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御嶽山(おんたけさん) 1080.5m

 
所在地 埼玉県大滝村 両神村
名山リスト 関東百名山 関東百山 日本の山1000
二万五千図 三峰
登頂年月日 1981年1月3日  2001年4月29日  

 
 猪狩山からの稜線より
 杉の峠上部より
 普寛神社

 
 御嶽山を語るにはまずこの人物を語らなければならない。18世紀後半に活躍した普寛行者である。埼玉県の産んだ偉大なる宗教家である。しかし、不思議なことに、木曾御嶽山を紹介する書物には必ず彼の名前が登場するが、埼玉県の歴史を紹介する書物には決して登場しない。行者などという人物は怪しげな似非宗教家で、歴史上の人物にはなりえないという偏見があるのだろうか。しかし、彼は単なる宗教家ではない。実業家とも言える先進的なオーガナイザーでもあった。
 
 普寛は享保16年(1731)武蔵国秩父郡大滝村落合にて木村信次郎の子として生まれる。幼名を好八という。浅見家の養子となり通称左近と名乗る。修験者となってからは本明院と号す。三峰山修験観音院日照の下で天台密教を学び、1782(天明2)伝燈阿闍梨に進む。しかし庶民救済を志し、地位を捨てて木食修行のため諸国を行脚する。越後八海山、上州武尊山等を開山し、1792(寛政4)に木曾御嶽山王滝道を開く。その後江戸で御嶽講を組織し、広めた。御嶽教の開祖である。享和1年(1801)、武蔵国本庄にて入滅。。死後、普寛霊神として祀られた。

 普寛のすごいところは自ら商品開発(木曾御嶽山開山)すると同時に、その販売網を最大の消費地である江戸に強固に築き上げてしまったこと(講の組織化)である。彼の開発した商品、築いた販売網は二百年経った現在においても健在である。今でも木曾御嶽山は加賀白山と並んで講登山の最も盛んな山である。普寛の開いた木曾御嶽山王滝道は彼の生まれ故郷・大滝村に因んでの命名と言われている。
 
 「日本山名総覧」によると日本全国に御嶽山という山は12座ある。ただしこの数は二万五千図に山名の記載された山だけである。小ピークを合せれば、御嶽山と呼ばれる山は全国に相当な数あると思われる。これら御嶽山はいわば木曾御嶽山の代用の山である。木曾御嶽山が遠くかつ厳しいため、各地の小ピークに御嶽の神を祀り、そこにお参りすれば木曾御嶽山に登ったのと同じ霊験があるとされたのである。

 普寛の生家の裏に聳える1080.5メートルの岩山も御嶽山である。一般的には他の御嶽山と区別するため「秩父御嶽山」と呼ばれている。この山を開いたのはもちろん普寛行者である。登山口の生地・落合集落には普寛霊神を祀る普寛神社が鎮座し、山頂には奥宮が祀られている。従って、秩父御嶽山は他の多くの御嶽山とは別格である。この秩父御岳山は、とびっきり上等な由緒ある山なのである。木曾御嶽山が「本家」なら秩父御嶽山は「元祖」と言っても言い過ぎではない。
 
 秩父御嶽山は、両神山から南東に長々伸びる尾根末端近くの岩峰で、三峰山と荒川を挟んで対峙している。岩峰となった山頂は狭く、普寛神社奥宮が占拠しているので、座る場所とてほとんどないほどである。しかし、360度の展望は絶佳である。特に、目の前に聳え立つ両神山の姿は見事である。西の肩にはカタクリの群生地もある。登山道もよく発達していて、南面の落合集落および強石集落から、東面の贄川集落から、北面の猪狩山からの縦走路と豊富である。しかし、いずれの登山道をとっても急登に継ぐ急登であることには変わりない。

 秩父御嶽山は交通の便もよい。何しろ秩父鉄道の終点三峰口駅から直接歩いて登ることができるのだから。従って、西武鉄道を利用すれば首都圏からも十分に日帰り可能である。しかし、その割には人影は少ない。三峰口までやって来る登山者の多くは。この御嶽山には目もくれず、さらに奥の三峰山や両神山へと向かってしまう。私はこの山に二度登った。最初に登ったのは昭和56年1月である。一人で三峰口から登り強石集落に下った。この時は、この山が普寛上人縁りの山であることなど全く知らなかった。ただ山頂から360度、奥秩父の山々の展望が利くとの案内を読み、登る気になった。山日記には次のように記されている。

  「山の神を過ぎてタツミチに達す。誰にも会わない。ここから山頂まで
   ものすごい急登であった。木に掴まり、手で登る。11時30分、山頂着。
   奥秩父主稜線の山々が一望できる。両神山の展望がすばらしい。城峯
   山、御荷鉾山も見える。12時30分、山頂を辞す。杉の峠への道を下る。
   このコースはトレースがある。杉の峠からは、熊倉山の展望がすばら
   しい。一気に強石に下る。バスに乗らず歩いて、15時15分、駅に到着」
 
 二度目の登頂はそれから20年後の平成13年4月であった。猪狩山から若葉の薫る尾根を縦走して山頂に達した。春霞みが深く、目の前に聳える両神山も見えなかった。落合集落に下り、普寛神社にお参りした。神社とも寺ともつかないたたずまいで、境内には「普寛霊神ご生誕二百七十年記念」と記された真新しい木柱が立てられていた。
(2002年1月記)