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有間山(ありまやま) 1213.5m

 
所在地 埼玉県秩父市  埼玉県名栗村  
名山リスト なし
二万五千図 武蔵日原
登頂年月日 1979年2月18日  1981年12月30日

 
 蕨山山頂より
 大ヨケノ頭付近より
       仁田峠上部より

 
 都県境尾根上の日向沢ノ峰から北に分かれる尾根は、その後いくつも分岐を重ね、多くの奥武蔵の山々を盛り上げる。いわば奥武蔵の山々の大本となる尾根である。この尾根の最初の盛り上がりが有間山である。山頂部は三つの小ピークに分かれている。すなわち、南峰が仁田山、北峰が橋小屋ノ頭、そして中央峰が有間山の最高峰でもあるタタラノ頭である。南北に連なる大きな山体は蕨山辺りから眺めると視界の多くを奪っている。
 
 有間山は登山ハイキング対象としては一般的ではない。北のピーク・橋小屋ノ頭は蕨山から鳥首峠に至る縦走路とのジャンクションピークであり、週末には多くのハイカーでにぎわう。然るに有間山の稜線は滅多にハイカーの姿を見ない。この有間山を目指して登る人など皆無に近いであろう。また、この山の頂を通過して日向沢の峰から蕨山方面へ、あるいはその逆を歩く登山者も非常に少ない。現在でも登山地図を見ると、日向沢ノ峰とタタラノ頭の間は難路を示す破線となっている。私が歩いた20年前は稜線上に微かに踏み跡は確認できたもののシノダケの密生した凄い薮道で、とても一般のハイカーが通るようなルートではなかった。ただし近年、仁田山とタタラノ頭の鞍部を逆川林道が乗越てしまった。従ってその気になれば稜線まで車で行って簡単に山頂に達せられるようになってしまったことは残念である。

 現在の有間山は忘れられたような山である。しかし、この有間山一帯は何やら古代の歴史が隠されている気配がある。「タタラノ頭」という名称である。「タタラ」とは古代の製鉄用溶鉱炉の名称である。麓には「鍛冶屋橋」との名称も残る。古代の製鉄は大量の木炭を必要とすることから山奥で行われた。この有間山一帯でも名栗川から砂鉄を取り製鉄が行われていたのだろう。その生産技術者は朝鮮半島からの渡来人であったと思われる。名栗川下流の飯能から高麗に掛けては8世紀に大量の渡来人が入植した場所である。有間山の奥には三ッドッケや黒ドッケなどの古代朝鮮系の言葉といわれる「ドッケ」名の山も多い。こう考えると、有間山の隣の棒ノ嶺や蕨山の状況も理解しやすくなる。製鉄には燃料として大量の木材が使われるため、付近の山はあっという間に丸坊主になったといわれる。棒ノ嶺や蕨山は樹木のない丸坊主の山で茅と刈る入会地であったと想像されるが、丸坊主になった最初の原因はこの製鉄業にあったと云えるのではないか。

 新編武蔵風土記をひもとくと、下名栗村の項に、有間山について次のような記載がある。
  「有馬山 村の西にて深く廣大なる山なり、浦山或は大丹波の山嶽につゞき、
      又は御林山に續けり、その方量は容易にしるべからず、村民の住ひせるあた
   りは、相隔たること三四里にも及ぶべし、山はみな山栽の地にして、民の生
   業とし稼する所なり」

 ここで云う有間山は、現在の有間山の山域だけでなく、有間谷流域の山々の総称であったと思われる。

 現在、有間山には直接登る登山道がない。山頂に達するには、都県尾根から、又は蕨山ー鳥首峠の縦走路から、スズタケをかきわけ達するしかない。ただし、かつては有間谷から、仁田山の南の肩に至る登山道があった(らしい)。ある出版社の登山地図にはいまだにこの登山道が堂々と記されている。現在、この道はその痕跡すら残っていない。昭和54年2月、私はこの登山道の存在を信じて、蕨山を越え、有間山を縦走し、この登山道を有間谷に下る計画を立てた。積雪の稜線をたどり、仁田山の南の肩まで達し、はたと困った。あるはずの下山道がないのである。付近をいくら探しても、道標はおろか、踏み跡の痕跡すらなかった。他に、代わるべきルートもないことから、意を決して、伐採跡の小さな支尾根を勘を頼りに有間谷に下った。以後、このルートは、私の秘密の道になった。あるときこんなことがあった。日向沢ノ峰から縦走して、仁田山の南の肩まで来ると、一人の登山者が、地図を片手に困り果てた様子でたたずんでいた。私の姿を見ると、「有間谷に下りたいのだが」と問い掛けてきた。ピンときた。案の定問題の地図を持っていた。

 私はこの山に二度登った。初めて登ったのは昭和54年2月の降雪直後であった。この時の山日記には次の通り記されている。
   「逆川乗越より急な登りをようやく登り切ると橋小屋ノ頭である。
    『仁田山方面道標なし』の標示があり、有間山方面に僅かな切り
    開きが続いている。途切れ途切れの踏み跡を拾い、2〜3のピーク
    を越え、有間山山頂に着く。ところが、ここから仁田山までの道
    は絶望的とも云えるほどひどい道であった。道はないに等しく、
    背よりも高いスズタケの中を泳ぐように進む。泳ぐ度に降り積も
    った雪が頭上より降り注ぐ。雨具を着けて約一時間も必死に進む
    と、そこだけ笹が薄くなった頂に着いた。樹木に「仁田山」と書
    いてあるのでそれと知る。
    山頂より、再び笹を漕いで鞍部にでる。手持ちの地図によれば、
    この地点より有間谷に下る道があるはずであるが、それらしき
    ルートはない」 

 
 二度目に登ったのは、昭和56年12月、今度は都県尾根から山頂部を縦走した。
   「仁田山南の肩まで下る。ここからいよいよ嫌なスズタケの密生
    地かと覚悟を決めて進むと、意外にもスズタケの切り開きがし
    てある。これはしめたと、一気に仁田山山頂に達する。
    何の標示もないスズタケに囲まれた静かな山頂である。北の肩
    まで下ると、突然鉄条網が現われびっくりする。見れば、林道
    が遂にここまで上がってきているではないか。更に工事中であ
    り、いったいどこまで延びることやら。仁田山山頂付近のスズ
    タケの切り開きは、どうやら林道工事の賜物らしく、ここから
    は以前同様スズタケ密生の道となる。一度通った道ゆえ不安は
    ないが、顔に被さるスズタケをかきわけながらの歩みは愉快な
    ものではない。小さなピークを幾つか越え、ようやくタタラノ
    頭に到着する」

 有間山は蕨山からその全貌がよく見える。その山肌に巨大な傷跡となって逆川林道が延びているのがいつも気になっていた。この林道がついに、有間山の稜線を越えてしまったのである。残念なことである。
(2002年6月記)