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上小川駅(550〜600)→長福寺(620)→集落の外れ(640)→奥久慈パノラマライン(715)→林道(725)→長福観音堂(740〜745)→長福集落(755)→男体神社(805)→月居山分岐(900)→休憩舎(915)→男体山山頂(920〜945)→長福分岐(1000)→白木山分岐(1035〜1040)→途中休憩(1143〜1147)→水根分岐(1150)→第二展望台(1200〜1205)→第一展望台(1215〜1220)→国道461号分岐(1235)→男体山登山口碑(1235)→月居山(1255〜1300)→月居峠(1310)→旧道(1320〜1335)→袋田駅(1420) |
ゴールデンウィークも終わり、春も後半である。山はツツジの美しい季節を迎えている。ようやく奥久慈の名峰・男体山へ行く決心がついた。奥久慈の男体山は関東百名山や日本百低山にも列せられる名峰である。前々からその名声は聞き及んでいるのだが、何せ埼玉県の我が家からは如何にも遠い。朝一番の列車に乗ってもメイン登山口となる水郡線の西金駅着は10時21分である。これでは話しにならない。ならば車でと、カーナビで調べてみると、距離174キロ、高速道路を使っても所要時間は3時間46分、ちょっと考え込んでしまう。しかも、車の場合は単純な山頂往復となり、入山と下山で場所の異なる縦走は無理である。希望としては、男体山に登るからには、そこから縦走して、袋田ノ滝の裏山である月居山(つきおれさん)まで縦走したい。
いろいろ検討した結果、ようやく納得の計画が作れた。未明に車で出発し、水郡線の上小川駅に駐車する。この駅には無料の駐車場があるらしい。また、この駅から男体山に登るルートがある。さらに月居山、袋田ノ滝まで縦走し、袋田駅に下山する。水郡線の列車を使って車の置いてある上小川駅に戻ればよい。何とかなりそうである。 一日中晴天が続くとの予報を信じ、早朝というより未明の3時半、車で出発する。東北自動車道、北関東自動車道と走るうちに夜がしらじらと明けてきた。筑波山、加波山が日の出前の薄暗い空にくっきりと浮かび上がっている。常磐自動車道に入る。ようやく顔を出した太陽の水平照射がまぶしい。那珂I.Cで降り、通る車もほとんどない那珂川沿いの国道118号をひたすら北上する。途中、ハタと気がついた。ザックの中にカメラを入れた記憶がない。あぁ、何というチョンボ。今更どうしようもないが。 すっかり夜の明けた5時50分、家から174キロ、2時間20分走って水郡線の上小川駅に到着した。思いのほか早く着いた。小さな駅は無人で、駅横に20台ほど駐車可能な、立派な無料駐車場があった。安心して車を停める。駅待合室には大子町の作成したハイキング案内のパンフレットがおいてあり、1万5千図の詳細な地図が記載されている。大助かりである。 人影もない駅前の通りを進む。実は、山中に入る前に寄っておきたいところがある。町外れにある長福寺という曹洞宗の寺である。長元2年(1029年)開山と伝えられる古刹で、この寺の山門が大子町の文化財として知られている。今から200年ほど前に建立された建物である。地図を見い見い、駅前に広がる頃藤集落の小さな街並みを抜け、長福寺山門の前に立つ。16本の欅丸柱で支えられた二階建ての銅版葺き。豪華な、かつ古色蒼然とした山門である。寺そのものが平凡な田舎寺であるだけに、この山門は何か場違いな感じさえする。 改めて山に向う。空は真青に晴れ渡っている。すれ違った婦人が、丁寧に挨拶する。朝からすがすがしい気持ちである。行く手に、今日の目的地・男体山がその特異な山体を高々と空に向って突き上げている。頃藤保育園と南中学校の間を抜けると集落は尽き、林の中の細道となった。既に草が繁茂しだしており、蛇が這いだしてきそうで快適とは言えない。おまけに時折、蜘蛛の巣が顔にかかる。私が今日最初の通過者の証拠である。