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尾沢渡集落(810〜815)→大鈴山(950〜1015)→萩間沢の頭(1040)→780m峰(1110〜1120)→834m峰(1145〜1150)→清笹峠(1210〜1225)→約840m峰(1305〜1310)→869.1m峰(1335)→笹間峠(1505〜1510)→中村集落(1555)→九能尾集落(1630〜1656) |
大井川水系および瀬戸川水系との分水稜となる藁科川右岸稜は私の好きな山稜である。典型的な藪尾根で、登山ハイキングの対象とはなっていないが、その代わり好ましい峠が実に多いのである。藪をかきわけ、地図とにらめっこしながら複雑に絡み合う尾根を辿っていくと、突然、藪に埋もれ、もはや通る人とてない峠道にであう。そして峠には風雨に摩耗したお地蔵さまが忘れられたようにたたずんでいる。国道362号線の乗っ越す洗沢峠と大鈴山の間が未踏破のまま残っている。この区間には清笹峠と笹間峠という地図にも名称の記載された二つの峠がある。清笹峠は車道が乗っ越しているが、笹間峠はすでにその使命を終え、藪の中にひっそりその痕跡をとどめているはずである。出会いが楽しみである。
踏み跡の期待できない藪尾根であるので冬枯れの季節を待っていた。新静岡センター発7時18分の九能尾行きバスに乗る。今日は大鈴山から笹間峠まで縦走するつもりである。とは言っても、地図を見ると、ルートは尾根が実に複雑に絡み合っており、無事に笹間峠まで辿りつけるか自信はない。8時10分、終点の一つ手前の尾沢渡集落で貸し切りバスを下りる。今日はこの冬初めての典型的な冬型気圧配置で、予報は一日晴れである。ただし、真冬並み寒波が南下しつつある。支度を調え、大鈴山北尾根に取り付く。今年の4月に下った尾根で勝手は知っている。杉檜の植林と雑木林が交互に現われる尾根には確りした踏み跡がある。木漏れ日が散り残しの紅葉を輝かせ、足元は落ち葉のじゅうたんである。茶畑の日溜まりで小休止し、再び気持ちのよい雑木林に入っていく。やがて、春にはなかった伐採地に出た。右側に視界が開け、壁のように広がった大無間山の右手前には七ツ峰のピラミダルな頂きが朝日に輝いている。しかし、ルートは伐採跡の打ち枝で埋めつくされ、おまけに刺草がもう密生している。もうひと夏過ごしたら完全に通過不能となってしまうだろう。林床が実生の檜で覆われた珍しい林を抜けると、山頂から続く新しい植林地に出る。今度は左手に大展望が開けた。駿河湾の向こうには伊豆の山々がくっきりと浮かび上がり、足元からうねる山並みの先には宇津の山々、安倍奥の山々が輝いている。 9時50分、大鈴山山頂に達する。楽しみにしていた大展望が待っていた。お目当ては深南部の山々である。主峰・黒法師岳の三角錐がすっくと聳え立ち、その右には同じく三角錐の前黒法師岳、さらに右はるか奥には真っ白な山並みが見える。光岳だ!。我が恋人・池口岳の双耳峰は押し寄せる雪雲に隠れてその姿を見せない。朝日岳の鋭峰から緩やかな尾根が大無間山へ盛り上がり、そのまま緩やかに小無間山に続く。まるで翼を広げた大鷲のようである。その右には足元から続く幾重もの山並みの背後に山伏を主峰とする安倍奥の山々が並んでいる。山頂に座り込み、朝食の稲荷寿司を頬張りながら寒さも忘れて目の前に広がる大展望を見続ける。山頂は伐採基地となっていて、早朝にも関わらずすでに作業が開始されている。 展望を十分に堪能した後、いよいよ清笹峠に向けての縦走に移る。登ってきた北尾根をわずかに戻って、南西に分岐する分水稜の入口を探る。この入口が見つけられるかどうかが今日最初の試練である。分岐する分水稜の張り出しは非常に弱々しく、しかも、分岐地点は欝蒼とした檜の植林で展望も得られない。勘だけが頼りである。今年の4月にもこの分岐地点をそれとなく探ってみたのだが、特定することはできなかった。慎重に高度差20〜30メートル下り、思い切って樹林の中に踏み込む。一発で微かな尾根筋に乗った。我ながら山勘の鋭さに惚れ惚れする。ルートは小峰を越えた所で90度左に曲がって約800メートル峰に向かうのだが、地形がわずかに地図と異なる。地図の間違いなのか、それともル−トに乗っていないのか。わずかな不安が頭を過る。人の通った気配もない藪っぽい樹林の中を遮二無二登り上げると頂きに達した。何とここに地元山岳会の付けた「萩間沢の頭」との標示がある。こんな藪山に名前があったのも意外であるが、私以外に登った者がいるのも驚きである。 ルートはこの山頂で90度右に曲がって南西に下るのだが、尾根筋もはっきりせず、また、樹林の中でまったく展望も得られない。