おじさんバックパッカーの一人旅   

タイ北部周遊とサン・パサック村滞在記 (2)

北部タイの歴史を辿り、今を知り、未来を感じる旅

2009年4月22日

     〜5月3日

 
第9章 ヒッピーの溜まり場・パーイ

 4月22日。昨日、サン・パサック村からチェンマイに戻った。今後、パーイを経由してメーホンソンに向うつもりである。ホテルのフロントでパーイへの行き方を聞くと、アーケードバスターミナルから1時間に1本ミニバスが出ているとのことである。7時30分チェックアウト、トゥクトゥクを捉まえてバスターミナルへ向う。このターミナルは大きいので、うまくミニバスの乗り場を探し当てられるか心配したが、運転手が確りと乗り場まで案内してくれた。

 8時30分発車。12人乗りのワゴン車であるが、乗客は女性4人と中年の僧侶と私の6人、ガラガラである。しかも、車は新車、冷房もよく効き、リクライニングシートも快適である。しかし、同乗の僧侶の態度が何とも悪い。発車してから2時間、携帯電話を掛け続け、最後は後部座席で寝ころんでしまった。こんな輩でも僧なのか。あきれ果てた。

 国道107号線を北上する。素晴らしい道である。途中、VIPの通過らしく、交差点が閉鎖され暫く待たされた。Mae Taengの街から地方道に入り、暫く走ると凄まじい山道となった。ヘアピンカーブと上り下りの連続である。ここまでの山道は想像していなかった。ただし路面状態は良く、また交通量も少ない。約2時間走って、山間のドライブインで15分のトイレ休憩となった。再び厳しい山岳ドライブを1時間強、12時少し前にバーイの小さなバスターミナルに到着した。近くの ゲストハウスにチェックインする。1泊200バーツと安いが冷房はない。オーナーは英語を話す。

 昼食後、早速、街に出てみる。その結果は驚きであった。街中にファランの若者が溢れている。しかも多くが、半裸で刺青をしたヒッピーである。街の繁華街も旅行者相手の店で埋め尽くされている。土産物屋、食堂、旅行社、レンタルバイク屋、ゲストハウス、ーーー。高層ビルも、ショッピングモールもなく、15分も歩けば横断できるほどの小さな街に、これほどの外人旅行者が溢れているとは意外であった。ただし、日本人の気配はまったくない。私なぞ、場違いのところに来てしまった感じである。

 パーイはチェンマイの北西約135キロほどの、周りを山に囲まれた盆地の中の小さな街である。パーイ川がゆったりと流れ、街の周囲は田園風景が広がっている。また、周辺には山岳少数民族の集落も点在している。何の変哲もない北タイの田舎町であったのだが、21世紀初頭頃よりにわかに白人バックパッカーが押し寄せるようになり、街の状況は一変したと言われる。現在ではタイのスイスなどともてはやされ、大型のリゾート式ホテルまで幾つか現れている。ただし、ヒッピーが多いため、麻薬なども広がっている様子である。

 街中は見るべきものはないので、自転車を借りて郊外に行ってみたのだが、これは失敗であった。周囲は坂だらけで、多段変速式自転車でも乗り回すのは到底無理なことが分かった。それでも、自転車を押して、郊外の丘の上にある寺・Wat Mae Yenまで行ってみた。大きな涅槃仏があったが、期待した展望は得られなかった。くたびれ果てて座り込んでいたら、バイクの音高らかに中年の男性が登ってきた。日本語が話せる。国籍を聞いたら中国系タイ人だと名乗った。明日は、私もバイクを借りて郊外を回ろう。

 夕方、街中を散歩していたら、旅行者の街から少し離れた場所で市が立っていた。この辺りが地元の人々の街なのだろう。山岳少数民族の姿もちらほら見られる。そして何と、アザーンが聞こえてきた。
街中でもムスリムを多々見かける。
 

第10章 象に乗り、温泉に浸かりーーー。パーイの1日

 4月23日。昨夜は隣室のテレビの音が大きく、夜中の2時まで寝られなかった。ゲストハウスのいたるところに「10時を過ぎたらテレビを消すこと」と標示されているのだがーーー。冷房がなく、窓が開けっ放しなので、こういうことになる。

 おまけに、早朝から隣りの仏教寺院がマイクロホンでがなり立てている。仕方がないので、7時頃起きて受付を覗くと、オーナーも起きていた。しばし雑談する。今日は仏教の特別の日であるとかで、説教をしているとのこと。まったく人迷惑なーーー。そう言えば、ミャンマーでも同じ経験をしたことがある。この街は仏教徒が90%、イスラム教徒が5%、キリスト教徒が5%とのことである。8時頃、朝食をと思い街に出るも、食堂は何処も開いていなかった。