持参のストックを振り回す。左に溜め池を見て、緩やかに登っていくと道はいつしか樹林の中の尾根道となった。紫の藤の花が絶壁に懸かっている。 所々露石の急登が現れるようになる。場違いのようにベンチが一つぽつんと置かれている。犬の激しい鳴き声が聞こえ、近づいてくる気配である。山中で何が一番怖いかというと犬である。山村では犬を放し飼いにしていることが多いし、また野犬の群れと出会うこともある。熊ならば基本的に向こうが逃げるのだが、犬は襲いかかってくることが多い。そうなれば戦う以外ない。この際、持参のストックは最大の武器である。何度か経験がある。幸い、吠え声は遠のいていった。 鋪装された立派な車道に飛びだした。「奥久慈パノラマライン林道」とい名の林道らしい。ただし、「林道」とは名ばかりで、観光を目的に作られた道である。茨城県のホームページでもこの林道について「森林・林業の活性化と、本件有数の山岳景観美を誇る男体山及び周辺地域の有効利用を図るための、幹線となる林道です」と正直に記載している。まったく無駄な道路を造るものだ。 林道上に立ち止まっていたら、突然、1人の男が同じ登山道から現れた。まったく人の気配がなかったので、少々驚いた。ザックを背負ってはいるが、その雰囲気からして登山者ではないようだ。変わった人で、私と目を合わせようともせずに、林道を歩いて去っていった。私は林道を横切り、反対斜面に刻まれた登山道に入る。 何となく気味の悪いマムシ草が群生する急斜面を10分ほど登ると長福山山腹を水平に巻く細い地道の林道に出た。小型車が何とか通れる道幅で轍の跡が残る。人気のまったく感じられない林道を足早に10分も進むと、長大な石段の下に出た。2万5千図にも石段記号が記載されている長福観音堂の石段である。上部が見通せないほど長大な、そして危険を感じるほど急な石段が山腹を延々と登り上げている。その先に観音堂が鎮座しているはずである。行かねばなるまい。 息を整え、石段に挑む。個々の石段の幅が狭く、足裏が半分しか乗らない。踊り場も少なく、途中立ち止まる場所とてない。息を切らし、ついに数百段(288段だそうだ)の石段を登りきった。山腹に開かれた小広い平坦地に小さからぬ御堂が立っている。広場の隅に設けられたベンチに座り込みひと息入れる。 地図を読むと、この地点は長福山中腹の標高約380メートル地点である。できることなら、標高496メートルの長福山山頂を極めたいとの野望をもってここまで登ってきた。長福山は女体山との別名を持ち、男体山とペアとなる山である。ただし、登山ハイキングの対象とはなっておらず、登山道もないらしい。わずかに、この観音堂から山頂に続く微かな踏跡があるらしいがーーー。探ってみると、観音堂右側奥から微かなそれらしい踏跡の気配が上部に続いている。ただし、道標はおろか赤テープもない。山頂までおよそ30分、行って行けぬことはなさそうだがーーー、今日はまだ先が長い。無理することはない。 長い石段を下る。急勾配で、段幅が短いこともあり、下りは一層危険である。再び犬の激しい鳴き声が聞こえる。出会わなければよいのだが。地道林道まで戻り、さらに5分ほど進むと、突然数軒の人家と畑が現れた。山上集落である長福集落である。よくもまぁ、孤立したこんな山中に集落を発達させたものである。集落内に人影はない。すぐに、地道林道の下部をほぼ平行してここまで続いてきた奥久慈パノラマライン林道に降り立った。 パノラマライン林道を300メートルほど歩き、ヘアピンカーブする地点で、道標に従い、左に分かれる細い鋪装道路に踏み込む。緩やかに500メートルほど進むと広場にでた。駐車場との標示がある。ここまで車でやってきて男体山に登ることが可能なようである。広場から50メートルほど続く杉並木の参道の奥に男体神社が鎮座していた。社殿は少々粗末な建物であるが、この神社こそ、男体山の山名の基となった神社であり、おそらくは、男体山自体を御神体として祀った神社である。今日の無事を祈る。 