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帳付山(ちょうづけやま) | 1619m |
所在地 | 埼玉県大滝村 群馬県上野村 |
名山リスト | 関東百名山 |
二万五千図 | 両神山 |
登頂年月日 | 1983年5月22日 |
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三国山から北東に続いてきた上武国境稜線が東に向きを変える屈曲点に位置する1619メートル標高点峰が帳付山である。しかし、帳付山を埼玉県の山として紹介するのはいささか、いや、多分に気が引ける。この山はイメージとしても、また登山ルートから考えても99%西上州の山である。しかし、地理的には山の半分が埼玉県に属するのもまた事実である。
帳付山につく枕詞は「西上州の秘峰」である。秘峰とはおそらく次の三条件を満たす山であろう。 (1)その存在が世に広く知られていない山。 (2)登山道などなく、登るのにある程度の困難が伴う山。 (3)しかるべき山容を有する立派な山。 ただし、秘峰は秘峰として紹介された時点で秘峰でなくなる。帳付山もまた然りである。いまだ明確な登山道はないものの、最近は案内の類も多く、また関東百名山にも選ばれている。となれば、もはや上記(1)の条件を満たしていない。
1983年5月、一人で帳付山を目指した。ルートは、乙母集落から滝ノ沢を詰めて社壇乗越に達し、そこから馬道と呼ばれる峠道を辿り国境稜線上の馬道のコルに登り上げるものであった。滝ノ沢上部は踏み跡も定かでないが、前年天丸山へ登ったルートでもあり迷うこともなく社壇乗越に達した。馬道の上部は激しいスズタケの密叢となっていたが、何とか抜けて無事国境稜線まで登り上げた。しかしここから、稜線南側に続く道型に引き込まれ、どうしてもルートが発見できずいったんは登頂をあきらめた。しかし、強引に岩場を登って稜線に出てみると、帳付山に続くルートが発見できた。時間と競走しながら、厳しい岩稜を登り上げ、何とか山頂に達することができた。当時は、案内書の類もなく、ルートは自分で切り開くより仕方がなかった。 帳付山が一般ハイカーに初めて紹介されたのは、おそらく、1983年発行の山と渓谷社のガイドブック「最近ハイキング・北関東」であろう。このガイドブックを見たときは少なからずショックを受けた。せっかく苦労して登った秘峰が白日の下に晒された心境であった。このガイドブックを境に秘峰は秘峰ではなくなった。しかも、何を血迷ったのか、1993年発行の「関東百名山」にこの帳付山が選ばれているのである。帳付山は少しは世に知られるようになったといえども、いまだ整備された登山道もなく、知名度からしても決して有名な山とは云えない。この選定は他の99の山ともバランスを欠いており、あまりにも奇をてらった選定といわざるを得ない。選ぶならば、帳付山の手前の天丸山の方がはるかにふさわしい。 帳付山について語るとき、どうしてもその登山ルートとして利用されている馬道について触れざるを得ない。馬道とは不思議な道である。神流川流域の奥名郷集落から社壇乗越に達し、天丸山の西を巻いて上武国境稜線を越え、埼玉県側の広河原沢に下っている。道幅3メートルほどの明らかに意図的に開削された道で、馬道と呼ばれるだけに荷駄が通った道と思われる。ただし、すでに使われなくなって久しいため、国境稜線付近や埼玉県側は道型は確認できるものの、スズタケの密叢なっていて通行不能である。 この道は一体いつ頃、何のために開削され、そしてどこを目指していたのだろう。国境稜線を越えた向こう側、埼玉県側にある集落は中津川集落である。しかし、こんな小集落を目指したとは思えない。中津川のはるか下流・秩父盆地を目指したのだろうか。それもあり得ない。V字渓谷の続く中津川沿いには戦後まで岨道しかなかった。考え得る唯一の答えは、金山鉱山である。金山鉱山の採掘は遠く慶長年間に甲斐武田氏により金の採掘に始まったと云われている。そして、昭和12年に日窒工業がここで亜鉛・鉛の本格的採掘を始めてからこの鉱山は急速に発展した。昭和30年前後にはその最盛期を迎え、平地とてない中津川最源流の山奥に人口二千人以上の町が出現したのである。しかし、日窒工業は当初より採掘した鉱石は八丁峠を越えの索道で搬出していた。従って、この馬道が利用されたのはそれ以前、大正時代から昭和の初めであったのだろう。この馬道を利用し、馬の背によって採掘した鉱石の搬出や食料等の搬入がなされたと思われる。
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