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九能尾集落(655)→和田分岐(805〜810)→峰山分岐(850)→笹間峠(905〜920)→842m峰(935〜945)→峰山分岐(1005〜1015)→茶畑(1055〜1105)→日掛林道(1125)→日掛林道入口(1135)→国道362号(1155)→蛇塚集落最上部(1205)→八伏集落(1245)→九能尾分岐(1310〜1315)→東海自然歩道(1335〜1340)→九能尾集落(1355) |
藁科川流域の谷は古来より重要な交通路であった。谷を遡り分水稜線を越える街道は商いの道、戦の道、そして信仰の道として賑わった。藁科川流域の谷は大きく開け、また分水稜線も比較的ゆったりし地形であるため、古代より自ずから交通路が開かれたのだろう。笹間峠で分水稜を越えれる道、いわゆる笹間街道は大井川流域に通じている。この道は東海道の裏街道として、また駿府から秋葉山への参拝道として賑わった。また、洗沢峠で分水稜を越える道は川根街道と呼ばれ、木材集積地としてその賑わいは江戸にも勝るといわれた川根地方に通じていた。武田信玄の侵略を受けた今川氏真はこの道を通って掛川城へ落ち延びていった。しかし時代が移り、人と物の流れが変化した今、これらの峠越えの道はすっかりその様相を変えた。二週間前訪れた笹間峠は深い藪の中に埋もれていた。川根街道もまた、道筋を若干変えた上で国道362号線として今に余命を保っているものの、国道とは名ばかりの車も擦れ違えない道路であり、その重要性は昔と比ぶべくもない。この二つの忘れられた昔の峠道を辿ってみようと思った。笹間街道を辿って清笹峠に達し、藁科川右岸稜を縦走した後、川根街道を下る計画である。
6時15分、車で家を出る。今日の日の出は6時47分、外はまだ暗闇で明けの明星が輝いている。勝手知った藁科街道を走り、7時前に九能尾集落に着く。ここが笹間街道の起点である。藁科川側から笹間峠に登る本来の峠道、すなわち昔の笹間街道は、笹間峠北の藁科川右岸稜上760メートル峰から九能尾集落上部に張り出した大きな尾根を辿る。前回私の下った道、すなわち、九能尾集落から黒俣川を遡り、上流の中村集落から支尾根を登って峠に達する道はいわば間道である。今日はこの本来の峠道を辿って笹間峠まで行ってみるつもりである。しかし、この尾根道は二万五千図に破線の記入はあるものの、現状どのような状況にあるのかわからない。 山間の集落はまだ夜も明けず薄暗い。実は、峠道の登り口がわからない。集落背後の尾根に登れば自ずから峠道に出るだろう。集落上部の盤竜寺目指して登り、さらに茶畑の畔を遮二無二急登する。見る見る九能尾の小さな集落が眼下となる。雑木林に突き当たり左にトラバースすると、確りした小道に出会った。一目、峠道である。道は檜林の中をジグザグを切りながらグイグイ登っていく。尾根の上部に達すると傾斜は緩み気持ちのよい照葉樹の森となった。ようやく山際から太陽が顔を出す。踏み跡はいくつも分岐するが、自ずから峠道は判別できる。 峠道はさすが昔の笹間街道、確りした踏み跡である。ただし、今は山仕事の人がときおり利用する程度なのだろう。切れ残った蜘蛛の糸がときおり顔に当る。崩壊地を恐々トラバースすると、峠道は灌木の激しい藪となった。道は辿れないが、左側の手入れのよい樹林の中は自由に歩ける。550メートル峰を右から大きく巻くと古い伐採跡となり、道はススキの藪となる。今日初めて展望が右に開け、藁科川奥の代表的な山上集落・峰山が見える。林床に笹が現われ出した。照葉樹林と檜の植林が交互する緩やかな尾根道を行くと、和田分岐に達した。ここに初めて道標を見る。道は尾根の左に移る。若い植林地帯に入ると背丈ほどのスズタケの藪道となった。密生と言うほどではないが、かきわけかきわけ進むのは鬱陶しい。尾根が藁科川右岸稜と合わさる760メートル峰を左から大きく巻いて、いったん右岸稜の稜線に出る。ここに小さな道標があり、峰山集落への道が右に分かれている。今日辿るつもりの道である。ただし、その前にさらに峠道を辿ってこの先の笹間峠まで行ってみよう。