頭上に男体山が覆いかぶさるように高々と岩峰を聳え立たせている。ここからいよいよ本格的な登りである。覚悟を決め、神社裏手より続く急斜面に挑む。ジグザグを切った一本調子の急登がどこまでも続く。登るに従い、露石が増え、ロープを張付けた岩場が頻繁に現れるようになる。ただしいずれも危険と言うほどではない。周囲は落葉樹と潅木の薮で展望はない。最初は着実に高度を稼いでいた歩みも、次第にその速度が鈍る。 手持ちのパンフレットによれば、男体神社から、男体山と月居山を結ぶ縦走路出会いまでの登り予定時間は30分である。しかるに、既に40分ほど休むことなく登り続けているのだが、一向に目指す分岐地点に到達しない。それほど歩みが遅いとも思えないのだがーーー。そろそろ休みたいが、何とか分岐地点まで頑張ろうと自らを励ます。 さらに10分ほど歩くが、ただただ一本調子の急登が続くだけで、目指す分岐点は一向に現れない。いくら何でも変だ。登っている道は明確な登山道であり、ルートを踏み外しているとは思えない。分岐点を見過ごし、通過してしまったのだろうかーーー。何とも訳がわからない。少々不安となる。いずれにせよ、いま歩いているのは明確に登山道であり、このまま進めば、いずれ何か目標物が現れるだろう。そう思い定めて、急登を続ける。 男体神社を出発してから休むことなく登り続けること55分、目の前に目指した三差路分岐が現れた。立派な道標が右方向を「男体山」、左方向を「月居山・袋田ノ滝」、登ってきた方向を「長福・上小川駅」と指し示している。やれやれである。であるなら、大子町作成のハイキングコースに関する立派なパンフレットに記載された所要時間は何だったのか。標準30分コースを私が休みなく歩き続けて55分かかった。こんなバカなことはあり得ない。 足早に登ってきたこともあり、いい加減疲れた。腹も減った。考えてみると、朝から未だ何も食べていない。当然この地点でひと休みするつもりでいたのだが、ふと見ると、小さな札が道標に掛かっている。「山頂までもう少し、頑張れ、山頂からの大展望が待っている。大子町立南中学校」。今朝方その校門前を通過した中学校の生徒達が残した激励のメッセージだ。むらむらと闘志が湧いてきた。よぉし、一気に山頂まで行こう。パンフレットによると、ここから山頂までの所要時間は、25分である。あてにはならないが。 尾根状となった道を進む。山頂に建つと思われる鉄塔が前方すぐのところに見える。これが最後の登りだろうと、急勾配を一気に登りきると、道は下りに転じた。山頂はもう少し先のようだ。少し下ると、鞍部に四阿が建っていた。この地点に大円地集落からの健脚コースが登り上げている。岩場の連続するかなりの難ルートのようである。スズメバチと思える大型の蜂がしつこく周りを飛び回り威嚇する。早く立ち去れとの合図である。 ロープの張られた短い急登を一気に登りきると待望の山頂に飛びだした。誰もいない。目の前には、大展望が広がっている。全て私の独り占めだ。山頂は小さな二つの岩峰に分かれている。南東側のピークに653.8メートルの一等三角点「頃藤」が確認できる。しかし、その横には電波塔が建ち、若干、山頂の雰囲気を壊している。北東側のビークには柵で囲まれた石の祠が安置されている。男体神社の奥宮である。地図で等高線を読むと、こちらのピークは三角点ピークより10メートルほど低い。どちらのピークも展望は抜群である。三角点ピークの岩の上に腰を下ろそうとしたのだが、ここでも大きなスズメバチに威嚇された。仕方なく祠ピークに腰を下ろす。空は雲一つなく晴れ渡り、高く昇った太陽からの陽春の光がまぶしい。下界に広がる山並みを見つめながら握り飯を頬張る。 腹ごしらえをすませ、先ずは山頂の祠に今日の無事を祈る。さて、次は展望である。一体どこが見えているのだろう。北側以外は大きく展望が開けている。よりよき視界を得ようと、祠の裏側に回り込んでおどろいた。まさに爪先から大絶壁が切れ落ちているではないか。立っている場所の数十センチ先はまさに奈落の底である。途端に足に震えた。