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花沢の里入口(740〜745)→法華寺(800〜810)→日本坂(840〜850)→花沢山(925〜945)→道了権現(1105 )→カンポ下(1305)→焼津駅(1345) |
紅葉はすでに山から里に下り、駿府公園の木々が色づいている。然るに、我が左足首は完治せず、悶々とする毎日が続く。少々無理してでも行動を起こさぬことには精神衛生上よくない。花沢の里から日本坂に登ってみることにした。宇津の山越えである日本坂道は奈良朝までの古代東海道、日本武尊が東征の際に越えたとの伝説が残る。近くに「焼津」「草薙」などの地名が残ることを考えると、東国勢力はこの宇津の山に防衛線を築き、西からの侵略勢力を迎え撃ったのであろう。古事記、日本書紀に伝説として残る大和朝廷による全国統一の戦である。
日本坂への登り口に、山懐に抱かれた小さな集落がある。静岡側に「小坂」。そして焼津側に「花沢」。両集落とも奈良朝時代から現在にタイムスリップしたような、静かな桃源郷のような里である。3年前の12月、小坂から日本坂に登った。今日は花沢から日本坂に登り、さらに稜線を南、大崩に向かって縦走してみよう。最近、花沢集落は「花沢の里」として焼津市が売り出している。 焼津駅着7時25分。花沢の里まで約5キロを本来なら歩くのだが、足の状態を考えタクシーを走らす。今日の天気予報は降水確率0の晴天なのだが、空はどんよりと曇り、今にも降りだしそうな天気である。7時40分、花沢集落の入口で車を下りる。この里を車で通過してしまっては意味がない。集落入り口には案内板とトイレがある。小さな流れに沿った小道を集落の奥に進む。この道が焼津辺(ヤキツベ)の路、古代の東海道である。「焼津辺に 吾いきしかば駿河なる 安倍の市路に逢わし児らはも」。この路を歌った万葉集の一首である。長屋門風の時代を感じる民家が多い。水車小屋もある。何とも風情のある集落である。のんびりと15分も進むと、集落最奥の法華寺に出た。立派な観音堂がある。古い石柱の道標があり、「右 日本坂ふちう道 左 うつのや地蔵谷」と記されている。右の日本坂への山道に入る。左の小道は鞍掛峠を越えて宇津ノ谷に通じているのだろう。 杉檜林の中をジグザグを切って五分ほど登ると山腹を横切る林道に出る。みかん畑を経て照葉樹林の中を急登する。古街道とも思えぬ厳しい登りである。それでも道はハイキングコースとしてよく整備されている。この道は日本武尊の時代はともかく、自動車社会を迎えるまでは焼津方面から静岡に向かう地方道として利用されていたはずである。道端に庚申塔と刻まれた文化4年銘の石柱がある。やがて上空に灰色の空が開けてきて峠に達した。3年ぶりの日本坂である。一段上に見覚えのある赤い帽子と赤いよだれ掛けを着けたお地蔵さまが安置されている。誰もいない。ここが古代の交通の大動脈、現在でもこの真下に東名高速と東海道新幹線が走っている。歴史を秘めた峠に立つと、何とも言えない感慨を覚える。 稜線を南、花沢山に向かう。小ピークを越えると茶畑の縁の急登である。足場も悪く、足首をかばいつつの登りとなる。背後に視界が開け、丸子富士の三角錐が淀んだ空気の中に浮かんでいる。いったん傾斜が緩んだところでひと休み。マユミであろうか、ピンクの実をたくさんつけている。見晴らす志太平野もボーと霞んでいる。樹林の中を急登すると、2基の大きな電波反射板の建つ花沢山山頂部に達した。この先10メートルほどの樹林の中に山頂表示と449.5 メートルの三角点があった。ベンチとテーブルが設置されている。前回はこの場所に気付かず電波反射板のところで引き返してしまった。樹林の隙間から志太方面が見えるが、今日は展望に関してはあいにくである。朝食兼昼食の稲荷寿司を頬張っていたら、何と雨が降ってきた。まったく大外れの天気予報である。この花沢山は、南下してきた宇津の山並の最後のピークである。山並はこの先で、大崩の大絶壁となって駿河湾に没する。しかし、塞き止められた山稜の一部は向きを90度右に変え、海沿いに焼津の市街地に向かって押し出している。この山稜には特に名はないが、「大崩山稜」とでも呼ぼうか。今日はこの山稜を縦走するつもりである。