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大霧山(おおぎりやま) 766.6m

 
所在地 埼玉県東秩父村  埼玉県皆野町
名山リスト 関東百名山  日本の山1000
二万五千図 安戸
登頂年月日 1987年1月18日  1987年4月29日  2002年1月13日

 
 県営牧場より
 堂平山より
 鴻巣市より

 
 大霧山とは何とも優雅な山名である。深山幽谷の趣がある。しかし、名前に反し、大霧山は実にゆったりとした女性的な明るい山である。特に槻川に裾を引く東面は緩斜面で、中腹に朝日根の集落が展開し、上部は牧場が広がっている。冬晴れの一日のんびり歩くのに最適の山である。
 
 槻川源流を馬蹄形に囲む、笠山、堂平山、大霧山の三山を総称して比企三山と呼ぶ。いずれもハイキングの山として人気がある。右岸に隣り合う笠山、堂平山はセットで登られるが、大霧山は左岸に位置するため三山縦走は少々ハードな行程となる。山頂は絶景で、西から北にかけて大きく展望が開けている。西に目を向けると、幾重にも重なる奥武蔵の山並みの背後に、雲取山から甲武信ヶ岳に続く奥秩父主稜線が壁のごとく連なり、その右には埼玉県の誇る二つの名峰・両神山と城峯山が悠然と聳えている。さらに両神山の左奥には八ヶ岳連峰の赤岳と横岳が点のように見える。北を眺めると、緩やかな太い稜線が足下から釜伏山へ続き、その背後彼方に上越国境の山々、日光連山が連なっている。
 
 新編武蔵風土記稿には次のように記載されている。
  「大霧山 村の巽にあたり、最高き山にて、ややもすれば雲霧を含み、
   頂を蔵せり。麓より頂まで曲徑を登ること十七八町、當村及大野原
   村・黒谷村入會の秣場なり」

 大霧山の北の鞍部が粥新田峠、南の鞍部が定峰峠である。粥新田峠は江戸時代にはお遍路道として大いに賑わった。江戸から秩父に入る経路としては秩父往還の越えた釜伏峠越えがメインストリートであったが、秩父札所34箇所を巡るお遍路たちはもっぱらこの粥新田峠を越えた。峠を下ると、そこが札所一番・四萬部寺であったためである。秩父札所巡りは江戸時代隆盛を極めた。当時は白装束の巡礼の列が絶えることなくこの峠を越えていったと云われる。この峠も今では車道が乗越てしまい、昔のにぎわいは伺い知れない。新編武蔵風土記稿秩父郡三沢村の項には次のように記されている。
  「皆新田峠 西南より東に通ずる峠なり、曽根坂より来り、村内を
   經ること一里四町餘の、峠の頂を界として坂本村に達す。路幅凡
   七尺、大宮邊より川越通り江戸街道なり、」

 一方、南の鞍部・定峰峠は健在である。鬱蒼とした杉檜林の中の小さな鞍部を細い小道が乗越ている。一段上には小さな石の祠も祀られている。今ではこの峠は一般的に旧定峰峠と呼ばれている。実は昭和30年にこの峠から南2キロほどの鞍部に車道が開削された。そして、その地点が現在では新定峰峠、あるいは単に定峰峠と呼ばれている。桜の名所でもある。おかげで、旧来の定峰峠はハイカーのみ訪れる静かな峠のままあり続けている。

 旧定峰峠に、ダイダラボッチの伝説を記した説明板が立てられている。大霧山や粥新田峠の山名の由来を伝説として紹介している。
  「昔、武蔵野に大太坊(ダイダボウ)という巨人がいて羽黒山に行く途中、
   秩父の山にさしかかりその時巨人は定峯峠に腰をかけ、かぶっていた笠を
   笠山の頂におき、両足をニュッと伸ばし槻川のあたりに足をつき粥新田峠
   で粥を煮て昼食をとりました。食べ終わって粥を煮た釜を伏せたのが釜伏
   山、二本の箸を立てた所が二本木峠、腰を下ろした石が休石、また荒川の
   水を含んで吹いたのが大霧山、大太坊の足跡は今でも槻川上流白石の山中
   にくぼ地や沼として残っているそうです。」

 私はこの大霧山に三度登った。最初の登頂は1987年1月であった。当時6歳の長男を連れて、笠山から積雪の稜線を堂平山、剣ヶ峰と長駆縦走し、夕闇迫るこの山頂にようやく到着した。しかし、吹きつける寒風に追われ、腰を下ろす間もなく逃げるように粥新田峠に下っていた。2度目の頂はその年の4月であった。外秩父7峰縦走ハイキング大会に参加し、24キロ地点のこの頂をわき目もふらずに通過していった。今年の1月、15年振りに一人この頂を訪れた。旧定峰峠から稜線を辿り、9時過ぎ、朝日の当たる明るい山頂に達した。山頂は大展望をもって私を歓迎してくれた。重なりあい何処までも続く山群の中で、両神山と城峯山がひときわその存在感を際立てていた。
(2002年7月記)