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陣見山(じんみやま) 531.0m

 
所在地 埼玉県児玉町 美里町 長瀞町  
名山リスト なし
二万五千図 寄居
登頂年月日 2000年11月26日 

 
 310メートル峰より
 陣見山の下りより
 310メートルの登りより

 
 寄居町から長瀞町に掛けての荒川中流域左岸に連なる山並みは秩父地方と児玉地方を分け隔てる山稜である。また荒川水系と利根川水系との分水稜でもある。500メートル前後の低い山並みで、二万五千図「寄居」「鬼石」を眺めると陣見山と不動山の二つの山名が記載されている。また、この山稜は秩父地方の北の出口となるため多くの峠が存在する。現在、山稜は車道が縦横に走り、もはや登山ハイキング対象とはなりにくいが、それでも稜線上には車道の隙間を縫ってハイキングコースが開かれている。

 陣見山はこの山稜の下流部に位置する531.0メートルの三角点峰である。山名の由来は「天正18年、上杉謙信、武田信玄の合戦のさなか、武田軍勢の物見の兵が、この山頂より敵方陣地の児玉雉ヶ岡城を見下ろしたことによる」(角川日本地名大辞典)とある。雑木に囲まれた狭い山頂は鉄条網に囲まれたテレビ埼玉児玉中継所の建物と電波塔が占領しており何の風情も無い。従って、この山自体は登山対象としての価値は低い。ただし、その前後の山稜はすばらしい。

 秩父鉄道波久礼駅で降り、カンポの大きな建物の脇から山稜の最末端に取り付く。小さな祠のある190.7メートル三角点峰を越え、さらに小峰をいくつか越えて鞍部に下ると右側の円良田湖から立派なハイキングコースが登ってきている。急登を経ると337メートル標高点ピークにつく。四阿が建ち展望が大きく開けている。ここに戦国の昔、虎ヶ岡城という山城があった。現在でも稜線を切り割った堀切の跡が見られる。ホームページ・秩父郡内の城館(http://www.chichibu.ne.jp/~keig/)には次のように記されている。
  
  虎ヶ岡城も鉢形城の出城の一つで、天正18年の豊臣勢による鉢形城攻撃
      の時には、氏邦の家臣で矢那瀬大学が約100人の兵でこの城を守った。こ
  の城の役目として、埼玉県大里郡美里方面からの兵糧を、この城から鉢
  形城へ運ぶ役目を果していたと言われています。その事を知った豊臣勢
  の真田昌幸は、この城を攻め落としたと言う事です。その時この城を守
  っていた矢那瀬大学は落ち延びて、城下の矢那瀬に住み、名前を野原と
  改めたと言われています。

 さらに樹林の中の稜線を辿り、2〜3ピークを越えると大槻峠である。樹林の中で展望はいっさいないが、二つの石碑が残されている。ひとつは安永9年銘で「馬頭観世音」と刻まれており、もう一つは寛文9年銘で「如意輪観世音」と刻まれている。古の峠の賑わいが忍ばれる。さらに368.4メートル三角点峰を越え、車道を横切り、急登を経ると陣見山山頂である。前記の通り、腰を下ろす価値もない場所である。

 陣見山山頂から北側に5分ほど下った場所に「岩谷洞奥の院」がある。児玉町の史跡にも指定されている霊場で、小さな洞窟の中に仏像が安置されている。時間があれば寄ってみるのもよいであろう。

 陣見山山頂から先の尾根道がこの山稜縦走のハイライトである。うねる稜線上は小楢、クヌギ等の気持ちのよい落葉広葉樹の林で、まさに北秩父の低山のすばらしさが凝縮されている。冬枯れの雑木林、新緑の雑木林、紅葉の雑木林。木の間隠れに秩父盆地が見渡せる。いったん車道を横切り、緩やかなピークを二つほど越えると榎峠に達する。山稜直下を巻いてきた車道が通過しているが、小さな石の祠と「馬頭尊」と刻まれた天保2年8月銘の石碑が残されている。この峠も大月峠同様、昔は馬が越えたのだろう。

 榎木峠から先、間瀬峠までは稜線北側を巻く車道を行くのが近いが、稜線に沿って開削されている地道の荒れた林道を登ると310メートル峰に達する。山頂は広々とした茅との原で、ハンググライダーの飛び台となっている。実に展望がよく、眼下には荒川がゆったりと流れ、辿ってきた稜線の先には陣見山のゆったりとした山容を望むことができる。ひと休みするには絶好の場所である。

 そのまま荒れた林道を30〜40分辿れば、遠回りとはなるが間瀬峠に達する。昔はこの山稜を越える主要な峠であったが、今は立派な県道・長瀞児玉線が乗越ている。それでもうれしいことに、道路端には「庚申塔」と刻まれた文政11年3月銘の石碑と「馬頭観世音」と刻まれた天保2年3月銘の石碑が残されている。

 ここまでがほぼ一日コースである。ただし、足に自信があればさらに不動山に向かって縦走を続けることも可能である。
(2002年7月記)