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越上山(おがみやま) 566.5m

 
所在地 埼玉県飯能市  越生町  
名山リスト なし
二万五千図 越生
登頂年月日 1981年5月4日   

 
     

 
 大野峠、刈場坂峠、ブナ峠、飯盛峠、傘杉峠、顔振峠、一本杉峠、北向地蔵と続く稜線は、奥武蔵の最前線となる山々である。武蔵野から奥武蔵を眺めると、この稜線が一番前に陣取っている。起伏の少ない平坦な稜線である。かつては、気持のよい多くのハイキングコースを提供してくれていたこの稜線も奥武蔵グリーンラインと名付けられた観光自動車道が稜線沿いに建設されてしまい、ハイキングコースはずたずたにされてしまっている。まったくもって取り返しのつかないことをしてしまったものである。越上山はこの奥武蔵最前線の稜線上に位置する。ただし、主稜線よりほんのわずか北側に外れているため、その山頂を自動車道路に明け渡すことだけは免れた。

 この越上山付近はリュックザックを背負ったハイカーやマイカーで来る行楽客で四季を通じにぎやかである。マイカー族は宮沢湖、黒山三滝、越生梅林などの観光地と結んで稜線観光道路をドライブ。ハイカーには山上の桃源郷とうたわれるユガテ集落と結んでぶコースなどが根強い人気をはくしている。ただし、越上山山頂は、登山道からもほんの少しではあるがはずれており、また樹木に囲まれ展望もないため、多くのハイカーは山頂に立ち寄ることもなく肩の部分を通りすぎてしまう。このため越上山はハイキングエリアのど真中にありながら、ハイカーに無視されると云う不思議な山となっている。その山頂は周囲の喧噪をよそに常に静寂を保っている。

 越上山と書いて「おがみやま」と読む。この山を知らずして読める人はまずいないであろう。語源は元々「拝み山」であり「御神山」である。越辺川(おっぺ川)の源流に位置することから越上山の文字が当てられたようである。名前の通りこの山は信仰の対象となった山である。かつては山頂に諏訪神社が祀られており、雨乞いのためなどで地元の人々がしばしばこの山に登ったそうである。現在この諏訪神社は麓に下ってしまい、阿寺集落に立派な社殿を誇っている。このことから、この山は「古諏訪」とも別称されている。またその形から地元では「けつ山」とも呼ばれている。

 越上山から稜線を西に下ったところが顔振峠である。この顔振峠は現在は自動車道路に占領され見る影もないが、かつては高麗川流域と都幾川流域を結ぶ重要な峠であった。付近には文政年間に立てられた馬頭観音もある。この峠はまた伝説と歴史を秘める峠でもある。日本武尊がこの峠を越えたおり、故郷に残してきた妻・弟橘姫を思い、振り返り振り返り登ったため、顔振峠と名付けられたと云う。あるいは源義経、弁慶の主従が奥州に落ちのびるさいにこの峠を越え、あまりの景色の美しさに顔を振り振り登ったのでこの名前が付いたとも云う。

 現在この峠には二軒の茶屋があるが、その一つを平九郎茶屋と云う。この茶屋は明治時代以前からこの峠にあったと云う。慶応四年(1868年)5月23日、あくまでも徳川幕府に忠誠を誓う振武軍五千人は飯能の能仁寺を本陣として立て籠もり、これを包囲した官軍を迎え撃つ。いわゆる飯能戦争である。官軍の圧倒的な兵力の前に振武軍はわずか半日で壊滅する。振武軍の参謀渋沢平九郎(渋沢栄一の義弟)は深手を負いながらもこの顔振峠まで落ちのびる。茶屋の主人が秩父に向かうことを進めるが、平九郎の足は故郷・血洗島の地を目指した。しかし、下った黒山で追手に囲まれ自刃した。22歳であったと云う。この事件に因んでこの茶屋を平九郎茶屋と云う。

 私がこの山に登ったのは昭和56年5月、当時8歳の長女と4歳の次女を連れてであった。霧雨の中天気の回復を期待しながら東吾野駅からユガテ集落への道をたどった。漢字で表記されない珍しい名前を持つユガテはたった二軒の山上集落で、桃源郷とも云われる。たどりついたユガテは藤の花が満開であった。娘は集落のおばさんにきんかんを貰うと、お礼にと小さなリュックザックからお菓子を取り出して渡していた。二軒の農家の間を登るとすぐに真新しい車道に出た。ユガテ集落も遂に車社会の仲間入りをしてしまったかと少々がっかりした。エビガ坂を登るがガスが杉林にたちこめなんとも幻想的であった。天気は相変わらずすっきりしないがハイカーは多い。
 
 越上山は思いのほか遠かった。そろそろと思う頃左手に分岐する細い踏み跡を見つける。標示は何もないが越上山山頂へのルートと思い娘二人を待たせておいて偵察に行く。予想通り分岐から7〜8分登ると越上山山頂であった。山頂は樹林に囲まれ展望は一切なくまた人影も皆無であった。それにしても、分岐に山頂を示す標示すらなく、また登る人とてない山頂は少々可哀想な気さえした。それに比べ下った顔振峠は、ハイカーと行楽客で混雑していた。
 越上山は今でも静かなままでいるにちがいない。

(2002年10月記)