三浦半島 大楠山と衣笠城周辺の探索 

半島の最高峰登山と三浦一族夢の跡を訪ねる旅

2013年3月10日

前田川の流れ
満昌寺
                                                          
前田橋(857)→お国橋(900)→大楠山分岐(920)→前田川遊歩道終点(937)→大楠山分岐(945)→鞍部(1007)→大楠平(1029)→大楠山山頂(1035〜1050)→ゴルフ場の柵(1100)→阿部倉・塚山公園分岐(1108)→古道分岐(1115)→鉄塔No.25(1121)→歩道橋(1137)→三差路(1139)→大畑橋(1148)→民家(1210)→大善寺(1215)→衣笠城最上部(1221)→不動の井(1239)→磨崖仏(1308)→満昌寺(1313)→清雲寺(1332)→腹切松公園(1349)→近殿神社(1405)→薬王寺跡(1409)→駒繋ぎ石(1418)→衣笠駅(1500)

 
 三浦半島の地形は山また山である。低い山並みがさざ波のごとく海岸まで押し寄せ、平地はほとんど見られない。したがって、田はほとんど見られず、かろうじて山畑がわずかに開かれているだけである。このため、この地に暮す人々は、古来、陸よりも海に生活の基盤を求めた。現在でも、この半島の中心都市・横須賀は軍港および造船の街として知られている。

 このように決して豊とはいえない小半島の片隅に根を張った小勢力が、日本の歴史を大きく動かしたという事実は実に不思議でありまた痛快でもある。すなわち、半島中部に位置する衣笠城を居城とした三浦一族である。平家全盛の中、万が一にも成功の見込みのない源頼朝の決起に、小勢力ながら一族を上げて参加し、鎌倉幕府を成立させるという奇跡の快挙を成し遂げた。頼朝がもっとも信頼を寄せ、また、頼朝なきあと幕府の実権を握った北条氏がもっとも恐れた一族である。

 昨年、鎌倉幕府の都・鎌倉を6度にわたり訪ねた。その続きとして、鎌倉幕府成立の最大の功労者・三浦一族の故郷を訪問してみたいと思った。居城・衣笠城址やその周辺に、縁の遺跡が多く残されているはずである。そして、そのついでに、三浦半島の最高峰・大楠山に登ってみよう。標高わずか241.3メートルの低山だが、関東百名山に列する少々名の知れた山である。しかも幸いなことに、衣笠城址と大楠山山頂を結ぶ登山道がある。

 北鴻巣駅発6時11分のいつもの上り列車に乗り、逗子駅着8時26分。すぐに佐島マリーナ入り口行きバスに乗る。多くのハイカーが同乗し、バスは満席状態となった。これでは登山道は列をなすのではないかと心配したが、皆途中で下車し、「前田橋」停留所で下車したのは私一人であった。

 大楠山への登山ルートは4本ある。西側からのルートとして、前田橋コースと芦名口コース、東側からのルートとして阿部倉コースと衣笠コースである。今日は前田橋コースを登り、衣笠コースを衣笠城址に向けて下山する計画である。

 8時57分、大楠山へ向け第一歩を踏み出す。空は晴れているが、霞みが深い。大陸より飛来する黄砂の影響だろう。上空を強風が唸りをあげて吹き荒れている。気温が異常に高い。まだ3月前半だというのに昨日は関東各地で25度以上の夏日を記録した。今日も昨日並の気温となるとの予報である。

 道標に従い、停留所の目の前にある前田橋交叉点を左折し、2〜3分進むと前田川に架かるお国橋に達する。大楠山へはここから前田川右岸沿いの簡易舗装された小道をたどってもよいのだが、それとは別に、前田川の中を辿る「前田川遊歩道」というコースも開かれている。もちろん、私は川中のコースを歩くつもりである。道標に従い、階段を伝わって川中に下りる。

 穏やかな流れの小川である。足をぬらさずとも歩けるように岸辺に板を敷いたルートが整えられている。右岸左岸と飛び石を使って流れを渡り返しながら上流に向う。飛び石も歩幅に合わせ確りした石が置かれている。夏ならばじゃぶじゃぶ流れの中を歩いてもよのだろうが。両岸の森の中から鴬の声が聞こえる。もう春本番である。

