大展望の山・大札山へ

大井川畔から深南部の前衛峰を目指す

1995年12月3日

 

大札山山頂より聖岳(左奥)、上河内岳(中央奥)、大根沢山(右)を望む
                                                        
駿河徳山駅(756)→藤川集落(815)→登山道入口(830〜835)→林道(855〜900)→鷹打場分岐(940)→水場(945)→林道(955〜1010)→電波反射板(1030〜1035)→尾呂久保分岐(1125)→大札山(1130〜1215)→南赤石幹線林道(1325)→尾呂久保集落(1355〜1400)→白羽山(1420〜1425)→上長尾集落(1520)→田野口駅(1535)
   
 
 1週間前、つくばマラソン42.195キロを完走した。昔は3時間半で走ったフルマラソンも、ここ3年ほどどうしても4時間を切れず歳を感じていた。今回は何としてもとの決意はあるが、練習もろくにしていない。それでもがんばって40キロ地点を3時間46分で通遇。4時間を切れるかどうかぎりぎりのタイムである。最後の力を振り絞りたいのだが、もう足が言うことを聞かない。そのとき、周囲のランナーの間に細波のように声が広がった。「がんぱれぱ4時間を切れるぞぉ」。一般大衆ランナーにとってサブフォー(4時間を切ること)は大きな目標である。今、周囲にいるランナーはみなこの境界線上にいる。各々独りぼっちで走ってきたランナーの間に不思議な連帯感が生まれた。なんとも心地よい連帯感であった。落伍しかかるものに励ましの声が飛び、みな動かぬ足を懸命に動かした。ゴールタイムは4時間を2分あまり切っていた。ただそれだけのことである。

 大井川中流の西岸、藤川集落の背後に大札山という山がある。南アルプス深南郡の蕎麦粒山から南に派生した支稜上の一峰で、いわば南ア深南部最南端の山である。ラクダの背のような山容は周囲から割合目立つ。この山は頂を極めるだけならばいたって簡単である。肩を通っている南赤石幹線林道からよく整備された登山道を30分辿れぱ山頂に達することができる。私も今年の3月と6月、この林道を通った折、よほど山項まで行ってみようかと思ったが、余りにも客易すぎるので思い止まった。やはりこの山はついでに登る山ではない。麓からていねいに登るべきである。案内書によると、藤川集落から南東尾根を辿る登山道がある。二万五千図にも破線が記載されている。ただし、わざわざ麓から登る人が多いとは思えず、どの程度の登山道かはわからない。

 夜明け前の5時半過ぎ家を出る。空一杯に星が輝いていた。8時前、大井川鉄道駿河徳山駅に下り立つ。快晴無風、これ以上はないという絶好の登山日和である。ただし、山里の冷気は厳しい。セーターとヤッケを着込み、手袋までして出発する。街中の道はわかりにくい。地図を見い見い徳山の集落を抜け、万世橋で大井川を渡って対岸の藤川集落に入る。うまく登山道が探し当てられるか心配であったが、消防署の前に大札山を示す立派な道標が中川根町によって建てられていた。ひと安心である。集落の中を登っていくと、登山道入り口に達した。ここにも中川根町の道標があった。大札山登山道はよく整備されているようである。足元に展望が大きく開け、天狗石山、智者山、無双連山と続く大井川左岸の山並が広がっている。

 セーター、ヤッケを脱ぎ山道に入る。道幅2〜3メートルの深くえぐれた確りした小道である。おそらく、木馬道として利用されていたのであろう。ジグザグを切ってよく手人れされた杉檜林の中を登っていく。いったん林道を横切る。程々の傾斜で実に登りやすい。伐採地に出ると左側の展望が開けた。林道によって山頂直下を痛々しく傷つけられているのは三星山であろうか。あたりは静寂そのもので小鳥の声さえしない。この道を今目辿るのはおそらく私一人であろう。

 さらに植林の中を尾根を絡むようにを登ると、鷹打場分岐に達した。鷹打場と呼ばれる地図上の886.6メートル三角点峰に向かう微かな踏み跡を左に分ける。登山道は尾根の右側を巻き始める。落ち葉が厚く積もり、気持ちのよい道である。5分ほどで案内にある水場に達するが、わずかに雫が落ちている程度である。水平な巻道をさらに進むと林道に出た。大きく展望が開け、蛇行する大井川の背後に天狗石山から無双連山に続く山並が壁のごとく連なり、その奥には安倍奥の山々がわずかに頭を覗かせている。今日は空気の透明度が最高であり、さぞかし山頂からの展望はすばらしいであろう。さらに林道を二度横切る。ここまで続いていた確りした小道も細まり、急な尾根道となった。息せき切って登ると案内にある電波反射板に達した。地図上の1069メートル標高点地点である。再び東側に大展望が開けた。智者山の背後には真っ白に雪を被った富士山も姿を現した。天狗石山の左には七ツ峰が惚れ惚れするような姿でそびえている。足元には大井川がくねくねと蛇行している。

 ようやく自然林に入った。山毛欅や各種の楓などの広葉落葉樹林の気持ちのよい林である。木々はすっかり葉を落とし、木漏れ日が色とりどりの落葉を照らす。同時に登山道は落葉の下に隠れてしまうような細い踏み跡となった。所々崩壊地もある。人の気配はまったくせず、この山中我一人である。林を抜けると狭い尾根のものすごい急登となった。立ち木を手で掴みながら身体を引き揚げる。ようやく大札山から南に延びる稜線に達した。山頂は近い。ここで尾呂久保登山道が合流する。帰路はこの登山道を下るつもりでいる。見たところこの登山道も確りしているのでひと安心である。大札山山頂に向け尾根を進む。雑木の茂るガリガリに痩せた岩稜である。木々の間から南アルプスの真っ白な山並が見える。山頂ではさぞかしすばらしい展望が待っているだろう。心が逸る。しかし足元は踏み外したら命のない狭い岩稜、余所見は危険である。小さなピークをいくつも越える。

