戸蓋峠から両詰山踏み跡なき薮尾根を辿れば眼前に大きな両神山 |
2000年12月24日 |
間明平(700)→送電線鉄塔(805)→稜線(820〜830)→戸蓋峠(845〜900)→林道(940〜950)→両詰山(1035〜1055)→857メートル峰(1120〜1125)→楢尾沢峠(1200〜1205)→納宮(1240〜1244) |
日本百名山の一つである両神山を主峰とする両神山系は岩と薮の山域である。雰囲気としては西上州の山域に近い。主な山は、両神山、天理岳、南天山、赤岩岳、梵天、秩父槍ヶ岳、両詰山、秩父御嶽山、四阿屋山、諏訪山、二子山、白石山等である。未だいくつかの山が登り残されている。今日は両詰山を目指す。この山は両神山から薄川と赤平川の分水稜となって東に大きく張り出す天理尾根上の一峰である。登山道はなく、経験者向けの藪山である。両詰山の西方には楢尾沢峠、東方には戸蓋峠がある。戸蓋峠から両詰山を越えて楢尾沢峠まで、またはその逆を縦走したい。しかし、ルートの状況は良く分からない。また、交通の便が悪いため車を利用せざるをえないが、縦走すると最悪車道を歩いて元の地点まで戻る覚悟が必要である。考えぬいた結果、赤平川側の間明平集落から戸蓋峠に登り、楢尾沢峠から納宮集落に下ることにする。ただし、二万五千図に破線が記載されている戸蓋峠道が地図通りに存在するのか否か不安である。
まだ夜の明けない5時20分、車で家を出る。小鹿野から国道299号線を走り、間明平集落に着く。間明平中学跡地に車を停め、ちょうど7時に戸蓋峠の登り口を求めて歩き出す。赤平川を渡り、小沢を渡り、地図で示された登り口と思われる地点に進む。赤平川と山の斜面の間の緩斜面で、一面の萱との原の中に墓地が二つある。しかし、踏み跡も墓地までで、峠道らしい踏み跡は全くない。地図を何度も読み、30分近くうろうろするが峠道は発見できない。早朝のため集落に人影はなく、聞くにも聞けない。峠道はもうないのかもしれない。こうなれば最後の手段、遮二無二稜線に登りあげるだけである。意を決し、雑木の茂る急斜面に取り付く。危険を感じるほどの急斜面だが、下草がないので何とか登れる。ただし、枯れ木が多く、うっかり支点にしようものなら谷底に転落である。いきなりの過激なアルバイトに息が切れる。 傾斜が若干緩むと、何と、右から登ってくる踏み跡に出会った。峠道なのだろうか。だとしたら登り口はどこにあったのだろう。踏み跡を辿る。踏み跡なき急斜面の直登に比べ何と楽なことだろう。しばし登ると送電線鉄塔に出た。傍らにさび付いた伐採用ケーブル支点の鉄塔が立っている。踏み跡はここから右へ山腹をトラバース気味に斜高していく。ただし、トラバース道は崩壊が激しく辿れない。苦労して踏み跡にそって進むと、再び送電線鉄塔に出た。どうやらこの踏み跡は送電線巡視路、峠道ではない。再び意を決し、間近に迫っている稜線めがけて直登する。登りあげた稜線は雑木が茂り踏み跡はなかった。闇雲に登ったので正確な現在位置はわからないが、戸蓋峠の西であることは確かである。このまま西に縦走して両詰山に向かってもよいのだが、やはりどうしても戸蓋峠に立ち寄ってみたい。潅木の尾根を東に向かう。緩やかな高まりを一つ越え、潅木をかき分けながらどんどん下っていくと、ついに戸蓋峠に到着した。 わざわざやってきて正解であった。二本の杉の木の根元に首のない二体の地蔵仏が安置されている。なんとも情緒ある峠である。地蔵仏の一体には安永3年の銘が読み取れる。驚いたことに、明確な峠道が乗越している。あれほど苦労して探した峠道の登り口はどこにあったのだろうか。それとも峠道の痕跡はこの峠付近だけで下部は消滅してしまったのだろうか。もはやこの峠を越える人はいないはずである。小休止の後、縦走を開始する。元の位置まで戻りさらに稜線を西に向かう。それらしき気配は時々現れるが、踏み跡はないに等しい。赤平川を挟んだ右手に白石山が雑木越しに見え隠れする。絶壁を掛けた格好いい岩山だが、山頂付近では石灰岩の採掘が始まっている。いずれ、武甲山や叶山と同じ運命を辿ると思うと寂しい。一峰を越え、次の644メートル峰のだだっ広い山頂部に入る。杉桧の植林の中で見通しも無く、おまけに下地は枯れた打ち枝と潅木で実に歩きにくい。ここはルートの取り方が難しい。右に曲ってから左に曲り直す。今日は久しぶりに地図読みの必要がある。林を抜けると過たず痩せ尾根に出た。右手奥に二つの鋭い岩峰が頭を出している。志賀坂峠上部の二子山である。