おじさんバックパッカーの一人旅
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2005年2月5日〜11日 |
第1章 タイへの帰還
2月5日午後5時20分、ジンホン発PG629便は、日暮れを迎えたチェンマイ国際空港に着陸した。「あぁ、やっと帰ってきたんだなぁ」との思いが強い。タイへ入国すると、何か故郷に帰ったような心の安らぎを覚える。バンコクへ直行せず、チェンマイで降りたのは、付近に行ってみたい街が幾つかあるためである。日本への帰国便は11日の未明、まだ4日ほどの余裕がある。 まずは今晩の宿を見つけなければならないが、特にあてはない。空港ビルの外に出て一服していると、男が寄ってきた。白タクの運ちゃんである。この空港は、トゥクトゥクやソンテウの待機が禁じられているので、市内まではリムジンタクシーか白タクを利用せざるを得ない。「どっか安い宿はないか」と聞くと、「任せとけ」と車は市内に向って走り出す。着いたところは、新市街地の"Traveller Inn"というホテル、1泊550バーツだという。部屋を見せてもらうと、まぁ、値段相当のホテルである。どうせ1泊、ベットとホットシャワーがあればよい。 すぐに、バンコクの I 君に電話する。実は、帰国便であるビーマンバングラディッシュ航空のRe-confirmが、未だにできていない。空港の事務所に行ったり、電話をしたり、何度か試みたのだがーーー。明日6日の月曜日がそのタイムリミットである。彼に頼むことにした。夕飯がてら、有名なナイトバザールを覗いてみたが、ファランばかりうろうろしていて大して面白くもない。早々に寝る。
今日はパヤオ(Phayao)へ向う。チェンマイの東約150キロ、チェンライの南100キロに位置する田舎町である。パヤオ県と言う小さな県の県都ではあるが、この町はどの旅行案内書にも載っていない。こんな町を目指す旅行者はよほどの物好きだろう。私はガムムアン王に会うためにこの町に向う。 歴史教科書はタイ族最初の国家を1238年建国のスコータイ王国と記す。しかし、パヤオ王国の建国は1096年と伝えられている、スコータイ建国に先駆けること実に142年である。パヤオ王国もまたタイ族の国である。しかし、この国の建国とその歴史に触れる教科書はない。バンコク平原から見れば、辺境の地・パヤオ地方の、国家と呼ぶに足りない小さな部族国家(ムアン)と見なされるためなのだろうか。しかし、このパヤオ王国が、タイの歴史教科書に、ガムムアン王の名前とともに、必ず登場する場面がある。タイの歴史上有名な「3王の盟約」の場面である。 13世紀に、嵐のごとくユーラシア大陸を席巻した蒙古が、その矛先を東南アジアにも向けた。1253年には雲南の地に栄えていた大理国を滅ぼし、1287年にはビルマの強国・バガン王国をも攻め滅ぼす。そして、その大軍はタイ地方に迫っていた。タイ族国家の3人の王、即ちスコータイ王国のラームカムヘン王、ラーンナー王国のメーンラーイ王、そしてパヤオ王国のガムムアン王の3王は、直ちに盟約を結び、蒙古に対応する。そして、タイ地方が蒙古軍の馬蹄に蹂躙されることを防ぎきるのである。今も、タイの人々に深い感銘を与えている「3王の盟約」である。この場面を見るかぎり、パヤオ王国は決して一地方のムアンではない。スコータイ王国、ラーンナー王国と五分に同盟を結びえる独立国家である。3王盟約の像は、チェンマイのカルチャーセンター前に建てられている。 この3王は、盟約の後も実に仲が良かったと伝えられている。ラーンナー王国のメーンラーイ王が新都・チェンマイを建設する際には、他の2王が全面的に協力したと言われ、また、スコータイ王国のラームカムヘン王は度々パヤオに遊びに行っていたと言われる(ガムムアン王の妃を寝取ってしまった話しまで伝えられている)。しかし、この3王は最初から仲が良かったわけではない。当初は、すきあらば相手国を滅ぼし、自国の領土を拡大したいという、ごく当たり前の敵対関係にあった。