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不動山(ふどうやま) 549.2m

 
所在地 埼玉県児玉町  長瀞町  
名山リスト なし
二万五千図 鬼石
登頂年月日 2000年11月26日   

 
 野上町郊外より望む不動山
 苔不動
 金石水管橋より望む不動山

 
 不動山は荒川水系と利根川水系との分水稜でもある荒川左岸稜上の山である。秩父鉄道野上駅前の薄い町並みの背後にゆったりした山容を見せている。不動山の山名の由来は、その山頂南側直下に「苔不動」と呼ばれる不動明王を祀った霊場がある事による。岩壁を背に不動明王像が安置され、周りに多くの卒塔婆が置かれている。麓の洞昌院の奥ノ院でもある。もちろん、洞昌院から苔不動に急な参道が通じているが、この道はかなり険しく、かつ、かなり荒れている。このため、現在では車道の通じる不動山の西の鞍部・不動峠から逆に山腹を下って苔不動への参拝するのが一般的なようである。不動峠から細い急な踏み跡を2分も下ると、苔不動に達することができる。角川 日本地名大辞典  埼玉県 には「かつて苔不動には多くの参拝人が訪れたこともあったが、今では信仰の対象としての存在が薄れている」と記載されている。しかし、見たところでは、いまだ祀りは絶えていない様子である。なお、洞昌院は「長瀞秋の七草寺」の一つで萩の寺として有名である。

 不動山は二万五千図に山名記載された三角点峰ではあるが、登る人は少ない。陣見山から不動山へ続く山稜は林道が縦横に走り登山ハイキングの価値を著しく損なっている。このため、不動山も山頂を極めるだけなら至って簡単である。車道の通過する不動峠からわずか10分も登ればよい。同じく車道の乗っ越す東の鞍部・間瀬峠からでも30分で山頂に達することができる。しかし、登りついた山頂は雑木とまばらな杉が生えた薮の中で、展望も一切ない。三角点と、消えかけた山頂標示がぽつんとあるだけで、いかにもつまらない頂である。

 間瀬峠から不動山を越えて南に縦走してみよう。間瀬峠は古来秩父地方と児玉地方を結ぶ重要な通路であった。しかし、今では峠越えの県道・長瀞児玉線と稜線直下を走る林道陣見山線との十字路となっている。通る車は少ないが、麓にある射撃練習場からひっきりなしに聞こえる銃の発射音は著しく耳障りである。峠の切り通しを垂らされたロープを頼りに登ると、山頂に続く細い踏み跡がある。幼い桧の植林と潅木の中の薮道を30分も登ると、まったくもって、やって来た甲斐のない山頂に達する。反対側に薮道を5分も下ると、間瀬峠から稜線の北側を巻きながら続いてきた林道に降り立つ。この地点が不動峠で、ガードレールの隙間から左側に苔不動への踏み跡が下っている。

 林道はここからは稜線上を走るので、もはやこの林道を歩く以外ない。通る車もない立派な舗装道路を10分も進むと、糠掃峠に達する。鞍部でもない平坦な尾根の一角で、消えかけた標示を見落とすと気がつかずに通り過ぎてしまいそうである。秩父側に消えかけた微かな踏み跡が下っているが、児玉側の踏み跡は確認できない。さらに林道を10分も辿り、421メートル峰を巻きに掛かる手前が「グミの木峠」である。ここも平坦な尾根の一角で、何の標示もないので場所を特定しにくい。樹林の中を探ると、児玉側に微かに踏み跡らしき気配が下っている。

 421メートル峰を左から巻いて稜線に戻ったところが、出牛峠である。鞍部でもない平坦な尾根の一角で、樹木に掛けられた小さな標示がないと通り過ぎてしまいそうである。ただし、峠道は両側ともしっかりした踏み跡として残されている。西へ下れば、明治期まで宿場として繁栄した出牛集落、東に下れば野上町である。この峠は、秩父盆地の北への出口として古来重要な峠であった。明治17年11月5日の昼下がり、約500名の武装した農民の一隊がこの峠を越えて児玉地方へと進軍していった。大野苗吉率いる秩父困民党の精鋭部隊であった。もはやこの峠道はハイカーが時々利用するだけである。しかし、所々薮に隠されているといえども、深くえぐれた道型は多くの旅人が踏み固めた跡を今にとどめている。

(2002年10月記)