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釜伏山(かまふせやま) 582m

 
所在地 埼玉県寄居町  
名山リスト なし
二万五千図 寄居
登頂年月日 2002年1月13日   

 
日本水
  秩父鉄道の車窓より
 

 
 釜伏山は比企三山の一つ・大霧山から北へ伸びる長大な尾根上の一峰である。山と云うより実体は稜線上の小さなコブなのだが、このコブは実によく目立つ。まさに名前の通り釜を伏せたような半球状の山容である。この地域に伝わるダイダラボッチ伝説によると、粥新田峠で粥を煮たダイダラボッチがその釜を伏せたところと云われる。尾根全体は牧場の広がるゆったりした地形なのだが、この釜伏山だけが岩肌むき出しの岩峰となっている。登山道は、鎖、手摺りの連続する厳しい岩場で少々びっくりする。山頂には釜山神社の奥の院となる小さな祠が樹林の中に鎮座している。山頂のはずれの岩場からは好展望も得られる。

 釜伏山自体は登山対象として注目される存在ではないのだが、その山腹や周辺には、牧場やら、観光ミカン園やら、名水やら、数々の観光資源がある。また車道も縦横に走しっている。このため、この山はハイキング案内や観光案内にしばしば登場する。

 南の鞍部が秩父往還の越えていた釜伏峠である。現在は車道が越えてしまっているが、林の中に一里塚跡が残されていて、往時をしのぶことができる。秩父往還は熊谷から荒川に沿って秩父に至り、さらに栃本から雁坂峠を越えて甲州に抜ける街道で、甲州街道の裏街道として重要な地位を占めていた。ほぼ現在の国道140号線と同じ道筋である。ただし、釜伏山からさらに北に伸びる尾根が荒川とぶつかる辺りは渓谷となり、川筋の通過が困難であったため、この釜伏峠で山越えが行われていた。国道140号線もこの地点が交通のネックであったため、2001年、この釜伏峠の下を貫いて、寄居皆野バイパスが開通した。言うなれば、現在の釜伏峠である。峠の前には山犬を眷属とする釜山神社が立派な社殿を誇っている。この社殿の裏側から釜伏山への登山道が通じている。また峠を挟んだ反対側には登谷牧場が広がっている。

 釜伏山から険しい岩道を東に10分も下ると、日本百名水の一つ日本水(やまとみず)に達する。数10メートルの大絶壁の下から水がこんこんと湧き出している。昔、ここを通りかかった日本武尊が喉の渇きを覚え、岩肌に剣を振るうと、この泉が湧きだしたとの伝説が残る。いかなる日照りの時でも、絶えることはないという。口に含んでみると、一切の味や匂いのない純粋なミズの味である。大きなポリタンを下げ、水をくみに来る人の列が絶えない。

 釜伏山の北の鞍部が塞ノ神峠である。南から続いてきた稜線上の車道もこの地点で左・長瀞、右・寄居へと下っていく。ただし、車道の交差点と化した峠の片隅に、塞ノ神を祀った石碑が注連縄に囲まれて残されている。この峠の山腹東側に広がる風布集落はミカンの北限の産地として有名である。多くの観光農園があり、秋にはミカン狩りの家族連れで賑わう。この平和な山村風景からは100余年前の壮絶な出来事はもはや伺い知れない。

 塞ノ神峠の左右稜線近くに七つの小集落が点在する。左、すなわち西側の集落は大鉢形、阿弥陀ヶ谷、蕪木、植平。右、すなわち東側に風布、扇沢、釜伏。現在は西側の集落は長瀞町に、東側の集落は寄居町に属しているが、明治期にはこの7集落で風布村を構成していた。明治17年10月末、この峠付近は緊張の極にあった。多くの巡査、密偵が目を光らせ、その目を盗んで困民党のオルグが激しく行き来する。そしてついに10月31日、蜂起を告げる最初の鬨の声はこの風布村で上がった。秩父困民党事件の勃発である。武装した農民たちは続々と夜を徹して集合場所の下吉田椋神社へと向かった。

 明治17年11月1日に下吉田椋神社で蜂起した秩父困民党事件の主たる震源地は北秩父、城峯山中の村々である。しかし、この震源地から遠く離れた風布村が全村を上げてこの蜂起に参加する。しかも、困民軍の最精鋭部隊を担うのである。蜂起失敗が濃厚となり、革命本部も崩壊する中、風布村大鉢形の人・大野苗吉の率いる約500の軍勢は敢然として出牛峠を越えて児玉地方へと進軍する。しかし、11月4日深夜、児玉町郊外金屋村において陸軍東京鎮台兵と激戦、壊滅する。苗吉は先頭に立って「進め、進め」と部隊を鼓舞し続けたという。彼はこの戦いで戦死する。22歳であった。塞ノ神峠から昔の峠道を10分も下ると、大鉢形集落に達する。わずか3〜4軒の民家が急な斜面にへばりついている。

 2002年1月、一人で大霧山から稜線を北へ辿った。釜伏山を経て日本水で喉を潤し、塞ノ神峠から大鉢形集落を経て長瀞に下った。稜線の車道歩きが大半を占める不満はあったが、左側には常に、埼玉の名峰・両神山と城峯山が見え続けていた。千数百年の日本武尊東征の時代を思い、100余年前の農民の熱い息吹を感じながら、いささか感傷的な山旅であった。

(2002年10月記)