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ぽんぽん山より筑波連峰を望む 松山城跡
高負彦根神社→ぽんぽん山→高負彦根神社、 岩室観音堂→松山城跡→松山城跡登り口 |
このところ遠距離の山行きが続いた。低山でよいから近場に未踏の山はないものかと探したところ、格好の山が見つかった。我が町・鴻巣市の荒川を挟んだ隣り町・吉見町の「ぽんぽん山」と「松山城跡」である。両山とも吉見町の西部から北部に広がる吉見丘陵上の一峰である。吉見丘陵は比企丘陵の東端に位置する小丘陵である。西と南は市野川と滑川、東と北は和田川や吉野川によって区切られ、その間に島のごとく横たわっている。
だが、問題がある。ぽんぽん山および松山城跡が果たして「山」と認め得るか否かである。二万五千図を眺めると、松山城跡は城跡記号とともに山の高まりを示す何本かの同心円状等高線とその中心に57.9メートルの三角点が記されていて、一応山としての体裁が整えられている。一方、ぽんぽん山は山名の記載はおろか、山の高まりを示す同心円の等高線は一本も記されていない。地図を眺めるかぎり、そこには「山」は存在しない。しかし、吉見町のホームページには「ぽんぽん山」として確り案内が載っている。そして何よりも、山と渓谷社出版の「分県登山ガイド 埼玉県の山」にこの山の「登山案内」が記載されている。このことを決め手として、山と認めてもよさそうである。 さらにもう一つ問題がある。ぽんぽん山の標高が不明なことである。二万五千図には等高線すらないので標高は読み取れない。吉見町のホームページにも「分県登山ガイド 埼玉県の山」にも標高の記載はない。いろいろ調べた結果、ついに見つけた。角川書店の「角川日本地名大辞典 埼玉県」の「ぽんぽん山」の項に「38メートル」と記載されている。一体この標高がどこから引用されたのか不明であるが、差し当たりこの標高を信用することにする。 21日正午過ぎ、車で出発する。今日は、ぽんぽん山を含む吉見丘陵東北部を探索するつもりである。この地域には気になる古寺古社が幾つか存在する。目的地までは家から8キロ程度、足さえ正常なら走っていく距離なのだがーーー。荒川を糠田橋で渡って吉見町に入ると、行く手に森林で覆われた吉見丘陵の高まりが壁のごとく連なっている。丘陵の懐に入り込んだ八丁湖の辺に車を停める。周囲2.1キロの灌漑用人造湖で、湖畔は公園風に整備され桜や紅葉の名所となっている。さすが人影は少なく、湖面にはすでに鴨の群れが北国から到来していた。 湖畔の背後から吉見丘陵に登って行く。丘陵との境をなす絶壁には黒岩横穴墓群と呼ばれる多数の横穴墓が見られる。丘陵南端にある吉見百穴よりも大規模であると言われている。登り上げた丘陵の上はコナラ、クヌギなどの落葉樹の鬱蒼とした森となっており、数百年も昔の武蔵野を彷彿させる。よくぞこのような森が残ったものだと嬉しくなる。辺りは静まり返り、時折鳥の鳴き声が聞こえるだけである。 道標に導かれて森を抜け、「田甲(タコウ)」という小さな集落に入る。この集落は『和名抄』に武蔵国横見郡高生(タケフ)郷と記されている集落と見なされている。古代より続く集落を抜け、吉見丘陵北端の崖上に出ると、そこに高負彦根(タケフヒコネ)神社という延喜式神社が鎮座していた。和銅3年(710年)創建と伝えられる古社である。もちろん高負 (タケフ)=高生(タケフ)=田甲(タコウ)である。小さな神社だが、それなりの威厳と神々しさを備えている。境内に人の気配はない。この神社を含め、吉見丘陵北東部には三つの延喜式神社が鎮座しており、古代より開けた地域であることを示している。 本殿に参拝して神社の裏手に廻ると、そこに目指すぽんぽん山があった。高さ数メートルの岩山である。どうやら、元々はこの岩山は磐座であり、高負彦根神社のご神体であったと思われる。わずか数秒で山頂の岩上に立つ。神社境内からはわずかな盛り上がりであるが、丘陵北端に位置するため山の前面は20メートルの絶壁となって落ち込んでいる。このため北から東に向って大展望が広がっていた。 大きく広がる田園の彼方に、北鴻巣付近であろうか、幾つかの高層住宅が見える。そして、その背後の地平線から大きな山並みが盛り上がっている。一目、筑波連峰である。双耳峰の筑波山がひときわ大きく聳え、山並みは高度を落としながら、左、加波山へと続いている。筑波山のこれほど素晴らしい展望を得られる場所を他に知らない。さらに目を大きく左に振ると、荒川にかかる大芦橋が見え、その背後彼方にひときわ高い山群が見える。男体山、女峰山などの日光連山である。ここはまさに超一級の展望台である。