが霞んでいる。辺りに人影はない。時々、エンジン音高らかに川船が行き来する。

 上流に橋が見え、渡ったところが船着き場であった。道路網の発達したタイでは、ラオのように船便はポピュラーではないが、この船着き場からも、上流のタートーン(Tha Thon)へ向け船便がある。戻ることにする。橋を渡り返すと道は丘に突き当たり、左右に二分する。この地点から急な階段が山頂に向かっている。上にお寺があるようだ。上り詰めると、立派な中国寺院があった。やはりこのチェンライ周辺は中国系の人々が多いのであろう。

 その裏手に回り込むと、仏塔の建つ立派なお寺があった。設置された説明板を読むと、このお寺はワット・ドイ・トーン(Wat Doi Thong)である。ということは、私が今たたずんでいるこの丘こそがチョムトンの丘。メンラーイ王の館があったと伝えられる丘である。あぁ、なんという幸運、足に任せて歩いていたら、この場所にやって来れたとは。この場所は、持参のチェンライ市内地図の外にあり、道がよく分からなかった。本来、この丘こそが、チェンライで最初に訪れるべき場所と思うのだが、案内書には何も記載されていない。お寺の東側の高みには、一本の太い石柱の回りを小さな石柱が同心円状に取り囲む不思議な建造物がある。石柱は全部で108本あるという。サオ・サドゥ・ムアン(市の柱)である。タイでは、バラモン教の教えに従い、新たな町を造る際に、その中心地に町の礎となる柱を立てる。バンコクの市の柱もワット・プラケオの隣りにあり、いつも参拝者でにぎわっている。このチェンライの市の柱は、1988年に、チェンライ発祥の地たるこの場所を記念して建てられた。

 チョムトンの丘を東に下る。いくつもの丘が入り組み、その間を細道が複雑に続く。地図もなく、方向感覚だけで、細道を辿る。丘の中腹の道をしばらく進むと、お寺の門前に出た。丘に向かって続く階段を上ると、そこがワット・ンガム・ムアン(Wat Ngam Meuang)であった。メンラーイ王の第二王子であり、ラーンナー王国の第二代王となるクン・クラムによりメンラーイ王のために建てられた寺と伝えられている。古い仏塔の前にメンラーイ王の座像が鎮座しており、おりしも若い男女二人連れが、その前に座し、熱心に祈りを捧げていた。この寺もどういうわけか、案内書には何も記されていない。

 丘を下る。道をいい加減に選びながら、街中を目指した。大きな寺の裏手にでた。正面に回り込んでみたら、何と、ワット・プラケオではないか。不思議な因縁を感じた。三度、エメラルド仏の前に座り込む。もうすっかり顔なじみである。仏様も「また来たのか」と苦笑しているようである。寺前の大衆食堂で昼飯を食べ、ワット・プラシンを再度お参りし、街の中心部へ向かう。途中、ワット・クランヴィアン(Wat Klangwiang)ていういいお寺を見つけた。ゲストハウス近くまで戻ると、ザックを担いだ若者が道を尋ねる。外国で、外国人に道を聞かれる。これもまた愉快である。イタリアのローマから一人で来たと言う。

 ゲストハウス近くの食堂で、行き交う人々を眺めながら、一人ビアシンのグラスを傾ける。まだ日は高い。これですべての日程が終わった。明日バンコクへ帰る。長い旅がようやく終わる。バンコク、ビエンチャン、ルアンプラバン、チェンライと辿った12日間の旅。酔うほどに、旅の思い出が頭を過る。ラオを知り、タイの歴史を辿り、そしてわずかではあるがミャンマーを覗いた。何度も国境を越えた。バスで、渡し舟で、そして歩いて。その度に、違った文化に触れた。世界の多様性を実感した。言葉もろくに通じない外国の地を自由に歩き回った。自分自身を褒めようか。いや、そうではなかろう。何の不便も感じさせず、自由に歩かせてくれた国が素晴らしいのだ。日本はどうなんだ。はたして、外国人が日本国内をこれほど自由に歩けるであろうか。とりとめもない考えが浮かんでは消える。チェンライの夕暮れがゆっくりと迫ってきた。
  
  (完)

 
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