 9時過ぎ、予定通りバイクを借りに行く。国際免許証を保持していないが、バイクは問題なく借りられた。しかも、ホンダの125CCの新車が、1日わずか100バーツ(約300円)、何と安いことか。オートマチックなので運転も簡単である。一応、無免許運転なので、捕まらないように、ヘルメットをかぶり、低速でのろのろ進む。あちこちに「ノーへルは500バーツの罰金」との張り紙はあるが、ヘルメットをかぶっているものなど皆無である。また、警察もまったく取り締まりはしていない。

 先ずはガソリンを満タンにして、宿でもらった地図に「エレファント・キャンプ」とある場所を目指す。どんなところかよく分からないが、象に乗れるようだ。坂道もすいすい、文明の利器はいたって便利である。山裾を20分も走ると、小屋の中に何頭かの象が見られる。どうやらここらしい。何かまともな観光施設かと思っていたが、そうではないようだ。バイクを止め、聞いてみると、500バーツ払えば象に乗れるという。高い気もするが、せっかくここまで来たのだからーーー。

 大きな象が小屋から引きだされた。象使いの若者が首に跨がり、私には背中に乗れという。とは言っても、その背中には、鐙や鞍などの人が乗る装備は何もなく、胴体に巻かれた一本のロープにしがみつくだけである。ようするに裸馬に跨がる状態である。パーイ川に向って歩き始めたのだが、乗り心地は極めて悪い。胴体が太すぎて足が十分に開かない、また、歩くたびに肩の筋肉が大きく動く。このため身体の安定がうまく保てない。必死にロープにしがみつく。象は32歳の雄だという。

 巨体だが象は実に愛らしい。時々鼻を象使いに擦りつけては甘え、バナナをねだる。象使いの若者はカレン族である。河原まで行き、「これから水浴びをする」という。荷物を全部河原に置き、象は我々を乗せたまま川の中に入って行く。水深1メートルほどで、流れも緩やかなので危険はない。象は大喜びで水と戯れだした。鼻で水を吹き上げ、全身を水に沈めーーー。我々ももう全身びしょぬれである。ついに象は水の中でのたうち回り始め、私は水中に放りだされてしまった。

 象に別れを告げ、再びバイクを走らす。地図には、この先に「Hot Spring」との記載がある。どんなところか知らないが行ってみることにする。10分も走ると、入り口に達した。100パーツの入場料を取る。どうやら今度はまともな施設のようだ。山裾に広がる広大な森の中を小川が流れる。何と、この小川がお湯なのである。小川は所々石で塞止められて、お湯溜まりとなっている。近くに簡単な脱衣所がある所を見ると、露天風呂なのだろう。更に緩やかに登って行くと、源流に達した。山肌からお湯が沸きだし、微かに硫黄の匂いがする。湯温80℃の標示があり、かなり熱そうである。

 不思議なことに、施設内をここまで歩いてきても人影が一切ない。入場者は私一人の気配である。チャンスとばかり、パンツ1張になって、露天ぶろに飛び込む。実にいい湯加減である。まさか、タイの辺境の地で温泉に浸かれるとは思わなかった。のんびり30分も浸かっていたが、ついに誰も現れなかった。大満足である。それにしても、なぜこの地に温泉があるのか不思議である。タイには火山もないし、地震もない。

 もはや行くところもない。周辺をのんびりドライブして街に帰る。明日、メーホンソンに行くつもりなので、バスのチケットを得ておこうとターミナルへ行ったが、「明日来い」と、けんもほろろに追い返されてしまった。予約は出来ないようだ。
 

第11章 激しい山道を辿り、メーホンソンへ

 4月24日。朝、オーナーが「昨夜はよく寝られたか」と声を掛けてきた。気にしてくれているようだ。しかし、昨夜も隣室の女の声が1時半頃までうるさくて寝られなかった。今日はメーホンソンに行く。7時にバスターミナルへ行き、漸くバスの運行スケジュールが判明した。8時30分に公営の大型バスが出る。ただし、冷房なし、座席指定なしの普通バスである。9時30分に私営のミニバス(ワゴン車)が出る。こちらは座席指定の冷房車である。ミニバスを予約する。今日も朝からカンカン照りである。

 パーイ盆地を抜けると激しい山道となった。ヘアピンカーブと上り下りが休む間もなく続く。そのためか、座席の掴み棒にはビニール袋が吊るされている。油断すると私も酔いそうである。約50分で、Pang Ma Pha の小さな街並みが現れた。数人の乗客が降りる。トイレ休憩もなく、車は再び山中に突き進んでいく。後で知るのだが、パーイとメーホンソンを結ぶこの道には1864個のカーブがあるとのことである。メーホンソンで売られているお土産用のTシャツには「1864Curve」の文字が盛んに染め抜かれていた。さほどに、凄まじい山道である。

