2
城峯山(じょうみねさん) 1037.7m

 
所在地 神泉村 皆野町 吉田町
名山リスト 関東百名山 関東百山 日本の山1000
二万五千図 鬼石
登頂年月日 1980年11月2日  2001年2月11日  2002年4月14日

 
長久保ノ頭より
宝登山より
城峯神社奥社

 
 埼玉県の名山を語るとき、両神山の次にはこの山を語らなければならない。日本武尊や平将門にまつわる伝説。日本近代史上に重く名を残す秩父事件の舞台。周囲の山群から抜きでる鈍角的な大きな山容。山頂からの大展望。そして一等三角点の山でもある。名山の風格は十分である。日本百名山は無理にしても三百名山には選ばれても不思議のない山である。さざ波のごとく低く連なる北秩父の山並みの中にあってはひときわ大きく聳える山である。しかし、この名山も、山頂直下を林道が通過し、山頂にはひときわ大きな電波塔が建てられてしまった。その気になれば、車で行ってわずか10分で山頂に立てる。まことに残念なことである。 

 城峯山を語るとき、まずはこの事件から語り始めなければならない。明治17年11月1日の夜明け前の深夜、城峯山中より発せられた数発の銃声が谷々に点在する集落に響き渡った。予定通りの蜂起を告げる銃声であった。武装した農民たちは霜柱を踏んで続々と集合場所の下吉田の椋神社へと向かった。全国を震撼させた秩父事件の勃発である。秩父事件は日本の資本主義勃興期にその犠牲となった山村の貧しい人々が自由民権思想で武装して起こした革命的争乱である。城峯山の山懐に点在する集落が主役であった。しかし、革命の夢は数日で破れる。以降100年余、激しい弾圧と世間の冷たい目の中で、人々はひっそりと暮らしてきた。城峯山を囲む谷筋を歩いてみると、驚くほど上部まで、びっくりするほどの急斜面に家々がへばりついている。この山奥の小集落に暮らす人々にあれほどのエネルギーと思想性があったことはただただ驚きである。

 秩父事件をさかのぼることおよそ千年前にもこの山の一帯で大きな争乱があった気配がある。城峯山一帯に色濃く残る平将門伝説である。新編武蔵風土記稿では将門の弟が籠もったと書かれているが、伝説では将門本人が、この城峯山に籠もり、追討軍と最後の決戦をしたが、愛娼桔梗姫の裏切りにより最期を遂げたとも、愛娼桔梗姫がこの地に逃れてきたが、将門の敗死を知って自ら命を断ったとも伝えている。このため、城峯山中では現在でも桔梗の花は咲かないという。周辺には、門平、館跡、将門馬場、隠れ穴等、の地名も多い。

 城峯山の山頂直下に城峯山神社が鎮座している。こんな山中にこれほどのと驚くほど立派な社殿である。社殿正面には「将門」と大書きされた扁額が掲げられている。驚くことに、この城峯神社は平将門をも祀っているのである。将門は日本歴史上に残る有数の反逆者である。中央政府に反逆して関東一円を独立王国とする。将門を支持したのは中央貴族の搾取に苦しむ荘園主・独立農民たちである。おそらく、この城峯山に戦いに敗れた将門軍の一部が逃げ込んだのだろう。将門の弟と名乗ったのかも知れない。そしておそらく、この山村の人々は将門軍をかばったのであろう。

 城峰山の最大のセールスポイントは展望である。この山頂からは、奥秩父主峰、上州三山は勿論、上越国境の山々、八ヶ岳連峰、そして南アルプスさえ遠く望める。新編武蔵風土記稿秩父郡石間村の項をひもといてみると、2頁にわたって山頂からの展望図が載っている。左から煙を吐く浅間山、妙義山(図では妙儀山)、榛名山、榛名富士(図ではハルナ富士)、日光山(日光連山のことか)が描かれているが、目の前にそびえているはずの赤城山が描かれていないのがご愛嬌である。また本文の記載はは次のようになっている。
 「城峰山 村の西北の間にあり、登ること凡一里餘、此山土人城山と唱へ、将門の
  弟御厨三郎将平の城趾なりと云、絶巓に泰平社・春日社・天狗社あり、此山上よ
  り上州邊を眺望するに、妙義山・榛名山及び利根川・烏川・神流川等の景趣いと
  し、圖上の如し」
如何にも展望と伝説の山城峰山らしい扱われ方である。
 

 2001年2月、秩父事件縁の地である廃村・粟野からバリエィションコースを辿り、一人城峯山頂を目指した。太股までの深雪をラッセルしながらたどり着いた山頂には多くの登山者の姿があった。夏には車の騒音の響く山頂も、雪がすべての人工物を無用の長物と化す冬季ともなれば、アイゼンやかんじきを装備した登山者が続々とこの山を目指す。故郷の岳人は決してこの山を見捨てていない。山頂には以前の木の櫓に代わり、巨大な電波塔が建てられていた。その中段まで登れると、目の前に両神山が岩肌鋭くそびえ立ち、その背後には奥秩父の主稜線が壁のごとく連なっていた。そしてまた、秩父盆地の背後には秩父の象徴・武甲山の姿をはっきり望むことができた。

 城峯山には人を寄せ付けないような厳しさはない。女性的な暖かい山である。人々の生活のにおいがする山である。大きな里山といってもよいだろう。この山は紛れもなく名峰である。
(2001年12月記)(2002年10月追記)
 

 城峯山山頂直下に立派な社殿を誇る城峯神社は、麓の神泉村矢納集落に鎮座する城峯神社の奥社であると、あらゆる書物に書かれている。しかし、2003年12月矢納集落の城峯神社に詣で多くの疑問を感じた(神山登山記録参照)。いろいろ調べた結果、このことはとんでもない間違いであることが判明した。城峯山中の城峯神社は何と!  元々は東京神田の神田明神の奥社であった。神田明神も平将門を祀る神社として有名である。なぜ、このような間違いが起っているのか。同じ城峯神社の名前に引きずられたためだろうか。
 (2004年2月追記)