丹沢 水無川セドノ沢左俣で滑落事故 

左足首骨折なれど必死の自力下山

1997年7月6日

              
 
戸沢←→水無川セドノ沢左俣F5

 
 今年の夏は異常である。6月に台風が二つも上陸したと思ったら、7月に入った途端に35度を越す猛暑の連続である。今日も37〜38度は行きそうである。丹沢でシャワークライミングでもして暑さしのぎをすることにする。

 4時50分家を出て、6時半過ぎに勝手知った戸沢に着いた。早朝ゆえか登山者の姿は数張りのテントの周辺だけであった。戸沢山荘の湯山サヨさんに見送られて出発する。数時間後には大変お世話になることになるのだが。登山道を行き、堰提を二つばかり越えた源次郎沢分岐から本谷に入る。1年ぶりに履くわらじの感触は心地よいが、やはり谷川の水は冷たい。沢にはまったく人影が無く、沢音だけが辺りにこだましている。蜘蛛の巣が顔にあたるところを見ると、今日本谷に入るのは私が最初なのだろうか。さらに堰提を二つばかり越えるとF1が現われる。この滝を登るのも10数年ぶりである。見た目には高度感もあり恐そうであるが、左の水ぎわを登ればそれほど難しくもない。登り切ったところでセドノ沢が右に分かれる。いよいよ未知の沢の遡行開始である。

 F1、続いてF2と現われる。少々シャワークライミングとなるが、いずれもどうということもない。Fナンバー標示もされている。すぐに二俣となる。予定通り、左俣に入る。ゼドノ沢左沢は初めてであるが、案内書によるとグレードは中級となっており、なかなかおもしろそうである。問題はF5の大滝をどうするかである。直登が無理ならば巻けばよい。すぐにトヨ状となった滝が現われる。F3であろうか。高度は差してないが、ここまでの中で一番難しい。よく観察してルートを決める。腰近くまで水に漬かって滝壺の縁を渡って右壁に取り付く。側壁がオーバーハングしていて直立できないので、足を右壁、手を左壁に押しつけブリッジする格好で進み、最後は左壁に逃げる。左俣に入ってからはFナンバー標示がない。次にF4と思われる5メートルほどの滝が現われる。右壁を快調に登る。以後顕著な滝は現われないが、沢は典型的な峡谷となり、実に気持ちがよい。今日も下界は酷暑となりそうで、わずかに見える頭上の空は青く晴れ渡っている。

 30分も遡行すると、目の前に大きな滝が現われた。いくぶん傾斜はあるものの一筋となった水流が滝壺へと激しく落下している。セドノ沢左俣最大の滝F5であろう。時刻は9時少し前、滝下でひと休みしながら、目でルートを追う。いつのまにか「巻く」などという考えは頭の片隅にもなくなっている。ルートはひと目右壁である。壁に取り付く。登るに従い、手掛かり足掛かりが思ったよれ細かくなる。中ほどまで登る。次の右手のホールドがなかなか見つからない。左足はほとんどホールドがなく、フリクションのみの状態ある。右足も指先だけがかかった状態。一瞬のもたつきが事故となった。左足のフリクションが耐え切れずに滑った。瞬間、身体は岩壁を離れた。あっと思ったときは全身に激しい衝撃を受けた。滝壺の中だ。「生きている」との思いが一瞬脳裏を過る。左足首に激痛が走っている。岩場に這い上がる。「落ち着け」。自分に命令して、状況把握をする。あちこち小さな痛みはあるが、やられたのは左足首だけのようである。ただし眼鏡がない。さらに全身ずぶ濡れで、寒くてガタガタ震えている。まずザックから長袖のシャツを出して着る。煙草をたて続けに2本吸う。少しは落ち着いてきた。どうやら精神的パニックには陥っていない。まず眼鏡を確保しなければどうしよもない。足を引き摺って滝壺に入り、手探り足探りで眼鏡を探す。寒くて長くは続かない。いったん岩場に這い上がり、再び眼鏡捜しを続行する。どうしても見つからない。諦めざるを得まい。

 岩の上で今後の行動を考える。選択肢は二つ。「ここでじっとしていて、他パーティの登ってくるのを待ち救助を要請する」。セドノ沢左俣なら登ってくるパーティはあるだろう。もう一つの選択肢は「できる所まで自力下山を試みる」。ただし沢は登るより下るほうが難しい。果たして片足でしかも眼鏡のない状態で下れるか。更なる事故につながる危険がある。突然むらむらと闘志が湧いてきた。自力下山だ!。単独で沢に入り、事故を起こしたからと救助を待つなど、単独行者の川上にも置けない。自己責任で全うするのが単独行者の単独行者たる所以であり、単独行者の美学ではないか。迷いは吹っ切れた。「行くぞ!」自分に気合いを入れて下山を開始する。