 途中2カ所、軍の検問があった。国境が近いことが感じられる。周りの山々には焼き畑の跡が見られるが、もはや耕作はされていない様子である。時々、山の斜面にへばりつく小さな集落が現れる。2時間以上走るがトイレ休憩の気配はない。メーホンソンまで直行するようである。さしもの急カーブの連続も終わり、街並みに入った。メーホンソンである。ただし、車は街並みを抜けて行く。んんんーーー、と思ったら郊外の真新しいバスターミナルへ入った。パーイを出発してから2時間半であった。

 立派なターミナルだが、人影もなく、閑散としている。さてどうしたもんか。街まで歩くとなるとかなり時間が掛かりそうである。しかも、太陽がぎらぎら照りつけている。しばしうろうろしていたら、漸く一台のトゥクトゥクが来た。何処か宿を決めなければならないのだが、運転手は盛んにPrince G.H.を勧める。私は案内書に載っていたPiya G.H.を指示する。所が、着いたところはPrince G.H.、よほど紹介料がもらえるのだろう。怒鳴りつけて、Piya G.H.に行かせる。料金は1泊600バーツと少々高めであったが、広い庭を囲むようにバンガローが点在する素晴らしい宿であった。部屋も広く清潔、もちろん冷房完備である。ゲストハウスというよりリゾートホテルの趣である。

 
第12章 山々に隠された美しき街

 チェンマイの北西約245キロ、パーイの西約110キロ、ミャンマーとの国境近くに位置するメーホンソンは、タイ最奥の辺境の街と言える。山また山によって北タイの中枢部からも隔離され、むしろサルウィン川流域(ミャンマー)に近い。歴史的に見ても、北タイ文化圏ではなく、シャン文化圏に属する。住民もタイ・ユアン族ではなく、タイ・ヤイ族(シャン族)が主体である。また周辺にはカレン族、モン族、ラフ族、リス族などの山岳少数民族の村々が点在している。

 注1) タイ・ユアン族ーータイ族の一派。タイ北部の主要民族。ラーンナー王国を建国した。
 注2) タイ・ヤイ族ーータイ族の一派。ミャンマーのシャン高原からサルウィン川流域に居住する。

 この街は自然豊かな美しい街として知られている。特に、街を幻想的に覆う朝霧が有名で、「霧の街」との別称を持つ。その美しさがどれほど評価されているかの1例を示すと、書籍「死ぬまでに1度は行きたい世界の1000カ所  ハトリシア・シュルツ著、イースト・プレス社発行」に取り上げられている。いわば、世界のベスト1000にも入る美しい街である。 

 昼食を済ますと、すぐに街に飛びだした。ゲストハウスの目の前が、その美しさの中心といわれるチョーン・カム湖である。湖というより、周囲1キロほどの少し大きめの池である。岸辺には、枝から房となって降り注ぐクン・シアン・ケン(ゴールデンシャワー)の黄色い花、樹木全体を炎のごとく朱に染めているドックラー(ハナモツヤクノキ)の花、ピンクのファンファの花が、降りそそぐ強烈な光の中に咲き誇っている。そして、湖畔に隣りあって建つ二つの寺、ワット・チョーン・カムとワット・チョーン・クラーンが美しいタイ・ヤイ式の伽藍を湖に映し出している。まさに絵になる光景である。

 二つの寺院を巡る。参拝者の姿もなく、昼下がりの気だるさが辺りを支配している。ワット・チョーン・カムは18世紀末創建で、メーホンソン最古の寺院である。小屋根を尖塔の様に積み上げた本堂を持つ典型的なタイ・ヤイ式寺院で、内部には電飾の後背で飾られた三体の仏像が鎮座していた。隣のワット・チョーン・クラーンは19世紀の建立。釣鐘型のスリランカ様式の仏塔と小屋根を積み重ねたタイ・ヤイ型仏塔が並び立っている。幾重もの緑色の屋根を持つ本堂は青空に映えて美しい。

 チョーン・カム湖畔を離れ、街中に歩を進める。典型的な田舎町なのだが、所々にハッとするタイ・ヤイ様式の建物を見る。ツーリストポリスがあったので立寄って地図をもらう。係官は愛想がいい。続いて大きな市場があった。ただし、真っ昼間のためか中は閑散としている。その隣りはワット・ファ・ウィアン、1863年建立のメーホンソンで二番目に古い寺院である。広い境内にタイ・ヤイ式の伽藍が幾つも並び、なかなか見ごたえがある。本尊はマンダレーのマハムニ・パゴダにある有名なマハムニ仏を模して作られたとのことである。私は数年前に、本物を拝顔している。

 それにしても強烈な熱さである。街に1軒あるコンビニに逃げ込む。ここは冷房が効いて涼しい。街を歩き回って意外に思ったことがある。観光客の姿がほとんどないのである。2〜3組み見かけたがいずれも中老年の白人、パーイには白人の若者があれほど溢れ返っていたのにーーー。観光地としてはパーイよりメーホンソンの方が遥かに名が知れているのだがーーー。

