日光表連峰の山々は一家族をなす。すなわち夫婦と子供3人の家族である。長男・太郎山はすでに成長し、両親と少し離れて住んでいるが、二子・大真名子山と三子・小真名子山は父・男体山と母・女峰山に両側から守られるようにして暮らしている。真名子とは「愛子」の意であるといわれている。夫・男体山はなかなかの美男子である。中善寺湖にその秀麗な姿を浮かべている。それに対し、妻・女峰山は猛女である。山体は男体山より大きい。背丈も、2483メートルで男体山よりわずか1メートル低いに過ぎない。そして何よりもその容姿である。南面はガレにより大きく削り取られ、鋭い岩峰となって天に突き出ている。その様は、夫・男体山が戦場ヶ原の向こうに住む絶世の美女・白根山に色目を使うので嫉妬の火を燃やしているようである。
この一家の誕生と成長の記録は群馬大学の早川先生のホームページに要領よく解説されている。以下その引用である。
日光白根山を含む日光火山群の成り立ち
日光地域には小さい火山がたくさんある。稲荷川によって浸食拡大された直径2kmの中央火口をもつ女峰山がそのなかで最も大きいが、それでもさしわたし14kmの大きさしかない。次に男体山と日光白根山と太郎山が大きい。以上の四山は複数回の噴火で長期間かかって形成された円錐火山である。大真名子山・小真名子山・山王帽子山・三岳・光徳は一回の噴火で生じたと思われる溶岩ドームである。女峰山は35万年前ころから噴火をはじめ、平均して1万年に1回の割合でM4以上の爆発的噴火を繰り返したが、8万6000年前を最後に噴火をやめてしまった。詳しい成長過程はわかっていないが、24万年前に山体の一部が崩壊して岩なだれと泥流が発生したことが火山灰層序から知られている。このときまでに、女峰火山の山体は重力不安定が生じるくらい大きく成長していたらしい。男体山は2万3000年前に噴火をはじめ、その後7000〜8000年間断続的にスコリア(黒い軽石)を放出しつつ円錐形の火山体をつくった。この過程で、大谷川が溶岩流にせき止められて中禅寺湖が生じた。1万4000年前に、火砕流を伴った軽石噴火(七本桜/今市噴火、M5.6)が起こり、続いて北側へ御沢溶岩を流出したあと、男体山は現在まで沈黙を続けている。今後ふたたび噴火するかどうかはわからない。
男体山と太郎山にはそれぞれ1981年と1982年に足跡を残してある。今日は大真名子山、小真名子山を越えて女峰山を目指す。縦走ではあるが、一つ一つが独立した火山であるため、高低差が大きく、また距離も長い。まだ明けやらぬ早朝4時40分、車で出発する。宇都宮インターから日光自動車道路にはいる。行く手に、男体山、大真名子山、小真名子山、女峰山が朝日に輝いている。なかでも帝釈山から吊り尾根を掛ける
女峰山の赤茶けた大きな山体が目につく。戦場ヶ原から志津林道に入る。昔はこの林道への車の乗り入れは禁止されていたで、女峰山への日帰り登山は無理であった。私にとってこの山が未踏のまま残っている最大の理由である。相当な悪路と聞いていたが、意外にも狭いながらも立派な舗装道路となっている。ヘアピンカーブを繰り返しながら志津乗越を目指す。路肩の広場に十数台の車が駐車している場所にでたと思ったら、舗装はここで終わり。その先はオフロード車でないととても通れないすさまじい悪路となっている。あきらめて、私も路肩に車を止める。
支度を整え、7時、林道を奥に歩き出す。今日の天気は最高である。寒冷な大陸の高気圧が張り出し、さわやかな秋晴れが期待できる。しかし、寒さが厳しい。長袖のポロシャツで歩き出したのだが、途中でセーターを着、手袋をはめる。約10分で男体山と大真名子山の鞍部である志津乗越に到着した。ここが登山口である。あの悪路を乗り切ってきた数台の車が駐車している。周囲の隈笹は霜で真っ白となり、驚いたことに、水たまりには氷が張っている。寒いはずである。帰路カーラジオで、中禅寺湖畔で初霜初氷が観測されたとのニュースを聞いた。
道標に従い、そのまま大真名子山への登山道に踏み込む。カラマツ林の中の隈笹の道である。エンジンの音が聞こえ、すぐに笹刈りをしている人に出会う。早朝からご苦労なことである。数分登ると八海山神の神像が建っている。この大真名子山を含め日光表連峰の山々は昔から山岳宗教の舞台であった。男体山山頂には古代の祭祀遺跡がある。男体山と女峰山を結ぶこの道も昔は山伏が駆けたはずである。