事実、1276年には、日の出の勢いであったラーンナー王国のメーンラーイ王は、パヤオを占領すべく、大軍を率いてパヤオ王国に向う。しかし、なぜか戦いは行われず、メーンラーイ王はチェンライに引き上げてしまうのである。以降、2王の間には強い信頼関係が築かれていく。 南北の二つの強国と五分に渡り合い、相手に1目も2目も置かせた国・パヤオ。そして、その王・ガムムアンとは一体何者であったのだろう。パヤオ王国はいつ攻め滅ぼされてもおかしくない小国である。ガムムアン王の人間としての魅力が、相手に信頼と尊敬の念を抱かせたとしか考えられない。ラームカムヘン王の銅像はスコータイ王国の都があったスコータイ歴史公園の中央に堂々と建っている。メーンラーイ王の銅像は、ラーンナー王国の都であったチェンライの街中に建てられている。両王の像とも、今でも参拝者の列が絶えない。そして、ガムムアン王の像はその都であったパヤオの湖の岸辺に建つという。会ってこよう、ガムムアン王に。
9時頃、チェンマイのバスターミナルへ行ったのだが、思わず目を見張った。建物の中に入れないほどの凄まじい人波でごった返している。切符売り場の前は長蛇の列。これでは並ぼうという気力さえも失せる。しばらくぼう然としていたが、気を取り直して最後尾に並ぶ。20分ほどで、私の番が来たが、次ぎのパヤオ行きは12時発だという。2時間以上の待ち時間である。仕方がないか。 定刻12時、冷房完備の大型バスは、定員一杯の乗客を乗せて出発した。3時間ほどの行程のはずである。タイでは普通、乗客は、後ろの席に気を使ってリクライニングシートを倒さない。いかにもタイ人らしい優しさの現れなのだが、私の前の若い女だけ、フルに倒してくる。少々頭に来るが、文句を言うわけにも行かない。中間点に当たるドライブインでトイレ休憩。ここまでは、チェンライへのルートといっしょ、2週間前に通った道である。北へ向うチェンライへの道と別れ、バスは東に向う。どこまでも丘陵地帯が続く。道はよく整備されていて快適である。ラオや中国のものすごい悪路をついつい思いだしてしまう。やがてバスは街並みに入り、パヤオのバスターミナルへと滑り込んだ。パヤオの街は大きな湖の辺にあると聞いていたので、途中、車外に湖水の姿を求め続けたが、最後まで見ることができなかった。 バスを降りる。どこか今晩の宿を見つけなければならない。案内書もないのであてはない。外人旅行者が来るところでもないので、ゲストハウスはないだろう。ターミナルのすぐ側のGateway Hotelという11階建ての立派なホテルが目に留まった。大きなザックを担ぎ、Tシャツ、サンダル履きの格好で行くには、若干場違いな気もしたが、かまわずフロントに行く。宿泊費は朝食付きで1000バーツ、やはり地方都市だとずいぶん安い。10階の立派な部屋に通された。窓のカーテンを開けて、思わず驚嘆の声を上げた。大きな大きな湖が視界一杯に広がっている。なんという景色、なんという展望だろう。 カメラをもって外に飛びだす。とはいっても、街の状況はまったく分からない。フロントでいくらか資料をもらったのだが、いずれもタイ語だけ、役に立ちそうもない。まずは、窓から見えた湖畔に直行する。湖畔は、植木や草花で飾られ、遊歩道も設けられ、きれいに公園風に整備されていた。ベンチに座り、眼前に広がる湖を眺める。湖面には、いくつもの浮き草が漂い、その間を今しも一艘の小舟がゆっくりと進んでいく。観光船や遊覧ボートなどの俗施設はない。その背後には山並みが大きく連なっている。チェンマイ地方とを分け隔てるルワン山(1697m)、クンメーファート山(1550m)、クンメータム山(1330m)などの連なりである。まるで絵のような景色である。こんな景色がタイにもあったのか。スコータイのラームカムヘン王はしばしばこのパヤオに遊びに来たと言われるが、この景色に魅せられたのだろう。 この湖畔のどこかに、ガムムアン王がいるはずである。湖畔の遊歩道を少し歩くと、すぐに久恋の人に出会えた。