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横隈山(よこがいさん) 593.6m

 
所在地 埼玉県児玉町 神泉村      
名山リスト なし
二万五千図 鬼石
登頂年月日 2001年1月3日     

 
 出牛集落付近より望む横隈山
 北面より望む横隈山
 奈良尾峠手前より望む横隈山

 
 今年の4月、城峯山頂から東尾根を鐘掛城、奈良尾峠、風早峠と縦走した。奈良尾峠が近づいた頃、左前方彼方に実にカッコイイ山が見えた。「あんなところにあんな山あったっけ」。頭の中で地図をこね回すが思い至らない。あまり気になるのでザックを下ろし、二万五千図を合わせると、「横隈山」と答えが出た。確かに山の格好も地図通りである。横隈山ならば一年前に登ったばかりである。しかし、これほどカッコイイ山とは思いも寄らなかった。改めて横隈山を見直した。

 横隈山は児玉地方の山である。この児玉地方はいわば登山ハイキングの空白地帯である。確かに、地図で見るかぎり、城峯山から伸びる尾根がいくつもに分岐しながら流れ込んではいるのだが、登山ハイキング案内に取り上げられるような山はない。私も今までこの地域を一顧だにしたことがなかった。

 横隈山を初めて知ったのは、1993年発行の山と渓谷社「分県登山ガイド 埼玉県の山」においてである。二万五千図で確認してみると、確かに593.6メートルの三角点峰はあるが、山名の記載もない。さらに調べてみると、横隈山の読み方がヨコガイサンのものとヨコクマヤマのものがあり、山名すらはっきりしない。児玉山の会にE-MEILで問い合わせてみると、ヨコガイサンである旨の丁寧な返事を頂いた。

 ルートもはっきりしない薮山で、特段登山意欲は湧かなかったが、21世紀の新年早々、野上駅から一人この横隈山に向かって歩き始めた。実を云うと、このときの山行きは横隈山が主たる目的ではなかった。この山を目標とするなら、皆野駅からイロハ橋までバスに乗ればよい。目指したのは、出牛峠越えと峠の麓に位置する出牛集落訪問であった。出牛集落の先にちょうど横隈山があるので、ついでに登ろうとの思いであった。出牛峠は秩父困民党の越えた峠として特別の思いがあった。また、出牛集落は秩父街道の宿場として江戸・明治期大いに繁栄した集落であり、その残り香を嗅いてみたいとの思いがあった。

 すでに薮に覆われてはいたが、深くえぐれた峠道を辿る。明治17年11月、この出牛峠を大野苗吉率いる秩父困民党の軍勢が児玉を目指して進軍していった。いまや稜線林道の走る峠で感傷に浸ったのち、出牛集落へ向け峠を下る。当時の山日記には次のように記載されている。
  「ついに出牛の里にやって来たのだ。ここが明治の中頃まで
   宿場町として繁栄を極めた里なのか。道の両側に家々がびっ
   しりと建ち並び、茶屋や旅籠が10軒もあったとい里なのか。
   旅籠の二階からは遊女が手招きをしていたという。しかし、
   見渡す出牛の里は町並みというような人家の密集もなく、県
   道に沿って新建材の家々が歯抜けしたようにぽつりぽつりと
   建つ、何やら埃っぽい平凡な集落であった。昔の面影を求め、
   峠を越えてやってきた現在の旅人は少々がっかりして県道端に
   たたずむ。実は出牛集落は大正9年の大火により、昔の町並み
   はすべて失われてしまったのだ」

 出牛集落から、初めて目指す横隈山が見えた。しかし、山頂の一角に鉄塔の立つ平凡な山で、別段登山意欲が刺激されることもなかった。30分ほど車道を歩いて南面に展開する平沢集落に達する。登山ルートがはっきりしないので、沢を詰めた。途中出会ったしっかりした踏み跡を登ると住居野(すまいの)峠に達した。苔むした古い石柱の道標が立つ、なかなか情緒のある峠である。尾根道を辿り、山頂直下まで開削された林道を経て、山頂に続く尾根に取り付く。「御嶽座王大権現」、「武尊大権現」、「御嶽大神国常立尊 」と刻んだ板碑が建ち並んでいた。いずれも明治初めの銘である。どうやら、この山は信仰の山であったようである。初めてこの山の個性に接した思いがした。すぐ上が山頂であった。

 児玉山の会の立派な山頂標示が立つ山頂は、雑木林に囲まれ、木の間隠れに眼下に鬼石の町並みと神流湖、その先に西上州の御荷鉾山がそびえ立ち、この山が県境近くに位置することを実感した。帰路は踏み跡もない東斜面を下り、現れた踏み跡をたどって北面の沢戸集落に下った。鬼石の町までは1時間弱の車道歩きであった。

(2002年10月記)