安倍奥 山伏から小河内山へ

大深い笹をかき分け、白峰南嶺の一峰へ

1996年8月18日

              
 
駐車場(625〜630)→山伏登山口(635)→蓬峠(800〜805)→山伏(925〜945)→大笹峠(1000)→小河内山(1135〜1200)→大笹峠(1315)→山伏(1345)→牛首峠(1510〜1515)→西日影沢(1700〜1705)→駐車場(1715)

 
 夏場は2千メートル級の山でないと藪が繁茂してとてもではない。とはいっても、今日はお盆の帰省ラッシュ、遠くへは行けない。考えたすえ、安倍奥の最高峰・山伏に行ってみることにした。山頂に群生するヤナギランがちょうど見頃のはずである。ただし、山伏は過去二回も登っているし、この山だけでは如何にも物足りない。白峰南嶺に踏み込んで小河内山まで行ってみることにする。
 
 5時15分、家を出る。通る車とてない梅ヶ島街道を走って、新田集落から西日影沢沿いの林道に入る。勝手知った道である。登山者用駐車場にはすでに2台の車が止まっていた。周りは月見草が満開でもう秋の気配である。この西日影沢沿いの登山道をたどるのは三度目であるが、過去はいずれも下山道として利用した。杉檜の植林の中を沢沿いに登っていく。林床には実にいろいろな花が咲いている。一番多いのがタマアジサイ。薄紫色のこの花はありふれた花ではあるが、じっくり見るとなかなか気品がある。センダングサの黄色の花も多い。野原に多いこの花はこんな山中にも咲いているのか。アキノキリンソウも咲き始めている。朝日が木漏れ日となって林床を照らし始める。山葵田を過ぎるとメタカラコウの黄色い花が目立つ。大岩から道はいくぶん急となる。フシグロセンノウが群生している。薄暗い樹林の中では大振りの鮮やかな朱色のこの花は実によく目立つ。水場を過ぎ、支尾根に上り詰めたところが蓬峠。備え付けのベンチで一休みである。この辺りにはピンクのモミジハグマのかわいらしい花が群生している。ここからは山毛欅や楓の自然林となる。数日前に登った南ア深南部のコメツガやシラビソの針葉樹の原生林もよいが、安倍奥の明るい落葉広葉樹の原生林もすばらしい。誰もいない。ミニュチュア細工のようなシモツケソウのピンクの花が目立つようになる。支尾根を絡んだ急登をゆっくりゆっくり登っていく。ヤマホトトギスを見つけた。何と変わった花だろう。ソバナのかわいらしい紫の花も微風に揺れている。トリカブトの花も見られる。
 
 山伏小屋分岐を過ぎるともう山頂部の一角である。景色が変わり、低い笹と草原の入り混じった緩やかなうねりの中にコメツガ、シラビソの大木がまばらに生えてる。高原といってもいいような明るい女性的な景色である。緩やかに登っていくと、期待通り、ヤナギランの大群生が現われた。赤紫色の穂が微風に揺られている。山頂ではすでに数組の登山者が思い思いにお弁当を開いていた。この安倍奥最深部に位置し、日本200名山でもある山伏は静岡市民にこよなく愛されており、四季を通じて登山者が多い。しかし、林道の発達とともに、私が登ってきた本来の登山道から登る人が少なくなっているようである。私が最初にこの頂を訪れたのは平成4年9月、大谷崩の頭から縦走してであった。二度目は平成6年の4月、まだ残雪の山頂に笹山から縦走して達した。私も山頂の一角に陣取って握り飯を頬張る。本来この頂からは南アルプスや富士山がよく見えるのだが、今日は夏特有の霞みが掛かり展望は得られない。日が燦々と降り注いで暖かい。この間にも何組かの登山者が登ってくる。
 
 いよいよ小河内山に向け出発する。間ノ岳から大井川左岸に沿って延々と南下する白峰南嶺はこの山伏をもって終着駅となる。私は、いつの日か布引山から山伏までの稜線をたどることを夢見ている。今日はこの登山道のない藪尾根が果たしてどんなものか偵察を兼ねている。小河内山往復約5時間と見る。山伏山頂から大笹峠に向かって一直線の急坂を下る。聞きしに勝る急斜面である。足だけでは一歩も歩けない。山頂から峠までザイルが張りっぱなしである。約15分で、林道の通る峠に降り立った。駿河と甲斐を結ぶこの峠は、昔はうら寂しい峠であったとのことだが、今では林道が乗っ越し、まったく風情ないものとなってしまっている。数台の車が止まっている。登山者のものだろう。
 
 切り通しから尾根に取り付く。状況が今までと一変した。笹と灌木のすさまじい藪尾根である。膝から腰ほどの高さの笹がびっしりと尾根を覆い、どこまでも笹、笹、笹である。笹をかきわけると微かに踏み跡が確認できるのだが、足元には倒木が隠されていて進むのに苦労する。ただし尾根は明確であり、ルートファインディングには問題ない。小さな上下を繰り返しながら、ひたすら笹を漕ぐ。地図上の1,881メートル標高点ピ−クを越える。所々に「静岡市有林」の看板を見る。行く手に二つのピ−クを持った小河内山が高だかとそびえている。右手には八紘嶺から七面山に続く緩やかな尾根が霞んでいる。笹は所々背丈ほどとなり、さすがにうんざりする。よほど小河内山まで行くのを諦めようかとも思ったが、正午まで進んでみようと、再び笹を漕ぐ。南の肩と思われる地点まで達すると、笹は背を没する程となり、身は笹の中に埋没する。少々やばい。帰路、ルートがわかるだろうか。周囲の状況を頭に叩き込みながら、笹を押し分ける。山頂部の一角に出ると笹も膝ぐらいとなった。
 