大理石を敷き占めた一角に、伝説の王は湖を見つめるようにたたずんでいた。おりしも、子供を連れた若い夫婦が、その前に膝まずき、熱心な祈りを捧げている。像の前には、花や線香などの供え物が所狭しと並び、参拝者の列が絶えないことを示している。私も、履物を脱ぎ、膝まづいて、伝説の王を見上げる。その表情は威厳というより慈悲に満ちている。「あなたに会いたくて、ここまでやって来ました」とそっと語りかけてみる。王は何も答えなかったがーーー。 目を湖畔に沿って北へ向けると、軽く突き出た岬に、大きな寺院らしき建物が見える。おそらく、この地で最も崇拝を集めているワット・シーコムカム(Wat Sri Khom Kham)だろう。少し遠そうだが行ってみることにする。街並みを外れ、チャンライへ向う街道を20分ばかり歩くと、目指す寺院に着いた。道路の向かい側には大きな駐車場が有り、土産物屋や屋台が並んでいる。既に日没の近いこともあり、参拝者の数は多くないが、昼間のにぎわいが想像できる。チェンセーン様式の本堂の中には高さ18メートルもある金色の仏像が祀られていた。 来た道を戻る。夕日が湖を赤く染めながら、背後の山並みに沈んでいく。少し、パヤオの街を歩き廻ってみよう。緩やかな坂となったメインストリートを街の中心部へ進む。古い町らしく、なかなか風情がある。薄明かりが残る寺の境内では小坊主がもろ肌を脱いで掃き掃除をしている。さらに進むと、三叉路となってぶつかる道がにぎわっている。まだ準備中だが、大規模なナイトバザールが開かれる様子である。その道を進んでみると、公園風の大きな広場があった。その中央に寺院風の建物があり、中に「市の柱が」納められていた。ここが街の中心のようである。ホテル近くまで戻ると、一本の道が屋台で埋っている。なかなか壮観な光景である。 湖畔に、感じのよいオープンスペースのレストランがある。少々高そうだが、夕食はそこにしよう。ビールを注文すると、ボーイが何やらタイ語でぐだぐだ言う。語気を強めて、ミー(ある)なのかマイ・ミー(ない)のかはっきりしろ、と言うと、引っ込んで、代わりに女性がやってきた。片言の英語で「ビールはあるが、今日は特別な日なので、お酒は出せない」と言う。よく分からないが、見ると、周りのテーブルでもビールを飲んでいない。国王の誕生日(12月5日)には酒類の提供が禁止されることは知っているが、今日は何かの日なのだろうか。今もって理由はよく分からない。 翌朝早起きをして湖畔を散歩した。船影もなく、パヤオ湖は静かな水面を朝日にうっすらと染めている。背後の山々はモルゲンロートに輝いている。何とも平和な、美しい風景である。この風景は、おそらく、ガムムアン王の時代となんら変わらないのだろう。彼は、この美しい湖畔に平和な国をつくりあげた。しかし、彼が築きあげたパヤオ王国の平和も、永遠には続かなかった。1338年、パヤオ王国はラーンナー王国により攻め滅ぼされる。そして、1564年、ラーンナー王国がビルマに滅ぼされた後は、このパヤオの街は廃虚と化したと伝えられている。 9時過ぎ、荷物をまとめて、バスターミナルへ行く。しかしここで少々困った。どこを見渡しても、英語の標示がまったくない。案内所も英語がまったく通じない。仕方がなかろう。ここは外人旅行者など来るはずのないタイの田舎なのだから。はて、どの窓口で切符買ったらよいのやら。ようやく11時発のチャンマイ行きの切符を手に入れる。 早い時間にチェンマイの街に帰り着いた。1泊300バーツのゲストハウスに落ち着く。チェンマイの街を少し歩き回ってみたが、何とも情緒のない、がさついた街である。狭い道は車が溢れ、街は裸同然のファランに占領されている。「北の薔薇」もいまや、俗悪な観光都市に成り下がっている。旅行社に行き、2月10日のバンコク行きAir Ticketを手配し、早々に宿に引き上げる。
