旧正丸峠から大築山へ 

六つの峠と奥比企の山村を結ぶ山旅

2002年2月10日


 椚平集落より望む大築山
 
正丸駅(820〜830)→国道(900〜905)→旧正丸峠(920〜935)→虚空蔵峠(1030)→刈場坂峠(1050〜1105)→ツツジ山(1115)→ブナ峠(1145〜1150)→椚平集落(1225)→椚平入口バス停(1300)→大築山登山口(1315〜1320)→猿岩峠(1330)→大築山(1340〜1350)→麦原集落(1415)→住吉神社(1430)→麦原入口バス停(1500)

 
 越生町と都幾川村の境に466メートルの小峰がある。二万五千図には山名の記載はないが大築山(おおつくやま)あるいは城山と呼ばれている。こんな山にわざわざ登りに行くなど正気の沙汰とも思えないが、何となく気になる。この山の頂には中世の山城の跡がある。北条氏の家臣・松山城主上田朝直が北方5キロにある慈光寺を攻めるために築いた城と言われている。当時、慈光寺は山中に75坊の僧坊を有し、多くの僧兵を抱える一大武装勢力であった。
 
 登山口となる椚平(くぬぎだいら)集落へのバスは休日の午前中はゼロ。明覚駅から2時間も歩けば行けるだろうが、車道をてくてくは気が乗らない。どうしたものかと地図をにらんでいたらひらめいた。椚平集落の背後に山並みを重ねる奥武蔵山稜から行けばよい。帰りは越生に抜けよう。かなり長距離となるが日も大分伸びた。
 
 お花畑で秩父鉄道から西武秩父線に乗り換え、正丸駅着8時20分。降りたのは私一人であった。国道299号線を少し北へ歩き、正丸峠越えの古道に入る。空はどんより曇り寒い。予報では風花も舞いそうである。正丸集落の中の細い道を進む。明治期までは正丸峠のにぎわいとともにあったこの集落も、今では高麗川のどん詰まり、山襞に閉じこめられ忘れられた小集落である。集落の外れには地蔵仏も見られる。小さな流れに沿った杉林の中を緩やかに登っていく。21年前の1981年8月、5歳の次女を連れてこの道を辿った。当時この道は荒れており、ヤブや崩壊地に通過を阻まれ、苦労して登った思い出がある。
 
 流れは次第に細まる。やがて沢筋を離れ、右に少し登ると迂回してきた旧国道にでる。昭和57年に正丸トンネルができたため、もはやこの旧道を通る車はほとんどない。国道を100メートルほど歩いて、再び峠道に入る。杉檜林の中のゆったりした登りである。昔の峠道はどこも実に登りやすくルートが作られている。
 
 正丸集落から40分程で旧正丸峠に登り上げた。現在は、ここから約1キロほど南の旧国道の乗っ越す鞍部を正丸峠と呼んでいるが、この旧正丸峠が本来の正丸峠である。小さな鞍部で、昔をしのばせるものは何もない。展望もなく、4方向を示す道標だけが建っている。吹き付ける寒風を避けて、朝食のサンドイッチを頬張る。人の気配は全くない。
 
 ここからは雪道となった。短い上り下りが続く。トレースが凍りつき登りはまだしも下りは滑って歩けない。軽アイゼンを持ってくればよかったが。ルートから外れた藪の中の処女雪にキックステップを切って慎重に下る。空は厚く雲に覆われ、尾根道は寒々としている。しかし、意外に視界はよい。左手に雑木林の間から格好いい山が見える。地図で確認すると二子山の雄岳である。その左手奥には山体の半分を失った武甲山の悲しい姿が望める。サッキョ峠と標示のある鞍部に達する。ただし峠道の痕跡はない。登りにはいると、左手はるか彼方に上武国境の二子山の岩峰がはっきり見えた。写真を撮っていたら中年の単独行者が追いついてきた。まさか、私以外の登山者がいるとは思わなかったのでびっくりする。彼が今日出会った最初で最後の登山者であった。小ピークに登り上げると展望台となっていて、展望図が掲げられている。右側に視界が開けていて、目の前に伊豆ヶ岳が鋭峰となって灰色の空を突き刺している。
 