 川の水は実によく澄んでいるが、魚影は見られない。まだ、水ぬるむとはいかないのか。ただし、コンクリで固めた小型の棚田式魚道が設置されているところを見ると、鮎やウグイがこの川を遡上するのだろう。古びた橋の下を潜ると、2メートルほどの小さな滝が現れた。更に、左岸右岸と何度か渡り返す。小さな砂防ダムを越え進むと、左手に数軒の民家が現れ、「前田川団地」の標示が目に入る。後ろからアベックのパーティが追いつき追い抜いていった。初めて出会った登山者である。

 お国橋から20分ほど進むと、「大楠山」を示す道標が現れ、確りした踏跡が川筋を離れて右斜面を登っている。ここが大楠山分岐である。頭の上には橋が架かっている。川の右岸を進んできたルートはこの橋を渡り、今分かれた川中のルートと合流する。アベックパーティは川筋を離れ大楠山へのルートへ進んでいった。私も本来そちらのルートを取るべきなのだが、なおも川中を上流へと続いている前田川遊歩道を終点まで辿ってみることにする。

 進むに従い次第に渓谷の雰囲気となる。両岸は切り立った崖である。所々、真っ赤な花をつけた椿が花びらを川面に散らしている。上空では相変わらず凄まじい強風が唸りをあげており、恐怖を覚えるほどである。砂防ダムを越え、S字に曲がりくねる谷を更に遡る。お国橋から前田川を遡行すること37分、谷が二股に分岐するところでついに前田川遊歩道は終点となった。道標にしたがい、左手の階段を使って右岸上部の細い林道に登り上げる。

 簡易舗装された林道を下っていくと、わずか数分で先ほどの大楠山分岐となる橋に達した。道標が大楠山へ2.8キロ、前田橋バス停へ0,8キロと示している。橋を渡ろうとしたら、十数人のおじさんおばさんの大パーティが前田川から現れた。これはちょっと参った。歩みののろい、かつ騒がしいパーティの後に付くのはいやだ。強引に抜き去り、彼らと距離を保つべく足早に登り続ける。横木で階段整備された登り坂が延々と続く。少々息が切れるが、今日はいたって快調である。1週間前、鴻巣パンジーマラソン大会でハーフマラソンを走った。今日はその疲れが少々心配されたのだがーーー。

 よく整備された登山道が続く。下ってくる二人連れとすれ違う。ずいぶん早い時刻の下りである。続いて後ろからジョギングで登ってきた若者に抜かれた。最近、山岳をフィールドとするジョギングが盛んである。周囲はどこまでも気持ちのよい照葉樹の森である。奥武蔵や北関東の落葉広葉樹の森を見慣れているので何か新鮮に感じられる。やはりこの地は暖かなのだろう。

 ベンチとクイズの看板を過ぎると道は下りに転じた。道端にはタンポポとスミレの花が見られる。山ももう春である。意外なことに下り坂がどこまでも続く。このままでは麓に下ってしまうのではないかと一瞬不安になる。鞍部に下り着き、道は再び登りに転じた。やれやれひと安心である。道標が頂上まで1.4キロと示している。

 マウンテンバイクに乗った二人連れとすれ違う。この整備された登山道なら自転車でも何とかなる。道端に何ヶ所か「防火用水」と標示された水を満たしたドラム缶が置かれている。いざというとき、この程度の水で果たして役立つのだろうか。

 角を曲がると、目の前に灯台に似た真っ白な巨大な塔が現れた。山頂の一段下に広がる「大楠平」と呼ばれる小平地である。現れた巨大な塔には「レーダー雨量観測所」との標示がなされている。その背後は小規模ながら畑が広がり、黄色い菜の花が咲き乱れていた。ここまで、芦名口コースでもある舗装された細い車道が登ってきており、駐車場に数台の車が止まっていた。大楠山は車でも登れるのである。展望台もあり、ひと休みしたいところだが、目の前に数本の鉄塔の立つ大楠山の山頂部が見える。一気に山頂まで行くことにする。