今日はランプーンの街にOne Day Tripする。チェンマイから南に25キロほどの街である。この街でチャームテーウィー女王に会うことを楽しみにしている。ランプーンはモン族の国・ハリプンチャイ王国の古都である。 現在のタイ王国の領土、即ち、インドシナ半島のメコン川西域一帯は、元来、タイ族の居住地ではない。彼らは7世紀頃以降、中国雲南地方からこの地に移り住んできた新参者であり、先住民族から見れば、侵略者である。この地方には紀元前からモン(Mon)と呼ばれるクメール系の民族が暮していた。彼らは、独自の文字を持ち、上座部仏教を信仰し、東南アジアの地に、今に続く仏教文化を根づかせた。 モン族は。6世紀頃からいくつもの都市国家を建設した。その代表的国家が現在のロッブリーを中心としたドヴァーラヴァティー王国である。7世紀には、現在のランプーンの地にハリプンチャイ王国が成立した。その王国の成立に際し、ドヴァーラヴァティー王国の王女・チャームテーウィーが女王として迎えられた。10世紀になると、ドヴァーラヴァティー王国がクメール勢力の支配下に入ったこともあり、ハリプンチャイ王国はモン族の中心国家として絶頂期を迎える。 しかし、1281年、北方に興ったタイ族の国家・ラーンナー王国のメーンラーイ王の攻撃を受け、ハリプンチャイ王国は終焉を向かえる。以降、このタイの地にモン族の国がよみがえることはなかった。ただし、彼らの残した高度の文明は、その宗教とともにタイ族に引き継がれた。
第5章 古都・ランプーン(Lamphun)への旅 「地球の歩き方」によると、ランプーン及びランパーン行きのバスはナワラット橋のたもとから出るとある。前の晩、念のために宿の親父に確認したところ、同じ答えが返ってきた。朝7時過ぎ、カメラとガイドブックのみを持って宿を出る。ナワラット橋のたもとに行ったのだが、バスもバス停も見当たらない。しばらく周辺をうろうろしてみたが、それらしきものはまったくない。仕方がないので、ソンテウと交渉する。200バーツで交渉は成立した。 ランプーンへの道は何とも素晴らしかった。緩やかなカーブを描きながら続く道の両側は、樹齢100年を越すゴムの大木が並木となってどこまでも続く。まさに古街道の趣である。ランプーンの支配が、ハリプンチャイ王国、ラーンナー王国、ビルマ、タイ王国と変わっても、チェンマイとを結ぶ街道は重要な交通路として整備され続けてきたのだろう。約40分のドライブでランプーンの中心にあるワット・プラタート・ハリプンチャイ(Wat Phrathat Hariphunchai)の門前に到着した。 ランプーンは実に素晴らしい町であった。のんびりとした典型的なタイの田舎町ではあるが、クワン川(Mae Kuang)を東の城濠とし、南北1キロ、東西500メートルほどの街域を環濠が取り巻いている。城壁は既にないものの、4方の城門は残り、ハリプンチャイ王国の都であった頃の姿を今に色濃く残している。 ワット・プラタート・ハリプンチャイはこの街を象徴する寺院である。建立は1044年とも1157年とも伝えられ、当時の王宮の敷地内に建てられた王室寺院である。(「地球の歩き方」には「ハリプンチェイ王国を傘下にしたラーンナー王国のメンラーイ王が1108年に建立した」などと、大うそが書かれている。1108年にはラーンナー王国もメンラーイ王もいまだ影も形もないはずである)。20バーツの拝観料を払い境内に入る。境内でまず目を引くのは黄金の仏塔である。ハリプンチャイ様式で、高さは46メートルある。ラーンナー様式の本堂には入る。本尊はブロンズ製の大きな釈迦三尊像であった。本堂の北側に、柱と屋根だけの小さな建物があり。中に巨大な銅鑼が吊るされている。直径3メートルほどあり、世界で最も大きな銅鑼である。撞いてみると、鈍い音が境内に響いた。本堂南側には美しい経蔵もある。 まだ朝早いためか、境内に参拝者の人影はまばらである。境内裏手にはアユタヤ銀行が創立50周年記念として建てた、小さな博物館がある。 ワット・プラタート・ハリプンチャイの裏門を出ると、街の真ん中を貫くメインストリートに出る。ここにハリプンチャイ博物館があるのだが、火曜日の今日は休館であった。小道を西に進むと、町を取り巻く環濠にぶつかる。ここに西の城門・Mahawan Gateがある。レンガ積の堂々たる城門である。説明盤には次の通り記載されていた。 「仏歴1204年(西暦661年)、第4月の満月の日、Wasuthep
