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鹿島集落(915)→鹿島神社(918)→オフロード用バイクのゲレンデ(1001)→↓キャンプ場分岐(1012)→ゴルフ場への取り付け道路(1035)→温石峠入り口(1101)→温石峠(1106〜1115)→電波塔(1141)→妹ヶ谷集落上部(1146)→妹ヶ谷集落中心部(1155)→御荷鉾山不動尊入り口(1201)→琴平大神(1202)→御荷鉾山不動尊(1207〜1216)→不動ノ滝(1221)→石碑のある三叉路(1302)→スーパー林道(1338〜1344)→国道への降り口(1350)→国道へのルート再発見(1414)→最初の人家(1439)→法久神社(1500)→法久集落中心部(1518)→法久学校跡(1522)→法久バス停(1546〜1641) |
桜も散り、春もいよいよ本番である。近郊の山々では新緑が山肌を美しく染める季節である。久しぶりに山に行ってみる気になった。ここ2〜3ヶ月、もっぱらマラソンの練習に注力したため、山には御無沙汰していた。
さてどこに行こうか。近ごろ行きたい山がなかなか見つからない。雑誌「新ハイキング」をぺらぺらめくっていたら、『温石峠ー東御荷鉾山ー石神峠』という案内記事が目に留まった。西上州鮎川流域の鹿島集落から温石峠を越えて三波川流域の妹ヶ谷集落に下り、更に御荷鉾山系の石神峠を越え、山上集落の法久集落、露久保集落を経て神流川沿いの国道462号線(十国峠街道)に下る。しかも、途中、石神峠から東御荷鉾山をピストンするという何とも長大な行程である。東御荷鉾山は前々から登ってみたいと思っていた山である。西御荷鉾山には1977年8月に娘を連れて登ったのだが、「東」はいまだその頂きを知らない。 北鴻巣発7時6分の下り列車に乗る。既に陽は高く昇っており、雲ひとつない真青な空が広がっている。今日一日、好天が続くとの予報である。車窓から眺める奥武蔵、西上州の山並は春霞の中にぼやけた稜線を画いている。倉賀野駅で八高線に乗り換える。いつもガラガラのローカル線なのだが、通学時間と見え、女子高校生で満員であった。8時8分、計画通り群馬藤岡駅に降り立った。 8時36分発の上平行きバスに乗る。小型バスはただ一人の乗客・私を乗せて藤岡市内を抜け、鮎川に沿って山懐へと入って行く。バスの車窓一杯に広がりはじめた山肌の色合いが何とも美しい。杉檜の濃い緑の中に、新緑の煙るような薄緑が広がる。更にその中に山桜のうっすらとしたピンクが広がっている。うっとりと眺めているうちに、9時12分、今日の出発点となる鹿島集落に到着した。最後までバスの乗客は私一人であった。 街道に沿って人家の点在する集落に人影はない。「温石峠越えのみち」と標示した道標が山中へ向う小道を指し示している。私のたどるべき道である。支度を整え、小道に踏み込む。ほんの100メートルも進むと、右側に鹿島神社が現れた。立寄って今日の無事を祈願する。 鬱蒼とした杉檜林の中のやや急な小道をたどる。鋪装された幅2メートルほどの林道である。「鹿島神社1.0km キャンプ場1.5km」の道標を見ると、植林は終わり、周囲は開けた潅木の薮となる。道の傾斜も緩み地道となった。道端にはスミレの花が群れている。山仕事と思える男性が下ってきた。何と、この人が、今日一日バスを降り、帰りのバスに乗るまでに出会った唯一の人影であった。 45分も緩急の登り続けると、右側が大きく開け、オフロードバイクのゲレンデが現れた。ただし、バイクの姿は一台もなく、管理棟も無人であった。ゲレンデの縁を半周して上部に達すると、今日はじめて展望が開けた。彼方に藤岡市内が霞んでいる。すぐに道標があり、左に分かれる怪しげな道を「温石峠」と示している。