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南天山(なんてんさん) 1483m

 
所在地 埼玉県大滝村  
名山リスト 日本の山1000
二万五千図 両神山
登頂年月日 1982年4月25日 2000年5月27日  

 
 両神山ミヨシ岩より
 赤岩岳より
 

 
 南天山は埼玉県最奥の村落である中津川集落の背後に険悪な岩肌を随所に見せながら聳え立っている。上武国境稜線より中津川とその支流・広河原沢の分水稜となって西に張り出した支稜上の一峰であり、北に聳える両神山とは広河原沢を挟んで対峙している。両神山系の山に違わずその山体は岩と薮に包まれ、特に、北面はいくつもの雄大な岩壁で武装している。南天山の山名は、おそらく、両神山から眺めて南の空にそびえ立つが故の命名であろう。それだけ存在感のある山であることは確かである。

 南天山は今では南面の鎌倉沢沿いに登山道が開かれ、案内の類も多い。しかし、この山は今から20年も前には、間違いなく埼玉県に残された最後の秘峰であった。登山道もなく、また、登ったという記録さえも見つけえなかったのであるから。私のこの山への初登頂はこのような状況の中でなされた。それだけに、私にとって特別に思い出深い山である。

 1982年当時、この山が気になった。二万五千図に山名記載があるにもかかわらず、登山情報が何もないのである。意地になって調べてみたがわからない。西上州から両神山系をホームグランドする二木久夫さんや、佐藤節さんの著書を調べてみても、不思議にこの山だけは登山記録がない。思いあまって、大滝村役場に返信用切手を添えて登山ルートを問い合わせてみた。返事はすぐ来たが、その内容を読んでいささか頭に来た。何と! 「登山道もなく危険ですので登らないで下さい。これ以上のことは営林署に問い合わせてほしい」である。当時私も若かった。こうなれば意地でも登ってやると決意を固めた。
 
 登山ルートにあては全くなかったが、まずは偵察と1982年4月、地図一枚を頼りに車で出かけていった。地図を読めば、登山ルートが得られるとするなら比較的なだらかな南面であることは一目なのだが、どういうつもりだったか、このときは北面に入り込んだ。広河原沢左岸沿いの山吹林道は入り口には鎖が掛けられており、徒歩にて林道を奥へ進んだ。見上げる南天山北面は予想通りすさまじい絶壁をもって広河原沢に雪崩降りており、とても登山ルートはありそうもなかった。ところが、20分ほど奥に進むと、広河原沢に丸木橋が架けられ、上部に向かう一筋の踏み跡を見つけた。登山ルート発見と、勇んでこの踏み跡をたどる。

 激しい急登ではあるが踏み跡はしっかりしていた。しかし、40分も登ると小屋掛けがあり、そこで踏み跡は絶えた。カール状に大きく開けたところで、上部に続く急斜面は茅との密叢となっているとても歩けない。上空には稜線がはっきり見えている。ここまで来て引き返すわけにはいかない。左手の潅木の薮に逃げ、ひたすら上部に向かう。何とか歩けるが、タラノ木のやたらと多い薮であった。薮を抜けると、稜線までゴーロの急斜面が続いていた。岩雪崩の危険を感じて、右手の支稜に逃げる。ついに稜線に這い上がった。位置は南天山とその一つ東隣のピークとの鞍部であった。稜線は岩稜となっていたが、大規模な山火事があったと見え、薮もなく丸裸で歩くのに支障はなかった。焼けこげた大木の根が至る所に転がっていた。

 小さな岩峰となっている山頂に達した。ついに登山記録さえない山に自らルートを切り開いて登ったとの思いが強かった。冗談で人類初登頂ではないかと自分に語りかけたのだが、山頂には一升瓶が転がっていて思わず苦笑してしまった。360度の大展望であったが、春霞が濃く、両神山がうっすらと霞んでいた。登頂の喜びは大きかったが、それにも増して下山の不安が大きかった。登ってきたルートを下ることは、とても不可能であり、新たに下山路を切り開く必要があった。西・上武国境に続く稜線を見通すと、広河原沢に下る顕著な支尾根が見えた。不安はあるが、その支尾根にルートをとるしかないと判断した。山火事あとの稜線は裸で、支尾根分岐まで辿るのは容易であった。支尾根もまた裸であった。下部に達すると微かな踏み跡も現れ、無事山吹林道に下り着くことができた。

 それから18年経った2000年5月、図らずも再び南天山に登ることになった。有名な山岳会のメンバーであるT氏から、18年前に私が見つけた南天山のタラの木の林に案内せよとのご下命が下った。同山岳会のベテラン会員H氏も同行するという。タラの芽採取道具一式を携えて山吹林道に集合した。しかし、林道をしばし行き来するも昔の取り付き点がどうしても見つからない。ついにギブアップである。「この辺から取り付きましょう」とH氏は広河原沢に流入する急な空沢を無造作に登り出す。以降、沢を辿ったり尾根に逃げたり、H氏のルートファインデイングは神業的であった。しかし、記憶に残る場所はまったく現れず、おまけにタラの木も一本も現れずに稜線に登り上げてしまった。18年前丸裸であった稜線付近はすっかり緑が回復しており、長い年月の経過が実感された。それでも、所々に黒こげの根っこが転がり、微かに昔日が忍ばれた。

 たどり着いた山頂は無人ではあったが、山頂標示が設置され、鎌倉沢から道標完備の立派な登山道が登ってきていた。18年前の秘峰も今では普通の山となってしまったかと、少々がっかりした。帰路は私の下った支尾根にルートを採ることにした。しかし、支尾根分岐地点は樹木が繁茂し、H氏はたやすく特定したが、私一人では探し当てるのもかなりの困難と思われるほど変貌していた。昔丸裸であった支稜も潅木が生い茂り、獣道ともつかない微かな踏み跡の気配が切れ切れにあるだけであった。3人で「18年前の私の踏み跡の痕跡だ」と冗談を言いながら下った。

 いつの日か、南天山から上武国境稜線上の帳付山まで縦走してみたいとの野望があるが、果たしてその日は来るであろうか。

(2002年9月記)