すぐに右岸稜上の842メートル峰を左から巻に掛かる。急斜面のトラバース道となり小沢を横切る。スズタケの密生が行く手を塞ぎ、踏み跡が乱れたと思ったらそこが笹間峠であった。 つい2週間前、夕闇迫るこの峠に手足を傷だらけにしてほうほうの体で到着した。そして今再び、微かな朝の木漏れ日を浴びてこの峠に立っている。背を没するスズタケの藪の中、檜の大木を背にして見覚えのある二体の地蔵仏が忘れられたようにたたずんでいる。一体には「明治卅八年 大和利平」とある。この地蔵仏は文献に出てくる。大和利平とは旧笹間村粟原の人で、笹間峠道を利用して広く運送業を営んでいたという。もう一体には「大正四年 黒又 柿平廣吉」。この人については不知である。この笹間峠は昭和10年代までにぎわった。毎日「持子」と呼ばれる荷運び人夫が数十人単位でこの峠を往復した。笹間からは茶、椎茸、繭が、九能尾からは生活用品が運ばれた。そして駿府からの秋葉参りの人々もこの峠を越えた。文献には、大正元年、笹間村のわずか小学校6年生の男児が、一人この峠を越えて府中までお使いに行った記録が見られる。早朝一人この峠に立ち、これから辿る異郷を目の前にした際の緊張と不安は想像を絶するものがあったろう。そして翌日、夕闇迫る峠まで無事帰り着き、眼下に故郷の懐かしき山並みを眺めた時の安堵感は激しく幼い胸を揺さぶったことであろう。昭和10年代に、すぐ隣の清笹峠に車馬通行可能な道路が開削されたことによりこの峠道は使命を終えた。それから半世紀、笹間側への峠道は道型こそ確認できるが猛烈なスズタケの藪に覆われている。一人この藪深い峠に立つと、いいようのない感慨を覚える。 思いを断ち切って峠を後にする。ここから蛇塚集落まで藁科川右岸稜の縦走である。峰山分岐までは辿ってきた峠道を戻ってもよいのだが、842メートル峰を越えて稜線を辿ってみることにする。檜の植林の中の急斜面を遮二無二登る。踏み跡はまったくない。このピークは周囲からよく目立ち、2週間前に道を失いパニックに落ちいった際も、このピークを同定できたことによりピンチを脱した。約15分で山頂に達した。広々とした山頂は欝蒼とした檜林の中で、期待していた山頂標示は何もない。下りは灌木の激しい藪漕ぎとなった。傾斜が緩み、広々とした檜林が現われると今朝ほど通過した峰山分岐に出た。やれやれである。二万五千図にはここから次の760メートル峰を左から巻いて峰山集落の上部に達する破線が記されている。分岐標示からも確りした踏み跡が分かれており、当然この破線を歩けると思ったが、ほんの10メートルも進むと、踏み跡は伐採地の中に消えた。尾根の左側が伐採地で右側か檜の植林となっている。仕方がないので、踏み跡は諦めて踏み跡なき稜線を縦走することにする。伐採地だけに左側の展望は実によい。いくつもの小ピークを並べた無双連山(ムソレヤマ)が目の前に壁のように連なっている。 登り上げた760メートル峰も何の山頂標示もなく、人の登った気配もない樹林の中であった。ここから下りのルート選択が難しい。そのまま進むと峠道のある東尾根に引き込まれる。思い切ってルートを左に振って樹林の中の尾根筋を下る。しかし、5分も下ると尾根筋が怪しくなる。樹林の中を透かしてみると左側に確りとした尾根筋が見える。ルートを間違ったようである。トラバースして尾根筋を移る。踏み込んだ尾根は灌木の藪尾根で、しかも二重山稜の複雑な地形をしている。この先ルートがうまく取れるか心配しながら灌木をへし折り進むと、突然確りした踏み跡が右側から登ってきた。驚くやらほっとするやら。この踏み跡はどこから登ってきたのだろう。踏み跡を辿って次の756メートルの緩やかなピークを越えると、二万五千図に記載されている細い林道が合わさった。ここは小さな茶畑となっていて日溜まりが暖かい。草むらに座り込んで昼食とする。 次の737メートル峰の登りに入ると左側に草原の広場があり、実に展望がよい。藁科川水源の山・七ツ峰が快晴の空に高々と聳え、その左奥には小無間山、目の前には無双連山が大無間山などの深南部の山並みを隠して立ち塞がっている。ピークに達すると、細い林道は山道に変わってしまった。