踏み込んだ道は、ここまで歩いてきた整備された林道とは大違い、萱との薮がはびこり、当分の間、人の歩いた形跡はない。萱とをかき分け進むと、今度は大急登となった。道型ははっきりしており、ルートに不安はないが、息が切れる。そう言えば、今日は朝からいまだ何も口にしていない。 20分ほど、薮と急登に格闘すると、ぽんと、二車線もある立派な車道に飛びだした。ゴルフ場への取り付け道路である。道標が温石峠はこの車道を進むことを指示している。人気のない車道を進むと、膨大な数のパネル敷きしめた太陽光発電設備が現れた。どうやらゴルフ場の一部をこの施設に切り替えた模様である。 すぐに眼下に広大なゴルフ場の広がりが現れた。ルーデンスCCである。コースの所々に満開の桜が見られ、背後には西御荷鉾山、赤久縄山、稲含山が望める。実にいい景色である。ただし、不思議なことにどのコースにも人影はない。こんな山奥の山岳コースに平日にやってくるゴルファはいないのだろうか。クラブハウスは更に奧にあると見え、立派な車道は大きくヘアピンカーブして急な上り坂となって続く。 道脇に道標が現れ、左側の樹林の中に続く小道を「温石峠」と示している。踏み込むと道はすぐに二分する。道標もなく一瞬迷う。勘として右の道を選択する。道は軽く登って尾根を越えるが、なんの標示もない。あれあれと思って、水平となった道を50メートルも進むと「温石峠」の標示が現れた。やれやれと座り込む。場所は尾根の鞍部ではなく、稜線直下の山腹、到って峠らしからぬ場所である。樹林の中でなんの情緒もない。それでも一本の杉の大木が聳え、一段上には小さな石の祠が鎮座していた。ようやくおむすびを頬張る。今日はじめての食物である。 10分ほどの休憩で腰を上げる。確りした小道を緩やかに下っていく。すぐに細い弱々しい踏跡が右に分かれる。少々傾いた道標があり、「妹ヶ谷 2.6 km」の標示がこの弱い踏跡を指し示しているように見える。ただし、勘として、本道は左に続くここまで辿ってきた確りした小道である。迷いながらも確りした小道を選択する。選択が正しかった確証を求めながら、小道を下り続ける。15分も下るが、なんの確証も現れない。不安が大きくなったころ、ようやく待望の道標が現れた。「妹ヶ谷 1.7 km」と示している。やれやれと安心する。 更に数分下ると、高い鉄塔が現れた。電波塔のようである。すぐに続いてきた杉檜の植林が切れて辺りは大きく開ける。細いながらも舗装された道に飛びだした。道端に庚申塔も見られる。妹ヶ谷集落上部に達したのだ。急斜面にへばりつく家々の間を縫って下る。到るところに満開の桜が咲き誇り、山里の春満開を告げている。集落の背後には東御荷鉾山のドーム型の山容がくっきりと聳え立っている。ただし、集落に人影は見られない。集落の中心と思える車道に下り立つ。デマンドバス「さんばがわ号 のりば」の標示がある。この集落も数年前までは路線バスが通っていたが、今は廃止され、デマンドバスが住民の足となっている。 車道を右に下っていくと、三波川沿いに走る県道に下り着いた。傍らに琴平大神の社があり、三波川に掛かる橋の袂には「御荷鉾山不動尊入口」の標示が掲げられている。先ずは琴平大神にお参りし、橋を渡って御荷鉾不動尊に向う。緩やかな階段の参道を回り込むように進むと境内に達した。誰もいない。本殿と鐘楼前の広場のベンチに腰を下ろし、握り飯を頬張る。今日二度目の休憩である。傍らの築山に芭蕉の句碑がある。「裾山や虹はくあとの夕つつじ」。 御荷鉾山不動尊は別名「妹ヶ谷不動尊」。この辺りでは少々名の知れた仏閣らしい。設置された説明版には次の通り記されている。 『元禄八年、江戸小石川薬王山無量院四世快慈大和尚が建立したとされ、現在の本堂は明治元年(1868)に再建されたものです。本尊は、いっさいの悪魔や煩悩を降伏させて長寿をもたらす霊験あらたかな不動明王で、その像は勇尊和尚の作とされています。