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武川岳(たけかわだけ) | 1051.7m |
所在地 | 埼玉県横瀬町 埼玉県名栗村 |
名山リスト | 関東百名山 関東百山 日本の山1000 |
二万五千図 | 正丸峠 |
登頂年月日 |
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武川岳は奥武蔵では名の知れた山である。手軽に登れる山であり、また展望も良い。しかし、この山の良さは、なんといってもその位置である。奥武蔵のハイキングコースのまさに十字路に位置している。西に向かえば、妻坂峠を経て大持山に至る。北へ向かえば二子山への縦走路である。東へ向かえば、山伏峠を経て伊豆ヶ岳に至る。また、南に向かえば、天狗岩を経て名郷集落に達する。多くのハイカーが武川岳に四方から集まり、また四方に散っていく。このため四季を通じハイカーの姿が絶えない。こんなことがあった。私たちが南の道、すなわち名郷から天狗岩経由で山頂に達すると、二人のハイカーが休んでいた。一人は北の道、すなわち二子山から縦走してきたと云い、もう一人は東の道、伊豆ヶ岳から来たと云った。そして私たち三組は、いずれも西の道、妻坂峠を目指して出発していった。私自身この山に三度登ったが、一度目は西から登り東に下った。二度目は西から登り北へ縦走した。三度目は南から登り、西へ向かった。
武川岳のもう一つの自慢は、その西側に妻坂峠と云うすばらしい峠を持っていることである。この峠は実にすばらしい。おそらく、奥武蔵の多くの峠の中で、鳥首峠と並んで1、2を競う峠と思える。昔から、秩父地方と江戸、鎌倉を結ぶ主要な峠道であり、畠山重忠が鎌倉に赴く際に、この峠で愛妻と別れを惜しんだとも云われている。峠には石仏が一つたたずみ、昔の雰囲気を伝えてくれる。そして、この峠は武甲山が一番美しく見える場所でもある。 武川岳は元々風木平(ふうきだいら)と呼ばれていた。昭和に入り、武甲山の「武」と、その麓の生川の「川」を取って改めて武川岳と名付けられた。コンサイス日本山名辞典を見ると、「たけかわだけ」は載っておらず、「むかわだけ(武川岳)」として載っている。この辞典は間違いが多いので、単なる間違いかも知れないが、もし「むかわだけ」という呼び名があるのなら(私は聞いたことがないが)、「向かい岳」であり、これは「武甲山に向かい合う山」ということになる。 私が最初にこの山に登ったのは昭和52年7月であった。当時4歳の長女をつれて妻坂峠から登った。真夏の太陽の照りつける暑い日であり、後から考えると、この山に登る最悪の季節であった。妻坂峠への登り道は、急ではあるが、道もしっかりしており、おまけに植林地帯のため直射日光も避けられ、幼児づれでも容易であった。峠から仰ぐ武甲山は夏霞の中にうっすらと浮かんでいた。峠から武川岳への登りは、悪戦苦闘となった。ポピュラーなハイキングコースのため登山道はしっかりしているものと思っていたが、シーズンオフのためか背を没する藪が生い茂り、激しい藪漕ぎを強いられた。藪漕ぎ準備がなかったため、二人とも手や顔が傷だらけになってしまった。おまけに幼児が歩いて登るには少々無理な急登であり、手で引き摺り上げての前進となった。ようやく到着した山頂も、夏草のみが生い茂り、一切の展望は夏霞みの中であった。帰路はもとの道を戻る予定であったが、とても藪の急坂を戻る気がせず、前武川岳を越えて山伏峠道に下ることとした。この道は緩やかではあったがやはり藪が深く泣きたい気持ちで、子供を励ました。真夏の太陽のもと、舗装道路をてくてくと一時間も歩いてようやく名郷に到着したときは、もう二度とこんな山には登るものかと思った。 二度目に登ったのは、それから10ヶ月後の昭和53年5月であった。このときも、5歳の長女づれである。正丸峠駅から、正丸峠を越えて山伏峠まで歩き、ここから武川岳に登って、二子山まで縦走した。このときも、山頂からの展望は春霞の中に消えていた。そして、三度目に登ったのが昭和57年7月、当時66歳の父を連れて名郷から南東尾根を登った。そしてこれが、父との最後の登山でもあった。その時の山日記には次のように記されている。
(2002年11月追記)
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