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塚山(つかやま) 953.9m

 
所在地 埼玉県吉田町  
名山リスト なし
二万五千図 万場
登頂年月日 2001年3月18日  

 
 竹ノ茅山の北面より
  林道より
 

 
 「塚」とは人工的な土盛りである。変じて墓をも意味する。しかし、神流川右岸に盛り上がった塚山は紛れもない山であり、人工的な匂いはない。おそらく、土盛りにも似たその凡庸とした山容が塚に擬せられたのであろう。

 塚山は、南西から続いてきた上武国境稜線が神流川に没する直前の最後の高まりである。二万五千図に山名記載がある山ではあるが、この山を紹介する登山案内の類は皆無である。地図にも山頂に至る破線の記入はない。しかし、この山は決して深山でもないし、人を寄せ付けないような険しい山でもない。言うなれば里山である。おそらく、あまりにも平凡なため、わざわざ登りに行こうなどという気も起きない山なのだろう。当然、麓から山頂にいたる踏み跡は幾筋もあるはずである。

 塚山は上武国境稜線上の山なのだが、地図をよく眺めると、山頂の三角点は県境上ではなく、わずかに埼玉県側に位置している。言うなれば埼玉県の山である。登り残しておくわけにも行かない。登頂ルート不明の山に登るには稜線を辿って山頂に至るのがもっとも確実である。稜線上には踏み跡があることが多いし、悪くても獣道ぐらい期待できる。塚山に続く稜線上の南西約1.5キロに土坂峠があり、車道がトンネルで越えている。この土坂峠から稜線沿いに山頂に達するのが一番確実そうである。そんなことを考えながら地図を眺めていたら、土坂峠のさらに西約2キロにある父不見山が目に留まった。父不見山から長駆県境尾根を辿って塚山に至るルートが何とも魅力的に思えた。

 2001年3月、父不見山から塚山を目指した。杉ノ峠から先は稜線上に登山道はないが、所々怪しげな踏み跡を拾って、無事に土坂峠に達した。小さな祠がぽつんとあるだけのいかにも秩父らしい峠である。ここからさらに塚山を目指した。行く手には塚山は望めず、山頂に大きな鉄塔のある978メートル峰が立ちふさがっていた。薄い踏み跡を急登すると、小さなテレビアンテナの立つピークに達する。振り返ると越えてきた父不見山の双耳峰が目の前に聳え、その背後に甲武信ヶ岳を中心とする奥秩父主稜線の山々が連なっていた。城峯山へ続く稜線とのジャンクションピークを左から巻き鞍部に下る。この地点を上ノ峠と呼ぶらしい。左から地道の細い林道が稜線まで登り上げていた。

 踏み跡も定かでない鬱蒼とした杉檜林の中のものすごい急登に息を切らし、978メートル峰に登り上げる。山頂には大きな電波塔が建っている。西から北に掛け大展望が開けた。神流川の対岸に御荷鉾山が大きく盛り上がり、足下から続く稜線の先に今日初めて目指す塚山が姿を現した。何とも特徴のないまさに塚のごとき山である。この978メートル峰は地図に山名の記載はないが、竹ノ茅山(たけのかややま)と云うらしい。塚山に続く東面は大きく伐採されていて雪がべっとり付いている。竹ノ茅山北面を巻いてきた林道がさらに塚山の北面へと伸びているのが見える。地図にない林道である。おそらく、土坂峠道に続いているのだろう。下山路として利用できそうである。

 時には腰まで潜る深雪を蹴立てて伐採跡を下って、潅木の痩せ尾根を辿る。1ヶ所かなり悪いところがある。鞍部に下ると先ほど見えた林道が接近する。いよいよ塚山への最後の登りにはいる。伐採跡の急斜面には苗木の支柱である竹棒が無数に刺されている。たどり着いた山頂は、山容と同様に平凡であった。小広く開けた平坦地で、真ん中に三角点がぽつんと置かれている。北側は杉檜の植林地で南側は広葉樹の疎林である。私製の小さな山頂標示がただ一つ木の枝に掛けられ、私以外にもこんな山にわざわざ登った人がいたことを示している。木々の間から、竹ノ茅山の背後に両神山が見えた。辿ってきた弱々しい踏み跡は山頂を越えてさらにが東に下っている。おそらく、太田部集落へ続くのであろう。

 竹ノ茅山との鞍部まで戻り、目を付けておいた林道を下る。脛まで積雪を掻き分け掻き分け下ると、過たず土坂峠道にでることができた。

 登ってみればどうということのない平凡な山であるが、案内もなく、情報さえもない山へ、地図だけを頼りに登頂したということは大きな思い出である。いつまでも登る人のいない山であり続けることを密かに期待している。

(2002年10月記)

  塚山の山名の由来に関し「土盛りにも似たその凡庸とした山容が塚に擬せられたのであろう」などといい加減なことを書いたが、大間違いであった。塚山山腹に18基の小型円墳と1基の前方後円墳が存在するのである。山名の由来は明らかにこの古墳群にある。この古墳群は埼玉県では最も高所(約670メートル)にある古墳とのことである。
 (2004年2月追記)