ここから本格的な登りとなった。周りはすべてコメツガを中心とした原生林である。岩角、木の根を踏んでの急登が続く。木の間隠れに見える男体山が稼いだ高度のよき目安となる。登山口から約1時間の単調な登りに耐えると、鎖場が現れた。鎖に頼るほどの悪場でもないが、この辺りが「千鳥返し」と呼ばれる場所であろう。小平地でひと休みする。
すぐに三笠山神の神像の立つ小ピークに登り上げた。初めて大展望が開ける。目の前に秀麗な男体山がどっしりと聳え、その左手奥には深田百名山の一つ・皇海山の独特の山容が確認できる。戦場ヶ原の向こうには奥日光の盟主・白根山が真っ青な空を背景にドーム型の山頂を聳立させている。さらにそのはるか彼方にも幾筋もの山並みがうっすらと浮かんでいる。遠くの山々の同定は山頂の楽しみとしておこう。目を大きく左に振ると、広がる関東平野の彼方に、何と! 筑波山が見えるではないか。今日は何と視界がよいことか。富士山が見えないものかと目をこらすが、どうやら男体山の背後のようだ。尾根状となった地形をわずかに急登すると、再び大展望の岩場に達する。写真を撮りまくる。デジタルカメラに変えてからフィルムを気にする必要がなくなった。目の前の男体山の高さからして山頂は近い。
ちょうど9時、大岩の積み重なった大真名子山山頂に達した。待望の大展望が広がっている。ザックを下ろすのももどかしく、一番高い大岩の上に飛び乗る。さぁ、どこから手を着けようか。北方目の前には、これから向かう女峰山、小真名子山が聳える。各々独立しており登り下りのアルバイトが大変そうだ。その左手には特徴のない山並みが続いている。目を凝らして同定を試みる。会津田代山から帝釈山、黒岩山と続く山稜ではないか。懐かしさがこみ上げてきた。登山道のないあの山稜を必死の思いで一人縦走したのはもう20年も昔のことである。その背後に続く平坦な尾根は会津駒ヶ岳、何度も計画しながらいまだ未踏のまま残っている。その右手遙か彼方、青空にとけ込むように続く山並みは飯豊連峰であろう。もうあの大きな山域に挑むことはないだろう。燧ヶ岳の双耳峰が見える。至仏山は、眼前にそそり立つ太郎山の背後なのだろう、見えない。白根山の左右奥に連なる山並みの同定は難解である。山並みの重なりがはるか彼方まで続いている。その中にあって浅間山が確認できる。浅間山、黒斑山、篭ノ登山、湯ノ丸山と続く山並みである。この山並みはついこの間登ったばかりである。そのさらに奥に霞む山並みは北アルプス、八ヶ岳、南アルプスだろう。それにしても、今日は何と空気が澄んでいるのだろう。ようやく腰を下ろして朝食のサンドイッチを頬張る。山頂には神像と小さな祠が鎮座しており、3パーティが休んでいた。
小真名子山に向かう。今日はまだ先が長い。気持ちのよい平坦地を過ぎると、コメツガの原生林の中の一直線の下りとなった。登山道とも沢ともつかない荒れた水流跡である。下地が火山礫のためすぐに掘れてしまうのだろう。そういえば、原生林に大木は少なく、倒木が多い。下地が薄く、根が浅いのだろう。誰にも会わない。物音一つしない原生林の中をひたすら40分も下ると、小真名子山との鞍部である鷹ノ巣に下りついた。小さな草原に腰を下ろしてひと休みする。
小真名子山への登りに入る。すさまじい急登である。原生林の平斜面を木の根岩角を踏んで唯ひたすら体を引き上げる。3パーティとすれ違う。30分ほどすさまじい急登に耐えると、ぽいと山頂に飛び出した。樹林の中の小さな山頂である。単独行者が休んでいたが、私と入れ違いに出発していった。山頂のわずか東側にでると狭いながらも展望が得られる。目の前に大きな女峰山がそびえ立っている。帝釈山から続く岩稜はかなり厳しそうである。その左手はるか奥に赤茶けた山が見える。目を凝らすとうっすらと煙を上げている。那須の茶臼岳だ。一人握り飯を頬張る。
2人連れが登ってきたのを潮に出発する。山頂部をほんの20〜30メートル進むと、突然大きな電波反射板が現れびっくりする。全く似つかわしくない人工物である。ただし、周りの樹木が切り払われ実に展望がよい。立ち止まって、しばし山々に見とれる。ところが、下りに入り青ざめた。何と、ルートはガレ場の大急斜面である。一歩ごとに、足下のガレが崩れ落石となる。スリップしようものなら数百メートル下まで転げ落ちること必至である。何というルートだ。一歩一歩慎重に下る。何しろ怖い。今日は晴天なので何とか下れるが、悪天の場合、登りはともかく、下りは絶望だろう。たしかに、二万五千図を読む限り、ものすごい急斜面であることはわかるが、まさかガレ場であるとはーーー 。冷や汗も出ない緊張の末、下部の樹林地帯に逃げ込んでほっとする。