 夕方、いくらか涼しくなったのでワット・プラ・タート・ドーイ・コーン・ムーへ行ってみることにする。街の西、標高424メートルのコーン・ムー山頂に建つ寺院である。チョーン・カム湖と並んで、メーホンソン最大の見所である。街の何処からでも山頂に建つ仏塔を望むことができる。山頂からの展望は絶佳で、メーホンソンの街とミャンマーに続く山並みが一望できるとのことである。

 登り口がわからず、丘の麓のワット・プラ・ノーンで、小坊主に聞いてみると、参道まで案内してくれた。山頂に向って長い長い石段がつづら折りに続いている。覚悟を決めて石段に挑む。山頂まで車道も通じているためか、この参道を歩いて登っているものはいない。登るに従い、眼下にメーホンソンの街並みが広がっていく。15分も頑張ると、上空で人声がして迂回してきた車道にでた。ここから、ワット・プラ・タート・ドーイ・コーン・ムーまでは一足張であった。

 真っ白な大小二つの仏塔とタイ・ヤイ様式の礼拝堂が建つ。二つの仏塔は基壇が八角形、上部が円形のモン形式である。ただし、視線は自ずと、寺院よりも眼下に広がる素晴らしい景色に釘付けになる。山々に囲まれた小さな盆地の中に、小さな小さな街並みが広がっている。上から見ると、本当に小さい。そして街は緑が多い。家々の赤い屋根がその緑に映える。街並みの背後には盆地の大きさをフルに使った飛行場の滑走路が横たわっている。何とも美しい景色である。この街は山奥に隠された小さな宝石のような街である。

 境内は意外に多くの人で賑わっている。皆、車で登ってきたようである。ただし、外国人の姿はない。寺の背後に回り込んでみると、視界の先は累々たる山並みとなった。ミャンマーとの国境の山々である。所々でうっすらと煙が上がっている。焼き畑の煙なのか、はたまた、夕げの煙なのかーーー。傾いた夕日が山の端に隠れようとしている。山を下る。

 夜、チョーン・カム湖に通じる道にナイトバザールが開かれた。ただし、いかんせん観光客がいない。ちょっと錆びしいマーケットであった。チョーン・カム湖の向こう側には豆電球に飾られたワット・チョーン・クラーンの仏塔が、暗闇の中に浮かび上がっていた。
 

第13章 メーホンソンの1日

 4月25日。朝起きるも、名物の朝霧はない。いい天気である。昨日、メーホンソンの見所は全て行ってしまったので今日はやることもない。本来、メーホンソンのもう一つの楽しみ方は、郊外の山岳少数民族の集落を巡ることであるようだが、民族を見せ物とするようなツアーに行く気はない。まぁ、のんびりとこの美しい街を楽しもう。ただし、一つやることがある。明日、チェンマイに戻るつもりなのでバスのチケットを予約しておく必要がある。宿で確認すると、予約はバスターミナルまで行かないと出来ないとのこと。少々遠いが、歩いて行ってみることにする。

 炎天下をテクテク歩く。30分も歩いて漸くバスタヘミナルへ着いた。相変わらず閑散としている。無事に明日9時発のミニバスを予約できたのだが、発車1時間前に来て再確認をしないと予約無効だという。何と意地の悪いことかーーー。

 再び歩いて街の中心に向う。街の入り口に立派な銅像が建っていた。簡単な英語の説明文を読んでみると、この人物はメーホンソンの初代領主・チャーンカレーである。メーホンソンの歴史は1831年にこの地に戦象の訓練所が作られたことに始まる。このため、当初はメーローンソンと呼ばれていた。「ソン」とは象の訓練所を意味するタイ語である。これが訛って、現在の「メーホンソン」になったと言われている。その後、1856年、ビルマ内で内乱があり、チャーンカレーに率いられた多くのシャン族がこの地に逃れてきた。チャーンカレーは多いに街の発展につくしたので、ラーンナー王国により、メーホンソンの領主に任命された。その後領主は4代続いたが、19世紀末にはタイ中央から知事が派遣されるようになった。

 さらに、暇に任せて街中を歩く、公民館、図書館、物産センター等、ハッとするようなシャン様式の建物に出会う。団子のようなビルマ文字もあらゆる所に見られる。この街の基礎文化は明らかにシャンである。夕方、再びコーン・ムー山に登ってみた。ちょうど双発の小さな飛行機が、チェンマイへ向け飛び立っていった。
 

第14章 チェンマイへの帰還

 4月26日。今日はチェンマイへ戻る。朝6時に起きると、雲が低く立ちこめ、今にも降りだしそうな天気である。そろそろ雨期が始まるのであろうか。頼んでおいたトゥクトゥクが7時40分に迎えに来た。宿のおばさんが笑顔で見送ってくれた。何とも感じのよい宿であった。バスターミナルで予約の再確認は無事すんだが、発車まで1時間も待たなければならない。待つ間に、ついに雨が降りだした。

