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日和田山(ひわだやま) | 305.1m |
所在地 | 埼玉県日高市 |
名山リスト | 関東百名山 日本の山1000 |
二万五千図 | 飯能 |
登頂年月日 | 1980年6月7日 1983年4月3日 |
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奥秩父の主脈から多くの支脈がアメーバ−のごとく武蔵野に向かって広がり、幾多の奥武蔵の山々を起こす。その支脈のひとつが、ついに武蔵野に没する直前、最後の高まりを示したのが日和田山である。従って、日和田山の前にはもう山はない。広々とした関東平野が海まで続いている。
日和田山の前面に広がるのは、古代朝鮮文化の香りを残す高麗の里である。そしてその中を高麗川が大きく蛇行しながら流れている。高麗川は奥武蔵の正丸峠付近に源を発し、この高麗の里において平野に出る。云うなれば、日和田山は高麗川とともに、高麗の里の原風景を作り出している。昭和30年、高麗村と高麗川村が合併して、日高町が誕生した。この「日高」という名前は、日和田山の「日」と高麗川の「高」をとって名付けられたと云う。それだけ、この山と川は高麗の里のシンボルなのである。日和田山は標高わずか305メートルの低山であるにもかかわらず、関東百名山にも選ばれている。 西武鉄道秩父線高麗駅を下りると、目の前に天下大将軍、地下女将軍と書かれた二本のトーテムポールが出迎える。いきなり、古代朝鮮の地に足を踏み入れたような錯覚さえ覚える。この高麗の里は、霊亀二年(西暦716年)、高句麗の王族若光に率いられた高句麗からの渡来人が入植したところとして知られている。日和田山の麓には若光を祀る神社とお寺がある。高麗神社は、若光が建立し、その死後は自らも祭神の一柱となっている由緒ある神社である。出世開運の神として、現在でも参拝者が多い。また、聖天院は若光を祀ったお寺であり、境内には若光の墓地がある。高麗の里は今でも濃厚に古代朝鮮の雰囲気を残している里なのである。 この里の真中を流れる高麗川は、大きく馬蹄型に蛇行して巾着田云われる美田を形成している。今ではよき川遊びの場所となっており、夏になれば、ちびっ子達が元気よく跳ね回っている。一時、この巾着田に貯水ダムを作るとの、とんでもない計画が持ち上がったが、反対の声が強く、何時しか聞かれなくなったのは幸いである。 日和田山は奥武蔵の山々の中でも最も前山となるわずか305メートルの低山であるので、武蔵のから眺めた場合、大空にスカイラインを引くことはない。「ひわだ」とは「檜の樹皮」を意味する。たぶん、日和田山の名前は、この「ひわだ」に由来するに違いない。高麗川の清流を利用して田を起こし、裏の日和田山で薪や檜の樹皮をとる。古代高麗の里ののどかな生活が目に浮かぶ。 日和田山は、山頂までどんなにゆっくり歩いても1時間も掛からない低山である。従って、子供連れの軽いハイキングに適している。高麗川の清流での川遊び、巾着田での野の花詰みと組合せ、春の一日ゆっくりと家族連れで過ごすのに向いている。これでは歩き足らない向きには、日和田山から稜線づたいに高指山、物見山と縦走すればよい。更に北向地蔵まで縦走し、鎌北湖や山上の桃源郷と云われるユガテ集落まで歩けば、一日掛かりである。高指山の手前には茶店などもあり、のんびりした低山歩きが楽しめる。 日和田山への登山コースは、途中男坂、女坂と分かれており、男坂を登れば、露岩などあり、軽い岩登りの雰囲気が味わえる。中腹の平地には金比羅神社が祀られている。山頂は、残念ながら樹木が茂り、展望に恵まれないが、登る途中からは、眼下に巾着田、その向こうに天覧山から多峰主山が眺められる。また、ハイキングコースからは外れるが、この山にはロッククライミングの練習場もあり、週末には、ザイルを肩にした若い男女でにぎわっている。 私はこの山に2度登った。いずれも、幼児を連れてのハイキングであった。最初に登ったのは、昭和55年6月、当時七歳の長女と、三歳の次女を連れてであった。女坂を登り山頂に達した。その後、高指山、物見山、北向地蔵と縦走し、ユガテを経て東吾野に下った。梅雨時特有の展望の利かない天気ではあったが、途中の沢では沢蟹を捕った。 2度目に登ったのは、それから3年後の昭和58年4月であった。このときは、6歳となった次女と、わずか2歳の長男を連れてであった。この山行きが、長男にとって初めての山行きであった。このときも女坂を登り山頂に達した。無理ならば巾着田に下って川遊びでもと思っていたが、まだまだ歩けそうなので、思い切って物見山から北向地蔵まで縦走した。ここから横手駅に下ったが、途中の山里は梅の花が満開であった。長男も最後まで一人で歩き通し、無事初陣を果たした。 この高麗の里を含む日和田山一帯が、何時までもよき自然を保ち続けることを祈らずにはいられない。 (2002年9月記) |