Rusri がハリプンチャイ王国を建国した。この王国は、彼の理想の地、即ち、いまのランプーンに建国された。街の東端は川に面し、城壁の周りには濠が巡らされた。そして、その中心に王宮が建てられた。人々は、ハリプンチャイ王国を治めるために、ロッブリーよりチャームテーウィーを女王として迎えた。
Mahawan門の隣にはワット・マハワン(Wat Mahawan)が伽藍を並べている。この寺もハリプンチャイ時代に建立された古い寺である。Mahawan門から西に延びる道を進み、ワット・チャームティウィー(Wat Chan Thewi)を目指す。寺は意外に遠かった。炎天下を20分ほど歩くと、ようやく到着した。この寺はチャームテーウィー女王の菩提寺である。境内に入ると、レンガの剥き出しとなった古い仏塔が目に飛び込む。この仏塔には彼女の遺骨が納められている。仏塔は5層の方形で、高さ28mある。各層の四方側面には3個ずつの仏龕があり、合計60体の仏立像が収められている。典型的な初期ドヴァーラヴァティー様式で8〜9世紀に建てられたと考えられている。境内には参拝者の姿もなく、木陰で休む若い僧の姿が目立つ。Mahawan門に戻る。 濠に沿って、ぶらりぶらりと南に向う。辺りは昼下がりの気だるさが支配している。行き交うサイカー(自転車の横に座席を付けたサイドカー)が目立つ。この街の最もポピュラーな交通機関のようだ。大きな市場がある。その隣の、よく整備された広場で、チャームテーウィー女王に会うことができた。南を向いた数メートルの立像で、参拝に訪れる人々に温かな眼差しを注いでいる。おりしも、1人の女性がその前に座し、熱心に祈りを捧げている。女王は今でもこの街の守り神である。 なおも濠に沿って進む。濠の周囲は公園風によく整備されている。やがて南門に達した。ひと通りこの街の見学は終わった。何とも味わいのある小さな街である。バスでチェンマイへ帰ることにする。城門を出て、道を南に向う。郊外にバスターミナルがあるはずである。ターミナルは閑散とし、1台のバスの姿もなかった。しばらくすると、かなりボロのミニバスがやって来た。フロントガラスに、Lamphun←→ Chian Maiとある。若い女性の車掌にチェンマイへ行くかと確認すると、乗って待っていろという。 バスは私1人を乗せてすぐに発車した。しかし、ハリプンチャイ博物館の前で30分近い長時間停車。運転手は側の屋台に座り込んで、ジュースを飲んだり菓子を食べたり。ターミナルより、ここで停車している方が自由だとの思いなのだろう。暇な車掌が私の横に座り込んで、腕や肩のマッサージを始めた。「サバーイ(気持ち良い)」というと、喜んで続ける。まったく、のんびりした田舎のバスである。それにしても、愛嬌のある車掌だ。 バスは、美しい並木道をのんびり走っていく。おばちゃんやおっさんが乗ったり降りたり。車掌は僧侶に平気で切符を手渡し、僧侶も代金を手渡ししている。バンコクではちょっと見られない風景である。このチェンマイとランプーンを往復しているバスのチェンマイの発着所はどこなんだろうとの疑問がある。今朝、それが分からず200バーツも払って、ソンテウをチャーターするはめになった。バスはやがてチェンマイの市内を横切り、なんと、市内北側のチャーン・プアク バスターミナルに着いた。ここが発着場であったとは意外である。料金はわずか12バーツである。ターミナルから出ようとしたら、かの車掌が、車掌控室の窓から身を乗れ出して、手を振っている。面白い車掌だ。
さて、今日はランパーンへ行く。いよいよ旅の最後である。ランパーンはチェンマイの南東92キロに位置する北タイ第2の大都会である。そしてこの街には、北タイの歴史が凝縮されている。ざっと、この町が辿ってきた歴史を眺めてみると、次の通りである。 1、この街が誕生したのは7世紀頃、ハリプンチャイ王国時代である。
