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神山(かみやま) 732.0m

 
所在地 埼玉県神泉村      
名山リスト なし
二万五千図 鬼石
登頂年月日 2002年12月23日     

 
 神山(城峯公園より)
 城峯神社
 

 
 二万五千図「鬼石」を眺めると、群馬県との県境となる神流川右岸に「神山」と記載された732メートル三角点峰が目に留まる。神泉村矢納地区の背後に聳える山である。ただし、地図には山頂に至る登山道の記載はない。また、この山に関する登山記録・案内の類いは目にしたことがない。試しに、インターネットで索引してみても、この山に関する情報はなにもない。すなわち、この山は現在においては、まったく登山・ハイキングの対象外であり、また何の話題にもならない低山である。
 ところが調べてみると、この山は古代においてはとんでもない名山であった気配がある。しかも、その名山たる歴史・謂れ、おまけに山名まで、どうやら隣りの城峯山に乗っ取られてしまった気配である。

 神山の東の麓に城峯神社という社がある。行ってみると、何の変哲もない山村のありふれた神社である。この神社の由緒書きには次のように書かれている。

   人皇第12代景行天皇の41年皇子日本武尊東夷御征討の御帰路この里に至り給い
   当山に霊祀を設け遥に大和畝傍山の皇宗神武天皇の御陵を拝し東夷平定の由を奉告
   し給い且つ躬ら矢を納めて大山祇の命を祭りて一山の守神と崇め給う是れ即ち当山
   の起源にして当村矢納の地名も此の古事に縁由せり、天慶3年平将門の弟将平矢納
   城を築きて謀叛せり時に藤原秀郷朝命奉じて討伐に向かい当山祭神に賊徒平定を祈
   願し乱治って後厚く祭祀を行い城峯の社号を附せり、天録2年本殿を建つ、

 一方、神山の南に北秩父の名峰・城峯山がある。その山頂直下には城峯山神社がある。幾つかの書物に当たってみると、この「神山、城峯神社」と「城峯山、城峯山神社」がごっちゃになり、混乱している。如何に両者が混乱しているかの一例として、「角川日本地名大辞典 埼玉県」の記載を見てみる。

   城峯山の項ーーー山頂直下に城峯神社奥社がある。

   城峯神社の項ーー児玉郡神泉村矢納に鎮座。祭神、大山祗命・日本武尊。
           景行天皇の41年、 日本武尊東征のおり、この山の非凡な
           るを見て登り、自ら山嶺に矢を納めて大山祗命を祭り、
           はるかに大和国の畝傍山にある神武天皇陵を拝し て賊徒
           平定奉告したという。尊が矢を納めたので矢奈布(やなふ)
           と呼び、のちに矢納に改めたといわれる。また尊は高峯の
           頂に祭りのにわ(霊畤れいし)を設け加美屋満と名付けたが、
           これが現在の矢納字神山であるとい う。承平2年平将門の
           弟が当山に矢納城を築いて反旗をひるがえした時、藤原秀
           郷は勅命を奉じて討伐に向い、賊徒平定を祈願し、乱が治
           まって後、厚く祭祀を行い、「城峯」の社号を付し、山頂
           に城峰奥宮を創立した。

   吉田町の項ーーー城峯山には平将門あるいは弟将平が落ち延びて城を構えた
           という伝説があり、山頂部平坦地がその跡と伝えられてい
           る。山名はもと城山(じょうやま)である。城山の城峯神社は
           やはり将門にゆかりある東京神田明神社の奥宮で、神田祭
           には城峯社神官が出張して神田明神社を開扉した慣例があ
           る(社伝)という。

   神泉村の項ーーー上武山地の主峰である城峯山の山頂近くには矢納の城峯神
           社の奥社があり、平将門かくれていたという洞窟があって、
           将門最後の地と伝えている。

 同一辞典においてでさえ、記載場所により内容が異なっている。矛盾点を整理すると次の通りである。

 1、城峯山山頂直下にある城峯山神社は、神山の麓にある城峯神社の奥社なのか?
   答えは否である。従って、「城峯山の項」及び「神泉村の項」は間違いである。
   「吉田町の項」が正しい。神山の城峯神社は藤原秀郷縁の神社であり、城峯山
   の城峯山神社は平将門を祭った神田明神縁の神社である。いわば敵対関係にあ
   る神社である。間違えるにもほどがあるといわざるを得ない。城峯神社の奥社
   は神山山頂にちゃんと鎮座している。

 2、平将門あるいは弟の将平が山頂に城を構えたといわれる山は神山なのか城峯山なのか?
   神山と思われる。従って「城峯神社の項」が正しく、「吉田町の項」は間違いと思わ
   れる。平将門もしくは将平が城を構えたというのは史実ではないが、神山山頂は平坦
   地で、城があったとしてもおかしくない地形である。また、古代より信州と武蔵を結
   ぶ重要なルートであった神流川沿いの街道を見下ろす戦略地点にあり、実際に中世に
   は城があったのではないかと思える。
   一方、城峯山頂は狭く、城が築かれたような地形とはなっていない。
   
 以上の通り、「城峯山、城峯山神社」の謂れや伝説とされている多くは、元々「神山、城峯神社」のものであった気配が濃厚である。そもそも、「城峯山」という山名そのものが、本来、神山の山名であったと思える。現在の城峯山の本来の山名は、武蔵通志山岳編に書かれている「安房(あふさ)山」であったと思われる。神山はその山名から伝説に到るまで全てを城峯山に奪われてしまったようである。そしていまやまったく忘れられた山となってしまった。

 2002年12月、以上の経緯は何も知らず、登山ルートさえ不明のまま、この山に向った。地図に記載されている城峯神社まで行けば、山頂に至るルートが見いだせるだろうとの思いであった。期待通り、神社の裏手から山頂に続く踏跡があった。20〜30センチの積雪をついて、30分も登ると山頂に着いた。山頂は鬱蒼とした杉檜林の平坦地で、板囲いされた奥宮が鎮座していた。もちろん人の気配はなく、雪上には兎の足跡のみ続いていた。

 このときまで、城峯山中の城峯山神社はこの城峯神社の奥社と思っていたが、神社の由緒書きを見て、これはおかしいぞと初めて気がついた。それにしても、神山は「我こそが城峯山である」となぜ主張しないのだろう。
        (2005年8月記)