潅木の隙間を縫いながら緩やかに尾根を下ると、私の地図にない稜線乗越し林道に出た。 林道を横切り反対側斜面に取り付く、この斜面は大きく伐採されていて実に展望がよい。腰を下ろし、握り飯を頬張りながら山々を眺める。空は真っ青に晴れ渡り、年の暮れとも思えない温かさである。二子山の眺めが圧巻である。鋭い鋭角三角形の山容は見るかぎりではとても人が登れるとは思えないが、私の足跡が確り残されている。白石山はまだそれほど目立ちはしないが、山頂部の石灰石採掘現場が確認できる。目を大きく転じ東方を眺めると、濃紺に霞む山並みの上に、ひときわ高く三角形の山容を持ち上げている武甲山が見える。逆光のため痛々しい採掘の跡は見えず心が救われる。再び薮尾根を辿る。行く手には目指す両詰山が高々と聳えている。両詰山への本格的な登りに入った。この登りはひどかった。尾根筋も消えた桧の植林の中の平斜面の急登である。しかも切り倒された間伐材が転がり、打ち枝が折り重なっている。そこを避ければ刺草の密生した潅木の薮である。ズボンの上から皮膚を傷つけ、うっかり掴んで悲鳴を上げる。とても人が歩けるような場所ではない。 ほうほうの体で登りあげると、そこが両詰山山頂であった。苦労してやってきたのに何ともつまらない頂きである。桧の植林と薮に囲まれた雑然とした所で展望もない。790.7メートル三角点と小さな登頂記念標示が一つだけあった。三角点に腰掛け握り飯を頬張る。逆コースから縦走した場合、この下りはルーとファインディングがかなり難しいと思われる。続いてきた尾根筋は南東に延びており、取るべきルートは尾根筋もない大急斜面である。この植林と薮の急斜面に飛び込むにはかなりの確信と勇気が要りそうである。 小休止の後、さらに稜線を西に辿る。相変わらず刺草と雑木のひどい薮尾根である。ただし尾根筋は明確である。次の緩やかなピークに入ると尾根筋は消え、深い桧の植林の中となる。踏み跡もまったくなく、ルートの取り方は難しい。下地は枯れた打ち枝と潅木で歩きにくい。迷路のような樹林を抜け、857メートル峰の登りに入る。ゆったりした大きなピークで深い樹林に覆われている。尾根筋もはっきりしないが、登りの場合はただ高みを目指せばよいのでルートファインディングは容易である。山頂に達する。今日の最高地点である。逆コースの場合、この下りもルーとファインディングは難しそうである。 小休止の後、最後の行程に入る。ここからは明確な踏み跡が現れた。もう心配はない。潅木の尾根をわずかに進むと、低い隈笹に覆われた気持ちのよい小峰に達した。すっかり葉を落した落葉樹の間に今日初めて両神山が姿をあらわした。尾根が痩せ、ようやく両神山系らしい岩尾根となった。小岩峰に立つと、思わずあっと息を呑んだ。遮るものも無い眼前に大きな大きな両神山が視界いっぱいに広がっている。この情景を何と表現したら良いのだ。いかなる名文家といえども、いかなる画家といえどもおそらく表現できないだろう。深く食い込む谷筋、いくつもの皺のような急峻な山稜、いたるところに岩肌を露出させ、真っ青な空にすっくと立ちあがったその姿はまさに神の造りし山である。ただただ呆然と見とれる。深田久弥はこの山を日本百名山に選んだ。おそらく、この山は日本10名山でも選ばれるだろう。 岩尾根を辿り、楢尾沢峠に下りつく。今日初めて立派な道標を見る。ただし、私が辿ってきた方向は何も指し示していない。今から14年昔の昭和61年6月、この地点をスタートして天理尾根を必死に両神山頂まで登りあげたことがあった。今日はここから納宮集落に下るだけである。峠道を一気に下る。急斜面につけられたジグザグ道であるが、崩壊がいたるところにありかなり荒れている。一昔前までの両神山へのメイン登山道だが、もはやこの道を登るものは少ないのだろう。樹林地帯に入ると、さすがに古くから踏まれた道、深くえぐれた道型を残している。落ち葉が積もり、蹴散らしてというよりラッセルに近い。峠から35分で納宮の集落に下りついた。がっちりした山村らしい数軒の家が赤平川岸の小平地にへばりついている。 さて、ここから国道を歩いて車まで戻る予定である。念のため1日数本きりないバスの時刻を見ると、なんと5分待ちで12時44分のバスがある。次が16時台であるから何と幸運なことか。やってきたバスは無人であった。しかし、戸蓋峠の登り口のことがどうも気になって仕方がない。バスで儲かった時間で再度探索してみることにした。今朝ほどの現場に戻り、入念に探してみたがやはり見つけ出すことは出来なかった。幻の峠道である。 |