 手足4本、うち3本が無事なのだ。そう思えば気は楽だ。左足はほとんど下につけない状態であるが、浮かしているぶんには激痛はない。しばらくは大きな滝はない。10メートルほど進んではひと休みである。ゆっくりだが着実な下山が続く。手で身体を引き揚げ、尻セードをまじえて岩を乗り越え、四つん這いで進む。F4と思える滝上に達した。眼鏡がないので、ルート確認ができない。登ってきたときのメモを確認し、左岸水際にルートを取る。下れた!。下から人声がし、同時に最難の滝F3の上に出た。ヘルメットをかぶりザイルを肩に巻いた完全武装の5人パーティが登ってくる。沢に入って初めて出会う人影である。見ていると3人は突破してきたが、残る2人がどうしても突破できないでいる。装備の割にはだらしがない。細引きと手を貸してもらってようやく這い上がってきた。一瞬救助を頼もうかと思ったが止めた。先方も平然と見送る私に何の違和感も持たなかったようである。さてと思ったら、また人声がしてアベックパーティが登ってきた。やはりヘルメットにザイル装備だ。女性が突破できず、ずいぶん時間をかけて男性がようやく引き揚げた。再び沢に静寂が戻った。この滝を下れなければ生還はできない。

 登りのルートと同様左岸ルートを取ってみるがどうしても下れない。今度は右岸を試みるが、これも途中で完全に行きづまる。滝上に座り込んでしばし思案する。登りでさえ突破できない者が続出する(私はどうということもなく登ったが)この滝を1本足でどう下るのだ。このルートきりないと覚悟を決めて、登りと同じルートに再度踏み込む。全神経を集中し、最難の一点の突破を試みる。ついに突破した。滝下で座り込み、安堵の溜め息を吐く。この調子ならF2、F1もなんとかなる。本谷のF1は巻き道があり鎖もある。自力下山の見通しが立った。

 再びのろのろと下山の歩みを始める。ようやく左俣、右俣出会いに達した。ここら辺りでちょうど半分だろう。3本の手足はすでに疲労困憊、左足の痛みも増してきた。歩みはますます遅くなる。わずか1キロほどの距離をすでに2時間以上掛かっている。すぐにF3、続いてF2、手足でブレーキを掛けながら尻を滑らす。本谷に達した。ここまで来ればもう生還は確実である。本谷F1の下で単独行者が巻き道を取るべきか直登するべきか思案顔で滝を見上げている。私は鎖のある巻き道に入る。最後の難関である。鎖はあるが、絶壁の下降である。単独行者は意を決して直登を始めた。彼も無事登り切った。私も無事滝下に達した。ここから先、距離はあるが悪場はない。広まった沢には真昼の太陽が燦々と降り注ぎ暑い。すでに衣服も乾いている。空腹を覚え、座り込んで朝食の残りの巻き寿司を口に放り込む。

 ここからの道程が肉体的にはきつかった。谷が開け、大岩が少なくなったため、身体を支える手掛かりが無い。這うよりないのだ。歩みは亀よりも遅い。ぽつんぽつんと出会うパーティも声も掛けてくれない。逆にルートを聞かれるしまつである。考えてみれば、力のあるパーティがこの沢に入っているはずがない。どれほど時間が経ったろう。ようやく堰提が現われ、右の踏み跡を這い上がると登山道に出た。わらじ、地下足袋を脱ぎ、ジョギングシューズに履き替える。左足首は青黒く腫れ上がっている。登山道を下り始める。足元は確りするが、そのことが今の私には何の助けともならない。一人の登山者が追い越しざまに「大丈夫ですか」と、初めて声を掛けてくれた。「えぇ」と曖昧に答えたが、本当はせめて持っているストックを貸してほしかったのだが。

 長く苦しい撤退もようやく終着駅を迎えた。撤退を開始してから5時間、愛車がもう目の前である。我ながらよくがんばった。「どうしたの」。小屋前のベンチで常連客等と談笑していた戸沢山荘の湯山サヨさんが大きな声を掛けてくれた。もうベンチまでのわずか5メートルが歩けない。駐在していた警察官も含め数人が寄ってきた。「こりゃだめだ。よく歩いてきたね。すぐ病院へ行かなくちゃ」。我を張るのもここまで、もういいだろう。好意に甘えることにした。1時間ほど雑談するほどにピーポーピーポーと救急車がやってきた。診断結果は骨折であった。常連客の長沢さんがわざわざ病院まで様子を見に来てくれたうえ、車のある戸沢山荘まで送ってくれた。結果的には迷惑を掛けてしまったが、みんなの好意がうれしかった。