 発車前に運転手が予約リストに基づき乗客を一人一人確認する。しかし、1時間も前から待っていたのは私一人、他の乗客は発車間際にやって来る。「1時間前に来て予約を再確認せよ」というのは外国人にのみ課しているのだろうか。何となく解せない。

 ワゴン車は定刻の9時に出発した。街並みを抜け、山岳地帯に入ると雨が激しさを増した。それでも車はスピードを落とすことなく連続するヘアピンカーブを突き進んでいく。2カ所の検問を経て、Pang Ma Phaの小さな街並みに達すると雨も小降りとなった。しかし、車は停まることもなく再び厳しい山道へと入る。今度はものすごいガスの中に突入した。視界は10メートルほどか、前がまったく見えない。さすが、車は大幅に速度を落とし、ヘアピンカーブをこなしていく。それでも出発してから2時間半、懐かしいパーイのバスステーションに到着した。

 15分のトイレ休憩の後、乗客が入れ替わることもなく出発、チェンマイを目指す。相変わらず厳しい山岳ドライブだが、雨は降ったり止んだりの小康状態となった。漸く山岳地帯を抜け里道になるとほっとする。Mae Taengの街で国道107号に合流、車は時速100キロものスピードで飛ばす。14時45分、無事にチェンマイのアーケードバスターミナルへ到着した。

 
第15章 タイ最北端の街・メーサイへ

 4月27日。今日はタイ最北端の街・メーサイへ行く。メーサイは過去2度も訪れており、特別行きたいわけでもないが、メーサイからミャンマーへちょっと入国してみたい。メーソットでミャンマーへ入国し損なったので、悔いを残したくないとの思いがある。9時チェックアウト、ソンテウを捉まえてバスターミナルへ行く。いい具合に9時30分発のチェンライ行きバスに乗れた。

 Mae Khajangまでは数日前にパヤオへ向った道、15分のトイレ休憩の後、チェンライに向け北上する。珍しいことに、中年の白人が一人乗車している。ロンリープラネット(世界的に有名な英文の案内書)を開いて、車掌に一生懸命聞いているが、何せ英語は通じない。峠を越え、そろそろチェンライと思ったら、13時、何とバスは真新しいバスターミナルに到着した。ここが、終点チェンライのバスターミナルだという。チェンライのバスターミナルは街のど真ん中にあったはずなのだがーーー。一瞬ポカンとする。聞いてみると、今月からこの新しいターミナルに移ったとのこと。チェンライの街から10キロほど南の地点である。しかも、メーサイ行き等県内行きのバスは旧ターミナル発着だという。思わぬ事態である。ただし、旧ターミナル行きのソンテウが頻発していた。すぐに乗り換えて、15分ほどで、無事見慣れた旧ターミナルへ到着した。

 ここまで来れば勝手知っている。13時30分発のメーサイ行き小型ぼろバスに乗り換える。バスはチェンライの街並みを抜け、国道1号線をトコトコと北上する。乗客が乗ったり降りたり、完全なローカルバスである。いつもの検問を抜け、メーチァンの街へ。田園風景の中を更に北上すると再び検問があった。到着したメーサイのバスターミナルは街から10キロも南に位置する。ソンテウに乗り換えて街に向う。途中、巨大なスーパーマーケット、テスコ・ロータスが新設されていた。15時30分、国道1号線の終点、すなわちミャンマーとの国境ゲートでソンテウを降りる。ついに、タイ最北端までやって来た。ワン・トン・ホテルにチェックインする。朝食付き850バーツであった。宿泊者はほとんどおらず、ガラガラの様子である。夜、激しい雷雨となった。

 
第16章 ミャンマーへの1日入国

 4月28日。どんよりした天気だが、雨の心配はなさそうである。今日はミャンマーへ1日入国する。入国料を払えば、ビザなしで入国出きるはずである。9時、ひとまずチェックアウトし、荷物を預けていざミャンマーへ。この地点からミャンマーへの入国は三度目であり、勝手は知っている。先ずはタイのイミグレーションで出国手続、通常の手続きである。国境となるサイ川にかかる橋を渡る。川幅10メートルほどのドブ川である。橋の真ん中で立ち止まる。ここが国境線上である。この地点から南にはタイ国旗がはためき、北側にはミャンマー国旗がはためいている。ミャンマーのイミグレーションに行く。こちらは特殊な入国手続となる。500バーツの入国料を払うと、14日間有効の顔写真付き入国許可証を作成してくれる。パスポートを預け入国する。従って、出国はこの地点からしか出来ない。

