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飛竜山(ひりゅうさん) 2077m

 
所在地 埼玉県大滝村  山梨県丹波山村
名山リスト 山梨百名山、関東百名山、関東百山
二万五千図 雲取山
登頂年月日 1964年10月3日  1993年5月4日

 
 雲取山より
   

 
 日本百名山の一つ雲取山はすばらしい展望を誇る山でもある。この山頂から西方を眺めると、まるで空を翔る竜のごとき山容の大きな山が目の前に横たわっている。この山こそ飛竜山である。まさに山容と山名が一致している。飛竜山という名称はこの山の南の肩に飛竜権現が祀られていることに由来する。飛竜山の名は山梨県側の呼び名である。埼玉県側では大洞山(おおぼらやま)と呼ぶ。この山が荒川の支流大洞川の源頭に位置することによる。国土地理院の地図では大洞山(飛竜山)と標示されているが、現在では、飛竜山の名前が一般的となっている。そしてこの飛竜山という名称こそこの山に相応しい。

 飛竜山は甲武国境、すなわち山梨県と埼玉県の県境上に位置する。しかし、歴史的に見てこの山は明らかに山梨県側との関係が濃厚である。飛竜山の名前の由来となった飛竜権現社は文明12年(1480年)、小菅遠江守信景によって祀られたものであるという。この社は甲斐国誌にも次のように記載されている。
 「飛龍権現社 慶安年中ノ鰐口、文明年中ノ棟札アリ別當寶蔵寺」
   別当である寶蔵時は甲斐の国都留郡丹波村の寺である。

 さらに、小林経雄著「甲斐の山山」には、次のように記載されている。
   「飛竜権現への参拝路は、丹波からサオラ峠に登り、このミサカ尾
    根をたどって前飛竜に達しており、明治時代初期まで、祭りには
    小菅・丹波の村人が大勢登ってきたといわれる」

 それに比べ、埼玉県側では、この山との繋がりを示すものは何もない。そして、この歴史的繋がりの当然の結果として、現在においても、埼玉県側からの登山道はない。この山に直接登る登山道は、前飛竜を超えて、ミサカ尾根を登る山梨県側からのルートが唯一のものである。
 
 この山への「登山としての」初登頂は明治15年3月に田部井重治と中村清太郎によってなされた。以下はその時の記録である。
   「出かけたのは七時頃であった。村を横切って約半里以上も登ると、
    大洞から東南に長くのびている尾根にとっつく。そこから尾根を
    次第次第に登っていく。霧がかかっているので、深林がそれだけ
    壮大に、夢のように浮かんで見える。途中、左の谷には大きなガ
    レがあって、そこを飛竜の神が焼いて登ったといわれる。やがて
    二里余り来た時分に一峰に登る。ここは前飛竜で、千九百三十九
    メートルである。そこから少し降り気味になって登ると、途中に
    石楠横手という石楠の多いところを通る。進んで国境の峰近く行
    くと、朽ちかかった飛竜権現の祠が立っている。それから先は残
    雪約四尺ばかり、時々落ち込んで股まで没するところをしばらく
    登ると、秩父境にたどりついて、さらに右に少しく折れると頂上
    に達する。ちょうど、時刻は正午なので、焚火をしながら昼飯を
    食う。」           

 もちろん、この登頂がこの山への文字通りの初登頂でないことは確かである。現在この山の頂をきわめる人は少ない。雲取山山頂を出発した奥秩父縦走路は、北天ノタルを過ぎると、この飛竜山の南面を巻くように付けられている。ちょうど飛竜権現社の前を通って蒋監峠へと向かう。従って、飛竜山の山頂に登るには、飛竜権現社から、登り20分の細い踏み跡をわざわざ往復しなければならない。そのため、せっかくその山頂直下に至っても、多くの登山者は山頂を踏むことなく通り過ぎてしまう。山頂は樹林の中で、わずかに南側に視界が開けている程度であり、わざわざ登る価値はないと判断されてしまうのかも知れない。もちろん、この山だけを対象に登る人は皆無に近い。

 私はこの山頂に二度登った。いずれも雲取山から奥秩父縦走の途中であった。最初に登ったのは昭和39年10月、ちょうど20歳の時であった。雲取山から金峰山までの奥秩父大縦走をめざした我々4人は2日目の昼近く飛竜権現社に達した。先を急ぐため山頂を割愛するつもりであったが、山頂に至る細い踏み跡を目にすると私は無性に山頂に登りたくなった。皆が小休止をしている間に走るようにして山頂を往復してきた。

 二度目に登ったのはそれから実に30年後の平成5年の5月であった。このとき49歳であった私は、中学1年の長男とテントを担ぎ雲取山から雁峠まで縦走した。北天ノタルを過ぎ、残雪の縦走路を重荷に苦しみながら懸命に登った。30年前の記憶では水平な巻道に思えたこの縦走路も、すさまじい急登に思え、いささか歳を感じざるを得なかった。あえぎあえぎ息子と会話した。
「お父さんはこの山に登るのは30年ぶりなんだ。昔はもっと早く歩けたんだけど」「それじゃぁまた30年経ったら今度は僕が連れてきてあげる」「30年経ったらお父さんはもうおじいさんで登れないよ」「大丈夫、その時は僕が荷物を担ぐから、そのかわりその時は僕の子供と3人だよ」。

 会話をしながら私は30年前の昔を思い、そしてまた、生きているとは思えない30年後を想像した。飛竜権現から、アイスバーンと化したシャクナゲの藪の中の細い踏み跡を息子と登った。山頂は原生林に囲まれ、わずかに開けた南方に富士の姿が望まれた。それは30年前の記憶とまったく異なるものであった。
(2002年6月記)