慌てて、祠を囲む柵にしがみついてもとの位置に戻る。 改めて、広がる景色を見つめる。カメラがないので、目の中に焼き付けておかなければならない。南、東の方向は累々たる緑の山並みが地平線の彼方まで続いている。ただし、一目で同定できるような特徴的な山は見られず、また、この山域への登山経験もないため、山々を特定することはできなかった。西側を眺める。こちらは今日私がたどってきた方向ゆえ、幾つかの景色が特定できる。先ず、すぐ目の下に見える小さな山中の集落は通過してきた長福集落である。その右側背後にそそり立つゆったりした山容の山は、登るのを諦めた長福山である。山頂部には三つのピークが連なっている。その南麓の先を眼で追うと、家々の密集が見える。上小川駅を中心とした頃藤の集落である。思いのほか小さな街並みである。その外れに、南中学校がはっきりと確認できる。そして、街並みの背後、連なる山々を東西に割ながら南北に蛇行しているのは久慈川である。その流域には点々と幾つもの小さな集落が見られる。春の陽に光輝く景色をしばしうっとりと眺める。 いよいよ月居山、袋田ノ滝へ向け縦走を開始する。三角点ピークに戻り、三角点をひと撫でする。このピークに、男体山のメイン登山道である大円地集落からの一般登山道が登り上げている。覗き込んでみると、ロープの張りめぐされたなかなかの急登である。未練を断ち切り、山頂を後にする。すぐにロープの張られた急斜面で足を滑らせ滑落した。たいしたことはなかったが、気をつけないと命に関わる。 四阿を過ぎ、山頂から15分で長福分岐を通過する。ここから先は未知のルートである。小さな登り下りが連続する。周囲は山毛欅やコナラなどの自然林で展望は一切ない。一本の大木に木札がくくられている。「オノオレカンバ 斧が折れるほど堅いのでこの名がある。希少な樹木」との説明が書かれている。突然前方から一人の登山者が現れた。50〜60歳の男性である。今日初めて、そして結果として唯一、山中で出会った登山者である。「袋田ノ滝方面へですか。かなりの登り下りがありますよ」と、アドバイスとも嫌みとも採れる言葉を残してすれ違って行った。 小ピークで90度左に曲がり、更に幾つかのピークを越えて行くと白木山分岐に到着した。確りした道標があるが、尾根伝いに真っ直ぐ進む道が白木山へのルート、月居山、袋田ノ滝へは90度左に曲がって急斜面を下る。うっかりすると、ルートを間違いそうである。岩場の凄まじい急降下となった。補助のロープが張りっぱなしである。こういう場所では持参のストックは多いに邪魔である。慎重に下る。無事に下りきるが、ここから先、もはや尾根筋を辿る縦走路の雰囲気はなかった。斜面をへつり、沢を越え、ピークを巻き、ロープを頼りに露石をよじ登る。地形も細かく、地図を睨んでも現在位置はよく分からない。白木山分岐からすでに1時間歩き続けている。ひと休みしたいのだが、適当な場所もない。周囲はどこまでも山毛欅やコナラノ自然林が続く。展望はまったくないが、杉檜の植林がほとんど現れないので気分はよい。 たまらず道端に座り込んで4分間だけの休憩をとる。林の中から鴬の鳴き声がしきりに聞こえる。再び立ち上がって登りに耐える。道標が右に分かれる弱々しい踏跡を「水根」と示している。パンフレットの地図にも記載されていないルートである。いつしか空が黒雲に覆われだしている。夕立が来そうだ。先を急がなければならない。 露石混じりの急登を登りきると、そこが目標としていた「第二展望台」であった。やれやれとの思いでザックを降ろす。ここは、岩峰というより岩尾根から突きだした狭い岩棚で、東に大きく展望が開けている。その先端に立つと、足下から垂直の絶壁が数十メートル下まで切れ落ちており、かなりの恐怖感を覚える。山々の間を縫う久慈川が見え、眼下には袋田の集落が広がっている。 狭まった岩尾根を幾つかの岩峰を巻きながら10分も進むと、次の目標地・第一展望台に到着した。