地図を広げ、コンパスで方向を固定する。進むべき方向は灌木の藪がひどく踏み込めない。わずかに右にずれる感じはするが、樹林と藪の境目の微かな尾根筋を下る。しばらく下ると、尾根を乗っ越している踏み跡が現われた。踏み跡は山腹を巻き気味に続いて、本来のルートである尾根に乗った。しめしめである。踏み跡を辿って次の780メートル峰に向かう。右手に大きな鉄塔の立つピークが垣間見える。清笹峠手前の834メートル峰のはずである。今日のよき目印となる。登りに入ると踏み跡は山腹を巻くように離れていってしまった。しかたがない。樹林の中を強引に780メートル峰に登り上げる。どこが最高点か分からない東西に細長い山頂で、期待していた山頂標示は何もない。 小休止後、834メートル鉄塔ピークを目指す。尾根筋に沿って微かに踏み跡らしき気配がある。尾根はときおり二重山稜となり、若干地図と異なる。やがて左手から確りした踏み跡が登ってきて尾根上に続く。林床には笹が現われる。右側に大鈴山以来初めての展望が開け、藁科川奥の山々が見える。本格的な登りに入ると、続いてきた踏み跡は尾根筋から離れて左へ巻いていってしまう。一瞬考えたが、そのまま尾根筋を辿る。笹が少々うるさい。登り着いた頂きは東西に細長い平頂で、左側が雑木林、右側が植林となっている。割合顕著なピークなのでなんらかの山頂標示を期待したが何もない。雑木林の木漏れ日を浴びてひと休みする。わずかに下ると、目標となる大きな鉄塔が現われた。「第二電電藤枝ルースティション」との標示がある。鉄塔前から続く巡視路用の小道を数分下ると立派な舗装道路に出た。道路は山腹を巻くように下り、清笹峠で峠を乗っ越す県道に合流する。ようやく第一目標とする清笹峠に辿り着いたのだ。 通る車とてない峠は薄暗い樹林の中で、何のムードもない。この峠は昭和17年に、時の陸軍参謀本部の命令で東海道不通時のバイパスとして開削された。時刻はすでに正午過ぎ、意外に時間を喰っている。この地点でちょうど道半ばである。稲荷寿司を少々食べた後、峠の反対側急斜面に挑む。この時はまだ、これから先とんでもない困難が待ち受けていようとは知る由もない。檜林の中のものすごい急な平斜面を登る。踏み跡の痕跡もなく、立木を支点にして一歩一歩を確保する危険を感じるほどの急登である。斜面がいくぶん緩み尾根筋が現われたと思ったら樹林が切れ、行く手に猛烈な藪が立ち塞がった。背を没するスズタケのすさまじい密叢である。どうやってこの密叢を抜けるんだ!。尾根は急なナイフリッジとなり、まったく逃げ道もない。絡み付くスズタケを手でかき分けかき分け一歩一歩進むのだが、身体を通す隙間を作るのも容易ではない。おまけに雑木も混じり、ズボンの上からでも足の皮膚を傷つける。人が歩くなど想像もできないような、未だかって経験のないすさまじい密叢である。尾根はますます痩せ、しかも右側はガレとなって足元をえぐっている。いつ足元が崩れるかも知れない。さすが藪山の達人もお手上げである。しかし、進むしかない。 ついに登り切った。登り着いた840メートル峰山頂部は2メ−トル四方ほど笹が薄れた小平地になっている。辿っている藁科川右岸稜はこの地点までは瀬戸川水系との分水稜、ここからは大井川水系との分水稜となる。向きを北西から北に変え、次の869.1 メートル三角点峰に向かう。ほぼ平坦な尾根である。相変わらず背を没するスズタケの密叢が続くが、今度は足元にほんのかすかだが踏み跡らしき気配がある。先程よりは少々楽だが、スズタケをかきわける両手がもはやクタクタである。いったいこのスズタケの密叢はどこまで続くのだろう。ヘキヘキしながら藪を漕ぎ続ける。ようやく三角点峰の東の肩に達した。ルートはここで向きを北から東北東に変えるのだが、20メートルほど奥にあるはずの三角点を確認しにみる気になった。灌木と笹の密生を闇雲に漕いで山頂と思えるところまで行ってみたが、三角点を見つけることはできなかった。 緩やかに下ると檜の植林となり、さしものスズタケも薄れてきた。尾根は大きく広がり、尾根筋が分かり難い。ルートは途中で北へ向きを変えなければならないのだが、展望も利かず、この屈曲点が分からない。どうもこの地点を通り過ぎてしまったようだ。戻って左側に尾根筋を探す。 正しいと思える尾根筋を探し出し緩やかに下ると、突然確りした踏み跡が現われた。スズタケの密叢漕ぎに心身とも疲れはて、しかも時間に追われている今、この踏み跡はまさに地獄に仏に思えた。踏み跡が笹間峠まで続いてくれることを祈る心境である。しかし、結果的には、この踏み跡とこの心境とが命取りになった。