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赤岩岳(あかいわだけ) 1570m

 
所在地 埼玉県大滝村  群馬県上野村
名山リスト なし
二万五千図 両神山
登頂年月日 1992年5月2日 1994年5月6日

 
大ナゲシより望む赤岩岳
金山鉱山より赤岩岳を望む
八丁尾根より赤岩尾根を望む

 
 両神山頂から八丁峠に続く八丁尾根は上級者向けの厳しい岩稜コースとして知られている。八丁峠から先、稜線はさらに悪相を強め、険悪な岩尾根となって赤岩峠に続いている。この尾根は赤岩尾根と呼ばれ、もはや登山道はない。岩登りの技術を持った熟達者でなければ通過する事はできない。山と渓谷社発行の案内書「スパーハイキング」ではこの赤岩尾根を『岩とヤブのエキスパートのみに許された、胸の高鳴る豪快な岩稜縦走といえよう』と紹介している。
 
 赤岩尾根は上武国境稜線の一部をなす。七つの岩峰が連続するが、そのうち一番西側のP7が赤岩岳と呼ばれる。二万五千図に山名の記載もないし、三角点も標高点もない。山というより連続する岩峰の一つである。この赤岩岳だけは赤岩峠から登山ルートがあり、少々岩登りの心得がある者なら登頂することが可能である。岩峰だけに山頂からの展望は絶佳である。目の前に両神山が大きくそびえ立ち、南から西にかけては奥秩父主稜線の山々が壁のごとく連なっている。その右奥には八ケ岳連峰が遠望でき、眼下には西上州の岩峰群がさざ波のごとく続いている。そして、足下からスパッと垂直に切れ落ちた数百メートルの絶壁の下に金山鉱山が小さく見える。
 
 赤岩尾根、赤岩岳を語るには金山鉱山について語らなければならない。大絶壁となった尾根北側の基部に異様な光景が展開している。山の斜面を埋め尽くす廃屋となった長屋の群である。かつて栄華を極めた金山鉱山の残痕である。金山鉱山の採掘は遠く慶長年間に甲斐武田氏による金の採掘に始まったと云われている。昭和12年に日窒工業がここで亜鉛・鉛の本格的採掘を始めてから、この鉱山は急速に発展した。そして昭和30年前後にその最盛期を迎える。平地とてない中津川最源流の山奥に人口二千人以上の町が出現したのである。谷間には段々畑ならぬ段々長屋が立ち並び、小中学校までできた。

 赤岩岳の西の鞍部を越える赤岩峠は中津川流域と上州・神流川流域を結ぶ古い峠である。古来、中津川奥の集落は至る所峡谷となり通行を阻む中津川沿いルートに代わり、専ら国境稜線を越える峠にその出入り口を求めた。赤岩峠、およびその西の雁掛峠もそれらの峠の一つである。新編武蔵風土記稿の秩父郡中津川村の項には赤岩峠について次の通りの記載されている。
  「赤岩峠 稼山の内にて、村北二里許にあり、上州甘楽郡へ通ず桟道あり、
   楓多く九月の頃は、紅葉錦を晒せり」  

 この赤岩峠、雁掛峠が最もにぎわったのは金山鉱山の最盛期であった。この町の兵站は赤岩峠、雁掛峠、および八丁峠によって支えられた。生活物資はすべて峠越えのルートで確保された。掘り出した鉱石も八丁峠越えの索道で搬出された。人の流れもすべてこの三つの峠が使われた。

 しかし、昭和40年代に入ると、鉱山は急速に縮小された。学校も昭和60年には廃校となった。そしてまた、峠道も寂れた。現在、八丁峠、赤岩峠は登山道として細々と生き残っているが、雁掛峠は藪の中に埋没しその痕跡すら見いだせない。赤岩峠道の入り口となる旧公民館前に昔日の石道標がたっている。
  「右 群馬県上野村二至ル」。
 
 私は赤岩岳に二度登った。最初に登ったのは平成4年5月であった。赤岩尾根縦走に憧れたが、私の力量ではとても無理とあきらめ、せめて赤岩岳だけでも登ってみようと中津川の奥へと車を走らせた。金山鉱山から見上げる赤岩尾根のものすごい岩峰に唖然とし、縦走断念の判断に納得した。赤岩峠道はよく踏まれており、登り上げた峠には小さな祠が祀られていた。北側を巻き気味にルンゼを登り、さらに急なリッジを登って赤岩岳山頂に達した。足下から切れ落ちるものすごい絶壁に少々肝を冷やした。峠に戻り、国境稜線を西に辿って雁掛峠を探ってみたが、もはやその痕跡すら見つけることはできなかった。

 二度目に登ったのはその2年後平成6年5月であった。赤岩尾根縦走といういったんあきらめた夢が私の心を再び支配した。抗しきれず、無茶を承知で一人赤岩尾根へ向かった。赤岩岳山頂に立ち、これから越える連続する凄まじい岩峰に向かい合ったときの緊張感と胸の高まりは今でもはっきり覚えている。無事に縦走を果たし、さらに余勢を駆って八丁尾根から両神山頂まで一気に突っ走った。今から考えれば何と恐ろしいことをしたものかと思う反面、あの危険なルートに踏み込んでいった勇気に若さを感じるこの頃である。
(2002年2月記)