 11時35分、ついに山頂に達した。山頂といっても何一つ標示はない。低い笹の密生した細い尾根の高まりである。地図を見ると小河内山は二つのピークからなっている。今到達したのは最高地点でもある2,079メートル標高点ピ−クである。この一つ先のピークが2,075.5塔=[トル三角点ピ−クである。三角点峰まで行ってみる。ここも樹林と笹の中の何の変哲もないピークで、三角点は確認できなかった。この地点をもって今日の最終点とする。行く手に水無峠山が霞んでいる。さらにこの先へと縦走する機会はいつ訪れるであろうか。最高点ピークで握り飯を頬張りながら思わず自笑する。滅多に人の来ないこんな藪山に何を好んでやってきたのだろうか。
 
 正午、山伏に向かいもと来た道を引き返す。剥き出しの腕は笹でだいぶ傷ついた。ひたすら笹を漕いで1時15分、再び大笹峠に戻る。ほっとする暇もなく今日最後の大急登に挑む。さすがに疲れた。1時45分、息咳切って山伏山頂にたどり着く。ちょうど4時間で小河内山往復をしたことになる。この時刻でも、山頂は数組の登山者でにぎわっていた。休むことなく下山に掛かる。登った道を下るのも癪なので、山稜を南に縦走して、笹山との鞍部である牛首峠経由で西日影沢に下山することにする。ただし急がないと日が暮れてしまう。山頂から5分で山伏小屋分岐。今朝方登ってきた道と分かれて縦走路に入る。樹林の中を緩やかに下って行くと左側に小さなガレがある。覗き込んでみてびっくりした。ガレの砂地が一面のお花畑となっている。赤、白、黄、紫と色採り採りの花が咲き誇っている。
 
 広々とした尾根はうねりながら緩く下っていく。白樺の疎林となり、低い笹原と草原が入り混じりながら広がっている。草原はお花畑である。まるで高原散歩、なんとも気持ちがよい。やがて県民の森方面から延びている林道に下る道が右に分かれる。前後していたパーティはみな林道に下っていった。猪ノ段と呼ばれる台地に到る。林相が変わり、山毛欅、楓を中心とした広葉落葉樹の森となる。林床も背丈ほどの猛々しい笹の密生に変わる。登山道はしっかりしているが、あまり人の歩いた形跡はない。緩やかな上下を足早に飛ばす。台地が尽き、急坂を一気に下る。下り切ったところが笹山との鞍部・牛首峠である。ここで稜線の西側を巻いている林道と出会う。人影はない。
 
 さて、ここからコンヤ沢上部をトラバースして西日影沢に下るのであるが、大きな看板があり「この登山道は崩壊が激しく相当危険。熟達者以外は通行禁止」とある。かなり荒れていることは承知していたが、このように正面から標示されるとビビる。「俺は熟達者かな」と一瞬自己に問う。いずれにせよ時刻はすでに3時、この道を下る以外選択の余地はない。急坂を下ると、すぐにコンヤ沢上部のトラバース道となった。注意書き通りすさまじいルートである。急なガレ地のトラバースの連続で、一歩足を滑らせば谷底へ転落である。ガレ場に慎重にステップを切り、全神経を集中する。何しろ恐い。所々ザイルも張られているが、ザイルの支点もガレの崩壊に流され、用をなさない。この超危険なガレ場をいったい何か所通過したことだろう。杉檜の樹林地帯に入るとようやく悪場は終わった。確りした小道が続く。ふと気がつくと樹林の中はもう薄暗くなっている。急がなければならない。しかし、トラバース道は小さな上下を繰り返しながらどこまでも続き、いっこうに高度は落ちない。幼蛇が道を横切る。作業小屋を過ぎると尾根の小さな鞍部に達した。三叉路となっていて、尾根上を進む道と、尾根の反対側に下る道があるが標示は何もない。ここはおそらくコンヤ沢乗越であろう。見当をつけて下るルートをとる。しっかりした踏み跡はどんどん下って小沢に下り着く。しかし、このまま西日影沢に下るのかと思ったら、再び長い巻道に入る。高度は全然下がらない。ルートはこれでいいのだろうか。少々不安になる。樹林の中はもうすっかり薄暗くなっている。もし、ルートミス等なんらかのトラブルが発生したら、明るいうちの下山は絶望になる。
 
 再び小尾根の鞍部に達し道が分かれる。何の標示もない。尾根を下る道を選択する。雑木の中をジグザグを切ってどんどん下る。途中道は分かれるが構わず下へ向かう道をとる。やがて欝蒼とした檜林の急斜面を下る道となる。はるか下方で大きな沢音が聞こえる。西日影沢だろう。もうルートに不安はない。踏み跡の判別に気を使うほど暗くなった林の中を嫌になるほど下ると、ついに西日影沢右岸の辺に出た。ほっとしてひと休みする。西日影沢はここでは沢幅100メートルほどの大きな沢となっている。沢を徒渉して左岸の林道に向かう。幸い流れに流木が渡してあったので足を濡らすことなく渡れた。林道を10分も歩くと、我が愛車が待っていた。実に10時間以上にも及ぶ行動がついに終わった。 山伏は三度目であったが、樹林の中に点々と咲く花、山頂のお花畑と、実に花が多いのに驚いた。同じ山でも、季節を変えて登ってみるものである。一方、小河内山はただ深い笹を漕ぐだけのなんともつまらない山であった。山伏から布引山までの縦走は可能と思われるが、果たして縦走する価値があるかどうか。牛首峠から西日影沢へのルートは上部の崩壊が激しく、余りにも危険な道である。はっきりと廃道処置をとるべきだと思う。