次の780メートル峰への登りに入ると踏み跡は稜線から離れて左から山腹を巻にかかる。稜線上は藪で、踏み跡の痕跡もない。一瞬考えたが、足は知らずに巻き道を選んだ。本来、どこへ通じるか分からない巻き道に踏み込むなど、藪山歩きの常識に反する。私も今まではこんなときは迷わず稜線の藪に踏み込んでいったのだが。まさに魔が差した。確りした巻き道はウネウネと水平に続く。所が突然道が絶えた。どうなっているんだ。頭は次第にパニックに陥る。巻き道をクネクネ歩いてきたので正式な現在位置も不明だ。山の常識では巻き道に入る地点まで戻ることだ。しかし、時間に追われる今、この常識が働かない。わずかに「迷ったら稜線に出ろ」との声が聞こえた。樹林の中を遮二無二登って稜線に出る。しかし稜線上はただ藪が広がっているだけであった。頭は完全にパニックに陥った。現在位置不明。さぁどうするんだ。地図とコンパスを取り出しなんとかしようとするのだが、自慢の方向感覚もパニックとなり磁針の差す方向が北か南かも混乱する。下山してから考えると、何であんなことになったのか理解に苦しむ。目印となる第二電電の鉄塔も見えていたのだ。冷静に地図を読めば現在位置を確認することはそれほど難しくはなかったはずなのに。この地点は780メートル峰山頂付近であったのだ。 しばし稜線を行き来した後、足は、稜線を北へ向かった。藪っぽい樹林の中である。尾根が二つに分かれる。地図を見つめるが、現在位置不明のため選択できない。左の尾根に踏み込む。樹林の尾根は緩急を繰り返して下っていく。確りした尾根である。日が大分傾いている。「ビバーク」という言葉が心の中に浮かぶ。歩きながら頭の中で装備を点検する。セーターにダブルヤッケ、さらに雨具を着込めばなんとかなるか。携帯燃料も持っているから焚火も可能だ。稲荷寿司もまだ大分残っている。突然「落ち着け」との声が聞こえた。そうだ落ち着こう。座り込んで煙草に火を付ける。再び地図を広げる。周りをよく観察すると、樹林の合間に顕著なピークが見える。初めて見るピークだが、地図をにらむかぎり、笹間峠の先の842メートル峰と思える。と、なると尾根が一本違う。いつのまにか冷静さを取り戻している。下藪を蹴散らして遮二無二登り返す。息が切れる。ピークに戻って目標ピークに向かうと思われる尾根筋を見つけだす。いつのまにか腹が据わっている。「最大努力して駄目ならビバークしよう」。 尾根が広がり、行く手に藪が立ち塞がった。右側の薄そうなところを進む。灌木の藪をどうにか切り抜けると尾根は下りとなった。どうもおかしい。周りを観察すると目標ピークが今度は左手に微かに見える。コンパスも北に進むべきところを東に進んでいることを示している。慌てて登り返して藪まで戻る。藪の中を手足はおろか顔まで傷だらけにして這いずり回り、なんとか北へ向かう尾根を発見する。藪っぽい尾根を緩やかに下る。右手から確りした踏み跡が登ってきた。峠道だ!。やったぁ!。心の中で歓喜の大声を上げる。我が登山史上最大のピンチ脱出である。確りした踏み跡を100メートルほど進むと、突然道が跡絶えた。あれっと思って、左側の藪の中を覗くと、二体のお地蔵さまが何事もなかったように鎮座している。笹間峠だ!。 小さな鞍部は一面藪に覆われ、お地蔵さま以外に峠を示す何の印もない。まさに心に描いた忘れられた峠である。迷い苦しみ、手足を傷だらけにしながらこの峠を目指してやってきたのだ。お地蔵さまに我が心通じたのであろう。あのパニックの中をこの地点まで辿りつけたのはお地蔵さまの導きとしか考えられない。お地蔵さまに向かって改めて手を合わせる。刻まれた建立の日付は明治38年と大正4年、意外と新しい。この峠は古来、駿府と大井川流域を結ぶ重要な交通路であった。東海道の裏街道としての役割も担っていたようである。しかし、昭和17年にすぐ南の清笹峠が開削されたことによりその役割を終えた。九能尾側の峠道は痕跡を残しているが、笹間に下る道は、もはや藪が覆い通行不能と思われる。ここまで来ればもう日が暮れても懐電で下れる。 晴れ晴れした気持ちで峠を後にする。道型は確りしているが、さすがに所々崩壊したり藪が覆っている。この道もやがて藪の中に没してしまうのだろう。下方に中村集落が見えてきて茶畑の縁に出た。今まで緊張して感じなかったが、腹がグーグー鳴っている。もう何の心配もない。道端に腰を下ろして稲荷寿司を頬張る。一瞬、雪雲が飛来して小雪が舞う。4時、夕闇迫る中村集落に下り着く。あとは県道を2キロ少々九能尾集落に下るだけだ。 翌朝の静岡市の最低気温はマイナス2度。この冬初めて零下を記録した。もし、ビバークしていたら命に別状はなかろうが相当痛めつけられたことであろう。 |