それにしても、今日は何と視界がよいことか。 展望を楽しんだ後、今度はぽんぽん山の名前の由来を試す。その中腹を足で強く踏みならしてみると、「ぽんぽん」とまではいかないが、少々乾いた音が響く。山を構成する岩の中に空洞があると思える。この山は、昔は玉鉾(たまほこ)山と呼ばれたようであるが、この怪現象のため、いつしか「ぽんぽん山」と呼ばれるようになった。満足して、来た道を引き返す。 八丁湖畔に戻った後、近くにある二つの延喜式神社、伊波比神社と横見神社を訪ねる。伊波比神社は吉見丘陵東縁の崖の中腹に鎮座する小さな社である。横見神社は吉見丘陵の下、荒川に続く沖積層の低地にある。社は小さな古墳の上に鎮座していた。横見神社の「横見」は横見郡の「横見」である。大化の改新以来続く旧郡で、明治29年まで存続し、比企郡に合併された。現在の吉見町とその範囲を同じくする小さな郡であった。「吉見」という地名はこの「横見」が変化したものと言われている。 さらに、坂東11番札所である吉見観音(安楽寺)と伝源範頼館跡と言われる息障院を訪問して帰路に着いた。明日は、吉見丘陵南部を廻ってみるつもりである。
22日、前日と同様昼過ぎに家を発ち、吉見百穴の駐車場に車を停める。少しは名の知れた観光地であるが、周囲の人影は薄い。ここは吉見丘陵南西の末端部である。大きく盛り上がった丘陵の上部は松山城跡であり、そこから丘陵は垂直の絶壁となって下部を洗う市野川河畔に落ち込んでいる。この絶壁に巌窟ホテル・高荘館と岩室観音堂が掘削され、少し離れて吉見百穴と呼ばれる横穴墓群が穴を開けている。 巌窟ホテル・高荘館は岩盤をくりぬいて造られた立体建造物で、高橋峰吉という人物が明治37年から大正14年までの21年間掛けて掘り上げた。ホテルではない。現在は崩落の危険があるため。鉄条網で囲って閉鎖されている。その横の、半ば岩壁に埋め込まれるように建つ木造の山門風二階建て建物が岩室観音堂である。一階の岩窟には88体の石仏が、二階の石窟には観音様が安置されている。 さて、この丘陵上の松山城跡に登りたいのだが、登り口が見当たらない。岩室観音堂の前に「松山城跡」と題した説明書が掲げられているのだがーーー。少々うろうろしたが、登山ルートが見つからない。岩室観音堂の裏から山頂に向って続く一筋の岩溝がある。岩を削った急峻な通路のような流路のような溝である。「危険につき通行禁止」の標示があるところを見ると、かつて使われていた山頂に向うルートと思われる。仕方がないので、このルートを登ることにする。小さな水の流れもあり、相当滑りやすく危険である。慎重に登って、何とか山頂部に登り上げた。 山頂部は木々がまばらに生えた台地で、あちこちに城跡特有の掘割の跡が見られる。設置された説明版に従い、幾つかの曲輪の跡を確認する。この城は戦国時代の典型的な平山城である。北武蔵の要所にあるため、城を巡る攻防は激しかった。特に、越後の上杉、甲斐の武田、小田原の北条による争奪戦は有名である。しかし、江戸時代初期に廃城となった。 正規の登山ルートに従い下山すると、岩室観音堂の反対側、山稜の南側の車道に降り立った。丘陵の先端を回り込んで元の岩室観音堂まで戻ると、二人連れのおばさんハイカーがオロオロしている。私の姿を見ると飛んできて「松山城址への登り口はどこですか」との問いかける。ついさっきまでの私と同じである。思わず吹き出してしまった。 その後、近くの見所を廻る。先ずは30分ほど歩いて龍性院へ。岩室観音堂はこの寺の域外仏堂である。さらに30分ほど歩いて北向地蔵に到着した。大通りの三差路に北向きに建つ小さなお堂の中に地蔵尊が鎮座している。この地蔵尊は観音霊場巡りの巡礼たちの道しるべにもなっていたようで、台座に次のように刻まれている。左側面には「此方いわむろ山くわんおん道、弘法大師開基、松山へ行ぬそ」。右側面には「此方ひきくわんおん江」。正面には「此方よしみくわんおん道十二丁」。地蔵堂の向かい側には八坂神社が鎮座している。 てくてくと歩いて、吉見百穴に戻る。せっかくなので300円の入場料を払って見学することにする。小学生であったころ、遠足で来た記憶が微かにあるがーーー。園内に見学者は誰もいず、マイクの音のみが空しく響いている。古墳時代後期(6世紀末〜7世紀末)の横穴墓で、現在219個が確認されているとのことである。いずれにせよ、これらの横穴墓は一般庶民のものではなく、上層階級や権力者の奧津城である。これだけの数の墓穴を掘削するだけの政治権力がこの地に存在した証拠であろう。 二日間にわたる吉見丘陵の探索を終える。
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