|
都幾山(ときさん) | 463m |
所在地 | 埼玉県都幾川村 小川町 |
名山リスト | なし |
二万五千図 | 安戸 |
登頂年月日 | 2002年1月4日 |
|
|
|
都幾山とは山号であり山名である。都幾山慈光寺は白鳳二年(673年)の創設と伝えられる関東最古の古刹である。この慈光寺の拠る463メートル標高点峰もまた都幾山と呼ばれる。小峰ではあるが二万五千図にはしっかり山名が記載されている。
慈光寺の歴史はまさに栄枯盛衰である。中世には鎌倉幕府の厚い保護を受け、山中に75の僧坊を有する関東屈指の大寺院として栄華を極めた。そしてまた、中世の大寺院の例に漏れず、多くの僧兵を抱える一大武装勢力として君臨した。このため、支配地拡大を目指す俗間の武装勢力と衝突を繰り返した。 寺伝によると康正二年(1456)に太田道灌の軍勢に攻められたとある。また、16世紀中頃には松山城主・上田朝直によって焼き打ちにあった模様である。この時焼失した釈迦堂からは二層の焼土層と、室町時代の瓦が多数出土されている。後の関東の覇者・北条勢力とも衝突を繰り返した。北条勢の慈光寺攻めの陣城は5キロ南方の大築山に築かれた大築城といわれている。 度重なる戦闘で、さしもの慈光寺の勢も衰えた。江戸期に幕府の保護により一時的には勢いを回復したが、昔日の勢いを取り戻すには至らなかった。かつての75坊のうち、現在残るのは霊山院ただ一つ。多くの僧坊は山中にその栄華の痕跡を残すだけとなっている。 現在の慈光寺は独立した本堂もない田舎寺で、庭先の樹齢1100年以上といわれるタラヨウジュ(多羅葉樹)の大木と一段下の鐘楼が、わずかに昔の栄華を感じさせるだけである。それに比べ、慈光寺の塔頭として今に残る唯一の寺・霊山院は勅使門を備えた格式と歴史を感じる寺で、臨済宗の禅寺らしく凛とした空気に包まれている。一見したところ、完全に主従が逆転している。 慈光寺は関東観音霊場第9番の札所でもある。本堂の一段上の高みに立派な観音堂がある。観音堂の千手観音は、像高は265センチの桧木材寄木造りで、寺伝では白鳳年間に開祖・慈訓が春日という神仙より授かったとされている。今に伝わる像は室町期前半の造立で、近年、大幅な修復を受けた。 山名としての都幾山はまったく登る価値もない薮山で、登山道さえない。観音堂の裏手から微かな踏み跡が山頂に続いている。もちろん道標はおろか、赤布の類もない。ただし、単に高みを目指せばよいので登頂は容易である。山頂は樹林と薮の中で山頂標示もない。樹林の間から微かに笠山が見えるだけで、まったくもって情緒のない場所である。 私はこの山に今年(2002年)の正月に登った。慈光寺訪問が主目的で、そのついでの登山の色合いが濃かった。観音堂の裏手に薄い踏み跡を見つけ、10分ほどで山頂に達した。ただし、我が登山史上記憶にないほどつまらない山頂で、がっかりした。帰路は同じ踏み跡をたどったつもりであったが、いつしか踏み跡を見失い、南側の車道に降り立った。もう一度登ってみようとは夢にも思わない山である。
|