下りに入ると道は分岐する。本道と思える右側の道を少しくだってみるが、稜線を外れて、このすぐ下の峰山集落に続いている気配である。戻ってスズタケの藪が少々うるさい左側の道を下ると、道に座り込んで食事をしている山仕事姿の老婆を発見した。耳が遠いとみえて私が近づくのに気が付かない。側までいって「こんにちは」といったら、びっくりして「どなた様でしょう」ときた。名乗るほどのものではないので思わず吹き出してしまう。 すぐに二万五千図に記載のある林道日掛線に出る。稜線直下を左右巻きながら林道を10分も進むと、峰山集落から蛇塚集落へ続く立派な舗装道路に出る。通る車とてないこの道路は稜線直下を右側から巻きながら続く。峰山小学校を過ぎ蛇塚集落に入る。この集落は稜線近くの緩斜面に発達した典型的な山上集落である。斜面は見渡す限り茶畑で、その中に立派な農家が点在している。まさに桃源郷のような所である。この藁科川奥にはこのような山上集落が多く、最近では都会から移りすむ人も多いと聞く。いったん国道362号線に出て、集落上部から右の細道に入る。バイクで擦れ違う人まで見知らぬ私に挨拶をする。まさに桃源郷である。集落最上部の人家に達する。ここから旧川根街道を辿ることになる。この街道は蛇塚集落から南東に延びる長大な尾根道を辿り、昼居度集落において藁科川の谷に降り立つ。明治の終わりまでこの街道を毎日何百人という人々が往復したという。しかし、大正2年、蛇塚集落からいきなり谷筋に下りる車馬通行可能な新川根街道が開削されたことにより、峠道としての使命を終えた。この新川根街道が現在の国道362号線である。 旧川根街道は笹間街道のように完全な廃道とはなっておらず、尾根上に点在する茶畑や植林のための農林道となっている。地道の緩やかな道を下って行く。植林と自然林が交互に現われ、樹林の合間からは峰山集落や蛇塚集落が見渡せる。南北朝の頃、この藁科川奥は南朝方の拠点となり、北朝方の駿府今川氏と激しく対立した。この街道を軍勢が行き来し、後醍醐天皇の子・宗良親王もこの街道を走った。戦国時代には今川氏真がこの街道を敗走し、今川氏が滅んだ。今この街道には旅人の姿はおろか、農夫の姿さえ見えない。昔を思いつつ一人のんびりと小道を辿る。737.7メートル三角点峰を右から巻いて緩やかに下ると、尾根一面が茶畑に覆われた八伏の集落に達した。昔は4軒あったといわれる人家も今はたったの2軒、忘れられた集落である。 さらに494メートル峰を左から巻いて下ると、再び茶畑の辺に出た。ところがここで道が絶えた。続いてきた農林道が終わりその先には細い小道が通じている。地図を見ると、確かにこの地点で実線が破線に変わっている。地図の破線はこの先の492.5メートル三角点峰(大峰山)の山頂に向かうが、この破線に相当する踏み跡がない。確りした踏み跡は尾根を右に下って行く。おそらく九能尾集落に下っているのであろう。この道を九能尾集落に下ってもよいのだが、まだ1時少し過ぎ、もう少し尾根を辿ってみたい。大峰山の先で東海自然歩道がこの尾根を横切っている。せめてそこまで行ってみたい。周りをよく観察すると山腹の右を巻くように続いている微かな踏み跡を見つけた。この踏み跡を辿ってみることにする。しばらく辿ると踏み跡はひどい状態になった。いたるところでトラバース道は崩壊しており、通過にかなりの危険を感じる。よほど戻ろうかとも思ったが、切れ切れながらも踏み跡は続くのでそのまま進む。ついに東海自然歩道に達した。備え付けのベンチでほっとしてひと休みする。辿ってきた踏み跡はそのままなおも先に続いている。仕事道とも思えず、不思議な踏み跡だ。もしかしたら昔の川根街道の痕跡かも知れない。いずれはっきりさせてみよう。 東海自然歩道を九能尾集落に下る。墓地の脇を通って2時前、集落に下り着いた。しかし、どうも旧川根街道の続きが気になって仕方がない。帰り掛け、旧川根街道の起点である昼居渡集落で車を止め、旧川根街道の登り口を探ってみた。集落最上部の人家の裏手から、古道と思える一本の道が茶畑を突っ切って背後の尾根へ登っている。この小道が旧川根街道だろう。いつか、この道を辿って疑問を解いてみるつもりである。 |