 イミグレーションを出たところが、タチレクの街である。途端に景色はミャンマーとなる。女性の頬を白く染める「タナカ」とミャンマー独特の巻きスカート「ロンジー」の世界である。待機しているトゥクトゥクやリキシャの運転手が声を掛けてくるが、以前ほどはしつこくはない。

 橋の袂が国境の街独特のマーケットとなっている。路地の両側に小さな店がぎっしりと並び、土産物や中国製の雑貨を売っている。違法なコピー商品も多い。その中を怪しげな物売りが歩きまり、偽タバコ、バイアグラ、麻薬、或いはオンナを通行人に勧める。マーケットは賑わっている。ただし、以前は欧米人や日本人が多かったが、今やタイからの観光客が主力である。物売りも以前ほどしつこくはない。

 マーケットを抜け、ぶらりぶらりと街の奥へ進む。路地の奥で朝市が開かれている。生鮮食料品が道端に並べられ、威勢のよい声が飛び交う。路地は大混雑だが、ここは全て地元の人だけ、観光客の姿はない。ただし、やり取りされている通貨はすべてタイ・バーツである。更に進むと、タイ・ヤイ様式(シャン様式)の寺院があった。タチレクはシャン州に属している。街のあちこちに托鉢の僧の姿が見られる。タイ、ミャンマーとも熱心な仏教国だが、僧の衣の色が異なる。タイは黄色もしくはオレンジ色だが、ミャンマーでは小豆色である。

 前方の高台に、金色に輝く巨大な仏塔が見えてきた。最近建立されたタチレク・シュエダゴンパゴダである。ミャンマー最大の聖地・ヤンゴンのシュエダゴンパゴダを模して作られたものである。高台だけに実に展望がよい。タチレク、メーサイの街が一望できる。ここから見るかぎり、二つの街は境目などない一つの街である。国境線が如何に人工的なものかが分かる。国境に戻ることにする。

 このタチレクの街を訪れるのは三度目である。そして、来るたびに印象が異なる。2004年に最初に訪れた時の印象は「恐怖」であった。物乞い、物売り、客引き、その他得体のしれない人間がしつこく付きまとい、街の見学どころではなかった。そしてまた、タイと比べ「貧困」が強く感じられた。2006年、二度目にに訪れたときは「ミャンマーも少しはまともになったかな」であった。物売りのしつこさも減り、街中を一人歩き回れる雰囲気となっていた。ただし、タイとの経済的格差は未だ顕著であった。今回の印象は「なんだ、タイと余り変わりないではないか」である。国境の街特有の怪しさは残るものの、危険の匂いはまったくしない。人々の服装もこざっぱりし、「貧困」のイメージはない。街には車とオートバイが溢れ、アジアの普通の都市である。
 

第17章 古都・チェンライ

 再び国境を越え、11時30分、タイのメーサイの街に戻る。パスポートには確りミャンマーの入国、出国印が押されていた。これからチェンライへ行くつもりである。ホテルで荷物を受け取り、ソンテウでバスターミナルへ向う。客を求めてのろのろとターミナルから出て来たチェンライ行きのバスと行き合った。車掌が飛び降りて、私を迎え入れる。田舎のバスは客さえいれば何処でも停まる。途中の検問では、ミャンマー人らしき乗客は荷物を詳細に調べられていた。13時30分、無事にチェンライに着いた。何度かお世話になったゲストハウスにチェックインする。今回の旅はここが終着点である。天気に恵まれ、予備日を使わなかったため、日程が余った。チェンライは私の好きな街だ。この街で2〜3日のんびりと過ごすことにする。

 遅い昼食を済ますと街に飛びだした。チェンライは四度目なので勝手は十分に承知している。チェンライに来たからには、先ずはワット・プラケオに参拝しなければならない。メインストリートのパホンヨーティン通りに出ると、何と、真新しい金ぴかの大きな時計台が目に飛び込んできた。2006年に訪問したときにはなかった代物である。そもそも、この地点には古風な白い時計台が建ち、チェンライの象徴として市民にこよなく愛されていた。ところが、2005年に訪れたときには、この時計台は二本北側のChiang Mai通りに移設されてしまっていた。「おかしなことをするもんだ」と訝ったのだがーーー。建て替える為の処置だったようである。しかし、金ぴかのゴージャスな時計台より、以前の古風な時計台の方が古都・チェンライには相応しいと思うのだがーーー。もっとも、タイ人は金ぴかが大好きである。

 市場を抜け、暫く歩くと目指すワット・プラケオに達した。チェンライでもっとも人々の崇拝を集めている寺である。そして、この寺はタイの国家守護仏であるエメラルド仏の故郷として知られている。現在、バンコクのワット・プラケオに祀られ、国家最重要の御仏として崇められているエメラルド仏は、1434年、ラーンナー王国統治下チェンライのこの寺で誕生した。落雷で破壊された仏塔の中から漆喰に包まれた姿で発見されたという。その後、この御仏は歴史に翻弄されながらタイ、ラオスの各地を旅する。その旅路はチェンライ→ランバーン→チェンマイ→ルアンプラバン→ビエンチャン→トンブリ→バンコクと続いたのである。

