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矢岳(やだけ) | 1357.9m |
所在地 | 埼玉県秩父市 荒川村 |
名山リスト | なし |
二万五千図 | 武蔵日原 |
登頂年月日 | 1979年12月9日 |
矢岳は秩父の秘峰と言ってもよいであろう。案内の類いがまったくないわけではないが、整備された登山道もなく、また交通の便がいたって悪いため登る人は極めて少ない。この山は長沢背稜の坊主山から北に延びる支稜上にある。ちょうど熊倉山と安谷川を挟んで対峙している。
新編武蔵風土記稿の秩父郡之一に次のような記載がある。
川浦山とは、位置から見て、おそらく現在の矢岳周辺を云っていることは確かである。秩父郡誌にも次のような記載がある。
矢岳の山名の由来は、コンサイス日本山名辞典に記載されている次の説が正しいであろう。
矢岳には湿地はないが、岩壁はいたるところにある。地図には岩記号が少ないが、烏帽子谷に沿った西面は、いたるところに険しい岩場が隠れており、この説は納得できる。 私がこの山の存在を初めて知ったのは、昭和50年代の初めである。秩父鉄道発行の「ハイキングガイド」という小冊子の中に、「矢岳」という短い一項があり、「秩父林道終点造林小屋より登る。烏帽子谷右俣より笹頭を経て山頂に至る。道標等不備のためベテラン向き」とのみ簡単に書かれていた。地図で探すと、矢岳はすぐにわかったが、登山道の記入もなく、どう登るのかはさっぱりわからなかった。 昭和54年12月、意を決して、車で出発した。秩父林道を進むと、途中で、鎖により通行止めとなっていた。車を捨て7〜8分進むと目標の造林小屋があった。小屋前に、創価大学あるこう会の名で、矢岳登山口を示す小さな道標があった。道標に従い芦川を渡り、かなりはっきりした踏み跡を5分ほど登ると、「矢岳に直接登る道」との標示があり、左に踏み跡が分かれる。事前に聞いていた烏帽子谷右俣ルートではなさそうであるが、標示があるからには山頂まで通じていると考え道標に従う。細いが踏み跡を左手の尾根に向かって1時間も登ると尾根上に出た。展望が開け、秩父盆地の背後に西上州の山々が連なっている。 尾根上を少し進み、その後、尾根を右より巻くように進む。踏み跡は判別できるが藪が深い。広い谷の上部をトラバース気味に登る。藪は薄くなるが、今度は踏み跡が怪しくなる。支尾根を一つ越え、沢を2〜3横切ると、左上方に直登する踏み跡が分かれ、「矢岳まで15分」との小さな標示があった。標示に従い直登すると尾根に出た。そのまま尾根上を進むと、あっさり山頂に出た。造林小屋から、休憩も入れて2時間である。山頂には、測量用の櫓が組まれていて、三角点以外何もなかった。展望も全く利かない。 山頂から坊主山に続く稜線のどこかに烏帽子谷に下るルートがあるはずと見当をつけ、稜線を南に進んでみる。稜線上はスズタケが密生しているが、割合はっきりした踏み跡がある。30分ほど進み、赤岩ノ頭への登りに掛かると、場違いなほど確りした道標が、東に下る微かな踏み跡を「荒川村に至る」と示している。この踏み跡はスズタケの密生の中に消えており、果たして下まで辿れるかどうかかなり怪しい。更に7〜8分進むと、又もや立派な道標があり、「荒川村に至る」と、今度は西に下る確りした踏み跡を示している。どうやらこの道が、烏帽子谷に下る道のようである。帰りのルートが確認できたので、赤岩ノ頭まで行ってみようと、更に稜線上を南に進む。すぐに猛烈なスズタケの密生となり、かきわけ、かきわけ進んでなんとか赤岩ノ頭に達する。ここから先は、凄まじいスズタケ密生地で、とても進めそうもない。坊主山まで果たしていけるのであろうか。引き返して、烏帽子谷に下った。迷うことない立派な道で1時間半ほどで、朝、最初に分かれた道に出た。 最近、ハイキング地図を見てみたら、私が登り、そして下ったルートが、赤点線で示されていた。ただし、地図には、「危」「迷」の記号が記され、更に、「この山域は遭難事故多、初心者のみの入山は危険」との注が書かれてあった。私は割合簡単に登ってしまったが、岩場も多く、やはり事故が多いのであろう。
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