 車道を少し歩いた後、山頂に向っての最後の急登に挑む。10時35分、ついに山頂に達した。標高わずか241.3メートルといえども関東百名山に名を連ねる名峰である。帰ってから数えてみたら、これで関東百名山は83座登ったことになる。

 山頂は幾つかのベンチが置かれた小広い裸地の広場で、片隅に展望台と茶店がある。ただし、展望台は修理中で立ち入り禁止。素晴らしいと聞く展望を楽しむことは出来ない。もっとも、山頂を囲む木々の間から遠望すると、視界は吹き荒れる強風が巻き上げる埃と飛来してきた黄砂で霞み、とても展望を楽しむ天候ではない。南方には海が見え、北方は山頂直下まで造成されたゴルフ場が見える。ベンチに腰掛けコンビニで買ってきたお握りを頬張る。今日初めての休憩である。山頂には数組のパーティがいたが、皆、強風と立ち上る埃に閉口して茶店に逃げ込んでいる。私も、いつまでも山頂にいても仕方がないので早々に下山に移る。

 道標にしたがい、登ってきたのと反対側、東に下る衣笠登山道に踏み込む。衣笠城址、衣笠山に通じる登山道である。階段整備はされているが、ものすごい急勾配である。ヒィーヒィーいいながら中年の単独行者が登ってくる。かなり長い急坂を下りきると三差路に突き当たる。道標にしたがい左に進むと、すぐにゴルフ場との区切となる金網沿いの道となる。「葉山国際カントリークラブ」である。こんな山の中の、しかも山頂近くまでゴルフ場を作ることはないと思うのだがーーー。自然破壊であり、山の雰囲気も大きく損なわれている。休日にも関わらずグリーンにゴルファーの姿は見られない。

 金網沿いの道をしばらく下る。登ってくる何人かの登山者とすれ違う。やがて金網は左に離れていく。ほっとすると、すぐに阿部倉分岐に出た。立派な道標が左に分かれる踏跡を「阿部倉・塚山公園」と示している。私は「衣笠城址・衣笠公園」と示された真っ直ぐ続く踏跡を進む。送電線鉄塔No.46を過ぎなお下ると、右に確りした小道が分かれる。ただし、道標はこの小道を何も標示していない。案内にあった「古道分岐」と思える。正面の坂道を登る。

 送電線鉄塔No.24を過ぎるとすぐにNo.25に行き当たる。周辺の樹木が伐採されていて、視界が大きく開けている。ただし、今日は視界が霞み、写真を撮る気も起らない。更に下り続ける。どこまでも照葉樹の森の中で雰囲気はよい。

 長い横木の階段道を下り、更に尾根道を進んでいく。右側より舗装道路が接近し、いったん接触した後再び離れていく。二人連れの女性が「この道でいいんですね」と私に確認して山頂を目指していった。再び舗装道路に接触すると、今度は歩道橋によって道路反対側に移る。そのまま道路上部の崖上を進むと、舗装道路の三差路に行き当たった。「さてどの道を行くのかな」と立ち止まって辺りを見渡す。前方に続く道路脇に「ハイキングコース」の標示を見つけた。ここはちょっとルートがわかりにくい。

 舗装道路をほんの数分進むと、再び左手の山中に続く登山道が分かれる。森の中の山道を下ると、すぐに高速道路・横浜横須賀道路に架かる大畑橋に出た。橋下の道路を多くの車が猛スピードで走っている。橋を渡ると、衣笠城址1.3キロの標示がある。もう少しである。石段を登って再び山道に入る。崩壊のため道を付け替えたと思われるところを過ぎ、更に下る。

 やがて森を抜け、畑が広がり、民家が点在する里に出た。山道は終わり、舗装された小道に変わる。道標が現れ、そのまま下っていく小道の先を「バス停1.0キロ」、来し方を「大楠山3.7キロ」、そして左手の急斜面を登っている石段を「衣笠城址0.2キロ」と標示している。どうやら大楠山を下り切ったようだ。手持ちの地図と照合すると、ここはもう衣笠城内、先ほどの民家が現れた付近が搦手口のようだ。ここからはいよいよ三浦一族の夢の跡を巡ることになる。

