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甲武信ヶ岳(こぶしがだけ) 2475m

 
所在地 埼玉県大滝村 長野県川上村 山梨県三富村
名山リスト 日本百名山 関東百名山 関東百山 山梨百名山 日本の山1000
二万五千図 金峰山
登頂年月日 1964.10.5  1971.1.1  

 
城峯山南尾根より
赤岩岳より
雲取山山頂より

 
 そろそろ 甲武信ヶ岳を取り上げなければならないだろう。いやしくも、天下の日本百名山である。武州、甲州、信州三国の境にあり、この山の頂に落ちた雨水の一滴は、あるものは荒川から東京湾に、あるものは富士川から駿河湾に、そしてあるものは信濃川から日本海に流れると云う空想的ロマン。さらに、奥秩父主稜線と十文字峠に続く山稜とのジャンクションピーク。深田久弥はこの山を奥秩父の臍と呼んだ。今では名山の誉れが高い。しかし、この山は本当にそれほどの名山なのだろうか。私にはある種の気まぐれとある偶然がこの山を名山にしたように思えて仕方がない。まずは、今から甲武信ヶ岳の悪口を書く。
 
 そもそも、甲武信ケ岳は独立した一個の山であるかどうかさえ疑問なのである。もし山頂標示がなければ、奥秩父主稜線を縦走する多くの登山者は、縦走路上の一つの平凡な瘤としてこの山の頂を通り過ぎてしまうにちがいない。そのはずである。付近の山から眺めればよくわかるが、甲武信ヶ岳は自分自身の固有山体を持っていない。甲武信ヶ岳、三宝山、木賊山の三山の山体は共通である。言うなれば、この三山は三つのピークを持つ一つの山といえる。このことは「山」としての甲武信ヶ岳にとって致命的欠点である。しかも、この三つのピークの中で甲武信ヶ岳が最高峰であるわけでもない。極論すれば、甲武信ヶ岳とは山名ではなく、採るに足らない瘤のようなピーク名に過ぎないのである。

 次にその山名(ピーク名)である。この山の山名詮索については、木暮理太郎の「山の想い出」を始めてして種々なされている。それによると、江戸時代までは、現在の木賊山、甲武信ヶ岳、三宝山の三山共通の山体となる山は漠然と「三方山」とか「国師岳」と呼ばれていたようである。「拳岳」との名称があったとも言われている。新編武蔵風土記稿にも「國師嶽 御林山の内に聳て、栃本より西にあたり、五里餘にあり、(秩父郡之十九)」と記載されている。ここで云う國師嶽が、三山共通山体の山であると思われる。「甲武信ケ岳」の名称は古文書の類には一切登場しない。

 明治になり、陸地測量隊によって地図に記載するため全国の山々の山名確認作業が行われた。この際混乱が生じた。彼らは三方山(國師嶽)上の一つ一つのピークを一つの「山」と認定し、各々のピークに山名を与えようとした。名もないピークの山名を認定しようとするのであるから当然無茶なことをした。また、混乱もあったようである。「三方山」の名称は三宝山として2483.3メートルピークに与えられた。「國師嶽」の名称は遙か離れた甲信国境の2591.8メートル峰に与えられた。そして、三国国境の2475メートルピークには甲武信ヶ岳という新たな名前を作りだした。一説によると、コクシをコブシと聞き間違えたためともいわれる。三方山(國師嶽)上の名もないピークが、ある日突然甲武信ヶ岳として公式地図に記載されたのである。このことがこの2475メートルピークに大いなる幸せをもたらした。「山」として認定してくれただけでなく、すばらしい名前を与えてくれたのである。「コブシ」という歯切れの良い発音、「甲武信ヶ岳」という一度見れば忘れない表記。甲武信ヶ岳は明治の測量官に最大限の感謝をしなければならない。
 
 以上、甲武信ヶ岳の悪口を書いた。これだけ悪口を言われても、甲武信ヶ岳はびくともしないだろう。相変わらず日本を代表する名山として平然とそびえたっている。「地位が人を作る」と言う諺がある。甲武信ヶ岳はまさに日本百名山という地位を与えられたことにより、いつしか名山の貫録が備わったようある。奥秩父主稜線を縦走する者は、雲取山からであろうと、又金峰山からであろうと、みな甲武信ヶ岳を目指す。どういう訳だか、無意識にこの山を目指してひたすら歩いてくる。そして、この山頂に到着しほっとするのである。そして同時に、少々がっかりもする。不思議な山である。

 私がこの山に初めて登ったのは、今から38年も前の昭和39年10月であった。我々4人パーティは三峰山を出発し、雲取小屋、将監小屋、雁坂小屋、と山旅を続け、4日目のお昼前に甲武信ヶ岳山頂に達した。やはり、この山を目指して、ひたすら歩いてきたのであった。このときの山日記にはこう記されている。
 「全員快調で十時には甲武信小屋着。長駆、大弛小屋まで行くこととする。小屋よりひと登りで甲武信ヶ岳山頂。埼玉県一の高峰にしては、物足りない山頂で、がっかりする」
 
 二度目に登ったのは昭和46年の正月元旦であった。前日、大晦日の晩、十文字小屋で小屋の親父と宿泊者一同で夜半過ぎまで酒盛りとなり、この日の出発は10時過ぎ。甲武信ヶ岳山頂には夕闇迫る頃到着した。晴天であったが寒さが厳しく、逃げるように甲武信小屋へと一気に下った。
 
 甲武信ヶ岳は、武蔵野からよく見える。現在住んでいる鴻巣市からも、また以前住んでいた大宮市からもよく見えた。最初、まさか甲武信ヶ岳が見えるとは思わなかった。木賊山、三宝山と並んだ三瘤の山を三峰山から雲取山辺りの山と思っていたため同定するのにひどく苦労した。この山が甲武信ヶ岳と知ったときは飛び上がるほど嬉しかった。奥秩父主稜線上の奥深い山と思っていたが、以外に近い山なのである。
(2002年1月記)