山稜上には焼津市が最近ハイキングコ−スを整備したはずである。 山頂から50メートルほど先に進むとT字路となる。宇津の山並の行き止まり地点である。左の道は静岡市側の石部集落へ下る。私はルートを右に取る。すぐに杉檜林の中の急な下りとなった。人口建材でしっかり階段整備されているので助かるが、下りに入ると途端に足首が痛む。時折気持ちのよい照葉樹の林が現われる。この辺りは地形が複雑であり、進んでいる道が目指すルートであるどうか時折地図を出してチェックする。鞍部に下ると、左に再び石部へ下る道が分かれる。雨は雨具をつけるほどではない。短い登りで小尾根に登り上げた。過たず、大崩山稜に乗ったようである。後はひたすらこの尾根をたどればよい。まだ蜘蛛が活躍しているが、ハイキングコースには巣が張られていないので助かる。小さな上下を繰り返す。左足首が痛い。もはや片足では立てない。ストックにすがって歩いているが、果たして計画通り焼津まで行けるのか。頻繁に休憩を取る。花沢を出発して以来人影はない。登りで振り返ると、花沢山が中腹を紅葉に染めて、ぼやけた視界の先に高だかとそびえている。左側、目の下には時折灰色の海が見える。水平線は空との区別もつかない。いくつかの小ピークを越えると茶畑の広がる尾根となった。実に展望がよい。雨がわずかに降り注いではいるが、草原に座り込んで昼食とする。右側眼下には東名高速と新幹線が見え、轟音を轟かせてひっきりなしに新幹線が走っていく。その先には高草山がそびえるが、志太平野は霞みの中である。左側に広がる灰色の駿河湾には航跡だけが白く浮き上がっている。 再び樹林の中の尾根道を行くと、物置き小屋のような神社があった。「道了権現」との表示がある。参道となった石畳の道を少し下ると茶畑となって尾根道は絶えた。道は左斜面をジグザグを切って下っている。縦走路はここまでなのか。この足では道が無ければ歩けない。50メートルほど下り、みかん畑の縁に出ると道はトラバース道となり小鞍部で再び尾根に登り上げた。やれやれである。この鞍部の一段高いところに祠があり、「大日堂」と表示されている。4人づれのハイカーと擦れ違う。今日初めて会う人影である。小道となった道は鞍部を乗っ越し、尾根右側のトラバ−ス道となる。緩く下ると三叉路に出た。道標がそのまま下る道を「小浜」、再び尾根に登り上げる道を「元小浜」と表示している。江戸期のものと思われる古い石柱の道標もある。緩く登り鞍部に出ると再び三叉路となり、ここにも古い石柱の道標があった。「文政10年5月 府中江川町 砂張孫右衞門」との銘がある。砂張孫右衞門とは江戸期の駿府の豪商である。たどっている道は焼津方面から駿府に抜ける古い街道であったのだろう。東海道筋を往来する場合、いずれにせよどこかでこの宇津の山並を越えなければならない。江戸期、東海道は宇津ノ谷峠で越えていたが、それとは別にあちこち山越えの間道があったのだろう。 道標に従い尾根道を行く。もはや足が限界である。左右に少しでもぶれると激痛が走る。ストックにすがりついてのろのろと進む。道は尾根を右側から巻き始める。どうやら地図上の172.9メートル三角点峰を巻いてしまうようだ。再び尾根に戻り小ピークを二つほど越える。すぐ目の下右側にホテル松風閣の大きな建物が見える。縦走路の終点も近い。もうひと頑張りである。下りとなった尾根道を行くと茶畑に出て、焼津簡易保険保養センター、通称カンポの大きな建物が目の前に立ち塞がった。終点である。道標に従い尾根の右側に下る。足はもう限界を越えている。1時5分、カンポに通じる舗装道路に降り立った。よくぞまぁ、この足で歩き通したものである。ただし、焼津駅までまだ約4キロの道程が残されている。カンポへ客を運んだ空タクシーが時折通るので、よほど乗ろうかと思ったが、舗装道路だとそれほど足の痛みも感じない。瀬戸川を渡り焼津駅まで歩き通した。根性である。 家に帰ると、もはや左足は着くことも不可能であった。翌々日になると、左足首の痛みは取れたが、何と! 右足と右肩が激しい筋肉通となった。左足を庇ったためだろう。まだまだまともな山登りは無理なのだろうか。
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