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三宝山(さんぽうざん) 2483.3m

 
所在地 埼玉県大滝村  長野県川上村
名山リスト なし
二万五千図 金峰山
登頂年月日 1971年1月1日

 
堂平山山頂より
城峯山山頂より
大山より

 
 これほど不幸な星の下に生まれた山を知らない。甲武信三国国境に聳える堂々とした山であるにもかかわらず、歴史の気まぐれに翻弄され、振り向く人とてない山となってしまった。しかし、日本百名山として賑わう隣の甲武信ヶ岳と比べ、どちらが名山かじっくり見比べてほしい。本来ならこの山こそ日本百名山の座に着くべき立場にあったはずなのだが。

 すでに甲武信ヶ岳の項で述べたが、再度述べる。甲武信三国境に聳える三つのピークを持つ大きな山体の山は明治期まで「三方山」あるいは「国師ヶ岳」と呼ばれていた。「三方山」の名はおそらく「三つの峰を持つ山」の意の三峰山から生じたのだろう。明治となり、陸軍省陸地測量部により全国の地図づくりが始まった。全国に三角点を設置し、位置を正確に測量すると同時に、山々の山名を確定していった。彼等の活動の様子は三角点設置の記録である「点の記」により知ることができる。新田次郎の小説「剣岳・点の記」はその活動の様子を生々しく再現している。

 測量隊は三方山(国師ヶ岳)の最高地点となる2483.3メートル峰の頂に一等三角点を設置した。当然の処置である。ここで彼等が、三方山を従来通り一つの山として「三方山」あるいは「国師ヶ岳」と命名すれば何も起こらなかった。しかし、これが三宝山の運命の分かれ目であった。彼等は三方山の三つのピークを各々独立した山と見なし各ピークに山名を与えた。主峰である2483.3メートル三角点峰は敬意を表してサンポウザンの名を三宝山と好字に直して与えた。このことからも彼等が決して三宝山を粗末にしたわけではないことはわかる。真ん中の2475メートル峰には新たに作り出した山名「甲武信ヶ岳」を与えた(一節には、コクシガダケを聞き間違えたとも言われる)。このピークがちょうど甲武信三国国境に位置することに対する命名である。何とも当を得たすばらしい命名であった。そして三つ目の2468.6メートル峰には木賊山の名を与えた。

 三方山の三つのピークが各々独立した山とされた結果、三宝山と甲武信ヶ岳はそれまでの主従の関係ではなくライバルの山となった。そして結果として甲武信ヶ岳が圧勝した。まさに下克上である。理由はいくつかある。まず第一の理由はその各々の位置である。三国国境の山は「三方山」に代わり甲武信ヶ岳がその地位についた。三宝山は奥秩父主稜線上からも外れた辺境の山となった。第二に名前である。「甲武信ヶ岳」と云う山名があまりにもすばらしかった。発音の歯切れの良さ、ロマンの香りするその表記。一方、三宝山は「三方山」という歴史ある山名を引継ぎはしたが、方→宝の変更はかえって山名を俗っぽくしてしまったきらいがある。

 そして第三に山の帰属の問題がある。現在、埼玉県の最高峰は三宝山である。このことはどの資料を調べても明確である。国土地理院の地図で確認しても、埼玉県・長野県の県境は三宝山の山頂を通っている。ところが、私は小学生、中学生いずれでも埼玉県の最高峰は甲武信ヶ岳と習った。今、手元に昭和27年8月発行の五万図「金峯山」がある。念のため確認してみると、埼玉県・長野県の県境線は三宝山の山頂直下で稜線を外れ、わずかに埼玉県側を巻いている。昭和55年2月発行の昭文社登山地図「奥秩父2」を見ても県境線は同様に山頂直下を埼玉県側に巻いている。明らかに以前は、三宝山の頂は長野県に属していたのである。それがいつの間にか県境が変わっている。全く不思議なことである。いつ、いかなる理由で県境が変わったのか。知っている人がいたら教えてほしい。

 このことは、三宝山にとっては実に重大な問題であった。もし最初から埼玉県の最高峰の地位を占めていたなら、これほど粗末な扱いは受けなかったはずである。埼玉県民とて、この山を見る目が変わっていたはずである。しかし、幾多の三千メートル峰が聳立する長野県にあっては、確かに取るに足らぬ山とされても仕方がない。そして、ある時、何の前触れもなく埼玉県の最高峰となった。しかし、時はすでに遅かった。このときにはすでに甲武信ヶ岳の名声が鳴り響いていたのである。

 そして深田久弥が最後の引導を渡した。何と、「日本百名山」に隣の甲武信ヶ岳が選ばれたのである。もっとも、深田久弥も若干心に引っ掛かりはあったようである。甲武信ヶ岳の項には次のように書かれている。
  「昔から名山とたたえられた山ではない。頂上に祠もなければ、
   三角点もない。奥秩父でも、甲武信より高い峰に国師や朝日
   があり、山容から言ってもすぐ北の三宝山の方が堂々としている」
 
 しかし今では甲武信ヶ岳には百名山信徒が押し寄せ、名山の誉れはますます高まった。その一方で、明治期までの主峰・三宝山は「日本の山1000」にも選ばれないほど落ちぶれてしまった。

 私がこの山に登ったのは昭和46年正月元旦であった。上記の経緯も知らず、十文字峠から甲武信ヶ岳に至る単なる通過ピークとして頂を踏んだ。今ならばもう少し同情と哀れみの心をもって山頂に立ったであろうが。
(2002年4月記)                」