 先ずは、直線的屋根に特徴のある北部タイ様式の本堂に昇る。本尊にご挨拶をして、境内奥にある小ぶりな仏堂に向う。1990年に国王の御母堂90歳の記念に建てられた仏堂である。この中にエメラルド仏とまったく同じに作られた二代目のエメラルド仏が納められている。本物は間近に見ることは出来ないが、こちらの御仏は至近距離で拝顔することが出きる。過去何度も参拝しているので、いわば顔見知りである。仏様も「やぁ、また来たか」と言われている様である。

 本堂の南側に二階建ての大きな建物がある。前を通りかかると、以前は気がつかなかったのだが、「博物館」との小さな標示が目に入った。上がり込んでみると、寺の寺宝が整然と展示されていた。通りかかった老僧が「どこから来ましたか。どうぞごゆっくり」と挨拶して去ると、室内は無人である。防犯などという概念はこの寺には微塵もない。本堂もエメラルド仏の御堂も同様であった。「ここは御仏の座すところ」との自信と信念がにじみ出ている。私は、タイの多くの寺の中で、この寺が一番好きだ。

 ワット・プラケオの山門を出ると、足は自然とその背後の丘陵へと向った。チョムトンの丘に行くつもりである。街の西の外れ、コック川を見下ろすこの丘こそメーンラーイ王の館があったという言われる場所である。今はラク・ムアン(市の柱)とワット・ドイ・トーンが建っている。チェンセーンのムアン(部族国家)の族長の地位にあったメーンラーイは1262年、都をチェンライに遷す。歴史はこの時をもってラーンナー王国の成立とする。このチョムトンの丘こそ、王国発祥の地なのだ。人影のない丘にたたずみ昔日を思う。

 丘を下り、隣りの丘に建つワット・ンガーム・ムアンに立寄る。この寺の境内にはメーンラーイ王の座像が建てられている。今しも一人の男が像の前に膝まづき、熱心に祈りを捧げていた。この寺はメーンラーイ王の第二子にして、王国第二代の王・クン・クラムにより、父メーンラーイ王のために建てられた寺である。メーンラーイ王は自らの跡継ぎと定めた第一子を謀反の疑いで殺している。

 夕闇迫る道を市街に戻る。帰りがけに、ワット・プラシンに寄る。14世紀創建と伝えられ、ワット・プラケオと並ぶチェンライの古刹である。境内は小坊主どもが夕方の掃除に余念が無かった。
 

第18章 チェンライの1日

 4月29日。朝起きたら8時であった。今日は1日チェンライの街をほっつき歩くつもりである。朝食を済ますと、またもや足はワット・プラケオに向いた。途中市場を覗く。朝の賑わいがまだ続いている。アカ族のおばちゃんの姿もちらほら見られる。エメラルド仏に朝の挨拶を済ますと、Singhaklai通りを東に向った歩き始めた。樹齢数百年と思える大木が並木となって茂り、古街道の趣のある素晴らしい道である。30分も歩くと、Singhaklai通りは国道1号線にぶつかる。ここに小さな広場があり、メーンラーイ王の銅像が建つ。王は現在でもチェンライの守り神である。王に対する人々の尊敬は深い。像の前には所狭しと供物が並べられ、膝まづき祈りを捧げる人の姿が絶えない。付近には供物を売る露店も並んでいる。

 私も王に御挨拶をして、ひと休みしていたら「Tho Gate」と記した小さな石碑を見つけた。石碑の裏にはチェンライの簡単な市街図と12のGate跡が記されている。この記載により、チェンライには次の12の城門があったことを知る。

 『Nan Ing Gate』『Chiang Mai Gate』『Wai Gate』『Pa Daeng Gate』『Phi Gate』『Khatam Gate』『Tha Nak gate』『Tha Sai Gate』『Tho Gate』『Yang Soeng Gate』『Jao Chai Gate』『Sri Gate』

 同時に、王都・チェンライの城域が、現在のSinghaklai通りとPhaholyothin通り、およびチョムトンの丘に囲まれる範囲であったことを知る。案内書には城門についてなど一編の記載もない。今日はどうせ暇だ、12の城門を尋ねてみようか。

 国道一号線を少し南下し、Phaholyothin通りとの分岐地点まで来ると、煉瓦を積み上げた城門がわずかに残っていた。『Yang Soeng Gate』との標示がある。ここが現在痕跡が残る唯一の城門のようである。Phaholyothin通りを進む。Wat  Srigirdを過ぎた所に『Jao Chai Gate』、更に先に『Sri Gate』と記された石碑を確認する。しかし、時計台のある交叉点にあるはずの『Wai Gate』及びその先の『Pa Daeng Gate』の石碑は発見できなかった。おそらく、道路拡張工事で取り除かれてしまったのだろう。