 30段ほどの急な石段を登ると寺の境内に達した。曹洞宗の大善寺である。狭い境内に人の気配はない。この寺は衣笠城内にあり、三浦一族の信仰や学問の中心であったという。明治29年に全焼し、現在の堂宇は昭和10年に再建されたものである。寺の脇には「衣笠城趾」と刻まれた石柱と横須賀市教育委員会による「衣笠城跡」と題する説明版が立てられていた。この付近が二の丸跡といわれている。

 寺の脇より更に数十段の石段を登ると、樹木のまばらに生えた平場に出る。その奧には赤い前掛けを掛けた狛犬が守る五霊神社が祀られている。この辺りが本丸跡と思える。その左手の緩斜面を登ると、「三浦大介義明公八百年記念碑」と刻まれた石碑が建っている。更に斜面を最高地点まで登り上げると、巨岩が横たわり、その横に「衣笠城址」と刻まれた巨大な石柱が立っている。この巨岩は物見岩と呼ばれ、衣笠合戦の際に三浦義明がこの岩の上から戦況を視察したと「源平盛衰記」が伝えている。

 衣笠城は、康平年間(1058〜1064)に村岡平太夫為通よって築城された山城である。為通は源頼義に従った前九年の役で戦功を立て、恩賞として三浦の地を与えられた。以降三浦氏を名乗り、為継、義継、義明と四代にわたりこの衣笠城を居城として地方の小勢力として存在した。

 治承4年、三浦一族は源頼朝の決起に呼応するも、衣笠城はすぐさま畠山重忠軍を主力とする平家方の大軍勢に包囲され、落城必至の状況となる(衣笠合戦)。ここに到り、一族の長・三浦大介義明は嫡子・義澄ら一族郎党を諭し、城を脱出し頼朝に従うことを命じる。そして、自らは一人城に残り、壮絶な最期を遂げる。齢89というまれに見る老齢であった。

 衣笠城を脱出し海上に逃れた義澄ら三浦一族は、石橋山の合戦で敗れ落ち行くあてもなく海上を漂う頼朝一行に合流し、安房へと導く。そして奇跡が起きた。頼朝が大軍を率いて鎌倉に入城するのはそのわずか一ヶ月後である。その軍勢の中にはいつしか畠山重忠軍も有力な勢力として存在していた。もちろん、落城した衣笠城は三浦一族の手に戻された。

 大善寺下の道標の立つ小道まで戻る。小道を数十メートル下ると「不動の井」がある。不動尊の祀られた湧水で、衣笠城の水源であったと思われる。この辺りが館跡と考えられている。更に小道を下っていく。かなりの急坂である。「馬返しの坂」と呼ばれるらしい。下りきると、広い車道に突き当たった。城の大手口はこの辺りにあったらしい。これで衣笠城の探索は終了である。これから城下の旧跡を訪問することになる。

 広い道路に下り立ったが、方向がさっぱり分からない。見渡す視界の先には、横浜横須賀道路も含めて交通量の多い大きな道路が縦横に走り、また大きな交差点が多数見られる。どこがどこだかさっぱり分からない。インターネットから抽出した史跡案内用の略図の地図を持参しているのだが、いくら見つめても目の前に広がる景色と合致しない。誰かに聞こうにも、通り過ぎる車は多いが、人影はまったくない。これは困った。歩けば何か目印にでも出会うだろう。エイヤァ!と、いい加減な見当で歩き出す。

 幸運なことに、否、我がヤマ勘の鋭さがためか、辿っている道筋は目指す満昌寺へ向っていた。やれやれである。手持ちの案内図によると、満昌寺の一つ手前の路地を湘南衣笠ゴルフ場に向けて入ったところに磨崖仏があることになっている。ちょっと寄り道をしてみる。岩に七体の仏像が線刻されている。鎌倉時代のもののようである。