ここは「鍋転山(なべころがしやま)」あるいは「後山」とも呼ばれる岩峰の頂きで、422.7メートルの三等三角点「後山」が設置されている。山頂は樹林に囲まれた小平坦地で、ベンチが置かれている。頂きの先端にでてみると、そこは絶壁の淵で、第二展望台と同様な展望が得られる。小休止する。 空模様がますます怪しくなってきた。遠くで雷鳴も轟きだしている。先を急ぐ。道は大きく下りに転じる。これからさらに月居山を越えなければならないのだが、こんなに下って大丈夫だろうかと少々心配となる。辺りは久しぶりに杉檜の植林となった。国道461号へのルートが右に分かれる。更に「月居トンネル・水根」への分岐を過ぎる。続いてすぐに「男体山登山口」の石碑の建つ国道461号分岐が現れる。ようやく長い下りが終わり、一峰を巻いた後凄まじい登りとなった。月居山への最後の登りなのだろうが、ロープの張られた露石の急斜面が続く。踏跡も何となく薄く、正規のルートなのだろうかと少々心配になる。 第一展望台を出てから35分、ついに月居山山頂に達した。ここも誰もいない。山頂は木々のまばらに生える大きく開けた場所で、最高地点の一段下に「月居城跡」と刻まれた大きな石碑が建っている。展望はない。何はともあれひと休みと、置かれているベンチに座り込み、握り飯を頬張る。ただし、天気の急変が迫っている。空は真っ黒な雲に覆われ、近くで凄まじい雷鳴が響いている。冷たい強風が吹き出し、雨の降り出すのも時間の問題のようである。降れば降れ、濡れらば濡れろである。 石碑の示す通り、この山頂にはかって月居城と呼ばれる城があった。常陸の国の盟主・佐竹氏の氏族である袋田氏が応永年間(1394〜1427)に築いたと思われる。その後、一時廃城になったこともあるが、佐竹氏が秋田移封となる慶長7年(1602)まで佐竹氏の支城として存在した。ただし、この月居城は、日本史に少なからぬ影響を及ぼした別の歴史を持ちあわせている。元治元年(1864)、水戸藩内の権力抗争として、過激な尊王攘夷派・天狗党1000人と幕府に忠誠を誓う諸生党2000人がこの地で激戦を繰り広げた。破れた天狗党はその後、京を目指し進軍することになる。 響き渡る雷鳴に追われるように早々に山頂を辞す。最終目的地・袋田ノ滝までにはもうひと山、月居山前山を越えなければならない。鞍部をめがけて急降下する。この下りもロープの張られた急坂である。わずか10分ほどで鬱蒼とした杉檜林の中の鞍部に下り立った。ここが月居峠である。江戸時代の昔、黄門様こと水戸光圀が大子地方巡視のおりに何度も通った道と伝えられている。かつてこの峠に光明寺という寺があったが天狗党と諸生党との戦いの際に焼失してしまった。しかし、昭和16年に観音堂が再建され、現在、楼門、鐘楼、観音堂がこの月居峠に建っている。。 月居峠に降り立ったものの、天候は更に切迫している。真上で強烈な雷鳴が轟き、稲光の閃光が走る。どうやら前山から袋田ノ滝への行程は諦め、この月居峠から袋田駅に向け下山したほうがよさそうである。前山側の一段上部にある観音堂へ行くのも諦め、鐘楼の鐘をひと突きして縦走の終了を告げる。ゴォォォンという低い鐘の音が山々に響き渡った。 足早に峠道を下る。凄まじい雷鳴が頭上で轟き、山々にこだまする。稲光が薄暗くなった山々の端を浮き上がらせる。逃げるように峠道を急ぐ。すぐ下に、国道461号の旧道が見えてきた。ついに雨が降りだした。凄まじい雷雨だ。いい具合に旧道との出会いに立派なトイレが建っていた。そこへ逃げ込む。豪雨に雹が混じる。無数の氷の粒が地面に降り注ぎ跳ね返っている。 しばし雨宿りをしていたものの埒が開かない。覚悟を決め、雨具を付け雨中に飛びだす。ハイキングと言えども雨具は完璧に用意している。国道461号にでて、激しい豪雨の中を袋田駅に急ぐ。駅は意外に遠かった。旧道出会いから50分も歩き続け、ようやく袋田の小さな駅に到着した。雨はいつしか小降りとなっていた。 登りついた頂
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