第7章 ランパーンへの旅 さて、ランパーンに行くには、どこから、何行きのバスに乗ったらよいのかーーー。ナワラット橋たもとから発着しないことは昨日確認ずみである。ともかく、チェンマイアーケードのバスターミナルへ行ってみる。しかし、ランパーン行きと標示されたチケット売り場はない。おそらく、スコータイやバンコク行き長距離バスを途中下車するのだろうが。しかも、長距離バス会社はいくつもあり、窓口も多々ある。どの窓口に行ったらよいのやらさっぱり分からない。 うろうろしていたら、いつものように声が掛かった。「どこまで行く」「ランパーン」「あのバスがすぐ出るよ。チケット窓口はあそこだ」。教えられたバスは、聞いたことのない行き先を標示している。ともかく55バーツでチケットを購入して、教えられた大型バスに乗り込む。 バスは、バンコクへ続くスーパーハイウェイを一路南下する。ランパーンまで直行するのかと思ったら、途中で一般道路に降り、ランプーンのバスターミナルに寄った。このバスでもランプーンへ行けたのだ。しかし、あの素晴らしい並木道は通らない。再び、スーパーハイウェイに戻り、高速で走り続ける。出発してから約1時間半でバスはランパーン郊外のバスターミナルに着いた。 ランパーンの街は大きく、また見どころもあちこちに点在しているので、歩いては廻れない。バスターミナルで客待ちをしているソンテウをチャーターすることにする。交渉の結果400バーツ。高い気もするが仕方がない。まずはバーン・サオ・ナック(Baan Sao Nak)を目指す。チーク材で建てられた古い民家である。市内に入るとランパーン名物の花馬車があちこちに見られる。花で飾られた2輪車の馬車で、観光用である。この形の馬車はミャンマーで多く見られた。今に残るビルマの影響なのだろうか。ワン川(Mae Wang)を渡る。ドブ川のように汚れきっている。歴史的には、この川の水運が商都・ランパーンの生命線であった。その役割は終えたといえ、もっと大事にして欲しいものである。程なくバーン・サオ・ナックに着いた。 30バーツの入場料を払い、庭先に入ると、大きな高床式の民家が建っている。この家は、いまから100年以上昔の1895年に建てられた。元の持ち主はビルマからやってきたモン族の商人である。北部タイ様式とビルマ様式を合わせ持つ建築となっている。即ち、ベランダはビルマ様式、屋根と基本構造は典型的なラーンナー様式である。家は116本のチーク材の柱によって支えられている。19世紀末、チーク材を求めて多くの英国人やビルマ商人がここランパーンへやって来た。その時代を知る貴重な遺産である。元の持ち主がモン族であったとは何たる皮肉であろう。13世紀末にタイ族によってこの地を追われたモン族は、その後、活動の中心を下ビルマに移し、14世紀にはバゴー王国を築く。 次ぎに、ワット・プラケオ・ドーンタオ(Wat Phra Kaew Don Tao)に向う。ランパーンで私が一番行きたかった場所である。程なく車は、ランパーン郊外の大きな寺院の境内に着いた。寺名からも分かる通り、この寺もまた、かの有名なエメラルド仏の故郷である。1436年から1468年までの32年間、エメラルド仏はこの寺に祀られていた。エメラルド仏は1434年、ランナー王国統治下のチェンライで、落雷で破壊された仏塔のなかから漆喰でおおわれた姿で発見された。王・サームファンケーンは仏像を首都チェンマイに迎えようと三度も象を送たが、そのたびに象は手前のランパーンの街で足を止めてしまた。このため王はこの仏像をランパーンの街に安置することを許し、仏像はランパーンの街に約32年間留まった。 現在、国家守護仏としてバンコクのワット・プラケオに祀られているエメラルド仏は、タイ、ラオの歴史にほんろうされながら不思議な運命を辿った。