 下ると車道に飛び出した。虚空蔵峠である。四阿があり、先行した先ほどの単独行者が休んでいた。そのまま通過して、車道を刈場坂峠に向かう。積雪の車道は轍の跡はあるものの通る車はない。約20分も水平な稜線車道を進むと、刈場坂峠に達した。車道の三叉路で、大きな広場となっている。一段上には数件の別荘が建ち、大きな小屋掛けの茶屋もある。しかし人影はない。前方に大きく視界が開けていて、目の前に堂平山がゆったりした大きな山体をそびえ立たせている。 展望図によると、そのはるか奥には上越国境の山々や日光連山が見えるはずだが、今日は雪雲に霞んでいる。眼下には、比企丘陵の山々が細波のごとく広がっている。雷電山、都幾山、仙元山が確認できる。座り込んで握り飯を頬張る。
 
 広場はガチガチに凍りついた轍の跡が入り乱れ、至って歩きにくい。ブナ峠を目指す。稜線車道を行くのが近道だろうが、ツツジ山経由の山道を行く。樹林の中をひと登りすると、ツツジ山山頂に達した。山頂標示と三角点のみ立つ、つまらない頂である。この辺が一番雪が深い。20〜30センチはあろうか。ひと下りすると、稜線車道にでる。無謀にもこの凍りついた雪道をブナ峠方面からやってきた1台の車が、緩やかな坂を登れず立ち往生している。車道を進む。奥武蔵グリーンラインと名付けられたこの稜線観光道路の開削により、奥武蔵のハイキングコースはめちゃくちゃにされた。自転車でやってきた若者が悪戦苦闘している。いったん山道に入り、一峰を越えて下ると、そこがブナ峠であった。
 
 このブナ峠は二万五千図には「木偏に義」と云う難しい漢字がかかれ「まぶな」とルビが振られている。鞍部と云うよりは平らな稜線の一角である。珍しいものを見つけた。小さな石柱で、片面に「たか山ふどう」、反面に「ちゝぶ一ばん目」と掘られている。昔の道標である。ひと休み後、道標に従い椚平集落に向け下る。地図には破線で記されているため山道と思ったが、細い地道の林道となっている。ただし完全な雪道で、とても車は通れない。滑る足下に気を使いながら下ると山の神の祠があった。神様に今日の無事をお祈りする。下界から正午を告げるサイレンが聞こえる。だいぶ時間を食っている。急がなければならない。しばらく下ると雪は消えた。小道が右に分かれ、道標が「西平」と示している。地図にある向尾根集落へ下る道だろう。下から軽四輪が上ってきて、「峠まで行けますかねぇ」と聞く。「とても無理でしょう」と答えて先を急ぐ。樹林の中の単調な峠道をひたすら下る。
 
 椚平集落に達した。一度訪れてみたかった山村である。さして緩くもない斜面に家々が展開している。期待通りの典型的な奥比企の山村である。梅の花もちらほら咲きだし、余所者には優雅な桃源郷に見えるが、暮らす人々は大変なのだろう。開けた視界の先に、これから向かう大築山が意外なピラミダルの姿ですっくと聳えている。なかなかの山容である。集落の中は道が複雑に絡み合い、さっぱりルートがわからない。迷いながら下へ下へと向かう。上ってきた乗用車が止まり「越生梅林へはどういったらよいのか」と聞く。ずいぶん方向違いのところへ迷い込んできたものである。集落下部の「椚平」のバス停に達する。ただし、ここでバスに乗るわけには行かない。もうひと山越えて、越生に出なければならない。さらに下って、小沢のほとりの「椚平入口」のバス停に達した。地図を確認し、沢沿いに上流に向かう道にはいる。集落を抜け、大きな製材所を過ぎ、500メートルほど進むと、大築山登山口を示す道標があった。この地点が特定できるか気がかりであったが、ひと安心である。ブナ峠以来、初めて小休止をとる。
 