すぐに小真名子山と女峰山の鞍部である富士見峠に達した。小広く開けた草地で、使われなくなった古い林道が上がってきている。ほっと一息ついて座り込む。女峰山から三々五々とパーティが下ってきて林道を下山していく。私も一瞬このまま下ろうかと思ったが、思い返して女峰山の前衛峰である帝釈山を目指す。コメツガの原生林の中の長い長い登りである。思いの外傾斜は緩やかであるが、登山道は深くえぐれ、沢となっている。いたる所高い段差となっており、まともには歩けない。何の変化もない単調な登りがどこまでも続く。すれ違うパーティもいない。休む場所とてないので、ひたすら登り続ける。ようやく上空に青空が見えだし、樹林が疎となる。山頂は近そうである。樹林が切れた。振り向くと、青空のはるか遙か彼方に富士山が浮かん
でいる。昨日初雪が降ったようで、山頂部は白く染まっている。すぐ上が、帝釈山の山頂であった。
森林限界を抜きでた山頂はまさに360度の大展望が広がっていた。北方を眺めると、山肌にスキー場の目立つ高原山が足下にゆったりと聳え、その背後には煙吐く茶臼岳を中心とした那須連峰、さらにそのはるか背後に霞むのは飯豊連峰であろう。目を左に振れば、帝釈山脈、会津駒ヶ岳連峰、さらにその背後に連なるのは奥利根源流の山々か。西方を眺めれば目の前に太郎山が聳えその左背後には上信国境の山々、八ヶ岳連峰、はるか遙か彼方にうっすらと浮かぶは北アルプスの山々であろう。見つめるほどに解けた。何と槍・穂高連峰ではないか。飛び上がるほどうれしくなってきた。南を眺めれば、辿り来し大真名子山、小真名子山が足下に並び、その後ろには男体山、白根山、皇海山が連なる。その奥に連なるは上州、奥秩父の山々か。富士山が逆光の中に浮かび、その左にうっすらと連なるのは丹沢山塊だろう。そして、最も目を引くのは、東方眼前、鋭角三角形となって高々と天を突く女峰山である。握り飯を頬張りながら天下の絶景に見入る。
さぁ、今日最後のアタック、あの天を突く女峰山を目指そう。ガリガリに痩せた吊り尾根状の岩稜を辿る。森林限界を抜きでてハイマツに覆われたこの尾根は実に展望がよい。ただし、うっかりよそ見をしようものなら、足を踏み外して左右の絶壁を転落である。
まさに岩壁となった最後の岩場を登り切ると、女峰山山頂であった。岩塔となった狭い山頂はまさに天下一品の展望台である。日本百名山だけでいったいいくつ見えるだろう。これほどの展望台にこれほどの好天気のなか登れたとは何と運が良いのだ。山頂は数組の登山者で満員である。皆うっとりと天下の絶景に見入っている。二度と見られないであろう大展望を網膜とカメラに焼き付け、下山に移る。3時間近く掛かるはずでゆっくりはしていられない。
山頂を形成する岩塔から一段下がった小平地に祠が安置されている。道標に従い、赤薙山に続く尾根道から分かれて、唐沢小屋への下山路にはいる。すぐにガレ場の急坂となる。小真名子山の下りに比べ幾分傾斜が緩やかであるが、それでも怖い。慎重に一歩一歩足場を刻む。単独行の男性とアベックが後ろから続いて下ってくる。落石が怖い。樹林地帯に下りついてほっと一息つく。緩やかに下っていくと唐沢小屋に達した。思いの外大きな立派な小屋である。ひと休みする。
ここで登山道は二つに分かれる。一つは日光市街地へ下る。単独行者はこの道を下っていった。もう一本は、私の下る道。水場を経て「馬立」に下る。アベックパーティはこの道を下っていった。荒れた薙の縁の急坂を10分も下ると、「水場」についた。千切れるほどの冷たい水が岩の間から豊富に湧き出ている。この辺りは火山であるため、水流はすべて伏せ流となり、水場は非常に少ない。すぐに荒れ沢を渡る。ここからは実に気持ちのよい道となった。樹林の中の緩やかな道がどこまでも続く。アベックを抜き、足に任せてどんどん下る。木の間越しに、男体山、大真名子山が見える。登山道もしっかりしていて何の不安もない。下りに入り初めてパーティとすれ違う。唐沢小屋泊まりだというさわやかなアベックであった。
やがて大きな沢の合流点に下り着いた。標示はないが「馬立」と呼ばれる地点である。再び日光市街地へ下る道を分け、沢を渡ってジグザクの登りにはいる。わずか15分の登りに耐えると、ついに志津林道に飛び出した。やれやれである。地道の林道をひたすら歩く。振り返ると、女峰山が深まった午後の陽に染まっている。相変わらず空は晴れ渡り雲一つ現れない。人影もない林道を50分も歩き続けると、今朝の出発点、志津乗越に到着した。愛車まではもう10分の距離である。 |