毎年四月二十九日が祭日で、たくさんの参詣人でにぎわいます。』 10分ほどの休憩で、腰を上げる。いよいよここから石神峠に向かう。今日最大の難行程である。その前に、案内板にある「不動の滝」に寄ってみる。急な踏跡を辿って不動沢に下る。現れた「不動の滝」は思わず「なぁんだ !」の一言が口から漏れるほどの小さな平凡な滝であった。 不動沢沿いの怪しげな踏跡をたどる。一応「関東ふれあいの道」とはなっているが、手入れもされず、かなり荒れているとの情報である。左岸を進むとすぐに崩壊地点、虎ロープを頼りに通過する。飛び石を利用して右岸へ、更に再び左岸へ。沢の縁が大きく崩壊し、踏跡は完全に断ち切れている。ルートを探し、何とか通過する。踏跡の傾斜が次第に増す。 そろそろ疲れも出てきたため前進が苦しくなり、立ち止まる回数が増える。再び右岸へ。あちこち崩壊地点はあるが、ルートははっきりしており、時折道標もあるので助かる。ただし、人の気配、否、最近人の通った気配は皆無である。丸太を積み重ねた砂防ダムが現れた。更にふぅふぅ言いながら登る。沢が開け、踏跡が不明となる。ただし、道標があり、右寄りに進むことを指示している。再び踏跡が現れた。 文字が刻まれた石碑の立つ三叉路が現れた。石碑は昔の道標で「ひだり法久、みぎふどう」と刻まれているとのことだが、もはや確とは読めない。いずれにせよ、この道が昔から信仰の道であった証である。この三叉路で、沢を徒渉して右寄りに進む。いよいよ沢の詰に指し掛かったと見え、傾斜は更に急峻となる。丸太で整備した梯子や階段が現れるが、多くが朽ち果て、あるいは崩壊し使い物にならない。ルートを見極め、危険個所を慎重に通過し、ひたすら上部を目指す。ついに上空の木々の間にスーパー林道のガードレールが見えてきた。もう一頑張りである。 13時38分、ついにスーパー林道に登り上げた。御荷鉾山稜の稜線を貫く完全鋪装の立派な林道である。不動の滝を出発して以来、1時間15分の奮闘で、もはや息も絶え絶えである。へなへなと道路端に座り込む。立派な林道だが通る車もない。この辺りが石神峠なのだろうが、それを示す標示は何もない。 ここで思案した。当初の計画ではこの地点から東御荷鉾山をピストンするつもりであったが、往復で約2時間弱掛かる。時刻は既に13時30分過ぎ、どう急いでも日暮れ前に国道462号線(十国峠街道)のバス停に下るのは無理である。残念だが東御荷鉾山は諦めることにする。そうと決まれば下山を急ごう。いまだ今日の行程は長い。 わずか数分の休憩の後、腰を上げ、スーパー林道を東に向って歩きはじめる。振り返ると、東御荷鉾山のドーム型の山容が真青な空にくっきりと浮かび上がっている。何時かまた登る日もあろう。未練を断ち切る。 どこかに、法久集落へ下る道があるはずと、右側を注視しながらスーパー林道を進むと、すぐに、「至 国道」と標示した派手なピンク色の道標が現れた。道標が示す右斜面を覗き込むと、消え入りそうな微かな踏跡が斜面を下っている。一瞬躊躇したが、道標を信じて踏跡に踏み込む。しかし、ここから今日最大の試練が始まった。 樹林の中の落ち葉に隠された微かな踏跡は山腹を斜めに下っていく。すぐに地道の林道を横切る。その先に続くと思われる踏跡はもはや落ち葉の中で判然としない。ただし、点々と赤布が木の幹に付けられている。赤布を追って樹林の中を数十メートル下ると、ばったりと赤布が絶えた。もはや踏跡の痕跡も見当たらない。困った。最後の赤布まで戻り、周辺を入念に探るが、先に続く踏跡も赤布も見つからない。偵察を兼ねて、樹林の中を落ち葉を蹴立てて少し先まで下ってみた。すると、少々荒れた地道の林道に行きあたった。この林道は、なんの標示もないが、二万五千図に記載されている法久集落に下る破線の可能性がある。もし違ったとしても、下界のどこかへ導いてくれるだろう。林道を下る。