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天覧山(てんらんざん) 197m

 
所在地 埼玉県飯能市  
名山リスト なし
二万五千図 飯能
登頂年月日 1980年5月5日 2004年4月11日  

 
 多峯主山より望む天覧山
 能仁寺
     天覧山山頂

 
 天覧山は飯能市街地の北側に盛り上がる丘陵である。伊豆ヶ岳に始まる名栗川と高麗川の分水稜が徐々に高度を落としながら南東に走り、まさに武蔵野に没しようとする最後の高まりが天覧山である。標高197メートル、山と呼ぶより丘と呼ぶほうがふさわしい。登山口から山頂まで、よく整備された登山道が通じており、わずか20分程で山頂に達することが出来る。このため、小学校の遠足や、子供連れの行楽で、山頂はいつも賑わっている。ただし、山頂付近は岩が剥き出しになっており、若干の注意は必要である。

 昭和40年代までは、大高山、天覚山方面から尾根づたいに天覧山まで縦走することが可能であった。しかし50年代に入ると、久須美坂と多峰主山の間の尾根は、大規模な宅地造成により完全に断ち切られてしまった。従って、天覧山とその隣の多峰主山は他の奥武蔵の山々から孤立してしまい、ザックを背負ったハイカーの姿はこの両山から消えてしまった。今では完全にピクニックの山である。天覧山と多峰主山はセットで登られることが多いが、この両山だけでは物足りない人々は、国道299号線を越えて、いまだ武蔵野の面影の残る道を、宮沢湖や巾着田へと向かう。しかし、このコースはもはや山道ではなく、武蔵野の散策道である。

 天覧山はその名前を三度変えた。最初の名前は「愛宕山」である。これは、山麓にある能仁寺に愛宕権現を祀っていたことによる。徳川五代将軍綱吉の時代に「羅漢山」と名前が変わった。将軍の生母桂昌院が綱吉の病気平癒のお礼に十六羅漢の石仏を奉納したことによる。そして明治になり現在の名前「天覧山」となった。これは、明治16年に山麓で行なわれた帝国陸軍大演習を明治天皇がこの山頂から統監したことによる。山頂には明治天皇登山記念碑や明治天皇駒つなぎの松がある。しかし、勝手に名前を何度も変えられては山にとっては迷惑この上ない。山名に限らず、地名と云うものは生きた歴史である。大事に守りたいものである。

 山頂からは南面に限り視界が得られる。眼下には飯能市街が広がり、遙か彼方には新宿の高層ビル群まで見える。奥多摩の山々の背後には富士山も望める。

 中腹には、先に述べた十六羅漢がある。ただし、実際には16体ではなく20数体の石仏が岩棚に無秩序に並んでいる。南麓には武 陽 山能 仁 禅 寺が伽藍を並べている。室町中期の文亀元年(1501年)に名僧斧屋文達により開かれた曹洞宗の名刹である。徳川家康の庇護のもと江戸中期の元禄から享保年間にかけては、七堂伽藍を備え、50人程の雲水をかかえる禅道場として栄えた。

 しかし、この寺を有名にしているのはむしろ、慶応4年(1868年)の飯能戦争の舞台としてである。渋沢精一郎を首領とする振武隊約500名がこの寺に立て籠もり、5月23日、官軍と飯能戦争を戦った。戦いは圧倒的兵力に勝る官軍がわずか半日で振武軍を粉砕するが、この戦いで能仁寺はそのほとんどを焼失した。

 私がこの山に初めて登ったのは昭和55年5月であった。当時3歳の次女と6歳の長女を連れ3人で、巾着田→多峰主山→天覽山→巾着田と歩いた。次女にとっては始めての山歩きであった。多峰主山山頂から女坂を下り、天覧山直下の草原でお弁当とした。ここからひと登りで天覧山山頂であった。ハイカ ーで混雑しており茶店もある。ビールとジュースを買って乾杯した。東に下り、国道299号線を横切り、雑木林の中の気持ちのよい高麗峠を越えて巾着田で遊んだ。春の一日の長閑なピクニックであった。
(2004年4月改)