その旅路はチェンライ→ランパーン→チェンマイ→ルアンプラバン→ビエンチャン→トンブリ→バンコクと続いた。私は1年前、この旅路を逆順で辿った。しかし、ランパーンだけが抜け落ちていた。今、そのランプーンのワット・プラケオ・ドーンタオにようやく辿り着くことができた。私のエメラルド仏の足跡を訪ねる旅もようやく終焉を迎えた。 境内奥に進む。大きな寺院である。まず目を引くのは高さ50メートルのハリプンチャイ様式の仏塔である。その前には、屋根の中央が塔のごとく盛り上がった典型的なビルマ様式の仏堂、1909年の建立である。内部にはマンダレー様式の仏像が安置されている。本堂に詣でる。ここにも美しいエメラルド仏が祀られていた。裏手に廻ると、漆喰の白象の像があった。チェンライからエメラルド仏を運んだ象である。そして、境内の一角には、英雄・ナン・ティップ・チャンの銅像がある。彼は、200年にわたるビルマ支配を打ち破り、ラーンナー王国再興の烽火を上げた英雄である。この寺には、まさに、ランパーンが辿ってきた歴史が凝縮されている。 車は街を出て、ひたすら南西に向う。周囲には、未だ田植え前の茶かけた田んぼの広がっている。約30分で、ワット・プラ・タート・ランパーン・ルアン(Wat Phra That Lamphang Luang)に着いた。露店の並ぶ広場の先の土塁の上に、高いレンガ塀に囲まれ巨大な寺院が伽藍を並べている。北タイで最も美しい寺院と言われるワット・プラ・タート・ランパーン・ルアンである。階段を昇り、尖塔のように盛り上がった山門をくぐり、境内に進む。境内は多くの参拝者でにぎわっていた。目の前に、太い柱に支えられた3層屋根の本堂が現れる。壁が上半分しかない珍しい様式である。この建物は1476年に建てられた。タイに残る最も古い木造建築と言われる。その裏手には、高さ45メートルのラーンナー様式の仏塔が聳えている。その他境内には仏堂、庫裏などの建物が多く残されている。いずれも典型的なラーンナー様式である。この寺院は、その構造からも想像できるように、要塞寺院である。ラーンナー王国はこのような要塞寺院をランパーン防衛のために街の周囲に建設した。この寺院も、元は三重の濠で囲まれていたという。 また、この寺は18世紀、英雄・ナン・ティップ・チャンがビルマ支配に対する反乱の烽火を上げた場所としても有名である。彼はこの要塞寺院にわずかな手勢を率いて忍び込み、この地方を統治していたビルマの将軍を暗殺したのである。この寺にも北部タイの辿ってきた歴史が詰まっている。 バスターミナルに帰る。ちょうどやって来たチェンマイ行きのバスに乗り込む。バスは、今度はランプーンに寄ることもなく、一気にスーパーハイウェイをチェンマイに向け突っ走った。
チェンマイ国際空港を飛び立ったTG103便は満員の乗客を乗せてバンコクへ向う。私の旅がようやく終わる。シャン族のクニを訪ねたミャンマーへの旅、バンコクから陸路で辿った西双版納への旅、そして、北タイの三つの古都を訪ねた旅。思えば、1ヶ月にわたり、4ヶ国を結ぶ長い旅であった。民族の栄枯盛衰の跡を訪ね、国々の今を知る旅であった。世界の多様性を知る旅でもあった。目をつぶると、遭遇したいろいろな場面が脳裏に浮かぶ。楽しかったこと、つらかったこと、驚いたこと、珍しかったこと。ーーーーー。そして何か不思議だ。言葉もろくに通ぜず、勝手も習慣も違う国々をたった1人で歩き廻った。列車やバスやトラックに乗り、ちゃんと食事をし、ベッドの上で寝た。国境も越えた。しかも、危険な目にも会わず、困り果てたこともなかった。言葉は通じなくても、なぜか意思は通じた。そのことが何か不思議だ。 我々は皆、ホモサピエンスという同じ種に属する。文化や歴史が違っても、言葉が違っても、顔形が少し違っても、私たちは意思が通じあえる。何と素晴らしいことか。 ぼんやりと考えているうちに、バンコク空港着陸を告げる機内アナンスが流れ出した。
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