 板を渡しただけの橋を渡り、伐採跡の山腹に取り付く。よく踏まれた峠道を斜登する。約10分で小さな鞍部に登り上げた。猿岩峠である。都幾川流域の椚平地区と越辺川流域の麦原地区を結ぶ昔からの峠のようである。峠道はそのまま反対側には下らず、稜線上を大築山方面に続く。すぐに、朽ちた小さな道標があり、山腹を右から巻き気味に進む峠道と分かれて稜線上を進む微かな踏み跡を「城山」と標している。大築山の別名は城山である。踏み込んだ踏み跡は猛烈な薮道で、至る所棘草が絡まり、ほとんど歩かれた気配はない。しかも、ものすごい急登である。悪戦苦闘の末、息を切らせて山頂に達した。1時40分である。遠路をはるばる辿ってようやく目指す山頂に達した。なんと殊勝なことか。
 
 山頂は樹林と薮の中で、消えかけた小さな山頂標示が一つあるだけ、いかにも登る者などいない山である。木々の間から、氷川を挟んだ反対側山腹に大きく展開する椚平の集落が切れ切れに見える。椚平集落から眺めたピラミダルな山容に反し、山頂部は東西に広がる大きな平坦地となっている。城郭があったこともこれで納得である。登り着いたのは西端の一角である。薮の中に一人座し、この山頂を城兵が走り回った古を思う。
 
 麦原集落への下山に移る。元の道を戻ってもよいのだが、山頂から東に踏み跡が続いている。平坦な山頂部を東の端に進むと、ここに都幾川村による大築城の説明板が立てられていた。しっかりした踏み跡が東に下る。どうやら大築山への登山道はこの踏み跡が本道のようである。いたるところ堀切り跡や郭跡が見られる。踏み跡はやがて南に下り、山腹を巻く小道に降り立つ。この道が先ほど分かれた峠道と思われる。左、北へ進んでみるが、道は稜線に登り上げていく。どうも違うようだ。戻って、右、南に進んでみる。ほどなく三叉路に出てここに道標があった。辿ってきた方向を「城山」、山腹を巻きながら先に進む方向を「硯水、馬場」、下る道を「住吉神社」と標示している。地図で確認すると住吉神社は麦原集落の鎮守である。これで位置は明確になった。大築山は意外に地形が複雑である。
 
 小道とも云えるよく整備された道を下る。現在、猿岩峠越えをする人が多いとも思えないのに、なぜこれほど道がよいのか不思議である。やがて視界が開け、麦原集落上部に下り着いた。山の斜面に大きく展開する明るい山村である。里に出ると途端に道がわかりにくい。地図を見い見い、下へ下へと向かう。集落下部の住吉神社まで下ってひと安心、後は一本道である。麦原川に沿った舗装道路をひたすら歩く。近くにアジサイ公園があり、アジサイ街道と名付けられている。通る車とてなく、車道歩きの苦痛はない。しかも、沿うている麦原川は清流である。蛍の名所との標示がある。
 
 ちらほら咲く梅の花を見ながら、街道を歩く。そろそろ足に疲労を感じたころ、バスの通る県道に達した。「麦原入口」バス停の時刻表を見るとバスは2時55分、時計を見ると2時58分、次のバスは1時間17分待ち。しまった! と思った瞬間、越生駅行きのバスがやってきた。何と幸運なことか。
 
 大築山はわざわざ登るほどの山ではなかったが、六つの峠を越え、山里を結ぶコースはすばらしかった。奥武蔵・比企丘陵のよさを十分に堪能できた。

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