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多峯主山(とうのすやま) 271.0m

 
所在地 埼玉県飯能市      
名山リスト なし
二万五千図 飯能
登頂年月日 1980年5月5日、2004年4月11日     

 
 西方より多峯主山を望む
 黒田直邦の墓
 多峯主山山頂

 
 多峯主山は高麗川・名栗川の分水両末端に位置し、天覧山の隣に合う山である。この二つの山はセットで歩かれることが多く、奥武蔵の代表的なピクニックコースである。昭和50年代以降、周辺は大規模な宅地開発が進み、今では多峯主山の足下まで新興住宅の波が押し寄せている。このため、尾根が断ち切られ、この二つの山は他の奥武蔵の山々から孤立してしまった。

 トウノス山の語源は、「鶇(ツグミ)の巣」、「鴇(とき)の巣」、あるいは、「薹伸す」とも思えるがよくわからない。いずれにせよ、「多峯主」の表記は後世になされた当て字であろう。それにしても、「多くの峰々の中の主」とは、何とも凄まじい当て字であり、わずか271メートルの平凡な山容のこの山にはいささか過剰である。ただし、逆に考えれば、これほどの当て字がなされるだけの価値がこの山にあったということである。おそらくこの山は、古代より霊山として崇められてきたのだろう。

 多峯主山山頂には、1765年((明和2年)築造の経塚があり、経文が書かれた約1万2干個の河原石が埋没されている。経塚とは、平安時代末期に広がった末法思想に基づく施設で、弥勒仏出現まで経典を残すことや、極楽往生・現世利益を願って、書写した経典を土中に埋納した塚である。埋葬場所は主として霊山と崇められる山峰の山頂が選ばれた。全国各地に点在するが、私の知るかぎり、埼玉県においてはこの多峯主山だけである。

 この山は雨乞の山でもあったようである。山頂直下に、どんな日照りでも涸れることのないという「雨乞の池」がある。昔はこの池の上手に闇淤加美神(水を司る神)が祀られていたらしい。また山頂直下には江戸時代の大名・黒田直邦(1666年〜1735年)の墓がある。黒田直邦は、この地方の豪族・丹党中山氏の出で、黒田氏の養子となり、5代将軍綱吉から8代将軍吉宗に至る4代50余年間将軍家に仕えた。その間、老中にまで出世し、上州沼田藩3万石の大名となった。しかし、彼の墓だけが、なぜ、一族の菩提寺である能仁寺ではなく、多峯主山山中にぽつりとあるのか不思議である。おそらく、何らかの理由があったのだろうがーーー。

 多峯主山には、また、源義経の生母・常盤御前にまつわる伝説が色濃く残っている。天覧山方面から多峯主山へ登る坂道は「見返り坂」と呼ばれる。これは、東国に逃れた義経を追ってこの地までやって来た常盤御前が、あまりの美しさに、振り返り、振り返り登ったことから名付けられたという。現在は鬱蒼とした杉檜林の中で、それほどの展望は得られない。なお、この付近には牧野富太郎博士が発見した多峯主山の固有種で天然記念物である「ハンノウササ」が繁茂している。また、多峯主山の中腹に五輪塔がある。この地で病にかかり亡くなった常盤御前の霊を供養するために立てられたものと言い伝えられている。

 私がこの山に初めて登ったのは1980年5月5日の子供の日である。当時3歳の次女と6歳の長女を連れ3人で、巾着田→多峰主山→天覽山→巾着田と歩いた。次女にとっては始めての山歩きであった。造成されてまもない北面の大きな団地を横切り山中に入ると、ぐずっていた次女も元気になった。多峯主山の山頂は実に展望がよい。女坂を天覧山との鞍部に下る。ここは草原となっていて、お弁当を開くのに絶好の場所であった。

 2度目の頂は2004年4月であった。1人桜吹雪の舞う天覧山を後にして、見返り坂を登った。山頂から春霞に霞む新緑の天覧山の美しい姿がよくみえた。既に縦走路は失われてしまったが、造成地の縁を辿り、天覚山、大高山へと縦走した。
             (2005年8月記)