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大持山(おおもちやま) | 1294.1m |
所在地 | 埼玉県秩父市 埼玉県横瀬村 |
名山リスト | 関東百名山 関東百山 日本の山1000 |
二万五千図 | 秩父 |
登頂年月日 |
(金毘羅尾根より) |
武甲山より |
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大持山は武甲山の南隣に位置し、シラジクボの鞍部を挟んで対峙している。新編武蔵風土記稿の秩父郡横瀬村の項に次のような記載されている。
「持山 是も武甲山の内にて、東南に續けり、一の鳥居より堂 のありし跡まで、三十町程、傳へ云、往古上杉伊豆守重能鎌倉 より敗績して、茲に忍び居れりとぞ、其後根古屋に移住せるよ し、『秩父風土記』には、伊豆守憲政とあれども疑はし、その 後田村圓福寺五世の僧、祖圓和尚この山に閑居し、一寺を營み、 阿弥陀山念佛寺と號にし由、いつの頃にか廃寺となれり、祖圓 俗称は忠長卿の御息、長七郎殿とこそきこゆ、この寺地より西 北二町許にあたり、巌下に入定場と云るあり、開山其和尚の化 せし地なりと、五輪の塔あり、正面に刻するは、阿彌陀山念佛 寺光西塔、右には元和八年四月十五日伊奈十郎・富田吉右衛門、 左には此石塔菩提人二千萬人大供養、男子女子共成佛、井上雅 楽介・富田内匠・高野七右衛門、為三界人々也と勒せり、塔の 高さ八尺餘、又寺地より谷川をへだてゝ三町許、南にあたり少 の平らに觀音の跡あり、盤岩の下に石佛及び石塔あり、天和四 年とのみ見ゆ」 ここでいう持山とは、現在の大持山、小持山を合わせた山々であろう。「武甲山の内」という表現から、武甲山の一峰ととらえられていたようである。しかし、明らかに武甲山とは別個の独立した山である。標高も現在の武甲山とは1メートルしか違わない。また、阿弥陀山念佛寺の跡は、小持山の東斜面に「持山寺跡」として今も残っている。 「持山」の山名の由来は「黐(もち)山」であろう。黐とはヤマグルマのことであり、広辞苑には次の通り記されている。
おそらく、黐の木が多く生えていたことから、黐山と呼ばれるようになったのであろう。
私はこの山に三度登った。最初に登ったのは昭和54年2月、妻坂峠から登って鳥首峠に下った。この時の山日記を見てみると、
三度目に登ったのは、昭和57年7月であった。当時66歳であった父が珍しく「どこかへ連れていけ」と云うので、武川岳から縦走して、鳥首峠に下った。やはり、夏の尾根道は暑いだけで、武蔵野の良さは味わえなかった。そして、この大持山が父の登った最後の山となってしまた。
(2002年11月追記)
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