後から考えれば、少々無茶な判断だったがーーー。 林道を足早に10分も下ると、何と何と、突然林道が絶えた。完全に行き止まりである。その先の樹林の中は歩けないこともないが、踏跡はおろか赤布もない。一瞬呆然とする。無茶もここまで、戻ることにする。おそらくこの林道はスーパー林道から下ってきたと思える。スーパー林道まで戻って新たにルートを探そう。幸い、東御荷鉾山登頂を諦めたので少々時間的余裕がある。 重い足を引きずって荒れた林道を登り返す。我が判断は過たず、やがてスーパー林道がすぐ頭上に現れた。と、その時、何と、突然あのピンクの道標が現れたではないか。登り返してきた荒れた林道を横切る細いが確りした踏跡を「至 国道」と指し示している。正規のルート発見である。おそらく、最初のピンクの道標に導かれて、すぐにルートを踏み外してしまったのだろう。赤布はルートを示すものではなかったと思える。危うし危うしである。 もはや何の心配もいらないとの思いで、確りした踏跡をドンドン下る。所々にピンクの道標が「至 国道」を指し示している。すると、三叉路が現れた。どちらの道が本道なのかさっぱり分からない。この肝心なところに道標がない。双方の道を念入りに探ってみるが判断がつかない。エィヤーと左の道を選ぶ。例え間違ったってどこかへ導くだろう。不安を抱えながらしばらく下ると、ピンクの道標が現れたではないか。選んだルートは正しかったのだ。 更に下ると人家が現れた。ただし人影はない。いったん、確りした車道に下った後、再びピンクの道標に導かれて山道に入る。更に下る。と、山中には相応しからぬ立派な神社が現れた。法久神社である。これで辿っているルートが完全に正しいことを確信する。神社に参拝し、今日の無事を感謝する。 すぐに集落に入った。急な斜面にしがみつくようにして、点々と人家が建つ。西上州の典型的な山上集落・法久集落である。こんな急斜面での生活がいかなるものか、想像すらつかない。集落内は道が入り組みさっぱり分からない。聞こうにも、集落内に人影はない。公道とも私道ともつかない細道を右往左往しながら下ると、集落の中心を貫く鋪装道路に下りついた。傍らに郵便ポストがある。ここが集落の中心なのだろう。 時刻は15時18分、ここまで来れば完全に安全圏である。計画では、更に、同じ山上集落である露久保集落を経て、バスの通う国道462号線(十国峠街道)へ下るつもりであったが、次の16時台のバスを乗り過ごすと、その次は18時台のバスになってしまう。無理することはあるまい。今日はもう十分に歩いた。このまま法久のバス停に下ることにする。30分ほどの行程である。 法久のバス停に下るのは車道と歩道の2ルートある。当然、近道となる歩道を選ぶ。道標に従い、下山道をちょっと下ると右側に学校跡地を見る。既に廃校となった鬼石町立美原小学校坂原分校跡である。当時の校舎がそのまま残されており「法久地区集会場」として現在も利用されているようである。平地などないこの急斜面の集落にありながら、小さいながらも運動場ももっている。集落の最上等の場所に学校が建てられていたのだ。学校こそ集落にとって何にも替えがたい宝物であったのだろう。しかし、過疎化の波がこの宝物さえ奪ってしまった。悲しい現実である。 下るに従い道は荒れだした。雑草がはびこり、雑木が道を塞ぎ、右側の谷に向っての崩壊地まで現れる。どうも最近人の通った気配はない。考えてみれば、下り20分、登り30分掛かるこの集落と街道を結ぶ道を歩く人などもはやいないのだろう。山上集落といえども今はみな自動車社会である。 15時46分。十国街道の法久バス停に無事到着した。次の新町駅行きバスは16時41分であった。無人のバス停での長い長い待ち時間となった。
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