 Phaholyothin通りをここまで辿ってくると、道沿いに掘割りが現れた。一目、城壕の跡である。まさか、チェンライに城壕が残されているとは思わなかった。歩き回ってみるものである。すっかり嬉しくなってしまった。城壕沿いに更に『Chiang Mai Gate』と『Phi Gate』の石碑を確認し、いったんゲストハウスに戻る。

 午後から今度はSinghaklai通りの城門を探しに行く。『Khatam Gate』と『Tha Sai Gate』の石碑は確認したが、『Tha Nak gate』と『Nan Ing Gate』は確認できなかった。以上の探索により12の城門のうち8つの城門を確認しえたことになる。

 帰路、街中で真新しい巨大なモスクを見つけた。「清来府雲南清真寺」と漢字で標示されている。「清来」とはチェンライの中国語表記である。この街には多くの中国人が住み着いている。このため、街の道路標示には全て、タイ語、英語とともに中国語が表記されている。しかも、これらの中国人の多くがムスリムである。どうやら仏教国タイは、南北両側からイスラム勢力の進出を受けているようである。南からはマレー系のムスリム、北からは中国系のムスリムの勢力拡大である。
 

第19章 赤服と黄服

 4月30日。今回の旅は天候に恵まれ、ただの1日も雨に降り込められることがなかった。このため、予備日としていた今日1日が完全に余った。何処で過ごしてもよいのだが、ここチェンライで過ごすことにする。とは言っても、もはやこの街に見学するところもないがーーー。

 朝6時に起きて市場に行ってみる。早朝の市場は大賑わいである。ただし、観光客の姿はない。山岳少数民族の姿を期待したのだが、隅の方にわずかに見られるだけであった。市場内及びその周辺には托鉢の僧の姿が目立つ。ただし、どういうわけか、少年僧ばかりである。余り荘厳な感じはない。

 近くなので、またまたワット・プラケオに行ってみた。早朝にもかかわらず既に開門していた。少年僧が托鉢から続々と返ってくる。エメラルド仏に朝の御挨拶をしてゲストハウスに帰る。

 朝食を済ますと、もはややることもない。宿の親父と雑談する。思いのほかタイの歴史に詳しい。「タイの歴史教育は現王朝に遠慮して、ねじ曲げられている。戦前の日本と同じだ」などとドキッとするようなことを平気で言う。更に彼は「現在の黄服(反タクシン派)と赤服(タクシン派)の争いに見られるタイ社会の深刻な亀裂は、中国の影響力増大がもたらした現象だ」と言う。『風が吹けば桶屋が儲かる』の嫌いはあるが、彼の意見に少々耳を傾けてみる。
 
 「1960年代から70年代のインドシナ戦争は中国が勢力拡大を狙って仕掛けた戦争である。この戦争により中国はベトナム、カンボジア、ラオスを属国化することに成功した。しかし、タイに影響力を及ぼすことには失敗した。21世紀に入り、中国は今度は武力ではなく経済力を背景とした政治力で、東南アジア諸国への勢力拡大を謀り始めた。
 この目論みにより、前記3カ国への支配を強化するとともにミャンマーを属国化することに成功した。そして現在、タイへの対応に全力を挙げている。日本主体の東西回廊建設に対向して、南北回廊の建設を積極的に進め、既に北部タイは中国の影響下に入った。この中国の戦略に便乗したのが中国出身のタクシン元首相と北部住民(赤服)であり、反発しているのが、王室、軍、中・南部住民(黄服)である」
  
 なかなか穿った見方だが、事態はそれほど単純ではあるまい。ミャンマーとラオスが中国の属国化したのは事実だが、ベトナムはそれほど柔な国ではない。カンボジアはむしろベトナムの影響下にある。タイもまた歴史的に見て、したたかな国である。中国と西側諸国(主として日本)を天秤にかけながら事態の推移を見つめるのだろう。ただし、タイの世論調査によると、中国に親しみを感じる国民がもっとも多いのが気になる。
 

第20章 旅の終焉

 全ての日程が終わった。北タイの歴史を見、そして現在を見、更には未来を感じ取る旅が終わった。訪れるたびに、この国は変化している。そして、その変化はますます速度を増しているように思える。或いは、激動の入り口に差し掛っているのかも知れない。

 次に訪れるとき、この国はどんな顔をして迎えてくれるであろうか。明日、帰国に向けてバンコクへ戻る。そして、日本に帰る。大空を泳ぐ鯉のぼりが迎えてくれることだろう。そして我が家の軒先では、一足先にタイから戻った燕の夫婦が子育てを始めているはずである。
 
                                   (完)
 

 

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