 11時30分、ついに大札山山頂に飛び出した。と同時にザックを放り投げて、山頂の端に駆け寄る。見よ! 雲一つない真っ青な空のもと、大展望が開けているのだ。見渡すかぎり、どこまでもどこまでも幾重にも重なる山並みが続いている。北方には真っ白に雪を披った南アルプスのジャイアンツ、そして場所を移して南方を眺めれぱ、幾重にも重なる山並の背後に、何と! 遠州灘が見えるではないか。言葉もなくただ立ち尽くす。

 山頂には二組の先着バーティがいた。いずれも南赤石幹線林道から登ってきたらしく、私が着くと「藤川から登ってきたのですか」と、「何と物好きな」という顔で尋ねた。山頂は気持ちのよい原生林の中で、山頂の端に出ると北、東、南に掛けての展望が得られる。西側の岩岳山から高塚山の展望は残念ながら得られない。山頂直下にはトタン囲いの避難小屋とトイレが設置されていた。シーズンには多くの人が登るのであろう。

 さあ、ゆっくりと山座同定だ。まず山頂の北の端に立てば、蕎麦粒山から沢口山に続く稜線が目の前に広がっている。今年の3月、苦労して一人で辿った稜線だ。天水がひときわ立派に見える。その背後には一目でそれとわかる黒法師岳の三角錐。さらにその右には同じく三角錐の前黒法師岳が独立峰のごとくそそり立っている。背後の真っ白な山は、聖岳と上河内岳だ。目を右に移せば、大根沢山から続く稜線が大無間山に大きく盛り上がり、それと重なるように寸又三山の一つ朝日岳の三角錐がそそり立っている。ふと思うと、見えている山々は大根沢山を除き全て私の足跡が残っている。深南部の山々もずいぷん親しんだことだ。

 場所を山頂の東側に移せぱ安倍奥の山々が広がる。目の前に連なる無双連山、智者山、天狗石山と続く大井川東岸の山稜を目で奥に追えぱ、七ツ峰のピダミラルな頂を経てはるか彼方の山伏の緩やかな頂へと続いている。この山稜の背後には安倍東山稜の山々がはっきり見える。十枚山、真富士山、そして静岡市の象徴・竜爪山の双耳峰。さらに、その山並の背後には真っ白な富士山がすっくとたたずんでいる。南東はるか彼方に目をやれぱ、山頂に鉄塔が立つ志太山地の主峰・高根山、その左奥には焼津の名峰・高草山が確認できる。さらにその奥に微かに霞むのは駿河湾だ。場所を移して南を眺めよう。幾重にも山並が続いている。八高山などの遠州の山並であろうが、この山域にはいまだ足を踏み入れたことがないので個々の山はわからない。山並みのはるか先には遠州灘が白く霞んでいる。深南部の山から遠州灘を初めて望んだ。

 いつまでも名残りはつきないが、他のパーティと違い、私は歩いて大井川河畔まで下らなければならない。後ろ髪引かれる思いで、この大展望の山頂を後にする。藤川分岐まで戻り、予定通り尾呂久保集落への登山道に踏み込む。この道も確り整備されている。下っていくと今日初めて西側の展望が開けた。岩岳山から竜馬ケ岳に掛けての稜線がよく見える。今年の5月に辿った赤ヤシオ咲き乱れる稜線である。杉檜の植林の中を下り続け、南赤石幹線林道に下り立った。この林道を尾呂久保集落まで辿ることになる。今年の3月に重荷を背負ってふうぷういいながら歩いた道である。30分の林道歩きで、尾呂久保集落上部の「ウッドハウスおろくぽ」に達した。南赤石幹線林道をこのまま上長尾集落に下ってもよいのだが、行きがけの駄賃に途中にある白羽山に寄ってみることにする。幹線林道と分れ、白羽山へ向かう林道に踏み込む。あれほど晴れ渡っていた空もいつしか薄雲が広がり、寒くなってきた。

 かなり傾斜のきつい林道を辿ると、白羽山の中腹を巻き終わったところが終点であった。展望台となっていて家族ずれが遊んでいた。眼下に蛇行する大井川がよく見える。戻る感じで薄暗い檜林の中を緩やかに登ると、すぐに三角点のある山頂に達した。樹林の中のつまらない頂である。すぐ下を通る先ほどの林道に強引に下る。この辺に上長尾集落への下山道があるはずである。左側の伐採現場に踏み跡を見つける。道標もなくよくわからないが、いずれにせよ大井川河畔に下れるであろう。すぐに大変なことになった。伐採現場に出てしまい、踏み跡は絶えるし、伐採された木材と打ち枝が斜面を覆い、歩くに歩けない。いまさら戻るのもわずらわしいので、アクロバットのような歩みで斜面をずり落ちる。幸いにも、伐採現場の尽きた所で確りした踏み跡が見つかった。所々に上長尾を示す道標もある。もう安心である。どんどん下って、上長尾集落に達し、さらに大井川を渡って田野口集落に向かう。田野口駅が見えてきたと思ったら、向こうからちょうど列車がやってきた。手を挙げてプラットポームに駆け上がる。こんなとき無人駅のローカル列車は融通が利く。

 大札山の展望は何とすばらしかったことか。やはりていねいに麓から歩いて登っただけの甲斐はあった。ただし、期待していたカモシカとの出会いがなかったことが残念であった。

                                                                                                                                                      
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