私は深い悲しみと、激しい怒りと、そしてやり場のない絶望感にさいなまれながらこの文を綴っている。今まさに我々が生きているこの時代に、一つの山が消えようとしている。この瞬間にも発破の轟音とともに山は崩され続けているのである。しかもその山は、地域の象徴として古来人々に親しまれ崇められ、伝説に満ち歴史ある山である。
秩父盆地に足を踏み入れた人々は、降り注ぐ石灰石の粉で白く汚れた町並の背後に、高々と立ちはだかる全山砕石場と化した山を見、思わず息を飲むに違いない。この山こそが奥武蔵の名峰と讚えられ、日本二百名山にも列する武甲山の現在の姿である。「関東百山」の著者の一人である横山厚夫氏は、武甲山の項において次らように語っている。
「この百山を選ぶとき、私は武甲山と言いだそうかどうしようかずいぶん迷って、
結局は黙っていたのだが、それは他の人たちも同じ想であったようだ。でも、
やはり武甲山を数えなくては妥当を欠くのではないかと一人が言うと、『そう、
あれは正真正銘の名山だったからね』と、皆がうなずくのだった。しかし、名
山だったと、過去形を使わなければならないとは、何と淋しい話だろう。ここ
で私は愛惜の念をこめて、いかに武甲山が名山であったかを語ろう」
この言葉が、今の武甲山を端的に語っている。
大正六年から始まったという石灰石の採掘は、武甲山の緑を奪い、山の形を変え、そしてついに、山頂さえも奪ってしまった。その採掘量はすでに二億トンを越え、今なお、日夜発破の音が響きわたり、石灰石を満載したダンプカーが走り回っている。不思議なことに、これだけ自然破壊が進んでいるにもかかわらず、武甲山を救うための組織的自然保護の動きを聞かない。地域社会の経済的基盤をこの石灰石採掘に頼らざるを得ない山国秩父の悲しい宿命なのであろうか。
武甲山は古代より名山であった。その名の由来は、古代、日本武尊が東征した際、戦勝を祈ってその山頂に鎧甲を収めたことによるとも、又、武州第一の名山故、武光山呼ばれたことによるともいわれている。しかし実際は「向こう山(ムコウヤマ)」が転訛したものと思われる。昔から人々に親しまれた山であったのである。
「新編武蔵風土記稿」はこの山がいかに名山であるかを次のように語っている。
「一ニ秩父ヶ嶽トモ云ヘリ、コノ山ハ武蔵国第一ノ高山ニテ世ニ聞ヘタル名嶽ナリ、
秩父ハモトヨリ山国ニテ萬重ノ山多キカ、中ニ最モ高ク聳ヘタレバ秩父嶽トヨヘル
モ理リナリ」
武甲山は、都県境尾根から北に分かれた支稜の先端に位置し、秩父盆地の背後に屏風のように聳え立っている。関東平野から見ると、奥武蔵の前山の背後に肩から抜きんでた兜のような山容が確認できる。この山の高さは本来1336.1メートルであった。所が現在の高さは1295.4メートルである。実に40.7メートルも山頂が削られてしまったのである。昭和54年5月に山頂への立ち入りが禁止された。それ以降、近くの荒川土手から眺める武甲山の形が年毎に変わっていくのが遠目にも確認できるようになった。そしてその変貌は今も続いている。
私が初めて武甲山に登ったのは、昭和52年7月である。当時4歳2ヶ月の長女の初陣としてこの山を選んだ。武甲山こそ故郷を代表する山と信じたのである。このときは生川から表参道を往復した。原生林の美しかったこの道とて今はもうない。本来の山頂はまだ無事で、鐘撞堂と御嶽神社の祠あった。そて2年後の昭和54年3月、間もなく山頂への立ち入りが禁止されることを知り、武甲山への惜別の思いを込めて一人で登った。当時の山日記には次のように記されている。
「シラジクボ付近はすっかり伐採されてしまっている。最後の急登を経て、12時15分、
山頂着。山頂が余りにも変わってしまっているのに驚く。頂の雑木はすっかり刈払わ
れており、鐘撞堂も、小さな祠も姿を消してしまっていた。三角点すら見当たらない。
おまけにジープが山頂まで上がっている。情けないやら、悲しいやら、武甲山の最後で
ある。逃げるように生川に下る」
私はもうこの山に登ることはないであろう。しかし、この山から視線を反らすことはしない。日一日と崩されていく姿を目を大きく明けて見続けていこうと思う。この山の最後を見届けてやることが、私にできるせめてもの愛情であると思うから。武甲山の見えるところに暮らし続けた一人として、故郷の誇る名山を救えなかったことに、深い自責の念を込めて。
(2002年1月記)
(2002年11月追記)
11月8日、国土地理院からうれしい発表があった。
「国土地理院(院長 星埜由尚[ほしの よしひさ])は、武甲山[ぶこうさん]
(埼玉県秩父郡)の山頂部の標高を現地で測 量しました。その結果、この
地点の標高が1,304mであることがわかりました。
武甲山の標高は、明治33年当時、山頂部に設置された二等三角点「武甲山」
の高さ1,336mを採用しました。武甲山は大部分が石灰岩であることから、
大正・昭和初期からセメント原料である石灰石の採掘が進み、山頂部が削り
取られることとなったため、昭和52年に三角点を採掘予定区域外へ移転し、
以降、この三角点の高さ1,295mを武甲山の最高標高値として取り扱ってき
ました。この度、山頂部の採掘が一段落したため、改めて三角点周辺を調査
したところ、三角点より西へ約25m離れた地点で、標高1,304mが得られました。
これにより新しい武甲山の最高地点は、これまでより9m高い値となります。
なお、この結果をうけて、国土地理院ホームページで公表している「日本の山
岳標高一覧(1003山)」の標高値を訂正するとともに、今後、2万5千分1地
形図「秩父」にこの地点と最高値を表示します。 」
武甲山は再び1300メートルを超えたのである。 |