 目指す満昌寺に達した。立派な山門を潜る。手入れの行き届いた境内は静まり返り人影はない。本堂前には「源頼朝公お手植えのつつじ」が大きく枝を広げている。満昌寺は建久5年(1194)、源頼朝が三浦大介義明を弔うために自ら建立した寺である。山号も義明山と称する。頼朝は鎌倉幕府成立の捨て石となった義明に対し、深い恩義と尊敬の念をいだいていたといわれる。

 本堂左手の山腹には義明の孫・和田義盛が建立した御霊神社が祀られており、またその裏手には三浦大介義明の廟所がある。是非訪れてみたいのだが、神社、廟所に登り上げる急な石段の前には柵が設けられ、扉が閉じられている。一般公開はしていないようである(帰宅後、調べてみると「三浦義明の廟所の見学は事前の申し込みが必要」とある)。しかし、扉には鍵はかかっていなかった。扉を開け、急な石段を登る。登り詰めた中腹には国の重要文化財に指定されている「木造三浦義明坐像」が納められている宝物殿がある。厳重に鍵か掛けられており公開されている気配はない。その裏手から続く石段を更に登る。ようやく小さな社であると御霊神社と瓦塀で囲まれた三浦大介義明廟所に達した。廟所には義明の供養塔といわれる宝篋印塔を真ん中にして、右に五輪塔、左に板碑が並んでいる。五輪塔は義明の妻の供養塔と考えられている。手を合わせて石段を下る。 

 次に目指すのは清雲寺である。場所ははっきりしないが、だいたいの見当はつく。満昌寺の前の大通りを横切り、細い路地を奧に進むと台地に突き当たった。どうやら台地の上に位置しているようだ。過たず、山門の前に出た。この寺も境内にまったく人の気配がない。

 清雲寺は三浦氏第三代目当主・義継が父である二代目当主の為継の供養のために建立した寺である。本堂裏の墓所を奧に進むと、瓦塀で囲まれた一角があった。中に三つの摩耗した五輪塔が並んでいる。三浦為通、為継、義継の三浦氏三代の墓と伝えられる五輪塔である。中央が為継、左右は為通と義継だがどちらがどちらかは不明であるとのことである。

 山門を出て「腹切松公園」を目指す。近くのはずなのだが細い道が入り組みさっぱり分からない。人に尋ねて、住宅地の中の小さな公園に辿り着いた。子供たちがサッカーボールを蹴って遊んでいる。それにしても、子供の遊ぶ公園に「腹切松公園」とはたいそうな名前を付けたものである。公園の一角に「三浦大介戦死之處」と刻まれた石柱と形のよい一本の松が立っている。衣笠合戦で一人衣笠城に残った三浦大介義明は、この松の下で割腹自殺をとげたと伝えられている。昭和の初めまでは巨大な松が存在したが、現在の松は二代目である。

 再び満昌寺前の大通りに戻り、近くの近殿神社(ちかたじんじゃ)に行く。思いのほか小さな神社であった。この神社の祭神は三浦大介義明の孫・すなわち三浦氏第6代目の当主・三浦義村である。彼は鎌倉幕府内の覇権を巡り北条氏と激しく争った人物として知られている。

 更に、車も通れない細い路地を抜け、「薬王寺跡」を探し当てる。薬王寺は三浦氏第5代目当主・三浦義澄の甥の和田義盛が父義宗と叔父義澄の菩提を弔うために建立した寺である。しかし、この寺は明治初期の排仏毀釈騒動により明治9年廃寺となってしまった。現在は、もともと薬王寺にあった義澄の墓のみが残されている。義澄は義明の次男で三浦氏第5代目の当主である。源頼朝の最側近として鎌倉幕府成立に多いに力をつくした。瓦塀で囲まれた一角に、義澄の墓と伝えられる変形五輪塔が立っている。

 薬王寺の山門があった場所に残されている駒繋石を見て、三浦一族夢の跡を訪ねる旅を終える。横須賀線衣笠駅まで歩いたが、その道程は遠かった。
 
登りついた頂  
   大楠山  241.3 メートル 

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